山と海に囲まれた上藁町の最北東、水田を抜け墓地の広がる区画を更に山の上へと向かった先には、人に忘れ去れたようにポツンと一軒の小屋が建っている。
元々は墓の管理人が偶に寝泊りをしたり、掃除用具などを置く倉庫の様にして使用されていたそこは、しかし既に放棄されてしまった後で、長らく人が踏み入ることは無かった。
そんな夕日の差し込む小屋の中、優希は目を覚ました。
「ん、ここ…何処…」
起きがけで、暫しの間ぼうっと力の籠らない瞳で、何処かも分からない床を見下ろす彼女であったが、次第に意識もはっきりとしてきたのか、はっと息を呑むと、座っていた椅子から立ち上がろうと足に力を込めた。
ガタンと大きな音が鳴る。しかし、優希の身体は尚も椅子に縫い留められたままで、困惑気味に向けられた彼女の瞳は、自らを椅子に縛りつける麻縄を捉えた。
「っ…」
脱しようと再び力を籠めるも、四肢を結ぶそれはいやに頑丈で、非力な優希の腕力では隙間を作る事すら難しかった。
「おや、ようやく目が覚めたかい?」
諦めた優希が体を弛緩させた直後、小屋に別の声が響いて、びくりと彼女の肩が震える。声の主は眼鏡を掛けたやせ型の男。彼の名は松江優晴、正真正銘、松江優希の父親だ。彼は机の上で動かしていた手を止めると、ゆっくりと彼女の方へと振り返る。
一言で言い表してしまえば、みすぼらしい恰好だった。ぼさぼさの髪によれよれの衣服からはまるで生活力が感じられない。
彼の姿を目にした優希は意識を失う前を思い出し、すぐに目の前の男が自分を攫ったのだと理解した。
「その縄、痛くは無いかな。痛い様なら少し緩めるから、遠慮なく言ってね。人を縛るのは不慣れなんだ」
気遣わし気に表情を歪めながら言葉を掛けてくる優晴に、優希はどの口がと頭が沸騰したのではと思う程に憤りを感じ、食いしばられた歯がぎりっと音を立てた。
「…いきなり帰って来て、こんな事して、何のつもり」
普段温厚な彼女らしくも無く、目の前の男を睨みつけるその瞳には確かな怒りが浮かんでいる。それを受けた優晴は、しかし特に気にした風でも無く、へらりと希薄に笑って見せた。
「うんうん、そうだよね。折角の彼氏とのデートに横入りされたんだ、怒られて当然だね。お父さんが悪かったよ、ごめんごめん」
両手を合わせて頭をさげる優晴の姿は、何処からどう見ても子の機嫌を伺う父親そのものだった。とはいえ、優希からしてみれば彼は何年も自分を置いて放浪した最低な父親だ。
怒りのままに手を上げようと、優希の腕に力が入り、またがたりと椅子が鳴る。
「ふざけないで!散々人の事置いてたくせに、今更父親面しないでよ!」
感情の高ぶりからか、はたまた他の要因か、そう叫ぶ彼女の瞳には薄っすらと涙が浮かんでいた。
これには優晴も驚いたのか、二度三度と目を瞬かせてから、不意に小さく噴き出し自嘲気味に笑う。
「うーん、これは取り付く島もない、完全に嫌われてしまったみたいだ。自業自得とはいえ、中々心に来るものがある。もう、お父さんとは呼んでくれないかい?」
さも残念そうに肩を竦めて、優晴は改めてジッと優希を見つめる。細められたその目は、まるで過去を懐かしんでいるようで、居たたまれなさを感じた優希は視線から逃れる様にそっぽを向く。すると、そんな彼女の仕草に、ほうっと感慨深げに優晴が息を吐いた。
「因果かな、ほんとによく似ているよ。希も、機嫌が悪い時はよくそうしていた」
優しく微笑む優晴だが、しかし優希には誰の事を差しているのか分からず、ただ訝しむように眉を顰める。ピンと来ていない彼女の様子に、優晴は『あれ?』と首を傾げた。
「もしかして、竜司君や楓さんから何も聞いていないのかい?てっきり話しているモノと思っていたけど…、まぁ二人共気遣い屋さんだからね、仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれない」
言いながら優晴は首から下げていたペンダントを外して、中に入った写真を優希へと見せる。
写真は結婚式の際のモノらしく、一組の新郎新婦が並んで映っている。白いタキシードに身を包んでいる新郎は、若かりし頃の優晴だ、これは優希にも見て取れた。しかし、問題は新婦の方。その姿を目にした優希は、思わず息を呑んだ。
瓜二つ、とまでは言わないまでも、ぱっと見で血のつながりを感じさせるほどに、現在の優希とよく似ている。
「彼女の名前は希と言ってね。僕の妻であり、優希、君の母親でもある。こうして写真を見せるのは初めてだったかな、驚いただろう、君にそっくりだ。僕もね…」
「この人が…お母さん…」
楽しそうに説明する優晴だったが、その声は既に優希の耳に届いていなかった。人生で初めて見る母親の顔に、彼女はただただ見入っていた。
松江優希に母親の記憶は無い、優希が物心ついた時には既に父親がいるのみで、母に関する情報は一つたりとも与えられてこなかった。
「お母さん…今は?」
何も与えられてこなかったが故に、優希は自らの母親が存命か否かすら知らない。勿論気になる事はあったが、その時には既に優晴からの音信は途絶えていたし、何より日向が居たためにそこまで関心が向かなかった。
始めて訪れた聞く機会に優希が問いかけると、先ほどまでにこやかに話していた優晴の顔から、一切の感情が抜け落ちた。
「亡くなっているよ、優希、君が生まれるのと同時に」
端的に告げられた真実。しかしその衝撃よりも、急変した優晴の様子に、びくりと優希は身を震わせる。そんな怯えるような彼女の仕草を目にして、優晴は慌てながら『あ、違う違う』と手を振った。
「言葉が悪かった、別に優希のせいだなんて思っていないよ。君は僕らが望んで出来た子だし、今もそう思ってる」
そう話す優晴の目元は優しく、彼の言葉が本心からのモノであると伝わって来る。しかし、彼の顔にはすぐにまた影が落ちた。
「…ただ、希は元々体が弱かった。虚弱、病弱、元々出産自体リスクが高かった。けどね、その上でどうしても、と希の強い希望もあって、僕たちは君を生むことに決めたんだ。
それでも最初は安定していてね、幸せな日々だったよ。二人で君の名前をどうしようと話し合って、結局は僕が決めた名前が良いと言われたりもしてね。優希という名前は、僕が付けた形になるかな。一度こうすると決めたら、意地でも曲げない人だった」
話しながら優希に視線を向ける優晴だったが、その瞳は優希越しに他の誰かを見つめている。
それを目にして、優希は彼が未だに過去に囚われているのだと気が付いた。失ってしまった幸せを、長い時を経ても手放せないでいる。失意に呑まれた彼の双眸は現実を前にしていながら、過去しか映し出していないのだ。
「異変が起きたのは、出産の直前だったよ。今にして思えば、数日前から予兆はあったのだろうけど、当時はそれに気づけなかった。予定日が近づいてきた時期に、希は一気に容体を悪化させた。それと同時に陣痛も始まってね。母子の内片方しか助からない、そんな状況で、彼女は何て言ったと思う。
『私よりも、この子を優先させて』だって。彼女は頑固だからね。多分僕が何を言っても、言い分は変えなかったし、僕は彼女のそんなところが好きだった。
お墓もね、丁度ここをずっと下った先の墓地にあるんだ。竜司君たちが掃除してくれてたみたいで、とても綺麗な状態だった。有難い限りだよ…」
優晴が追悼するよう瞼を下ろし、ペンダントを閉じてそのまま首元へと掛け直すと、彼の話に呆然と聞き入っていた優希は思い出したかのようにきっと彼を睨みつける。
「なんで今になって、こんな話…」
これまで、優晴は母親に関する情報を優希から完全に断っていた。写真の一つも無ければ、話の一つも無し。顔は勿論、墓の場所すらも知らなかった。
更に言ってしまえば、優希の記憶にある限り彼はこんなにお喋りでは無かった。無論会話が無かった訳ではないが、どちらかというと物静かなイメージの方が彼女の中では強い。けれど今の優晴は、内容こそ重たいものの、だらだらと楽しむ様に話をし続けている。
そのイメージとの差異が、より優希に混乱を招いていた。掴み切れない、そんな印象を彼女に抱かせる。
「まぁ、聞かれたからね。あとは…最後に話しておきたかった、というのもあるかな」
睨まれているにも拘らず、優晴はあくまで飄々とした顔で、寧ろ楽しそうに笑みすら浮かべている。しかし、彼の言葉を聞いた優希は、ふと違和感を覚えた。
『最後に話しておきたかった』、つまり優晴はこれを最後に優希の前から姿を消すつもりでいるのだ。だが、彼の目的がただこうして優希と話すだけという訳ではない事も明白で、ならば一体全体何のためにこんな誘拐まがいの事をしでかしたのか。
そこまで考えて、誘拐、その単語に優希はゾッと背筋を凍らせた。
「…もしかして、私の事を売るために帰って来たの?」
優希は顔を青ざめさせ、震える声で優晴へと問いかける。
今まで、『久しぶりに顔を合わせる父親』にしか目がいっていなかった優希だったが、しかし自分の現状を考えれば、何故このタイミングで帰って来たのか、その理由は想像に難くない。
絶望と失望が優希の心を満たす。そんな彼女を前に、けれど優晴は何の事かと首を傾げる。
「僕が大切な愛娘を売るわけが無いだろう。どうしてそうなるんだい?」
「だって、私は性別が変わって。同じ境遇の人は、行方不明になったって…」
話がかみ合わない。両者の心境は正にそれだった。
優晴はしばしの間顎に手を当てて考え込み、やがて合点がいった様に声を上げた。
「成程、あのニュースを見たんだね。確かに情報があれだけなら、そう考えるのも無理はない」
しきりに頷く優晴とは対照的に、優希は未だ困惑が深まるのみであった。訝しむ優希に、優晴は安堵させるようにこりと軽く微笑んで見せる。
「心配しなくても、誘拐なんて起こっていないよ。もう一人の子も、病院に行った後すぐに元に戻ったから、行方不明になったように見えただけ。だから君は明日からもちゃんと元通りに、この街で生活できるんだ」
呆然と優希が優晴を見つめる。
あまりにも詳しすぎるのだ。思えば最初から彼は、幾ら妻と姿が似ているとはいえ、彼女が優希であると確信していた。そしてそれ以上に、子供の性別が変化したと言うのに、異常な程自然にそれを受け入れている。
そんな疑問に答えるように、優晴は言葉を続けた。
「なにせ、君たちの性別を変えたのは、僕だからね」
「…嘘…」
優希がぽつりと零したそれには答えることは無く、優晴は彼女に背を向けて、先ほどまで何やら作業をしていた台の方へと向き直り、再び口を開いた。
「例えば、これから親になる人の中で息子と一緒にキャッチボールをするのが夢だ、娘と一緒にファッションショーをするのが夢だ、と言うみたいに、これから生まれてくる子供の性別を指定したい人もいる。他にも、性同一性障害の人や、恋人との間に子供を作りたいから性別を変えたいと言う人もいる。
つまり何が言いたいかというとね、性別を変えるという技術には、世界でも一定以上の需要があるという事なんだ」
台の上で忙しなく手を動かしながら、優晴は淡々と話を進める。
「中にはかなりセンシティブな問題もあるから、まだ公にはなっていないけどね。意外とこの分野の研究は進んでいるんだ。かくいう僕や希もその研究に携わっていた。というよりは、この研究に携わっていたから、彼女と出会えたと言うべきかな」
惚気話でもしているかのように朗らかな口調。それだけで、彼の人生において幸せの絶頂が何処にあるのか分かると言うものだ。
「研究を続けていく内に、僕たちは薬の開発に成功したんだ。体の大きさに伴って一定以上の量を摂取すれば、特定の性別に変化させることが出来る。男性から女性に、女性から男性に、はたまた無性からどちらかに。そんな夢のような薬だけどね、最近になって一つ問題が発覚した」
ことりと音を立てて、優晴は中身の入ったビーカーを台の上に置いた。そして、彼が傍に置かれた荷物の中から注射器の入ったケースを取り出すと中身を開け、手際よく薬液を吸い上げる。
「全ケースにおいて色々と治験を行ってデータを取っていたんだけどね、どうやら時間経過で薬の効力が切れてしまう場合があるようなんだ。無性からのケースはまだデータが取れてないし、時間に個人差はあるけど、共通しているのは薬での変化後に、第二次性徴を経ているか否か。その時の変化は本人の睡眠中に起こるらしいけど…、これは優希も心当たりがあるんじゃないかな」
視線を向けながら告げられた優晴の言葉に、優希は自分の心臓がどくりと鳴るのを感じた。確かに彼女には心当たりがあった、それは自分の体が変化した際と同じ状況だったのだから。
「…待ってよ、なら…」
そして、仮に優晴の言葉に虚偽が無いとするならば。浮かび合った推測を優希が言葉に出来ないでいると、それを継ぐようにして優晴が口を開く。
「そう、優希、君の生まれた時の性別は、女性という事になる」
「…なんで」
『なんで薬を自分に使ったの』真っ先に優希の脳裏に浮かんだのはそんな質問だった。
生まれたと同時に希は命を落とした、ならば必然的に優晴が優希に対して薬を使った事になる。けれど、先ほど説明した薬を使う要因の中に優希が該当するモノは無かった。
ならば治験のデータを増やすためか、そんな可能性を、しかし優晴は首を横に振って否定した。
「誓って、研究のために使った訳ではないよ。とはいえ、そうであった方がまだマシだったのかもしれないね」
間に一呼吸を置いて、優晴は続ける。その顔には懺悔する様に、全てを諦めた様に、力の抜けきった笑みが張り付いていた。
「希が先立ってから、僕は必死に育児に励んだよ。なにせ、妻から最後に託されたものだからね、大切に大切に育てようと思った。けれど運命は残酷だ、君は良くも悪くも、希に似てしまった。体が弱くて、病気に罹りやすい。成長していくにつれて希の面影はより濃くなって、病床に伏す君の姿は死に際の彼女と重なった。気が狂いそうだった、僕はまた愛する人を失うのかと、途方もない恐怖を感じたよ」
手の震えを抑えるよう、優晴は強く拳を握った。時間が経ってこれなのだ、当時の彼の感じた恐怖は推し量るに余りある。
彼の話を聞いて、優希は思わず息を呑んだ。けれど、過去を見ている優晴がそれに気が付くことは無かった。
「だから、僕は君に薬を使った。体の変化で少しでも体が強くなればと、少なくともこれで、希と同じ末路は辿らないだろうと。でも、すぐに僕は自分がとんでもない事をしでかしてしまったんだと気付いた。
僕はあの時、君の人生を大きく変えてしまった。自分の為だけに、託された子を、僕たちの子を、本来の生き方から違えさせてしまった。重ねて、その罪悪感に耐えかねて逃げ出してさえしまった。もう、希に合わせる顔も無い」
『でもね…』そう続けながら、優晴は薬液の入った注射器を手に取り、内部に入り込んだ空気を押し出す。
「もう、それでも良いんだ。幸いにも、周囲には恵まれている。竜司君や楓さんもいるし、君は日向君と言う親友も得た。二人は旧友でね、まぁ、頼みに行ったら殴られてしまったけど。ともあれ、君は僕がいなくても大丈夫なんだ」
竜司の拳が入った右頬を一撫でしつつ、カツカツと音を立てて優晴は優希の元に近づいて行く。その手に持った注射器に、彼が今から何をしようとしているのか、優希は即座に理解して、何とか抜け出そうと身をよじる。
「やめて…来ないで…!」
「例え君に嫌われようと、恨まれようと、父親だと思われなくたって、何だっていい。ただ君が、生きてくれてさえいれば、それでいい」
だが、やはり四肢を繋がれた椅子はガタガタと音を立てるばかりで、近づく彼から逃れることは叶わない。それでも尚、必死に優希は抗い続ける。しかしそれも束の間、逃れようとする優希の腕を優晴が掴んだ。
「大丈夫、優希は元の生活に戻るだけなんだ。急に性別が変化して大変だっただろう、これですぐに元通りだ」
「嫌だ、いや、いやっ…!!」
幾ら暴れようとしても、しかと抑えつられたその腕はビクとも動かない。優窓から差し込む夕日に、細長い針が反射する。それを目にして、優希は絶叫にも近しい悲鳴を上げた。
「日向…!!!」
それと同時、荒々しく扉が開け放たれる荒々しい音が小屋に響き渡り、ぴたりと、優希の肌に迫っていた針が静止する。
涙に濡れた優希の瞳に映し出されたのは、汗だくで息を切らす近衛日向の姿だった。