雲一つない快晴の空の下ギラギラと輝く太陽に照らされて、近衛日向は一人、スマホを片手に時折画面に映る地図に目を落としながら、街路樹の並ぶ歩道を進んでいた。
一見普段通りに見える日向の顔は、しかしよくよく見てみれば緊張からか微かに固い表情が浮かんでおり、その足取りは幾らか重さを感じさせる。
仮に今ここに優希がいたとすれば、こんなに憂鬱そうな日向を見るのは初めてだと、珍獣でも見るような視線を彼に向けるのだろうが、生憎と彼女はアパートの部屋で留守番中である。いや、だからこそ日向も気分が下げ下げになっているとも言えるだろう。
無論、要因は他にもある。待ち合わせの相手を考えれば、彼がまるで連休明けの月曜日に出勤するサラリーマンの様になっているのも、無理は無からぬことであった。
「変に緊張しても仕方ないか、仕方ないよなぁ…」
ため息交じりにそう零す日向はガシガシと後ろ手に頭をかいて、憂鬱な気分を振り払う様に今一度大きなため息をつくと、丁度到着した目的地へと目を向けた。
街の中央から少し離れた辺りにあるそこは、オシャレな現代風のカフェというよりは、木造で落ち着きのある雰囲気を漂わせる喫茶店だ。
入り口の扉を開けて日向が中に入れば、ちりんちりんと備え付けの鈴が来客を知らせる。それに気が付いた店員が日向の下へとやって来て人数を聞くが、途中でそれを遮る声が上がる。
「やぁ、日向君。こっちだよ」
そう言ってテーブル席から日向に向けて軽く手を振るのは、やせ型の眼鏡を掛けた一人の男。
「…どうも、優晴さん」
にこやかな笑みを浮かべる彼に、気まずそうに会釈を返す日向。その視線は、あれから数日が経ったにも関わらず、未だにシップの張られた優晴の頬へと向けられている。
優希曰く食事の際もよく痛みに顔をしかめているとのことで、それを思い出した日向は思わず苦々しく歪めた頬をひくつかせた。
優希と優晴。
この父娘が和解を果たし、小屋を後にした頃には既に辺りに夜の帳が降りて、空では小さく、けれど鮮明に輝く星々が見渡す限りの一帯に散りばめられていた。
優晴の運転する車に揺られること数分程、日向と優希は近衛家へと到着する。
まず最初に家から飛び出して来たのは美鈴だった。車の音が聞こえたのか、いの一番に駆け出て来た彼女は、車から降りた優希へと真っ直ぐに向かい、勢いをそのままに抱き着くとそのまま大泣きを始めてしまった。
それから続くように出てきたのは、竜司と楓の近衛夫妻だ。彼らは、運転席から降りて申し訳なさそうに顔を俯かせる優晴へと近寄ると、無言のまま、竜司、楓の順にとんと彼の胸に拳を当てた。大して力の込められていないそれは、けれどただ殴り飛ばされるよりも強烈な痛みを優晴に科す。
これも報いだと、甘んじて受け入れる優晴だったが、幾年ぶりに真正面から向き合う竜司の『この、大馬鹿者が』と、幾層もの感情に震えた呟きにまた彼の涙腺は決壊し、ぼろぼろと涙を零しながら何度も何度も謝罪の言葉を口にした。
以降の当日の顛末としては、積もる話は有るものの日を改めようという事で、優晴がアパートの部屋へと戻り、優希は勿論近衛家の面々も心労が重なってか、床に就くなり直ぐに意識を落としてしまった。
翌日、改めて近衛家にて話し合いの場が設けられた。
主な話題としては優晴の処遇と、それから優希のこれからについて。とはいえ、前者については最たる被害者である優希が不問としたことで、竜司や楓も異を唱えることも無く、すぐに結論が出た。対して、時間の大半が掛かったのは、後者の優希のこれからについてであった。
まず、優希はこれまで人生の大半を男性として生活してきていて、戸籍やらも当然男性のままとなっている。性別の変化など、大ニュースになる程度には公になっていないのだから、当然法まわり整備など追いついている筈もない。
けれど、この点に関しては優晴が自分が何とかすると、強く宣言した。どうするつもりなのか、それを知るのは当人のみだが、彼なりに考えがある事は明らかであった。
そうして、主たる話題である優希のこれからの生活に話は移った。優希は現在、近衛家で生活している。これは誘拐や周囲への身バレを防ぐ為であったが、しかし今やこれらの必要はなくなっている。
すると当然、優希が近衛家で生活しなければならない理由も無くなるわけだが、ここで優希には二つの選択肢が与えられた。
一つは、このまま近衛家で生活を続ける事。優希が望むのなら、これからも同じ家で生活をしようと、近衛家の面々の総意の下での提案であった。
二つは、元々住んでいたアパートの部屋へ戻る事。危険も無くなった以上、元の生活に戻っても問題ないと言う判断での選択肢だ。
これらの選択肢を提示し、どちらを選んでも良いと前置きした上で優希に選択を促した結果、彼女が選んだのは後者であった。近衛家の面々は少々残念がっていたが、優希が選んだのならと納得し、話し合いはそこで終わりかと思われた。だが、優希はそこに一つ条件を追加した。
『これからはお父さんも一緒に暮らして』
優希のこの発言に誰よりも驚いていたのは、ぴしりと指し示された優晴で、彼はこれ以上無い程に間抜けな顔で固まっていた。
そんなこんなで、更にまた翌日。優希は優晴と共に近衛家を後にして、松江父娘はアパートの部屋に戻ったのだった。
席に着いた日向からテーブルを挟んだ向かい側で、メニューを広げた優晴が機嫌良さげに鼻歌を歌っている。キラキラと目を輝かせるその様は、先日の一件の際と比べまるで別人のようで、憑き物が落ちたという言葉がよく似合っていた。
「いやー、久しぶりに来たけど変わらないものだね。日向君、お腹は空いていないかい。ここのサンドイッチは食べておいて損はないよ。あと、飲み物は何にする?」
「飯食って来たばっかなんで、緑茶だけで」
向けられたメニューに目を通して、端っこあたりに見つけたグリーンティーの文字に日向が答えると、それを聞いた優晴は微妙そうに顔をしかめた。
「…別に良いんだけど、息子だからって竜司君の変な所まで受け継ぐ必要は無いんだよ?珈琲や紅茶が主流の喫茶店に来てまで緑茶って…」
『いや、良いんだけどね?』と繰り返しながら、自分の下に戻したメニューに目を通した優晴は通りかかった店員に声を掛けて手早く注文を済ませる。飲み物だけという事も有り、さほど時間も掛からずに優晴の前にはカップに入った珈琲が、日向の前には湯呑に入った緑茶が並んだ。
安物っぽさを感じさせない、しっかりとした湯呑だ。カップか何かで持って来るものとばかり考えていた日向は、驚いてまじまじとそれを見つめる。
「その湯呑、竜司君があまりに毎回緑茶ばかり頼むから、マスターが特注で用意したものなんだ。ここ、ラーメン屋に次ぐ僕らの第二の集い場だったんだよ」
「へぇ、親父が…。集い場って、普通逆になりそうなもんですけどね、こっちの方が話もしやすそうだ」
「そこは否定しないよ」
小さく笑って、馴染み深いラーメン屋の店主が聞けば男泣き間違いなしの会話を交わしつつ、二人はそれぞれカップと湯呑を傾ける。
穏やかな時間が流れるが、優晴も日向もただ談笑をしに来たわけでは無い。
「…それで、話ってなんすか?」
ことりと湯呑を置いて日向が本題を切り出す。
今日、日向がここに来たのは、メールで優晴に呼び出されたからだ。話したいことがあると、この喫茶店の位置情報だけ送られてきて、日向はまさか優希と喧嘩でもしたのかと若干心配ではあったのだが、優晴の様子を見る限りそうでも無いようだと判断していた。
聞かれた優晴は勿体ぶる様子も無く一つ頷くと、唇を舐めて口火を切る。
「実は、また暫くの間この街を離れることになってね。ほら、前に性転換の実例がニュースで明るみになっただろう?流石にこの段階まで来ると、公にしない訳にも行かなくなってね。一日二日帰って来るくらいはできるだろうけど、君らの夏休み一杯は仕事詰めになりそうなんだ」
あくまで公にせずに研究されてきた性転換に関する技術。しかし、大々的にニュースで取り上げられた以上、余計な不安を煽ることを防ぐためにも、必要なことだと優晴は言う。
それを聞いた日向の感想としては、タイミングが悪い、の一言であった。
「…それ、優希は何て言ってました?」
恐る恐ると言った風に日向が問いかける。ようやく手に入れた家族との日常。それがまた手の内から零れ落ちると知った時の彼女の心情は、日向もあまり考えたくは無かった。
すると案の定、優晴は一瞬遠い眼をする。
「うん、まぁ…、話の直後はすっごく不機嫌になってたね。仕方ないとはいえ、僕の都合でまた離れるわけだし。…でも、だ。何とか説得には成功してね、今は仲良し親子に元通りさ」
そう、打って変わって得意気に言ってのける優晴。
優希が不機嫌になった際には、日向も相応の苦労をしたものだ。それをやってのけた彼に、日向は驚きに目を見開く。
「成功、したんすか。一回へそを曲げたら中々直らないでしょ、あいつ」
「そこは歳の功ってやつかな。僕は知識も経験も豊富だしね。…まぁそんな訳で、日向君には優希の事をお願いしたい。改めて僕がお願いするような事でもないかもしれないけどね」
この通り、と膝に手をついて深々と優晴は頭を下げる。それを受ける日向は、内心この状況について納得がいっていた。
「それで、こうして呼び出したと。わざわざ対面で言う当たり律儀と言うか何と言うか、優希に通ずるものを感じますよ」
「当然、大事な娘に関わる事だからね。因みに未来の義息子と話に行ってくると言ったら、照れたような怒ったような不思議な表情を浮かべていたよ。人間、こんな表情が出来るものなのかと驚いたくらいだ」
からからと笑う優晴の言った未来の義息子の部分はあえてスルーして、日向はまだ少し熱い湯呑を手に取り、一口緑茶をすする。
「…ってか、その大事な娘を男の俺に任せるのに抵抗とか無いんすか。親父の場合美鈴が同じ状況になったら、意地でも自分で何とかしようとしますけど」
「ん?あぁ、確かに竜司君はそうだろうね。かく言う僕とて、どこぞの馬の骨に娘を渡すつもりは無い」
座った眼でハッキリと宣言した優晴は一度間を挟んで、一息を付いてからふと日向へと目をやる。
「元々僕よりも君の方が優希について理解もあって、付き合いも長いだろうし、今更君があの子を傷つけるとは思えない。それに君、優希の事が異性として好きだろう。そんな君なら尚更信頼できる、実績があるからね」
瞬間、日向は周囲の時が止まったかのような心地を覚えた。聞き間違えと断ずるには、あまりにも明確な指摘。動揺に冷や汗をかく日向に比べ、それをした当の本人は何ともない顔で、優雅に珈琲の香りを楽しんでいる。
この時、日向の思考に浮かんだのは否定、誤魔化しの類。けれど、優晴の言葉には確信がありありと含まれていた事もあり、日向はすぐに諦めて認めた。それはもう、この世の終わりレベルで暗い顔をしながら。
「…そうだよ、俺は優希の事が好きだよ。何で最初に本人の父親にバレるんだよ、おかしいだろ」
「これでも、優秀な人材だと自負している。優希にはバレていないから安心していいよ。…ところで、ここからは興味本位なんだけど、何時から好きになったんだい。やっぱり変化の当日に一目惚れ?それとも割と最近かい?」
「嘘だろ、更に恋バナまで加わりやがった…!」
最早日向は頭を抱えるどころではない。これなら十八連で告白し振られる方が、まだダメージが少ないレベルである。何が悲しくて相手方の父親と恋バナなどせねばならぬのか。
しかし、ここまで来れば日向も自棄である。
「普通に初対面っすよ。幼稚園も通ってるかどうかのちっさい頃、そん時に一目惚れした、初恋」
「え、そんなに前なのかい?その時代は僕もあまり覚えはないな…」
流石にこれは予想外だったようで、話を聞いた優晴はぎょっと目を剥いた。
優希と日向の初対面、それこそ十数年前の出来事だ。優希がまだ男に変わる前、日向と親友になる前の出来事。
日向自身、この出来事がつながったのはごく最近であった。優晴の言う通り、それまでは変化の当日の一目惚れだと考えていた。しかし、優希の元の性別を知った時、日向の中で全てがつながったのだ。
それ程までに優希を一目見た時の衝撃は同じもので、感じた恋慕もまた同様のモノであった。
「でも、君はそれを伝える気は無さそうだね。寧ろ、隠そうと躍起になっているように見える、違うかい?」
再び優晴に核心を突かれ、日向の顔を歪む。
「そりゃ、隠すさ。俺と優希は親友なんだ。なのに、姿かたちが変わったくらいで…」
「けれど、最初は恋だったんだろう?一目惚れをして、その後に男の優希と親友になった。その理論だと、恋をしている方が自然だと言えるね」
「それは…」
反論しようとして日向が言葉に詰まる。あまりにも正論だったから、彼自身納得してしまったのだ。けれど、だからこそ自己矛盾に陥る。日向に取って優希は間違いなく親友だった。けれど、最近になって初恋の相手だと知った。
どちらが正しいのか、どちらを選択するのか、手が止まって、分岐路から動けずに立ち止まる。
「答えを出せないのは、君がそれらを全くの別物として見ているからだ。日向君、友愛という言葉は知っているかい」
テーブルの上で両手を組んだ優晴に見つめられ、日向はその妙な迫力に圧倒されつつ無言のままこくりと頷く。
「友愛とは分ければつまり、友情と愛情で友人への愛情だ。そしてもう一つ、より一般的な恋愛という言葉。恋愛とは分ければつまり、恋情と愛情で恋人への愛情。友愛と恋愛、この二つに共通しているのが、共に誰かに対する愛情という事だ。方向性が違うだけの、特定の人物に対する愛情、突き詰めて考えれば根底にあるのはこれだけだ」
「愛情…っすか」
ぽつりと繰り返す日向に、優晴はにこりと微笑み、そっと目を閉じる。
「かく言う僕もね、希とは最初から恋をしていたわけじゃないんだ。最初は普通に気の合う友達から始まって、ある日何となく、彼女への愛が友愛から恋愛へと変わって、結婚するまでに至った」
先ほどまでとは違い、またふわっとした説明に日向は思わず苦笑いを浮かべた。
「何となくって、そんな適当な」
「適当でいいんだよ、何せ僕の彼女への愛は変わらないからね。実際君も知っての通り、今尚僕は彼女の事を引きずっているし、多分死ぬまでずっとこうなんだと思ってる」
彼が優希の性別を変えた件については、まだ日向の記憶にも新しい。開かれた優晴の瞳は悲痛さが滲んでおり、彼の妻への愛情の深さをうかがわせた。
「まぁ、何が言いたいかと言えば。友情も恋情も、自分で好きに決めて良いんだ。その人への愛情が有るならば、そんなもの些細な問題だ。だから日向君、君も誰かを好きだという気持ちがあるのなら、それを隠す必要はない。伝えられるうちに、伝えておきなさい」
通じて解説染みた口調で続けていた優晴だったが、最後だけはまた異なり、人生の先達として、自らの後悔を糧とさせるよう実感の籠った声で言い切った。
「…言葉の重みが違うな、すっげー小さいことで悩んでた気分になった」
「大切な事だよ。あと、これは僕の個人的な願いなんだけどね」
思わず宙を仰ぐ日向。差を見せつけられた、そんな心地を感じる彼であったが、しかし胸の内はすっきりとしていた。
そんな彼に微笑ましさを覚えつつ、優晴は明日への希望に満ちた瞳で日向を見つめる。
「今更父親面をする権利なんて僕には無いけど、父親としては、あの子を任せるなら君が良いと思っている」
「…っす」
あまりにも直球な優晴の発言に、認めてしまったこともあってか日向も照れが出て、何とかといった形で短く返した。
照れを誤魔化すように、日向が緑茶を呷っていると、ふとテーブルの上で優晴のスマホが震える。
「おや、丁度良い時間になった。という事で日向君、優希がそろそろこの店の近くに到着するみたいなんだ、僕は夜までここでのんびりしているから、どうせなら二人でお出かけでもしてきたらどうだい」
「は?いやいやタイミング良すぎ…、図ったな!?」
白々しさを隠す素振りすら見せずに、淡々と用意していたかのような台詞を棒読みする優晴。誰でも気付くようなそれに日向は素で突っ込むが、優晴は聞く耳も持たず、さぁ行った行ったと手を振る。
「ここの勘定は僕に任せなさい。日向君が一緒なら門限も設けないから、多少遅くなっても良いよ。何なら一泊してきても良い」
「俺は一応好きな人の父親と話してるんだよな、疑問に思えてきた」
おおらかすぎると言うべきか、信頼が重いと言うべきか。どちらにせよ、日向にとっては試されている様にすら感じて、素直に受け取り辛いものであった。
とはいえ、優希が来ているのなら断ると言う選択肢は彼には無い。少ない荷物を持って、テーブルを後にして店の出入口へと向かう。そして扉の取っ手へと手を掛けた所、ふと日向は振り返り、ひらひらと手を振って彼を見送っていた優晴はキョトンとした顔で手を止める。
振り返った日向は、優晴へと真っ直ぐに目を向ける深々と頭を下げた。
「ありがとうございました、お義父さん」
聞こえる様にハッキリと口にした後、日向は優晴の反応を待つでも無く、さっさと店を出て行ってしまった。扉が閉まった後、鈴の音が余韻を漏らす。
対して優晴はと言うと、ぽかんと呆けた顔で暫し固まっていたが、すぐに吹き出し笑い始めた。
「ははは、お義父さんか、気が早いな日向君は。これはしてやられた。まぁ、最終的に背中を押したのは僕なんだけど、押しすぎたかな。いやおかしい」
一頻り笑い終えると、落ち着くように優晴は珈琲を口に含んで嚥下する。周囲に客が少なかったのは彼にとっても日向にとっても幸いと言えるだろう。
(『いつか日向が困ってたら助けてあげて』か。娘のお願いだからね、少し話し過ぎたかもしれないけど、これで良い。二人はきっといい夫婦になる、なんて、僕も大概だ)
自分の方が気が早いと自嘲気味に笑いつつ、ふと、優晴はここへ向かうにあたって娘と結んだ条件を思い出す。そんなものが無くても、世話になったのだから助けるのだが、都合が良かった為に条件として呑んだ。それに、娘のお願いの方が、自分の希望と言うよりも格好がつく。
まさか優晴もこんなに早くに達成する事になるとは思わなかったが、結果彼にとっても良い方向に進んだため、優晴は満足であった。
(希、僕は将来あの二人がどんな家庭を築くのか、今から楽しみでならないよ)
「あ、日向!」
日向が店の外へ出ると、丁度そんな声が掛かる。彼の視線を向けた先では、可愛らしく着飾った優希が、日傘を差したまま片手を挙げて手を振っていた。
その姿を見て、日向はどくりと自らの心臓が高鳴るのを感じる。それと同時に、彼女を愛おしく思う自分の気持ちが本物なのだと、確信を持った。
「あれ、日向、どうしたの?」
いつまでも返事を返さない日向に、訝しんだ優希が近づいて顔を覗き込むと、いきなりドアップに現れた想い人の顔に、日向は思わず仰け反った。
「うおっ、いや、何でもない何でもない。ちょっと考え事してただけだって」
「ふーん、そう?なら良いけど…」
日向の様子に違和感を覚える優希であったが、本人が何でもないと言うならと引き下がった。
「おうよ、取り合えずどっか行こうぜ」
そうして立ち話もなんだという事で、二人は取り合えず歩こうと道沿いに並んで歩き始める。チラリと歩きながら日向は優希の顔を伺うが、日傘に隠れてしまっていた。けれど、優希は話をする時は日傘を上げて日向の顔を見る。そうして目が合うだけで、日向もまた心が弾ませていた。
「…それで日向、お父さんとは何の話をしてたの?」
ふと優希が問いかけたのは先ほどの日向と優晴の集まりの件で、日向は慎重に言葉を選んで答える。
「優希の事を任されたんだよ。優晴さん、また家離れるんだってな」
日向がそう言った途端、優希はぷくりとその頬を膨らませた。明らかに不本意ですと言った彼女の様子に、日向が首を傾げる。
「あれ、納得してたんじゃねぇの?」
「だって、折角帰って来たのにすぐに出て行くって…」
そうして拗ねる様はまるで幼い子供のようで、珍しい彼女の姿に思わず日向は頬が緩むのを感じた。
「…でも、一先ずはこれで良かったのかも」
「は、何で?」
だが、続く優希の言葉に日向はキョトンと目を瞬かせる。不満ありと表情でも示していたにも拘らず、しかしこれで良いとはどういう事かと、日向の中で疑問が渦巻く。
日向が反射的に問い返せば、優希はぽつりぽつりと理由を話し始めた。
「今の私ね、一度に色んなものが手元に来てて、あれもこれもって全部に手を伸ばしてるの。だから、これで一つずつ丁寧に拾い上げられるのかなって。…ねぇ、日向。私、いつの間にこんなに欲張りになったのかな」
そう言って優希は顔を俯かせた。
彼女が言わんとしていることは、日向にもいくらか理解できた。最近の彼女の環境の変化を鑑みれば、日向にも思い当たる節はある。
その上で、日向は彼女に告げる。
「いや、普通じゃね?寧ろ元々が無欲過ぎたんだから、そう考えるんだって。だから気にする必要無し、考慮の余地は無し、俺が許さない」
肩を竦めた日向がにやりと笑う。その笑みを優希は呆けた様に見つめたかと思うと、やがて相貌をふにゃりと崩して、くすりとした笑い声を漏らす。
「ほんと、日向って優しいよね」
彼女の表情が晴れた事を確認して、安堵しつつ日向はいつもの様に傲慢さを振るう。
「まぁな、俺より優しい人間なんて世の中を見ても中々見つからないぞ」
「うん、そう思う」
いつもであれば呆れるか適当に流されるところ。けれど今回は違った。
表情をそのままに、まるで本当にそう思っているかのように肯定されて、その信頼に満ちた彼女の表情に、日向の顔に熱が籠った。
「んだよ、調子狂うな…」
「もしかして照れてる?」
「うっせうっせ、一旦こっち見るのを止めろ、繰り返す、こちらを見るのを止めろ」
珍しいものを見たとキラキラと目を輝かせる優希の視線から逃れるよう、日向は必死にそっぽを向く。その様もまた珍しく、優希の関心を引いた。
「日向、可愛い」
ぽろっと零れ落ちた優希の本心。けれど、その一言はモノの見事に日向のプライドを逆なでした。
しかも、今の日向は彼女への気持ちを認めている。その為に、彼の胸に灯る恋心は、このまま引き下がる事を良しとはしなかった。
「…お前がその気なら、俺ももう遠慮しないからな…」
そう言い切るや否や、優希が反応する間も無く、そっと日向は彼女の空いている手を握った。痛みは感じない様、けれど振りほどかれない程度には強くその華奢な手を日向の手が包み込む。
「…ふぇ、ちょ、日向!?」
あまりに唐突、かつ予想外の出来事に動揺する優希だが、日向は意に介す様子も無く、また話そうともしなかった。
代わりに瞬時に顔を真っ赤に染めた優希と目を合わせると、彼もまた若干顔を赤く染めながら宣言した。
「優希、今日はこのままデートしようぜ」
手を繋いだまま二人が向かったのは、前回と同様のショッピングモールだった。
道中で、優希は日向にやっぱり手は離そうと何度か進言したのだが、日向の確固たる決意が曲がることは無く、到着する頃には顔を赤く染めたまま俯いて彼の後を歩いていた。
夏休みという事も有り、モールの中は毎日が学生で賑わっている。するとすれ違う人混みの中にも、幾らか見知った顔が見える事も有り、そんな彼ら彼女らは優希と日向、そして繋がれた二人の手を見て総じて目を丸くしていた。
知り合いだけではない、周囲からは二人へと向けられる視線は大概が微笑ましいものだった。
「ひ、日向、これじゃ周りの人に誤解されちゃうから…!」
「いんじゃね?誤解されてもさ」
抗議する様に優希が声を掛けるも、日向からはにっと笑みを返されるのみで、手が離れることは無い。
もう優希は訳が分からなくなってきていた。
とはいえ、続けていれば耐性もつくと言うもの、もしくは夢見心地になって感覚が麻痺したのか、どちらにせよ二人の中にも楽しむ余裕というものが生まれて来て、会話も弾みだす。
ウィンドウショッピングをしたり、靴や服を見て回ってあれこれ言ってみたり、ゲームセンターでクレーンゲームの商品を見て回ったり。
優希も前回の様に泣くことは無かった。総じてずっと、二人共笑いの絶えないその時間は、通常よりも更に早い速度で二人の間を過ぎていった。
ショッピングモールからの帰り道に付く頃、二人の手の体温は混ざり合い繋いでいる事さえ忘れさせるほどに一体化して、二人の距離は腕が触れ合う程近づいていた。
「にしても、楽しかったなー!まだまだ遊び足りないくらいだ、優希はどうだった?」
「うん、私も楽しかった…けど」
満足そうに手を繋いだまま器用に伸びをする日向。彼に問いかけられた優希は、ふと視線を落として、しっかりと繋がれた二人の手を見てから続ける。
「なんで、手を繋いだの?」
言いながら探る様に、上目遣いで優希は日向の表情を伺う。確かに、よく突拍子も無い事をする日向だが、しかし今回のような事は初めてで、優希は彼の意図が今一よく理解できていないかった。
そんな彼女の視線を受けて、日向は数秒程考え込んでから口を開く。
「いや、優希が恥ずかしがるかなって」
それを聞いて、優希はぴしりと表情を凍り付かせた。
優希の中にも少し期待している部分があったのだろう。当然だ、突然手を繋がれたのだから、多少は期待する。そして、その上で得た答えがこれである。
「…は、恥ずかしかったよ!…え?本当にそれだけの為だったの…?私を、恥ずかしがらせる為…?」
「うん、そんだけだけど」
無論それだけではない。けれど、如何に日向とてそれを馬鹿正直に言う筈も無かった。
だが結果として肩透かしを食らった優希は、ずんと肩を落とし脱力したように大きく息を付いた。
「もう、本当に恥ずかしかった。多分日向の知り合いとかにも一杯見られたし…」
様々な感情が入り混じれ、恨みがましい視線を向ける優希。だが、日向は意に介す様子も無く、そっと視界に入りやすいように繋いでいる手を胸元の高さまで上げる。
「手つなぐの嫌だったか?それなら一言嫌って言ってくれれば、いつでも離すけど」
じっと試すように日向は優希を見つめた。その揺れる瞳は、優希が今まで見て来たどれとも異なっており、感じる気恥ずかしさから彼女はそっと視線を逸らした。
「嫌…じゃ、なかったけど…」
「…そっか!なら帰るまでこのまま行こうぜ」
そうして断り切れずに、結果日向に振り回されてばかりな優希。それでも、振り回されるその時間は、彼女にとって幸せな時間でもあった。
日向が手を引いて、優希が追いかけて。二人の始まりの関係ともいえるそれは、今や彼らの関係の基盤となっている。互いにそれは承知の上で、友愛から恋愛に変わっても変化する事は無かった。
暫く、二人は無言で歩き続けた。けれど、そこに気まずさは無い。二人きりと言う時間を、ただ感じていた。
「…そう言えばさ、優希、なんか重要な話って何だったんだよ。ほら、前出掛けた時の、色々あって有耶無耶になってたけど」
「へ?…あ、あれは…」
優希が話したいことがあると、日向をアパートの部屋に呼んだ際の事だ。その時は優晴が優希を攫ったことで流れてしまい、結局今の今まで二人の間で話題に上がる事すらなかった。
優希も言われて思い出したのか、日向に聞かれてあからさまにマズイと言った風な表情を浮かべる。彼女は告白をしようとしていたのだが、タイミングを逃してしまった今、どう説明したものかと言い淀んでいた。
「アパートの部屋の方が良ければ、そっちで改めて聞くけど」
「う、ううん、大丈夫。ちょっと悩みがあったんだけど、今はもう大丈夫だから」
ぶんぶんと首を横に振る優希に、そう言う事ならと日向も引き下がった。難を逃れて優希はほっと胸を撫で下ろすも、これはこれで良かったのかとふと疑問に思う。とはいえ、変に進めようとして変に道を踏み外すよりはマシかと、一人納得して日向との会話へと戻った。
「ね、夕飯はどうしよっか。うちで食べて帰る?それとも外食?」
「んー、そうだな…。あ、じゃあ久しぶりにラーメンはどうよ。おっちゃんがサービスしてくれるって言ってたし、そろそろ歳だから、早く行かないと言ったこと忘れて無効にされちまう」
思い出したように言う日向のあまりにもな言い草に、さしもの優希も店主への同情が絶えない。
「でも、ラーメン良いね。ちょっとリベンジしたかったから、丁度いいし。…お店に入る前には絶対に手離してね?」
「分かってる分かってる。そんなことしたら本気で厄除けされかねない」
そうして雑談を交わしながら、微かに茜色の混ざり始めた空の下、優希と日向は馴染のラーメン屋へと足を速めた。
がらりと音を立てて入り口が開ければ、店主のいらっしゃいませの声が店内に響く。
「おう、ひな坊にゆう…ユキちゃん!たく、仲直りに何日かけてんだ、お陰でこちとら夜しか眠れなっかったじゃねぇか!」
二人の姿に気が付いた店主が喜色満面で、豪快に笑いながら、いつもの席へと二人を手招きする。
この張り切り具合から言って、こういう時は大抵店主は作りすぎる。サービスが注文品を軽く超える事すらザラである。
「これは、覚悟しないとかもな…」
「一応私、前回でも食べきれなかったんだけど…」
戦慄の表情で、苦笑いを浮かべて目を見合わせつつ席についた優希と日向は、いつもの様に注文をする。
「おっちゃん、俺はこってりの大盛ね」
「私は、あっさりのお…じゃなくて、小盛で」
「あいよ!」
危うく二の舞になるところを何とか回避して注文を済ませ、改めて日向は見慣れた店内をざっと見まわす。
何も変わらない。最後に日向が一人で訪れてから数日だ、大きな変化があるとは言えない期間だ。そして、最後に優希と共に訪れたのは約二週間ぶり。優希の身体が変わって、二人共訳も分からぬままラーメン屋でラーメンを食べた。その思い出が今や日向には遠く彼方の出来事である様に思えた。
「…なんだか、凄く安心するね」
「分かる、久しぶりに帰ってきた感があるよな」
まさか同じことを考えているとはと、日向と優希は顔を見合わせてくすくすと笑みを漏らす。
そうこうしている内に、店主が出来上がったラーメンをそれぞれ『おまちどう』とお決まりのセリフと共に二人の前に置く。
日向も優希も早速箸を取り、手を合わせてから食べ始める。
「やっぱ、こってりに限るよな、このスープの絡まり具合が堪らん」
「えー、あっさりだよ。こってりはお腹にずっしり来るでしょ?」
二人、カウンター席並んでラーメンを啜り、それぞれの意見を言い合う。どうしようもない程に変わらないこの一時が、日向はどうしようもない程に愛おしく思えた。
(そう言えば、親父はここでお袋に告白したんだったよな…)
ふと日向は以前店主から聞いた話を思い出す。
どうしてこんなところでと、その時の日向は疑問だったが、今はその理由が分かる気がした。
いつも通りの日常がここにあるからだ。気取ったデートみたいな特別でも無く、度肝を抜かれるような大事件の後の様な特別でも無く。ただいつも通りの幸せが当たり前にそこに在る日常の中で、これからも共に同じ幸せな日常を歩んでいきたいから、ここで告白をしたのだ。
「…なぁ、優希」
「ん、なぁに、日向」
ぽつりと声を変えれば隣から返事があって、日向が横を向けば顔を上げて笑顔を向ける優希がいる。愛しい彼女が、これからもずっと一緒に居たい彼女がいる。
なら、日向が起こすべき行動はただ一つだった。
「大好きだ、俺と結婚してくれ」
「………」
目を見つめての真剣な日向の告白、するとそれを聞いた途端、ぴたりと優希の動きが止まって動かなくなってしまう。
「…あれ、優希?おい、聞こえてるか?」
とんとんと肩を叩きながら日向が声を掛けると、ようやく優希ははっと意識を取り戻して、すぐに目を白黒とさせる。
「え、ひ、ひなた、今、何て…」
「ん?だから、大好きだ、結婚してくれって」
「だいす…!?」
要望に応えて日向が繰り返して言えば、優希の混乱はいよいよ頂点へと達した。すると、人の感情と言うのはやはり一周回ると冷静に戻るようで、何が起こったのか分からないと言った顔をしつつ、優希は何とか日向へと向き直る。
「…なんで、今言ったの?」
それで出てきたのがそんな切実な疑問であった。
「いや、俺達の幸せはこの日常の中にあるんだなって思ってさ、だから日常の中で告白するかって」
「だからってなんで食べてる途中、食べ終わってからでも…」
「それは本当に悪いと思ってる、でも感情を抑えきれなかったんだよ」
「………」
日向が応えている間にも、優希の表情が目まぐるしく変化し、喜んでいる様な怒っている様などちらとも言えない、両方が同居したような顔で葛藤するように優希はプルプルと震える。
成程、優晴さんが言っていたのはこれか、と呑気に日向が考えていると、やがて葛藤も終えた優希が、大きく、それはもう大きくため息をついた。
「…日向って、本当にバカだよね」
そうして続いたセリフは、肯定でも拒絶でも無く、聞き慣れた罵倒。その表情は呆れたような力の抜けたもので、彼女の感じる途方もない虚脱感をうかがわせる。
「バカ、バカ日向」
罵倒をしながら、俯いて顔を隠した彼女は日向の胸へと額を押し付け、身体へ腕を回す。
「え?おい優希…」
「私、日向に嫌われるかもって思いながら、頑張って告白しようとしてたのに…」
日向に密着した身体から伝わって来る震え。いつの間にかその声は涙ぐんでいて、しがみつくその手にはぎゅっと力が込められている。
驚いたように目を見開く日向。けれど、すぐに優しく表情を崩すと、彼もまた彼女の背へと腕を回した。
「悪かったって、でも、この役目だけは誰にも譲りたくなかったんだよ」
「役、目…?」
途切れ途切れな声で繰り返しながら、優希が涙に濡れた顔を上げる。その顔はいつの日かの彼女と重なるが、その涙の違いくらいは日向にも理解できた。
「そ、お前の手を引くのは、いつだって俺の役目なんだ」
「日向…」
にっと不敵な笑みを浮かべて見せる日向。彼はいつだって、こうして笑って見せる。優希の為なら、笑って見せるのだ。
「それよりさ、告白の返事はまだお預けか?」
「あ…、えっと…」
日向に言われて、未だ自分が応えていない事に気が付いた優希が、少し悩むそぶりを見せ、日向をドギマギさせる。ここまでやって振られたら、それは切腹ものである。日向の精神は確実に崩壊する。
ただ一つ言えるとすれば、そんなギャグ展開が、この流れで起こる筈もない。
「私も、日向の事が大好きです。結婚してください」
「あぁ、勿論…」
優希の返事に、日向が答えながら感極まって彼女を抱きしめようとした瞬間、店内をワッと試合中の球場もかくやと言うレベルの歓声が埋め尽くした。
あまりの声量に二人が驚いて横を見てみると、食事中だった筈の他の客達や店主が席の方へと出て来て、一緒になってガッツポーズを決め、抱き合っていた。
「やったなひな坊!男見せやがった!」
「祝いじゃ、祝いじゃ!」
「婆さん、寿司じゃ寿司をとれい…!」
当人たちよりもすさまじい喜びように、さしもの日向も少し引き顔である。
「…なんでこんな大騒ぎになってんだよ、ってかやけに静かだと思ったら、全員聞き耳立ててたのかよ」
「日向がこんなところで告白するから…」
「うん、若干悪かったと思ってる。これは後が怖いな…」
二人の懸念通り、案の定そこからラーメン屋ではどんちゃん騒ぎのサービス祭りで、大量の餃子やら炒飯、果てには誰かの注文した寿司までもが並べられ、結局二人が解放されたのは、それから一時間が経過した後であった。
店を出るころには、既に夜空には星が瞬いていて二人は暗い夜道を隣り合って歩く。
「サービス凄かったな…まさか全て無料とは…」
「ね、と言うかお寿司なんてどこから出前取ったんだろ…近くに無いのに…」
街路灯の光はぽつぽつとあるが、そもそもが歩き慣れた道だ、星明りすらなくとも感覚だけで進むことが出来る程のそこを、二人は談笑しながら、優希のアパートへと向かっていた。
「そいやさ、付き合いだしたこと、美鈴には優希から伝えるだろ?」
「うん、私から伝えたいな。明日、日向の家に行ってもいい?」
「勿論、朝に迎えに行く」
「あはは、急いで準備するね」
ラーメン屋から優希のアパートまではそこまで離れていない。話ながら歩いていれば、それこそあっという間に到着してしまう。
見慣れた建物の前、二人はつないだ手を離しがたくて、ついその場に立ち止まる。
「日向、遅くなっちゃうよ」
「そだな、分かってるって」
口では互いに離れようと言ってもその手は繋がったままで、やがてゆっくりと名残惜しむ様にゆっくりとそれは解けて行って、最後の指の端が離れてようやく、二人は体を離す。
「じゃあ、優希また明日」
「うん、また明日」
いつも通り、以前のあいさつを交わして背を向ける。また明日、会えるから。その希望だけを胸に秘めて、二人の距離は離れて。
「…日向!」
「…優希!」
多分、二人の声は同時だった。
呼ばれるより早く、呼ぶよりも早く振り返って距離を縮めて、抱きしめた。それでも尚、二人は距離を縮め、触れるように唇を重ねる。
繋がったのはほんの一瞬だけ、けれど余韻も含めてその時間は二人にとっては永久にも感じられるほどに、幸せに満ちていた。
多幸感にくらくらとする意識で、日向と優希は互いを見つめて微笑み合う。
「日向、大好きだよ。改めて、これからもよろしくお願いします」
「あぁ、俺も大好きだ、優希。こちらこそ、これからもよろしく」
それは今までの関係性への決別の様でいて、明日からの関係性への希望でもあった。
友愛から恋愛へ、関係性の変わった日向と優希の日常はきっとこれからも続いて行く。今までと変わらない、ありふれた会話をして、昨日と何が違うのか対して分からない、けれどどうしようもなく愛おしい、そんな日々が続いて行く。
これにて『友愛分かたれ恋となる』終了にございます。
ご愛読いただいた皆様、誠にありがとうございました。