蝉の音の鳴り響く一本道を歩くこと数分程、優希を背負う日向は目的地である見慣れたラーメン店の前に到着していた。
冷房によって冷えていた体もすっかりと熱が籠り、それを逃がすように日向の額には微かな汗が滲んでいる。けれど、いくら現在の優希が軽いとはいえ人一人を背負ってきたわりには息切れも無く、余裕すら感じさせるその表情は、聞けば日向は顔を顰めるであろうが、偏に日頃の鍛錬の賜物であった。
「優希、降ろすから靴落としてくれ」
「ん」
流石に素足のまま地面には下ろせないと、日向が背中の優希に声を掛ければ、短い返事と共に優希は手に持っていたスニーカーを地面に落とした。
それを確認した日向はゆっくりと腰を落としていき、優希が靴に足を通すのを確認してから体を離す。
「ありがと、日向」
「こちらこそありがとうございました。…それよりどうよ、歩けそう?」
「なんで早口…大丈夫そうだけど、やっぱり靴のサイズは合わないかな。結構ぶかぶか」
そう言って軽く足を上げる優希。彼女の履いている靴は辛うじて引っかかっている程度で、余程強く結んでおかないと、そのまま足を振っただけで飛んで行ってしまいそうだ。
ただでさえ動かしづらい体にサイズの合わない靴。これなら移動は全て自分が運んだ方が良いだろうかと日向が考えていると、不意にくぅとつい先ほども聞いたような微かな声が優希の腹から鳴り、自然と二人の視線がそちらへと向く。
「さっきも思ったけど、随分と可愛く腹が鳴るようになったな、優希さんや」
「うるさい、あんまり揶揄う様だとラーメンに唐辛子振るからな。…それより早く入ろうよ、お腹空いた」
揶揄い交じりの笑みを浮かべている日向を置いて、優希は先んじて店の扉を開けて中に入っていき、そんな彼女を追って日向もまた店内に入る。
少し古びた店内は昼時なこともあり、殆ど常連だがそれなりに人で賑わっている。そんないつもの様にわいわいがやがやと騒がしい店内だったが、しかし優希を連れ立って入ってきた日向の姿を捉えるや否や恐ろしいほどにしんと静まり返った。
「…え、なに?」
唐突すぎる店内の温度の変化に、当の視線を向けられている日向はぽかんとして困惑気味に声を上げる。
そんな日向の疑問に答えないまま、顔見知りの常連客達は日向を見て、そしてすっとその視線を彼の隣に立つ優希へと移し、再び日向へと視線を戻す。
「ひ…ひな坊が女連れて来たぞーっ!!」
妙な緊張感が張り詰める中、やがてふと誰かが声を漏らしそんな叫び声が響いた途端、堰を切ったように店内は阿鼻叫喚へと様変わりした。
「あのひな坊が…?あの残念無念また明日男のひな坊が…?」
「災いじゃ!天変地異が起こるぞー!」
「あぁ、最後に婆さんの手料理が食いたかった…」
「南無阿弥陀仏、南無八幡大菩薩!!」
頭を抱えわなわなと体を震わせる者、恐怖に慄く者、悔いを口にする者、必死に念仏を唱える者。反応はマチマチである彼らに共通するのは、目の前の現実への驚愕と畏怖であった。
「…なぁ、優希。俺が女子と一緒に居ることってそんなに驚くような事?」
「うん、控えめに言っても大事件だよ」
即答である、考える素振りすら見せない即答である。
余りにも無慈悲な返答に「そっかー…」と軽く現実逃避気味に呟く日向の姿は何処か哀愁にまみれていた。
日向とて青春真っ盛りの高校生だ。いくら自業自得とは言えども、女っ気の無さがここまで浸透していれば、少なからずの衝撃は受ける。
(告白とか、控えようかな…)
こちらがつい先日述べ18人に告白を実行した人間の思考であった。
流石に日向もやりすぎたかなとは考えていたのだが、しかしどうしても内なる衝動を抑えることが出来なかったのだ。
とはいえその結果がこれなのだから、日向としても彼らの反応は甘んじて受け入れる他無いのだろう。諦観に息を吐きつつ、日向は客たちへと向かって口を開く。
「こいつは夏休みでこの辺に遊びに来た親戚で、別に彼女とかじゃないっすよ。名前は…えっと、ユキだな、近衛ユキ」
「あの、ユキです。よろしくお願いします」
日向に紹介されて、おずおずと優希は偽名を名乗って見知った顔ぶれへとぺこりと頭を下げる。これは店へと到着する前に二人が打ち合わせていた外部への説明だ。
あの臨時ニュースは全国放送でテレビに流れた。それだけでなくネット記事、新聞記事と多岐にわたって発信され、多くの人の目に触れた。それ故に、この店内にいる客たちにも当然周知されており、仮に日向が彼女の事をいつもの様に優希と呼んで接してしまえば、松江優希が例の性転換に巻き込まれたと気づかれてしまう。
近衛家のような説明の必要な身内なら兎も角、極力優希の変化を秘匿する以上、それは避けねばならぬ事態であると同時に、不用意に周囲を巻き込みたくはないという二人の本音でもあった。
「親戚…」
店内の客たちの内の一人が呟き、優希の元へと彼らの視線が集まった。
やはり無理があったかと、緊張に二人の鼓動が早まっていく。備え付けのテレビの音のみが店内に流れる中、客たちはジッと優希の事を見つめ続け、そして
「…なんでぇ、親戚かよ!てっきりあのひな坊に女が出来たのかと思っちまった!」
店主が言うのを皮切りに、どっと豪快な笑いが沸き起こる。そんな彼らの反応に、優希と日向はほっと顔を見合わせて安堵の息を吐く。
「そりゃそうだ、ひな坊に彼女なんかできる筈が無かった!」
「…ん?」
がしかし、続いた店主の言葉を受けて日向の表情がぴしりと音を立てて固まった。
「少し考えりゃ分かるのにな、いやぁ変な勘違いして悪かったなひな坊!」
「可哀想になぁ、ひな坊も好きでモテない訳じゃなかろうに。おっと、そんな話をしてる内に餃子が冷めてしまう」
「なるほど、儂には婆さんがいるだけ恵まれておった。帰り際に花でも買って帰るか」
「これ、相手が居ない日向君の前でよさないか、余計惨めになるだろう」
そして再びどっと笑いの沸くテーブル席に座る客たち。彼らの中で、日向に女っ気がなく残念な男であるということは共通認識であった。
「…なぁ、優希。これ俺怒っても良いよな、持てる限りの技術をぶつけても良いんだよな」
「どうどう、皆悪気は…有ると思うけど、流石にそれはまずいから。だから構え解いて、にじり寄ろうとしないで」
額に青筋を浮かべた日向を苦笑いを浮かべた優希が押しとどめる。優希がどちらかと言うと客たちの意見に同意しているなど、口が裂けても言えぬことであった。
「ちぇー、何だよみんな揃ってモテないモテないって。別にまだ本気出してないだけで、俺だってその気になれば彼女の一人や二人くらい…」
店内に入った二人は空いているカウンター席へと進み、手早く注文を済ませたのだが、日向はテーブルの上に肘をつき、不服そうに唇を尖らせてぶつぶつと意味もない強がりを零し続けていた。
「もう、そろそろ機嫌直してよ日向。今日もまたラーメン奢ってあげるから」
「…ん、良いの?やりぃ!やっぱ持つべきは親友…親戚だなー!」
見かねた優希からの奢りと言う言葉にテンションを上げスルリと口を滑らせかけた日向が慌てて言い直し、そんな日向を優希が呆れたような目で見る。まだまだ慣れるのには時間がかかるようだ。
「いやぁさっきは悪かったなひな坊!」
二人が談笑していた所、不意にカウンター越しの厨房からそんな声がかかる。声の主は、先ほど真っ先に声を上げたこの店の店主であった。
「ホントだよおっちゃん。お陰様で俺のガラスのハートにヒビが入ったんだけど…落とし前はどうつける?」
「そうだな…このサービスの餃子で手を打ってはくれんか?」
悪い笑みを浮かべるゆすりを掛ける日向に対して、店主もまた同じような笑みを浮かべる。そして店主が差し出したのはほくほくと湯気を立てる餃子が六つ程乗った小皿で、それを目にした途端、日向はぱっとその瞳を輝かせた。
「おっちゃん分かってるなー!打つ打つ、全然手を打つ!」
「はははっ、相変わらず現金なやつだな!そっちの嬢ちゃんと分けて食いな」
「おう、ありがとうおっちゃん!」
「あ、ありがとうございます」
普段通りな日向に比べて、ぺこりと頭を下げる優希の胸のうちは緊張に満ちていた。
気の良い近所のおっちゃんと言った風貌の目の前の店主は勿論の事松江優希の知り合いでもあり、そんな彼に初対面の体で話すことへの罪悪感、初対面で話されることへの軽い寂寥感と、それらがごちゃ混ぜになり緊張という形で表れているのだ。
そんなおどおどとした優希の態度を見て、店主は感慨深そうにしきりに頷く。
「ひな坊に比べて嬢ちゃんは落ち着いてるな。…ところでひな坊、今日はゆう坊はどうしたんだ?」
不意なその問いに、二人の心臓がどくりと高鳴った。
「…あー、実はこいつちょっと人見知りでさ。優希とは会った事ないから、今日は俺だけで街を案内してんの」
「はぁはぁ、なるほどなるほど。まぁ、街の案内位ならひな坊が居れば十分だわな。嬢ちゃん、この街を見てどう…」
怖がらせないようにか、日向と話す時からはいくらか落ち着いた声音で優希に話しかける店主は自然と正面から彼女と向かい合う形となる。そうして、今日初めて優希の顔を間近で見た店主は、不意に言葉を途切れさせ、驚きに目を見開いた。
正体がばれたか、そんな疑念が二人の脳裏に浮かぶ中、店主は目を瞬かせながら改めて口を開く。
「…なぁ、嬢ちゃん。あんた、この店に来るのは今日が初めてか?」
「は、はい…、そう、ですけど」
ぎこちない返事をする優希を、店主は尚もジッと見つめて何やら考え込むように顎に手を当てた。
「その顔、見覚えがあるような気がするんだがな…おかしいな、何処で見たんだったか…」
現在の優希の顔は、男だった時の名残こそあるものの毎日と言っていいほど顔を合わせている日向が殆ど勘でしか判断ができない程には変わってしまっている。
故に、顔を見られた程度ではばれないと二人は判断したのだが、しかしそれでも見る人が見れば分かってしまうものか。そんな焦燥感にも似た感情を抱きながら、このままではまずいと考えた日向は優希と店主の間に割って入る。
「おいおいおっちゃん、いくらユキが可愛いからってナンパか?奥さんに言いつけちまうぞー」
「おっとひな坊それだけは堪忍してくれ、嬢ちゃんもいきなり悪かったな、おっちゃんの勘違いだったよ。いやはや、年は取りたくないもんだ」
「いえ…お…私は別に」
後ろ手に頭を下記ながら申し訳なさそうに言う店主に、優希は口をついて出そうになる元の一人称を改めつつ、両手を横に振って言外に『気にしないでください』と伝える。
店主はそれきり作業に戻ってしまい、優希と日向は辛うじてばれなかったことに二人密かに安堵の息を吐いた。
「日向、これ大丈夫かな。今は良かったけど、他の人に気付かれたり…」
「多分、おっちゃんが気づかないんだったら他に気付く人は居ないだろ」
この周辺で優希に接点のある人物の内、近衛家の面々の次に当たるのが先の店主だった。元々優希は人づきあいが活発な方でも無い為、他に注意するべき人物というのも挙げ難い。
なら、必要以上に心配することも無いだろう。そんなことを考えながら、日向はちらりと横に座る優希へと目を落とす。
変わり果てた親友の姿、けれど彼女の細かな仕草が話す声の抑揚が逐次日向に松江優希の面影を垣間見させている。恐らく、日向が優希の事に気が付けたのもこれが大きかったのだろう。日向は普段から優希の事をよく見ており、それが今は項を奏していた。
「はいよ、お待ちどう!」
それから少しして、快活な声と共にどんと二人の前にどんぶりが置かれる。二人が注文したのはいつも通り優希があっさりスープのラーメンで、日向がこってりスープのラーメンだ。
先ほどサービスで貰った餃子も含めて、ちょっぴり贅沢な気分になりつつ二人は手を合わせ箸をとった。
「…優希、大丈夫か?」
心配そうに声を掛ける日向の視線の先には、箸を持ったまま石像のようにぴたりと動きを止める優希の姿があった。
「う、うん、大丈夫」
「そうか?その割には全然箸が進んでないけど」
固い表情で頷く優希。食べ始めから五分が経過した頃から彼女の箸の進みが悪くなっていたが、遂には全く動かなくなってしまっていた。いつもであれば既に食べ終えている時間。しかし、優希の前に置かれたどんぶりには未だ半分以上の麺が残っている。
「そりゃ、体が小さくなったら胃も小さくなるか。優希、無理なら俺が…」
「いや、大丈夫だから。俺、食べれるから」
頑なに首を横に振る優希に、日向は困ったように頬をかく。
普段は落ち着いている優希の悪癖と言うべきか、時折彼女は妙に意固地になってしまうことがある。よく言えば我慢強いとも取れるが、無理をしてまでそれを貫き通そうとするのだから、日向もこれには手を焼いていた。
彼女がこれ以上食べられないのは一目瞭然であるが、かと言って簡単に諦めもしないだろう。どうしたものかと日向は頭を悩ませ、そしてすぐにぴんと良い案を思いついた。
「優希、ちょっと前失礼」
一言断ってから日向はひょいと優希の前にあるどんぶりを取り上げ、代わりにもう殆ど麺も残っていない自らのどんぶりを彼女の前に置く。そのあまりの早業に、何が起こったのかと優希は目を瞬かせた。
「え、ちょっと日向…!」
「いやー、見てたら無性にあっさりラーメンを食べたくなってさ。だから俺のこってりラーメンと交換しようぜ」
状況を飲み込んだ優希が抗議してくるも、日向は知らぬ存ぜぬで用意しておいた言い訳を捲くし立てる。殆ど棒読みのそれに優希も日向がわざとそうしたのだと気が付いた。だが、自分でももう限界だとは分かっていただけに、これ以上の反論など出来る筈も無かった。
「…ごめん」
「なんのことだ?寧ろ悪いな、奢ってもらうのに俺ばっかり良い思いしてばっかで。今度返すから、また貸しにでもしといてくれよ」
代わりに口をついて出たその優希の謝罪に対し、日向はお決まりのにやりとした笑みで返してから、再び箸を進め始める。
そんな日向を見て思わずキョトンとする優希であったが、次の瞬間その顔には自然と笑みが零れていた。
(本当、敵わないな…)
口には出さず内心でそう呟く優希もまたこのくらいならと目の前のどんぶりへと向き直る。
「久しぶりに食べたけどさ、あっさりも結構いける。まぁ、一番はやっぱりこってりだけどな」
「何言ってるの、確かにこってりも美味しいけど一番はあっさりだよ」
ラーメンを食べながら、飽きもせず何度目ともなるそんな不毛な言い合いを続ける。どれだけ姿が変わってもここだけは変わらない様で、優希はそんな些細な気づきに心が温まるのを感じていた。
「…ね、日向」
「ん?」
ラーメンに目を向けたまま優希が声を掛ければ、日向もまた同様に返事を返す。
「ありがと」
「…どいたま」
一言同士の短い応酬であったが、込められた意思はしっかりと互いに伝わっている、そんな二人であった。