『もう、俺に話しかけこないでよ!』
それは、日向が優希と出会ってから数年が経過して、二人が中学に上がった辺りの出来事だった。そう言って優希は日向を拒絶して、唐突に彼の元を離れていった。
今にして思えば日向も、それが長年蓄積してきたモノが爆発したのだと気づけたが、しかし当時の彼がそこまで思慮が及んでいる筈もなく、日向にしてみればただ突然拒絶されたようにしか感じなかった。
一緒に学校に行っていたのに、別々で登校するようになって。一緒に弁当を食べていた昼休みは、各々が別々に過ごすようになって。一緒に遊んでいた夕暮れは、退屈な時間へとその姿を変えた。
そんな最中で、逃げるように集中力を欠いて稽古に望む日向を、竜司が見逃すことも無い。道場から追いやられた日向はいよいよ何をする気力も無くなってしまった。
何もやる気になれなくて、部屋のベットの上に横になりながら、日向はふと優希と出会った当初の事を思い出す。
『…日向、北側にあるアパートを知っているか。そこにお前と同じ年齢の子が一人で寂しがっている。…その、なんだ。もしお前が良かったら、一緒に遊んできなさい』
最初の切っ掛けこそ、そう竜司に言われて気になったから、一緒に遊んでみようと日向は優希を連れ出しただけだった。寂しがっていると言われて、幼い彼の正義感が刺激されたのもあっただろう。
けれど実際に会ってみて、日向は優希の笑顔が見たいと思った。だから積極的に遊びに誘ったし、無理やりに連れだしたりもした。そうして一緒に居る内に、初めて優希の笑顔を見れたときは、日向も堪らなく嬉しく感じた。
二人の歩んできた日々は、優希にとって革新的ともいえる日々であったが、同様に日向にとってもこれ以上ない程幸せな毎日でもあった。だからこそ唐突に拒絶されて、それを失った今、彼は失意のどん底にあった。
『…カッコ悪い』
不意にそんな声が静まり返った日向の部屋に響く。呆然と振り返った先に日向が見たのは、扉の隙間から覗く美鈴の姿だった。彼女は日向と目が合うと、そのまま扉を開けて部屋の中へと入っていく。
無断で部屋に入られた日向は、けれど先の彼女の発言に呆然と動けないでいた。そんな彼に、美鈴はますます眉根を寄せた。
『どうせ優希さんと喧嘩したんでしょ。なら、早く謝りに行けばいいのに、いつまでもウジウジ悩んでて、カッコ悪い。せめて、優希さんに対してはカッコいい兄貴でいなよ』
ヘアピンを貰ったあの日からよく優希の肩を持つようになった美鈴によって、日向は自分の部屋からすらも追い出されてしまった。更にそこから急かされて、辛うじて靴だけ引っ掛けて、次の瞬間には日向は夕暮れ空の下を、優希の家に目掛けて走り出していた。
まるで最初からこうしたかったかの如く、その足取りに迷いはない。彼が家を出る直前、後ろで美鈴は満足そうにしながらも、すぐに自分に呆れたように大きくため息をついた。
それから、日向は脇目も振らずに街を駆け抜け、やがて優希の住むアパートの前へと到着した。
しっかりとしたその扉がやけに重厚に見えて、日向はその場で立ち止まって生唾を呑みこんだ。そして意を決した彼は、ゆっくりと手を持ち上げて扉をノックする。
けれど、待てど暮らせど中から優希が出てくることは無い。これには流石の日向も堪忍袋の緒が切れた。若干その額に青筋を浮かべて呼び掛けながら、今度は先ほどよりも強めに繰り返し扉を叩く。
はたから見れば恐喝にでもあっているように見えるその光景が、数十秒ほど続いて、ようやく内側から日向へと声がかかる。
『さっきも言ったでしょ、もう俺に関わらないで、近づいてこないで…!』
明確に拒絶される日向だが、しかしここで引く訳にはいかないと尚も話をしよう呼びかけ続けるも、それ以降優希は黙りこくってしまう。
ならば、せめて理由だけでも。と日向が声を掛けると、彼はドア越しに優希が息を呑んだのを感じた。やはり何かある、そう確信した日向が続けざまに問いただすと、ようやく優希はその理由について語り始めた。
『…俺、ずっと辛かった。親がいない事は仕方ないって思っても、実際に仲がよさそうにしてる家族を見ると、自分が凄く惨めに思えた。日向と遊んでいる時も、竜司さんと話してる日向を見て、楓さんと話してる日向を見て、ずっとずっとそんな事考えてた、考える自分が嫌だった!
俺は…ずっと日向の事が羨ましいって思ってた!!』
鼻にかかった声で、優希は独白するようにその内心を吐露した。自分の境遇を受け入れきれなかったのだ。理屈では理解できていても、感情を抑えきることは出来なかった。そも、齢13の少年に、それを納得しろと言うこと自体酷な話だ。
それを聞いた日向は、初めて聞いた彼女の本心に驚愕するとともに、胸にすとんと落ちたようだった。
『やっぱり、俺の所為だ』
『っ…!違う、日向は何にも…!』
悪くない、そう続けようとする優希に、日向は頭を振って更にそれを否定して優希に届くよう一言一句をはっきりと言葉にして紡ぐ。
『いいや、原因は俺だ。つまり、俺は優希に親の事を気にする余裕を与えちまってたって事だろ』
『どういう、こと…?』
日向が何を言っているのか、優希にはよく理解出来なかった。だが、日向にとってはそれで良かった。
困惑する優希に畳み掛けるように、日向は矢継ぎ早に言葉を発する。
『なら、話は簡単だ。他の事に気を向ける余裕がなくなるくらい、お前のことを振り回してやる』
ガチャリと音を立てて鍵の開く音がして扉が開いた。そうして姿を見せた優希は、驚いたような、困惑したような顔をしていた。
思わず、出てきてしまった。優希の顔にはそう書いている。そんな優希に、日向はニヤリとしたり顔で不敵な笑みを浮かべて見せた。
『これからは手加減無しで、お前の事を振り回してやる。蹲ろうとしても、立ち止まろうとしても、引っ張り回してやる。だから、覚悟しろよ、優希!』
鈍い音を立てて優晴の頬に拳がめり込み、その勢いを受け継ぐように、彼の身体は後方へと吹き飛ぶ。遅れてカシャリと注射器が地面に落ちて、殴り飛ばされた彼は壁へと激突してけたたましい音を響かせ、一帯の埃を巻き上げた。
拳を振りぬいたまま荒い息を立てる日向は、その顛末を見届けることなく、傍らの優希へと目を向ける。同時に、夕日を反射する彼女の瞳に映ったのは、息を荒げながら、いつもの様に不敵な笑みを浮かべる日向の姿だった。
「悪い優希、遅刻した。ここの坂ってこんなに長かったのな」
「日向…、日向…!」
安堵の為か、優希はただ感極まったように彼の名を呼び続けた。そんな彼女の四肢を縛る麻縄を目にした日向は、その顔から笑みを消し膝を付いて、蝶々結びで結ばれたそれらを一つ一つ丁寧に解いて行く。
それから間もなく、解放された優希は、すぐさま立ち上がりかけから目線の下がっている日向へと抱き着いた。しがみ付くその腕に込められた力は、そのまま彼女の感じていた不安と恐怖の表れで、日向は思わず動き出しそうになる足を抑えて、彼女を抱き留めた。
「…お前、泣きすぎだっての」
「だって…、日向が来てくれて…、安心して…」
胸の内で嗚咽を漏らす優希に苦笑を返しながら、日向はあやすように彼女の背を軽く叩く。しかし、二人に落ち着くだけの十分な時間は与えられなかった。
「あはは、相変わらず、竜司君は優しいなぁ。あれで手加減をしていたのか」
ふらふらと壁に背を預けながら立ち上がった優晴が乾いた笑い声を上げる。日向は即座に優希を背に回し、優晴の前へと立ちふさがった。
「…まぁ当然か、彼が本気で殴っていたら、確実に僕は死んでしまうだろうからね。それよりも…」
割れた眼鏡越しに、絡みつくような優晴の視線が日向へと向けられる。構えを取ろうとする日向だったが、それを見た優晴は力なく腕を振った。
「あぁ、身構える必要はないよ。今ので軽い脳震盪を起こしてる、立って話すが精一杯だ。そもそも万全だとしても僕は君に太刀打ちできないからね、不意打ちで少女を攫うくらいが関の山だよ」
そう話す優晴は満身創痍で重心も安定しておらず、確かにまともに動けそうには見えない。とはいえ、日向が彼の前で警戒を解く理由にはならず、尚も鋭い目つきで睨みつける彼に、優晴は『徹底してるなぁ』と感心すらした。
「挨拶がまだだった。僕は松江優晴と言う。君は日向君だね、娘が世話になっているよ」
「…成程な。まぁ、あんたよりはな」
肩をすくめた日向に皮肉を返され、優晴は『耳が痛いよ』とへらりと笑う。
表には出していないが、優希の父親、彼を前にした日向の内心は混沌としていた。日向は優希がどんな思いで今まで暮らしてきたか、それを身近で見ている。更にその優希を強引に攫って縛り付けて、無論内心穏やかではなかった。
けれど、同時に自分は部外者であるとも理解している。故に、自分がどこまで立ち入って良いものか判断を付けかねているのだ。
「よく、この場所が分かったね。GPSでもつけていたのかい?」
優晴からの問いに、日向はそれらを一旦思考の隅へと追いやって目の前の問題へと向き直る。
「確かに着けてるけど、あくまで確認に使っただけですんだよ。親父から聞いたんだ。あいつならこの場所に居るだろうって。ついでに粗方の事情も、昔はここでよく遊んでたんだってな」
「ご名答。それなら、優希の事も聞いてるんだね」
「…」
ちらりと優希へ目を向ける優晴に対し、日向は黙りこくって彼女には一瞥もくれない。そんな彼を、優希は不安そうに見上げる。
「日向、私は…」
口は開いたものの、それより先が続かない。少しの間が空いた後、ようやく日向は大きく溜めた息を吐きだして、そっと彼女の手を取った。
「聞いたけど、だから何だって感じだな。今さら実は女でしたって言われても、あぁ、そうですかで終わる話だろ。俺と優希の過ごしてきた時間は変わらない」
そうして、ぐっと痛くない程度に、けれどしっかりと力の込められた手に、優希は再び零れ落ちそうになる涙を堪えてその手を握り返した。
「なら、君も分かるだろう」
二人を微笑ましく見つめていた優晴だが、そう口にした途端彼の纏う雰囲気は、まるで隠していたものが内から滲み出たように、がらりと変わった。
「君とて、その子の事を大切に思っているだろう。なら分かる筈だ、僕の考えが、その子の未来が。希と同じように、居なくなってしまう。それだけは駄目だ、許してはならない、受け入れられない!」
語気が強まるとともに、優晴れの瞳に決意の炎が灯った。ふらふらと頼りない足取りで、歩み寄りながら、彼は落ちた注射器を拾い上げる。
地面には落ちたものの割れてはおらず、中の薬液は健在だ。それを手に、優晴は日向の後ろの優希へと震えるもう一方の手を伸ばす。
「駄目だ、もう嫌だ。失ってなるものか、二度とあんな思いをするのはごめんだ。
僕はもうこれ以上、家族を失いたくはない…!」
「あ…」
感情の高ぶりのあまり、優晴の頬を涙が伝った。咄嗟に前に出ようとする優希だったが、しかし日向はそんな彼女を押しとどめて、彼の前へと立ちはだかる。
「邪魔をしないでくれ、日向君。君だって、僕と同じだ、失ってきっと後悔することになる!」
「違うから、こうして対立してるんだろ」
先ほどの平静な彼とは打って変わって、感情的になった優晴に、日向はあくまで冷静に言葉を返す。だが、その胸の内には確かな怒りが燃え滾っていた。
それを発露せずに言葉を交わしているのは、偏にこれが優希の問題だからだ。
(優希の、問題か…)
自嘲気味に日向は胸の内で呟いた。自分の立ち位置を知らしめられているようで、日向は妙な疎外感と共に、もどかしさを感じた。
「俺に優希をどうこうする資格は無い。自分がこうだからって、何かを押し付けるようなことは出来ない、優希の人生を俺の手で変えるなんてことは出来ない」
それでも尚彼はこうして立ちはだかっている。それは何故か、自分はどうするべきか。話しながらも考えて、考え続けて。
「けど、優希が困っているのなら、俺が助ける。優希の人生を決めて良いのは、優希だけだ。優希の人生が他の誰かの手で曲げられそうになるなら、意地でも俺が守る」
ふと日向は自分の中で最後のピースがハマるのを感じた。同時に自分がどうすれば良いのか、自分の立ち位置をようやく理解する。
「俺は、何があっても優希の選択を尊重するよ」
それだけ言い切った日向は振り返り、守るべき彼女の姿をその視界に収めると、彼女に対し『もう大丈夫だと』示すように一つ頷いて見せる。
仮に優晴が注射を打とうとしても日向が止める、彼には何もさせない。だから、伝えたいことを伝えろ。そんな日向の意図を汲んだ優希は、こくりと頷きを返して、彼の隣に並ぶ。
「優希…」
日向の背から出てきた優希に、優晴が呆然と彼女の名前を呼んだ。優希はボロボロになりながらも、狂気を感じさせる優晴の姿に一瞬たじろぎかけるが、決意を固めるように唇を噛むと、更にもう一歩優晴へと近づく。
「私…ね、ずっと寂しかったよ。家に帰っても誰もいなくて、静かな部屋でずっと一人きりで。それが普通だって思いたくても、周りにとっては家族がいることが当たり前で、自分が異端だって、少数派なんだって思い知らされた」
それは淡々とした彼女の過去の回想。自分がどういう人生を送ってきたのか、お前が居なくなってどんな思いをしたのか、その一片を彼に伝えるための独白だ。
「日向のおかげで、私は一人じゃなくなった。日向が私の事を周りとの違いが分からなくなるくらい、引っ張ってくれたから、私は毎日が楽しくなった、人生が楽しくなった」
それは日向も良く知っていることだ。彼だけが、もしかすると竜司たちから聞いていたかもしれないが、それでも実際はどうなっているのかは知らない話。
話す優希の声はだんだんと鼻に掛かってくる。その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうで、それを見た優晴は呆然として、その手から注射器を零れ落とす。
「でもね、もし日向が居なかったら、私はきっと今でも暗い場所に一人きりだったよ。日向のおかげで前向きになれても、時々思うことはあるの。やっぱり、家族がいないのは寂しいよ、苦しいよ。だから…!」
たっと、優希は床を蹴って優晴の元へと駆けよると、その両手を握る。
「だから…これ以上、私から何も奪わないでよ、お父さん!!」
ぼろぼろと大粒の涙をこぼしながら、優希は父親へと思いを告げた。それが彼女の選択で、それを聞いた優晴は息を呑み、大きく目を見開くと、やがてその頬には涙が伝った。
「そんな、優希…」
記憶にあるよりも、ずっと大きくなった自らの手を握る娘の手。優晴がそれから視線を上げて行けば、彼をまっすぐに見つめる優希の瞳と視線が交差する。
綺麗な顔が、涙でぐちゃぐちゃになっている。しかし、それはお互いさまで、優晴も汚れたその恰好も相まって中々酷いものだった。
「まだ僕の事を、こんな最低な父親の事を、『お父さん』と呼んでくれるのかい…」
「そうだよ…だって、お父さんだもん。私の、お父さんなんでしょ…?」
泣き笑いを浮かべる優希。それにつられるように優晴も笑みを浮かべ掛けて、けれど自制するようにぐっと歯を食いしばった。
「駄目だ、それでも、このままでは君は希と同じように…」
そういって優晴は、優希の肩を掴んで引き離そうとする、まるで自らを律するように。彼の目には尚も彼女に妻の姿が重なって見えていた。
離れようとする優晴に、優希は彼が未だに過去に囚われている事を察した。それと同時に、優希は肩を掴む彼の腕を振り払って、彼の胸元へと飛び込んで、濡れた瞳で父親を見上げる。
「私は、私だよ。お父さん、私は貴方の娘の松江優希、松江希じゃない。いい加減ちゃんと、私の事を見てよ…!」
優希の張り裂けるような声に、優晴は思わず彼女の顔を見る。しっかりと強い意志を宿した瞳だ。よくよく見てみれば、彼女の目元は何処か優晴に似ている。
「…優希、病気は…していないかい」
「うん、肌は弱いから、日焼け対策はしないとだけど」
ぽつりぽつりと零すようなその問いは、何年もあっていなかった娘に対するものにしては、少々味気ない。けれど、二人にとってはそれでよかった。
「元気に、過ごせているかい」
「うん。昨日なんて、日向とショッピングモールに行った」
はにかみながら報告する姿は幼い子供の様で、優晴はそうかいと父親らしく返す。
「家事は良く…できているようだね」
「お父さんは、出来て無さそう」
「そうだね、僕は、あまり上手くできなくて、希には、怒られてばかりで」
アパートに帰った時、優晴は綺麗な部屋の姿に驚愕したものだ。付随するように浮かぶ昔の記憶は、ありふれた幸せそのもので。悲嘆も後悔も無いそれは、優晴は希を亡くして以来初めての出来事だった。
するりと、彼を捕えていた過去と言う鎖が外れる。溢れ出てくる記憶にあるのは、希と優晴の歩んだ幸せの軌跡だった。
「優希…優希…!」
名を呼びながら、優晴はしかと胸の内にある娘をかき抱いた。もう離さぬようにと、強く抱きしめた。
「僕は…大馬鹿者だ…愚か者だ!こうまでして、君の本音を聞いて、ようやくこんな簡単なことに気付くのだから…!ごめんよ…、優希、希…!」
裏切り続けた二人の家族に謝り続けて、優晴はおいおいと涙を流し続け、優希もまた今までため込んできたものを吐き出すように嗚咽を漏らす。
長い道のり、過程を経て元の鞘に収まった二人。それを見守りながら、日向は一人寂し気な笑みを浮かべる。
(良かったな…優希)
夕焼け空の下、山奥にある小さな小屋の中にて、親子の些細なすれ違いは元の軌道を取り戻し、こうして日向と優希のひと夏の大事件は幕を下ろしたのであった。