降り注ぐ日差しの中に身を置き、夏特有の大きな入道雲の浮かぶ澄み渡る青空を眺めながら、近衛日向は家の玄関の前で一人立ちすくんでいた。
「なんで、俺はまた家を追い出されているんだろうか」
既視感を感じる現状に解せない、と言った表情で呟く日向の額にはうっすらと汗がにじんでいる。彼が空を眺め始めてから、早くも十数分程が経過していた。
日向の記憶にある限り、今朝はこれと言って特別な事も無いごく普通の朝だった。汗を流した後、優希の作った朝食を美鈴を含めた三人で食べて、片付けが終わるや否や外行の準備をさせられると、美鈴によって日向は家を追いやられたのである。
「…やっぱり俺何もしてないよな、本当になんで追い出されたんだ?」
何度思い返してみても、やはり脈絡も無い事実が残るのみで日向ははてと首を傾げた。
先日の様に明確な理由が自身でも分かっていれば日向とて反省も出来るし、少なくとも謝罪するなど何かしら行動に移せた。
しかし今回はそれが無く、ただ家の外に出されただけである。
まさか自分はいらない子?などと日向が男泣きの準備をし始めた辺りで、がらりと音を立てて日向の背後で玄関の扉が開いた。
「日向、お待たせ」
次いで聞こえてくる優希の声に、ほっと息を吐きながら振り返った日向だったが、しかし次の瞬間彼は視界に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
そこに立っていたのは確かに彼の友人である松江優希だった、その点に間違いは無い。にも拘らず日向が驚いたのは、彼女の恰好故であった。
普段、優希は美鈴の選んだコーディネートの服を着ている。その為常日頃からよく似合った服装をしている彼女だが、しかし現在はそれすらも霞んで見える程可愛らしい、言ってしまえば気合の入っている出で立ちであった。
薄っすらと化粧の施されている優希は大人びて、魅力的に見えて。そんな彼女と真正面から目を合わせた日向は、ぽかんと口を開けて呆けた表情を浮かべている。
「…似合ってない、かな」
反応が芳しくないと感じたのか、不安げに顔に影を落とす優希に、はっとした日向は慌てて両手を横に振った。
「あ、いや違う違う、逆だって!何だよ滅茶苦茶似合ってるじゃん、可愛いぞ優希ちゃん」
「…」
いつもの様に軽口を叩く日向であったが、優希の見せた反応は、彼の予想とは異なり、軽く頬を染めて俯くというものだった。
これには日向もどう対応してよいものか分からず、その場に暫しの沈黙が流れる。
「…ってかさ、どうしたんだよそんな格好して。もしかしてどっか出掛けるのか?」
感じる気まずさを誤魔化すように日向が問いかけると、少し間を置いてから優希は顔を上げて、ここまでの経緯を知ってか申し訳なさそうに眉を八の字にする。
「日向にはまだ説明してなかったよね。今日は日向と一緒に遊びに行こうと思って、この格好も遊びに行くって言ったら美鈴ちゃんが」
優希の話を聞いて、ようやく日向は合点がいっていた。
(外行の恰好はそう言う事か。さては、追い出されたのもこれを見せて驚かせるためだな?)
追い出された理由にも察しがついて、まんまと嵌められる形となったのだと気付いた日向は、今度こそ大きく安堵の息を吐いて表情を緩ませる。
「遊びにって、なんだそう言う事かよ、てっきりまた何かやらかしたのかと思った。ほら、昨日みたいに追い出されたもんだから」
調子を取り戻して先日の事を引き合いにからからと笑う日向に、優希もまた苦笑いで応じる。
「あはは、美鈴ちゃんってそういう所結構強引だよね。だから私も急いで準備したの。暑い中待たせてごめんね」
「良いって良いって、このくらいの暑さ…私?」
謝罪なんかいらないと手を振って毎度の傲慢ぶりをアピールしようとする日向であったが、ふと感じた違和感に言葉を区切って目を点にした。
反して優希はバレてしまったと言わんばかりに気まずそうに眼をそっと横に逸らしていて、けれどこうなることは彼女も分かっていたのか、すぐに気を取り直すと何事も無かったかのように『さ、早く行こ?』と歩いて行こうとする。
が、そう何事も都合よく行きはしない。
「いやいやいや、流せないっての。優希、ストップステイ」
がしりと先を行こうとする優希の手を掴んで引き寄せると、日向はそのまま彼女の肩を掴み、ずいとにじり寄った。
「ちょっと、日向!?」
間近に見える日向の顔に優希が赤面しながら素っ頓狂な声を上げるも、日向はお構いなしとばかりに彼女の双眸をしかと捉える。
「優希、お前まさか自暴自棄になってるんじゃないだろうな。確かに体は変わっちまったかもしれないけど、まだ元に戻れないって決まった訳じゃないんだ。だから…」
「ち、違うから!ちゃんと自分の意志だから!それより、日向顔近い…!」
至近距離から日向の真剣な眼差しが優希を射抜く。距離を取ろうと仰け反ろうにも両肩をしっかりと掴まれている優希に逃れる術は無く、ただ横を向いて心ばかりでも遠ざかりながら、か細い声を震わせる。
そこでようやく日向は両者の距離に気が付いたのか、『あ、悪い』と声を上げて肩から手を放すも、尚も表情は浮かない。
「本当に、無理はしてないんだよな」
心配を体現しながらの日向の問いかけに優希が無言のままこくこくと頷いて返せば、日向も一旦は納得がいったのか一息を付いて、その顔から焦燥感が消える。
「はー、焦った。もし自棄になってたらどうしようかと思った」
「それは大丈夫だよ。だって日向も美鈴ちゃんも居るし、竜司さんも楓さんも良くしてくれてるんだから」
ほんのりと頬に朱を残しつつ宥める様に言う優希。そんな彼女の言葉を聞きながら、ふと日向の脳裏に一つの疑問が浮かんだ。
「ん?じゃあ、何で変えたんだよ。昨日までそんな素振り無かったくね?」
既に確立した一人称が変わる、これ自体中々起こり得ない事だ。とはいえ、何かしらの影響を強く受けるなどすれば起こりうるかもしれない。正に優希はその状況に陥っている訳だが、何故このタイミングでとは日向も思わずには入られなかった。
「…別に、私がそうしたいって思っただけだよ」
目を逸らしながらのそれはどちらかと言うと煙に巻く風な返しで、それだけ答えると日傘を差した優希はタッとその場から駆け出していく。
「それより日向、早く遊びに行こ!」
ふわりと振り返った優希の長髪が風になびく。日光に照らされ薄く微笑む彼女が、日向には真夏に現れた妖精のように見えた。ついその場に立ちすくんで見入ってしまう彼であったが、はっと気が付くと、諸々の疑問に蓋をして優希の後を追って駆け出した。
近衛家のある街の北東は水田があるばかりで、内側の方に比べるとかなり人が少ない。加えて、学生は夏休みであるがそれ以外にとっては普通の平日だ。学生たちもわざわざ何もないこの近辺に来るはずがなく、水田の整備に精を出すご老人達はちらほらと見えるがそれだけで、そんながらりと空いた道を優希と日向は二人並んで歩いていた。
優雅に日傘を差して歩いている優希は、どこぞのお嬢様と見間違うようで、隣を歩く日向はそのお付き。これで日向が燕尾服でも着ていれば、完全に地元の視察に来た貴族のお嬢様の恰好だったが、些か見劣りするのは彼らがそうでない証だろう。
「こうやって遊びに出掛けるの、結構久しぶりだよね」
歩きながら日傘を傾けて日向に笑いかける優希は、心なしかテンションが上がっているように見える。そんな彼女に少々困惑しながらも、暗いよりは万倍も良いと思いなおした日向は普段通りに彼女と接する。
「確かに夏休みに入ってからは殆ど室内だったよな。てか、二人で遊びに行くのは優希の身体が変わってからは初めてじゃね?前にショッピングモールに行った時は美鈴が一緒だったし、買い物には行ったけどあれくらいだな」
「ね、日焼け止めとか準備に時間がかかるのもあるけど、普通に日向の家に居るだけで満足してたのかも」
「初日から色々あったからなー、全体的にずっとイベントが続いてた感覚だ」
言いながら日向はふと優希の身体が変わった夏休みの初日へと思いを馳せる。
あの日、変わり果てた優希の姿を見た時日向は、それこそ腰が抜けてしまうのではないかと思う程に驚いていた。だが、事前にニュースで聞いていた事も大きかったのだろう、何が起こったのかある程度予想も立てられて、何より不安に満ちた優希の顔を見た瞬間、自分が支えなければと日向は強く思ったのだ。
それからは日向が些か強引にではあるが自分の家に滞在させて、少なくとも優希を独りにだけはしないようにと立ちまわっていた。
その影響もあってか、二人にとっては初日からこの方が全て非日常の様なものだった。姿かたちの変わった友人と接する日向、友人の家に居候する形となった優希、どちらにおいても日常とは言い難い。
「…日向、聞いてる?」
ふと隣から聞こえて来たそんな優希の声に日向が意識を戻す。横へ振り返ると、優希はそんな彼を覗き込む様にして懐疑的な視線を向けている。
「んえ?あ、悪い優希。ちょっと考え事してた。何話してたっけ?」
「…ふーん」
あっけらかんとして答える日向だったが、それを受けた優希は途端にその顔を不機嫌に染める。それを見て日向もマズイと思うが、しかし完全に後の祭りで、優希は頬を膨らませてそっぽを向いてしまった。
「私と話すより考え事の方が大事なんだ。別に良いよ、そのまま考え事してても」
「あー、優希様、謝るから機嫌直してくれよー」
『この通り』と拝み倒すが、つんと取り付く島も無い優希を前に日向は途方に暮れてしまう。長い付き合いだが、優希がこうなった時日向はどうすれば良いのか知らなかった。なにせ、今まで優希がこうして拗ねるような事は無かったのだ、知らないほうが自然とさえ言える。
日向が見るからに困っていると、優希も多少は溜飲を下げたのか視線を戻して日向を見やる。しかしその顔は先ほどまでではないが、あからさまに拗ねてますと言わんばかりであった。
「今は私と一緒にいるんだから、あんまり他の事ばっかり見ないでよ」
そんな彼女からのささやかなながらも、強い意志の籠った抗議に日向はただ両手を上げて全面降伏を露示して見せる。彼は直感的にこうすべきだと考えたのだ。
「はい、俺が悪かったです。…てか、優希やっぱりちょっと変わったよな」
「え?」
続けざまに投げかけられた日向の言葉に、先ほどまでの不服そうな表情は鳴りを潜め、優希はキョトンとした顔で目を丸くする。
「だってさ、前までならそんな拗ね方しなかっただろ。それにボロボロに泣くこともあったし…やっぱ体が変わったせいか?」
日向が補足で説明すると優希も合点がいったのか納得の声を上げる。日向の言う様に、以前の優希であれば考えられない事だ。一人称もそうだが、何より多少話を聞いてなくても文句の一つは言えども拗ねるなんてことは無かった、あんなに感情的に泣き喚くなんてことは無かった。
それが、ここ数日で良くみられるようになった。だからこそ、日向は今までこれが彼女の精神が不安定になっているからであると考えていたが、しかしその傾向は落ち着くどころか増していっているように見えた為、彼もおかしいと感じたのだ。
そして、それは誰よりも優希自身が良く理解していた。
「…うん、そうかも。私ね、多分この体になってから変わってるんだと思う。でもね、それはきっと体に引っ張られて、とかじゃないんだ。寧ろもっと前向きな要因」
「前向き?」
おうむ返しに聞く日向に一つ頷いて、優希は言葉を続ける。
「性別とか関係なく、私は私自身、松江優希がどういう人間なのかを知れただけなんだよ。どういう事が好きで、どういう事が嫌いで、どんな事を望んでいるのか、この体になってから知る機会に恵まれた。こういうのを成長って言うのかな」
『周りには迷惑を掛けてばかりだけど』と自嘲気味に笑いながら、特にその影響を受けているであろう目の前の想い人を優希はじっと見つめた。
彼は驚いたように優希をその双眸に捉えている。まるで、彼女からそんな言葉が聞けるとは思っていなかったと言わんばかりで、嬉しさと困惑の入り混じった感情がその瞳に浮かぶ。
「…そっか、でもあんまり急に成長しないでくれよ。早すぎて、俺はまだその一人称にすら対応できてないんだ」
「あはは、やっぱり違和感に感じるよね。元に戻した方が良い?」
肩をすくめて情けない表情で言う日向に優希がそう提案するも、すぐに日向は首を横に張る。
「いや、優希がそうしたいならそのままで良いって。ただなんと言うか、その見た目でその口調だとさ…」
「…私が、異性なんだと思う?」
口をまごつかせる日向の後を優希が継いで言えば、日向は肯定するでもなく否定するでもなく、ただ顔を背ける。しかし、優希にとってはそれで十分な答えだった。
「…何だよ、何でにやついてんだよ」
「に、にやついてないよ」
「鏡で見せてやろうかこの野郎。畜生、人で遊びやがって…!」
地団太を踏む勢いで悔しがる日向。彼を見る優希の心情は『遊んでなんか無いんだけどな…』と複雑だったが、しかしそれでも嬉しさが勝っていた。
ぐぬぬと唸り声を上げながらも、何とか落ち着いた日向は大きく息を吐きだす。
「てかさ、結局お前の身体が変わったのってなんでなんだろうな。前の日は普通だったのに」
「うーん、私も分かんないかな。いつも通りの一日だった筈なんだけど…」
落ち着いたところで、今度はこうなった根本的な原因へと話の矢印が向いた。
男性から女性へと体が変化したというこの現象。世間的に見ればかなりの大事件だ。それなりに捜査は行われて、原因の究明には労力も裂かれているのは間違いない。
「あれからテレビで取り上げられても、同じことの繰り返しだもんな…」
日向は毎朝毎夜、隙間時間にはウェブサイトなどでニュースを確認しているが、初日以降目新しい情報はとんと入ってこない。
失踪したもう一人の変化者はどうなったのか、これは何を要因として起こっているのか、まだ数日とはいえ、ここまで情報が入らないと言うのもおかしな話だ。
「…あ、でも親父は何か知ってるんだっけ」
「え、そうなの?」
「多分、知ってても起こる条件とかだと思うけど。あの人医療関係にでも強かったのか?」
ふと思い出した風に言う日向にキョトンと優希は目を丸くする。日向は竜司から聞いていたが、優希にとっては彼が情報を握っているなど初耳である。とはいえ、日向も知っている事を知っている程度で、最早情報と呼べるのか定かではない。
疑問が疑問を呼ぶ現状に、二人は揃って首を傾げる。
「まぁ、話せないとかなんとか言ってたし、聞いたところでなんだろうな」
「確かに、変わった後に変わる条件を聞いても意味ないもんね。…ねぇ、日向は…」
ふと、優希は脳裏に浮かんだ質問を口に出しかけて、途中で止めた。不思議そうにそんな優希を見る日向。だが、優希は続けることは無く『何でもない』と誤魔化して、これからどうしようかといった話にへと話題を切り替える。
そうして話しながら歩くこと暫くして、二人はいつか来たショッピングモールへと到着した。
『日向は、私の性別が変わって嬉しかった、それとも悲しかった?』
この質問こそ、意味も何もない。なにせ答えは決まり切っているのだから。仮に、日向に問いかけたとして返って来る言葉はこうだ。
『優希は優希だろ、何も変わらないって』
優希は優希。詰まるところ、彼にとって自分はあくまで友人でしかないのだ。
何処までも対等に扱ってくれる、その事実が堪らなく嬉しくて、けれど同時に狂おしい程に悲しかった。だって、この想いは友人に対するものでは無い。きっと生涯彼にだけ抱く感情。胸を焦がす程のその恋心が成就する事は無いと言われている様なものだ。
ここまで、自分以外の他人になりたいと思ったのは、生まれて初めてだった。
だからだろうか、彼に異性として見られていると知った時は、飛び上がってしまいそうな程に、嬉しかったのだ。