昼食を食べ終えた美鈴と合流した優希と日向は、早速新たな優希の部屋に向かった。窓を開けて軽い掃除をしたり、必要な物を運んできたり。途中、美鈴による第二の優希着せ替え大会が開催されたり、あれやこれやと部屋の準備が完了する頃には、時計の針は既に午後の6時を指し示していた。
「これで準備は出来ましたけど、思ったより時間かかりましたねー」
美鈴はそう言うと、ぐっと天井に腕を向けて猫のように伸びをする。そんな彼女に日向は一つ大きく息を吐いた。
「そりゃ、お前が急に優希の服を選び出してまた増やしたりしたからだろ」
「何よ、兄貴だってこっちの服の方が良いって口出して来た癖に…、優希さんはどう思います?」
「どちらかと言うと二人の共犯かな…」
覇気のない声で両成敗を言い渡すのは、渦中に置かれていた優希であった。美鈴のみならず日向まで加わって二人の着せ替え人形にされたのだ、彼女は普通に、ただただ純粋に疲弊していた。
「…美鈴、そろそろお袋が帰ってくるんじゃないか?」
「え?あ、ほんとだ。それじゃ、アタシはちょっと夕飯の準備に行ってきますね」
ちらりと時計を見て思いついた様な日向に言われた美鈴は立ち上がると足早に部屋を出て行った。そうして部屋の中には優希と日向が残され、二人は敷かれたカーペットの上へと腰を落ち着ける。
「まだ料理続けてたんだね」
「あぁ、いつまでも優希に負けてられないって張り切ってるんだよ」
「俺に?そんなに大したことは出来ないんだけど…、そう思ってくれるのは嬉しいね」
基本的に一人暮らしな優希はそれなりに料理ができる。以前に美鈴も優希の料理を口にする機会があったのだが、その際に感銘を受け、現在は自分も料理ができるようになりたいと、夕食だけ母親と料理をしているのだ。
目標にされる事への嬉しさと照れに、頬をかいてはにかむ優希。けれど、そんな彼女に対し日向の顔は苦々しく歪んでいた。
「ただお陰様で毎度夕飯の量が半端じゃないんだ、味は良いんだが、あいつ基本的に作りすぎるからな」
少しオーバーに話して見せる日向に、優希がくすくすと笑い声を上げる。
「なんて言って、実際はそこまで苦に思ってない癖に。だって、それだけ体が大きいんだから…」
言いながら、優希は羨むようにその目を細める。その吹けば飛んで行ってしまいそうな淡い表情を目にして、どくりと日向の心臓が鳴った。
「…優希、いきなりどうしたんだよ。何か不安に思うような事でもあったか?」
優希の異変に気が付いた日向は焦る心を押さえつけて、落ち着いた声音で問いかけると、優希は息を呑んで、すぐに何でもないと両手を振る。
「あ、ううん、ちょっと気になっただけというか、さっき背負われてる時も思ったけど、改めて見ると日向って結構体大きいなって」
「まぁ、確かに同年代の中でも大きい方だし、優希は背が縮んだから」
日向の身長は高校に入ってからも伸びていて、現在では既に170を優に超えている。比べて、変化前の優希の身長が160無い程度で、今では140まで縮んだ事を考えると、彼女がそんな感想を抱くのは無理もない事だった。
「美鈴ちゃんにも身長抜かれちゃったし、もし男に戻れなかったら、このまま生きていくのかなーみたいな事、少し考えちゃって」
優希は気にした風も無く話して見せるが、しかし彼女もそのことについてはずっと考えていたのだろう。
それは行方不明の問題よりもずっと根本的な問題だった。どれだけ世間が騒ごうと、優希が元に戻れれば彼らの中で全ての問題は解決するのだ。にも拘らず、今までその話をしてこなかったのは偏に、元に戻れないという可能性を欠片ともちらつかせない為だった。
「それは…」
咄嗟に言葉を紡ごうと日向だったが、しかしそこから先が続かない。
何て言ってやれば良いのか、どんな言葉を掛けてやれば良いのか、そんな思考がぐるぐると回り、そして…、
『優希さーん、少し降りてきて貰えますかー!』
階下から聞こえてきた美鈴の声に、日向ははっとして思考の渦から戻ってくる。
「あ、美鈴ちゃんが呼んでる。日向、さっきの話、本当に何でも無いから気にしないでね」
「優希、転ぶなよー!」
「分かってるー!」
流石に慣れてきたのか、少しぎこちないながらもしっかりとした足取りで優希が部屋を出て階段を降りていくその背に声を掛けてから、日向はぽつんと部屋の中に立ちすくむ。
「…」
静寂が部屋を包み込む。
音が鳴りそうな程歯を食いしばった彼は、おもむろに手を掲げると拳を握り、自らの頬へと思い切り打ちこんだ。
「…しっかりしろよ、馬鹿野郎」
日向が階下に降りると、何やらキッチンの方が騒がしい。また美鈴が暴走でもしたのかと首を傾げながらも、日向は声の出所へと足を向ける。
そうして、日向は辿り着いたキッチンの暖簾を潜ると、
「お母さん、そろそろ離れなさい!」
「いやよ、絶対離れないー!」
「えっと、あの…」
そこでは戸惑い交じりな困り顔の優希、そんな彼女をしっかりと抱きしめる女性、それを引きはがそうとする美鈴の三すくみが繰り広げられていた。
女性の名は近衛楓、日向の母親である。
まさかの光景に唖然とする日向、そんな彼に気が付いた優希は助けを求めるように手を伸ばす。
「ひ、日向…」
「いや、優希、これどういう状況…?」
状況は飲み込めないものの、日向は一旦求められるがままに親友から母親を引き剥がす。すると、楓は物惜しむように声を上げた。
「ちょっと、お母さんを猫掴みするなんてどういう了見?」
「お袋こそ、息子の友達の抱き着いて何してんだよ。見ろ、こんなにも怯えちまって可哀想に…!」
「そこまで怯えてはないよ?」
開放された優希は日向の後ろに回り込みながらも、彼の大袈裟な物言いを訂正する。とはいえ、突然抱き留められたことで警戒心が強まったのか、彼女は日向の背中越しに顔だけ出して楓を見ている。
「もう、だから言ったのに…。お母さん、いくら優希さんが可愛いからって強引に行きすぎなの」
「それお前が言うか?散々優希を着せ替え人形にしたお前が?」
「うるさい、兄貴は黙ってて」
順当な突っ込みを入れられた人間の取る行動は素直に認めるか、開き直るかの二つに絞られるが、どうやら美鈴は後者であったらしい。
理不尽な返答にあい、ため息をつきながら、日向は次に掴み上げている今回の元凶へと目を向ける。
「で、お袋は何でまた優希に?」
「だってー…、あの人から聞いてはいたのだけれど、実際に会ってみると我慢できなくなっちゃって」
ぽっと染めた頬を抑える楓は、年を感じさせない若々しい見た目に、穏やかな雰囲気と、傍から見ればかなりの美人だろう。
しかし、日向から見れば母親であり、歳柄にもないその行動には苦々しく顔を歪めている。
そして、そんな楓に同調する者がこの場にはもう一人存在した。
「分かるー、優希さんおめめクリクリで髪もつやつや、しかも小さくて可愛いくて、抱きしめたくなるよね」
「そうそう、しかも逃げる時の仕草なんて小動物みたいでねー」
母と娘、やはり波長が合うのだろう。彼女らはきゃっきゃと状況にわき目も降らずに互いに趣向をさらけ出し合う。
目の前で繰り広げられる、ただ可愛いところを言い合うだけのトークを、優希と日向は呆然と見守る。
「…だそうだ、優希、裁定を」
「うん、相変わらず賑やかな家族だね」
「それは認める」
別段これが常と言うわけでもないのだが、現状を前にしては認めざるを得ないその感想を受け入れる他ない日向であった。
その後、夕食の調理は日向と美鈴に一任され。二人と別れた優希は、近衛家の一階にある一室にて楓により簡単な健康診断を受けていた。
楓は医学関連の出身ということもあり、大まかな診断くらいならできる程度の知識は持っている。日向が言っていた診断ができる人というのも楓の事だ。
「概ね体調の方は大丈夫そうね、優希君…今は優希ちゃんの方が良いかしら。優希ちゃんは今何か自覚症状があったりする?」
「いえ、体調が悪いとかは無いです。ただ、今は随分マシになったんですけど、最初は少し体が動かし辛くって」
話しながら、優希は軽く体を動かしてみる。
今では若干の違和感が残る程度で、普通に生活する分には問題は無く、当初に比べればかなり改善されていた。
「うーん、急激な体の変化に感覚が付いて行ってなかったのかしらね。…って、もしかしてその辺りは日向から聞いてる?あの子もそれなりに人の体については詳しいから」
「あ、はい。日向には、ずっと助けられてて」
これは朝に日向と出会ってからの優希の本心であった。
恐らく日向が居なければ、優希は今もあの部屋に一人蹲っているだけだっただろう。それを、引っ張り出した日向には、優希自身感謝していた。
「そう?あれで真面目な面もあるのだけれど…我が子ながら変になっちゃう事もあるから少し心配で…」
「あ、あはは…、それは…まぁ、そう、ですね?」
だが、楓目線ではやはり心配が勝る様で、身に覚えがありすぎる彼女の鋭い言葉に、優希は最早笑って流す以外に何もできなかった。
「そんな子に育ててはいないのだけれど、もしもの事があったら何時でも頼ってね」
「ありがとうございます。でも、日向には良くしてもらってるので。ほんと、十分すぎるくらい」
「…なら、良かった」
優希の言葉を受けて、優しく目を細めた楓は穏やかな声音で呟く。一見息子の成長を喜んでいるようだが、しかし、優希の目から見てふと楓の瞳に少しの違和感を覚えた。それが何であるのか、きょとんとした顔で見返す優希であったが、その間もなく楓は一つ柏手を打って話を次に進めた。
「さてと、優希ちゃんの健康診断も終わったことだし、本題に入りましょっか」
「本題、ですか」
てっきり診断だけかと思っていた優希は虚を突かれて目を丸くする。明らかに驚いている彼女を見て、にんまりと笑いながら楓は後ろ手に床に置いていた紙袋を取り出した。
「それは…?」
「ん?ただの下着よ。必要になるだろうから、美鈴に大体のサイズを聞いて帰り際に買って来たの」
言いながら楓が中から取り出したのは、レースのあしらわれた可愛いデザインな上下セットの女性下着。それを見た瞬間、これから何が行われるのかを察した優希の顔からサッと血の気が引いた。
「まさか自分の娘よりも先に優希ちゃんに着け方を教えることになるとは思わなかったけれど、ま、優希ちゃんも娘みたいなものだし、誤差よね、誤差」
「え、あ、いや、あの…」
両手で持ったままにじり寄ってくる楓から逃げる様に優希は後退りをして行く。やがて、とんと壁に背が当たった途端、優希は強烈な既視感を抱いた。
そう、それは昼間、美鈴に追い詰められた時と全く同じような状況。それに気づくと同時に、優希は自分がもう逃げられない事を悟る。
「さ、優希ちゃん。まずは服を脱ぎましょうか」
あぁ、やはりこの人は美鈴ちゃんのお母さんなんだ。
そんな他人事のような思考を脳裏に浮かべながら、優希は襲い来る目の前の現実から目を晒した。
「お、優希、どうだった?」
数分後、キッチンへと戻ってきた優希を見るなり、日向は調理の手を止めて彼女へと声を掛けた。
そんな彼の前にあるフライパンからはジュウジュウと油の弾ける音が響いてきていて、立ち上る湯気には食欲を刺激する香りが含まれている。
優希は無駄にハイスペックな親友の姿を横目に、体を腕で隠す様にしながら日向と美鈴の横に立つ。
「だ、大丈夫みたい。一応病院で一度精密検査は受けて置いて欲しいみたいだけど、取り敢えずは様子見で良いって」
「それなら良かった。…優希、なんかあったか?様子変だぞ」
「へ!?いや、別に気のせいじゃない?」
ふといつもとは違い何処かおどおどとしている優希の様子が引っかかった日向が率直に問いかければ、優希はあからさまに動揺してその声を裏返した。
「ふむ…」
疑るように唸る日向がジッと彼女を見つめる。すると、隣で同様に優希を見ていた美鈴が何かに気が付いたようにあっと声を上げた。
「もしかして、もうお母さんから下着受け取りましたか?」
完全に核心を突いた美鈴にこれ以上の誤魔化しは通用しないだろう、そう判断した優希は小さく息を吐いて、観念したように口を開いた。
「…はい、上は良いんだけど、ちょっと下の方が更に心もとなくなりまして…」
ほんのりと頬を朱に染めた優希は言いながら足をすり合わせる。
普段とは異なる感触、更には女性下着を身に着けているというその事実が、彼女の羞恥に拍車をかけていた。
「え、何。じゃあ今優希女物の下着付けてんの?ちょっと確認を…」
「やめろ馬鹿兄貴」
気づくや否や早速セクハラをしようとする日向だったが、美鈴にパシンとはたかれて動きを止める。
「全く、優希さん安心してください。この馬鹿には指一本触れさせませんから」
「あ、ありがとう美鈴ちゃん」
「いつの間にか俺が悪者になっている…だと…!?」
日向は愕然としているが、割と順当な評価であるために擁護のしようもない。優希も確かに日向には感謝しているのだが、彼のこういう所が優希が彼へと素直な感情を抱くことを阻んでいた。
「そう言えば、お袋は?一緒じゃなかったのか」
がくりと肩を下げている中、つい先ほどまで優希と一緒に居たはずの楓の姿が見えないことに気付いた日向が優希へと問いかけた。
「楓さんなら竜司さんの所に行ったよ。ちょっと話したいことがあるんだって」
このタイミングで話となると、それは十中八九優希についてであろう。この場にいる三人もそれに付いては察しがついた。
「そうだったんですか、なら今日の夕食は全体的にアタシたちで作って良さそうですね」
「あ、俺も手伝うよ。もう普通に動けるし、お皿出したりとか簡単な手伝いならできるから」
「マジ?助かる―。なら、優希は人数分の箸と皿を用意してくれよ」
「おっけー」
優希も交えての三人で夕食の準備を進めていく、これは長い付き合いの彼らにとっても稀であるため、その非日常感に何処か浮足立つ雰囲気がキッチンに流れていた。
「優希ちゃん、思っていたより元気そうでしたね」
近衛家一階、竜司の居る書斎にてそう話すのは彼の妻である楓だ。彼女は竜司の隣に座りながら、先程の優希の様子を思い出していた。
あの年頃であの変化、不安に押し潰されていてもおかしくは無い彼女が、普通に笑えている。
「竜司さんから見てどうでしたか?」
「…不安定な面はあるが、心配はいらない。その辺りは日向と美鈴が何とかするだろう。私達はあの子達に出来ない事をしてやればいい」
落ち着いた声音で話す竜司、そんな彼の浮かべた表情を見て、楓は珍しいものを見たかの如く軽く目を見開く。
「随分と嬉しそうだけれど、何か良いことでもありました?」
「良い事…」
楓に問われた竜司の脳裏に浮かぶのは、突然部屋まで押し掛けてきた日向が自分に対して頭を下げて発した言葉。
『今、優希が事件に巻き込まれて、困ってるんだ。だからお願いします、優希を助ける為に力を貸して下さい』
自分では力が足りないから、何よりも優先すべきものの為にプライドも何もかもを投げ捨てて、頼ってきた、その時の彼の真剣な表情を思い出し、竜司は自然と自らの口角が上がるのを感じた。
「いやなに、子供というのは、知らぬ間に成長するものだ」
「あら、狡いわ竜司さんだけ。わたしも見たかったのに」
あまりにも嬉しそうな(比較的ではある)竜司の様子に、楓は見逃した悔しさ半分にしゅんと肩を落とした。