優希と日向が一階へと降りると、丁度玄関の扉が開いて家の中に入って来た竜司と鉢合わせた。二人に気が付いた竜司は珍しく目を丸くしていて、その顔には心なしか疲れが滲んでいる。
「親父、どうしたんだよさっきの」
そんな竜司の元に優希と駆け寄りながら、日向がつい先ほどの一幕について問いかける。武術の師範代である竜司が突然人を殴り飛ばすなど、日向からしてみれば到底信じられる光景では無かった。
「日向…優希君も一緒に。そうか、見ていたのか」
日向の質問で全てを察したようで、竜司はしまったと言った風に額に手を当てて低く唸り声をあげる。彼もまさか二人が見ているとは思っていなかった、と言うよりは完全に失念していたようで、束の間後悔がその顔に浮かぶが、すぐに顔を上げると竜司は優希に向けて頭を下げた。
「すまなかった、優希君。君にこんな姿を見せるつもりは無かった」
「え?いえ、俺は別に…」
唐突な謝罪に優希は狼狽えながら両手を振る。そんな事をされた所で、事情を知らない優希からしてみれば更に混乱を深める他ない。
「…で、そろそろさっきのが誰だったのか教えてくれよ。親父に殴り飛ばされるとか、相当な事をしでかしたんだろ?」
状況を飲み込めないのは日向も同じで、彼は何処か焦れた様に強引に場を仕切って竜司へと再度問いを投げかけた。
すると、顔を上げた竜司はチラリと優希へと視線を向けたと思うと、口をまごつかせて迷いを見せる。
その様はまるでどう説明したものかと答えあぐねているかのようで、やはりらしくない彼の様子に優希と日向は揃って首を傾げた。
「なんだよ、そんなに答えにくい相手なのかよ。それはそれで聞くの怖いな…」
変に溜める竜司に、とんでもない過去が出てくるのではと日向が顔をしかめる。とはいえ、ここで引っ込むような彼ではない。暫し無言のまま日向と優希が答えを待っていると、考え込む様に目を閉じていた竜司がようやっと口を開いた。
「…いや、特に歪な関係という訳ではない」
「なら何を迷ってたんだよ」
言動の合わない父親に対して、間髪入れずに日向が呆れた表情でツッコミを入れる。
散々悩むそぶりを見せた挙句にこれは、流石に無理があると言うものだ、釈明が釈明になっていない。しかし竜司は特段気にした様子も無く、普段通りに憮然とした装いで言葉を続けた。
「あれは、私の古くからの友人だ」
結局竜司はそれ以上何か答えることは無く、一人彼の書斎へと戻って行ってしまった。そうして大した答えを得るでもなく、ただもやもやとした感情が残るだけとなった日向と優希は、揃って直前の話にも出ていた夕食を作るべくキッチンへと向かっていた。
「友人って言われたってさ、普通殴り飛ばさないよな。相変わらず誤魔化し方が下手なんだよな、親父は。優希もそう思わね?」
同意を求められる形となった優希は、けれど友人の父親相手という事も有り、やや気まずそうな顔で笑みを浮かべる。
「うーん…でも、確かに隠し事はしてそうだよね。昔何かあったのかな、ケンカとか」
「それこそ考えにくいんだけどな…。けど、そう考えるのが自然ってのがまた…」
あれやこれやと予想を挙げるも、結局は半信半疑のまま二人はキッチンの暖簾を潜る。
キッチンの中には既に美鈴が居り、彼女は丁度エプロンを身に着けて夕食の準備を始めようとしている所であった。
「…あれ、優希さん?それに兄貴も。なんで揃ってそんな気難しい顔してるんですか?」
二人に気が付いて、振り返ってそう問いかける美鈴はキョトンとした顔をしている。そんな彼女に日向が先ほどの出来事について話してやると、途端に信じられないと言った風に美鈴は胡乱気な視線を日向へ向けた。
「兄貴、流石に嘘下手すぎ。あのお父さんがそんな事するわけないじゃん」
「気持ちは分かる。けど俺だけじゃなくて優希も見てたし、さっき親父にも確認を取ったんだって」
日向が言いながら同意を求める様に視線を向ければ優希はこくこくと頷いて見せる。
「あ、優希さんが見てたなら本当の事なんですね」
「おいこら、何で優希を信じて俺を信じない」
すると、それを見てくるりと手のひらをひっくり返して簡単に信じた美鈴の、その露骨な対応の差に思わず日向が抗議する様に低い声を上げる。
しかし当の美鈴は特に気にする様子も無く、むしろ当然とばかりにふんと鼻を鳴らした。
「兄貴ならともかく、優希さんがそんなくだんない嘘をつく訳ないでしょ」
「…なんだか美鈴ちゃんの俺に対するハードルが高い気がするんだけど」
「気のせいですよ、きっと」
苦笑いを浮かべる優希ににこりと微笑んで、納得のいかないと顔をしかめている日向を置いて美鈴は『それにしても…』と簡潔に話を戻す。
「珍しいですよね、ほんと。明日辺りにこの家燃えたりするのかな…」
「有り得ないと言い切れないのが怖い所なんだよな…」
「そんなレベルなんだ」
割と真剣な顔で明日を憂う兄妹を前に、ここまで来ると優希も流石に竜司が不憫に思えて心の内で密かに彼に対し同情の念を抱いた。
そうして話していると、不意に廊下の方から玄関の扉の開く音が響いてくる。時間帯的に楓が返って来たのだと察して三人がそちらへと目を向ける中、足音はキッチンへと近づいてきて間も無く『ただいまー』とそんな言葉と共に楓が姿を見せる。
そんな彼女に三人が口々に『おかえり』と声を掛けると楓は、美鈴のみでなく、キッチンに立っている日向と優希の姿を見つけて目を丸くした。
「あら、優希ちゃん、もしかしてもうお腹空いちゃった?ごめんなさいね、お夕飯は今から作るのよ。お煎餅ならあるのだけれど…」
「いえ、その、俺も夕飯作るの手伝いたくて」
まくしたてながら楓が差し出してくる、何処からともなく取り出された煎餅の入った缶詰を押しとどめつつ優希が言えば、楓は少し困ったように『あらあら』と眉を八の字に曲げる。
「けれど、優希ちゃんは朝とお昼まで作ってくれているでしょう?流石にそこまでさせる訳には…」
「良いじゃん、お母さん。優希さんが手伝うって言ってくれてるんだから」
一応はお客様である優希に対してそこまでさせるのは如何なものかと渋る楓に、横から美鈴が入って来てそう言いながら、全てわかっているとばかりに笑みを浮かべて優希に対して片目を閉じて見せる。
美鈴はこの場で唯一優希の日向に対する想いを知っている。故に全てを見透かされていると、そう感じた優希は思わず頬を紅潮させた。
一方そんな事は梅雨しらずの楓であったが、しかし歳の功とでも言うべきか、優希と美鈴の一連のやり取りを目にした彼女はチラリと日向を見ると、さも面白そうに顔を輝かせた。
「うーん、そう言う事ならお言葉に甘えちゃおうかしら。けれど、無理に感じたなら遠慮なく言う事、良い?」
その念押しに優希が頷いたのを確認すると、楓もまた満足そうに頷く。
話も纏まった所で調理にと楓は準備を始めようとする。しかしその前にと日向が待ったをかけた。
「なぁ、お袋に聞きたいことがあるんだけどさ。さっき…」
そう前置きをして、日向が美鈴にしたように先ほどの出来事について搔い摘んで楓に説明する。
この中で最も竜司について詳しい、理解があるのは間違いなく彼女だ。故に自然と美鈴と優希も楓へと意識を集中させている。
「竜司さんが…」
そして、話を聞き終えた楓が最初に発した言葉はそれだった。その声はあからさまに驚愕に満ちていて、信じられないと言った彼女の心情がありありと込められている。
しかし、日向はそこに少し違和感を覚えた。信じられない、確かに楓はそう思っているだろう。けれど、日向達が感じるそれとは何処かニュアンスが違う。
「…優希ちゃんも、その人の事を見ていたのよね」
日向がその疑問を口にする前に、楓はふと俯けていた顔を上げるとそんな問いを優希に投げかけた。
「え?はい、日向と一緒に見ましたけど…」
「そう…、見た時何か思ったことはなかった?その人について、何か思わなかった?」
質問の意図が掴めず、戸惑いながら肯定する優希に更に問いを投げかける楓は本気で優希を案じているようで、それが更に優希の困惑を深めた。
「思ったことと言われても特には…、始めて見る人でしたから。痛そうだとは思いましたけど…」
優希は答えに迷いながら何とか言葉にする。すると、それを聞いた楓はその答えをかみしめるように目を瞑る。
「始めて見る人、ね。それなら…良かった?のかしら。…うん、優希ちゃんが大丈夫なら、それで良いわよね」
自分に言い聞かせるように言うと楓は優しく微笑むとそっと優希の頬を撫でる。まるで大切な宝物にでも触れるかのように丁寧なその手つきに、微かなくすぐったさを覚えた優希は思わず目をぎゅっと閉じる。
「楓さんは、何か知ってるんですか?」
この件について、楓が何か知っていることは明白であった。そう考えた優希がそう問いかけると、楓は困ったように笑みを浮かべて口を開く。
「そうね…知らないと言ったら嘘になるけれど…、わたしから話すことは出来ないわ。わたしに話す権利があるのか、確信も持てないから」
そう話す楓の顔には自嘲が混じっていて、彼女の表情はそれ以上の質問を優希に許さなかった。
「結局、お母さんは何を知ってたんでしょうね」
夕食後、食器を洗いながら隣に立つ優希に対して口にするのは美鈴だった。後片付けくらいはと日向も手伝おうとしたのだが、美鈴に半ば追い出される形で断られてしまったため、彼は今頃自室でふて寝を決め込んでいる事だろう。
そうして、現在キッチンには美鈴と優希の二人きり。優希は美鈴の言葉に対して何処か思案顔で夕食前の事を思い返した。
何故自分にあんなことを聞いてきたのだろう。これが優希にとっての目下の疑問であった。とはいえ、答えを得られるかどうかすらも未だ疑問の残るところである。
「うーん、話す権利って言ってたくらいだから、重要な事ではあるんだろうけど…。分かんない、かな」
「ですよね…、そんなに隠し事をするような人達じゃないので、余程の事情があるんでしょうね。…それよりも、ですよ!」
真剣な顔つきで話していたのも束の間、パンと手を叩いて急激に話を切り返すと美鈴は瞳を輝かせてながらずいと優希に詰め寄った。
「優希さん、結構積極的なんですね」
「うぅ…」
ニヤニヤとした顔で揶揄うように言ってくる美鈴に、優希はやはり予想が当たっていたと気付くと共に、気恥ずかしさに襲われ思わず顔を俯かせる。
「何で分かったの」
ジトリと軽く抗議する様に優希が美鈴を睨みつけるが、美鈴からしてみれば可愛い以外に感想は浮かばない。
「それはもう、見るからに張り切ってましたからね。というか、胃袋を掴む作戦の真っ最中に夕食の手伝いって言ったら、もうそういう事じゃないですか」
「実際そうだけど…、美鈴ちゃんにはもう隠し事が出来ない気がする」
ぼやく様に口にしつつ、優希は諦めた様に溜めた息を吐き出す。
割とノリと勢いで行動していて気にしていなかった優希だが、こうして自分の行動を客観的に見てしまうと、やはり自分のあからさまな行動に目を覆いたくなっていた。
美鈴に日向への恋心を明かしている以上、尚の事見透かされてしまうのも無理なからぬことである。
「なんだかんだで良いポジションに付けた自覚はあります」
ふふんと得意げに美鈴は鼻を鳴らすが、美鈴がこう言えるのも彼女が強かであるが故だろう。普通失恋をした相手を前に、こうも切り替えれるものでは無い。
「今日の夕飯、兄貴は結構気に入ってたみたいですよ?いつもの倍は食べてましたし」
「うん…嬉しかったです」
美鈴の言葉に、優希は素直に喜びを表しながらはにかむ。
無論、優希にとって行動原理が見透かされると言うのは気恥ずかしさが勝ってしまい避けたく思う心はある。しかし、それと同時に隠し立てすることなく話せる相手がいると言うのもまた、嬉しい誤算と言うべきか、彼女の支えとなっていた。
「日向って濃い味付けの方が好きなのかな…、お昼は和食中心にして見たけど普通に見えたし」
夕食に出した揚げ物への日向の食いつきは中々のモノであった。それを思い出した優希が、明日以降の献立(日向の好み中心ではあるが)について思案する。
けれど、美鈴はそれに対して首を横に振って訂正を入れる。
「いえ、あれは多分優希さんの行動に戸惑ってたからだと思いますよ。寧ろ和食の方が兄貴は好きですし」
「そうなんだ…、なら明日のお昼は魚…は今日したからお肉を使って…」
美鈴の助言を受けてどんどんと献立を決めていく優希。そんな彼女を見ながら、しかし美鈴は微かな焦燥感を抱いていた。
その源は勿論隣で想い人の胃袋を掴もうと必死になっている優希だ。
彼女は気が付いている。既に優希が、やろうと思えば簡単に手のひらで転がせる程度には日向の胃袋をがっしりと掴んでいる事に。詰まるところ、優希の行動は全くの無駄ではないが、既に達成されている事を尚も続けていると言った状況なのだ。
別にやっても良いが、それは現状維持にしかならず進展には繋がらない。この辺り、日向と優希の関係性が思いきり邪魔してしまっていた。
(このままじゃ空回りばっかりになっちゃうから…)
ならば、この状況を打破する鍵となるのは、それは美鈴だ。美鈴自身、よく理解していた。自分が何もしなければ、二人は長らくと空回りを続ける事となる事を。
なればこそ、彼女は立ち上がる。二割の使命感と八割の好奇心を胸に、二人を繋げるナビゲーターとなる為に。
「優希さん、一つ提案があります」
「うん、どうしたの?」
ことりと食器をシンクに置いて美鈴がゆっくりと近づき、優希にこそりと耳打ちをする。そのまま幾つか美鈴がぼそぼそと何やら呟くと、次の瞬間、優希の顔が爆発したかのように音を立てて真っ赤に染まった。
静寂に満ちた書斎にかたりと扉の開く音が響く。竜司がチラリと目を向けて見れば、丁度楓が書斎の中へと入って来るところであった。
「竜司さん、浮かない顔をしてますよ」
「…」
いつもの様に柔らかく微笑みかける楓に、竜司は沈黙で返す。
浮かない顔、恐らく自分は今過去類を見ない程の仏頂面をしているだろうことを、竜司自身がよく理解していた。
原因は、無論夕方数年ぶりに顔を出してきた彼の友人に決まっている。
「聞きましたよ、優晴君が来てたんですって?私も久しぶりに会いたかったわ。彼、元気そうでした?」
「…随分とやつれて見えた。不摂生でも続けていたのか、自分を追い込んでいるのか、あるいはその両方か」
「彼らしいですね」
「全くだ」
楓がくすりと笑いながら言えば、ようやく竜司の顔が和らぐ。そして、過去を懐かしむ様に二人は揃って何処か遠くを見つめた。
暫しの間、張り詰めていた書斎の空気は和んでいたが、しかし次の楓の一言にピンと張った糸の様に緊張感が走る。
「彼の事、殴り飛ばしたって聞きましたけど、貴方の顔が暗いのはそれのせい?」
楓の瞳に責めるような色は無く、ただ彼を案じているように見える。竜司もそれは感じ取っていて、一つ大きく息を吐きだすと自白する様にゆっくりと口を開いた。
「…感情的になってしまった。あれはどちらかと言うと、八つ当たりだったのだろうな。私は、あいつに自分を重ねてしまった。自身の弱さを重ねてしまった」
その顔に浮かぶのは海の様に深い後悔、それは楓も同様で竜司に同調するように彼女の顔にも影が落ちる。
「何より、あの子たちに見せてしまった。あの子たちは成長していると言うのに、私はあの時から何も、成長できていないな」
「…そんな事はありませんよ。少なくとも、貴方はこうして後悔を続けているもの」
項垂れる竜司を前にした楓がそっと彼の隣に寄りそい、二人を繋ぐ重ねられたその手に力が籠められる。
「…彼はどうしたんですか?」
「随分と頭に血が昇っているようだった、焦っていると言った方が近い。暫く時間を置いて、頭を冷やさせてから、話をしよう」
「えぇ、そうですね」
窓から差し込んでくる月明かり。照らされる二人は、まるで月に贖罪に祈りを捧げる信徒の様であった。