ノーブレスオブルージュ~その唇は吐息をしない~ 作:雨居神宮
パンと乾いた音がし、打たれた頬がじんわりと熱を持つ。金糸雀色の瞳は思わず目を逸らしたくなるほどに俺を睨みつけていて。お前はイグニスを扉だとでも思っているのか。言われたその言葉に、猛烈に心を抉られた。
「ち、ちがっ……」
咄嗟に否定の言葉が口から出そうになる。けれど俺が彼女に望んだ役割は、まさに扉そのもの。自分がイグニスになにを言ったのかを理解して、下唇を噛み締める。
「ねぇツーくん、知っているかしら。女の子はね、互いの関係が良好でも結婚前に鬱になることがあるの」
(ふむ。マリッジブルーというやつじゃの)
雪女は抱えていた荷物を台の上に置き。ショックで屈みこむ俺と目線を合わせてくる。
その原因の多くは、環境という名のストレスだそうだ。新郎との生活。義両親との関係。人によっては住む町や領も変わる。一生に関わる岐路だけに、その不安は心を圧し潰すには十分だと言って。
「なら、戻れないかも知れない世界へ行くのは、どれほどの負荷かしらね?」
「っ……!!」
言葉はおろか常識すら通用しない辛さは、他でもない俺こそが誰よりも知っていた。
旅行ではあるまし、そこでずっと生活するという可能性があれば、貴族の義務など持ち出すまでもなく断られて当然なのだ。
ただ、イグニスは変態だ。大森林の踏破や浮遊島、人類未踏に躊躇わず踏み込むもので。異世界すら恐れないだろうと勝手に考えていた。それこそが最大の甘えだったのか。
「貴方たちが別にそういう関係で無いことは知っているのだわ。けれど、だからこそ友人というだけで負担させるのは、あの子が可哀そうよ」
気づいているかと、困り顔で泣く子をあやすように語りかけてくるティア。
これ以上なにがと教えを乞うように尋ねると、連れて行くのなら、すでに転移の方法を知っているウィッキーさんが適任だと言うのだ。
まさに目から鱗が落ちるというやつ。
確かにそうだ。それでも俺は自分の隣に居るのは、あの赤髪の少女しかないと考えていた訳で。雪女はその矛盾を遠慮なく突いてくる。
「本心では貴方がイグニスと居たいのじゃなくて? ならば、その気持ちはハッキリ言葉にしてあげなさい。じゃないと付いて行きたくても行けないわよ。一生を捧げるくらいの覚悟が無いのなら、そもそも誘うんじゃないのだわ」
言葉でラッシュを仕掛けてくるティア。今のセリフはボディブローのように深々と刺さった。なんて威力の正論パンチだろうか。
「そうだね。着替えを覗いた時にも言われた……」
「いま何をしたって言ったのかしら!?」
「私が欲しければ、残りの人生全部で支払え。後払いは受け付けない」
あの時は払えないと逃げたものだ。けれど、そうだね。今の俺はイグニスを求めている。
ならば一生を差し出すくらいの覚悟。最低でも衣食住の保証がなければ、交渉の段階にすら入ってはいけなかったのだと思う。
「ありがとうティア。俺が浅はかだった。よく考えてみるよ」
「ええ、そうしなさい」
叩いたことは謝らないとそっぽを向く白藍髪の少女。別に構わないのだけど、イグニスのことであれほど怒るのは意外ではあったか。
あまり仲が良くないと思っていたと伝えると、「そうよ!」と逆ギレ気味に肯定されるものの。消え入りそうなか細い声で言い訳が付け足された。
「私はあの子の背中をずっと追っていたの。馬鹿にされていい気分なはずがないわ……」
気恥ずかしさを誤魔化すように、手はそそくさと買ってきた食材の整理をしている。
ごめんねと謝ることしか出来なかった。ヴァンが惚れるのも分かるくらいに真っ直ぐな良い子である。
(ちなみに儂は、イグニスなら条件さえ揃えば喜々と異世界転移くらいすると思うよ)
「……やっぱり?」
それでも通すべき筋はあるという話なのだろう。
もう一度向かい合わなければと思っていれば、ティアが水色の玉ねぎをゴトゴトと机に置いているのが目に入る。俺はその一つをおもむろに手に手に取り。ポンポンとお手玉をしながら言った。
「時間はあるし、予定通りカレーでも作るかな」
特別な意味はなく、ただの謝罪として美味しいものを食べて貰いたかった。無理難題を振ったのはこちらであるが、断る時の魔女の顔がいつまでも胸に刺さっているからだ。
(うわぁマジ!? いいなぁ~カレー超食べたーい!)
(儂も食べたーい!)
「げぇ聞いてたの!?」
すると壁からぬぅと現れるギャル幽霊。言語的に何を話していたかは理解されていないはずだけど、内容が内容なので顔から火が出るかと思うほど恥ずかしかった。何気に移動出来る範囲が広いんだよなぁ。
◆
「ハイ。というわけで、今回はカレーライスを作ります」
「任せて。あの頃より少しは上達したのだわ」
買い込んだ大量の荷物を整理した後、俺たちはすこし早くも夕飯の支度に取り掛かる。
幽霊二人がカレーカレーとお祭り騒ぎで煩いものの、スティーリア助手の顔は真剣そのもの。メモに秤まで用意して戦闘態勢だった。
なにからやると鼻息荒く指示を伺う少女に、まずは米を炊くと伝えれば、何故かジトリと懐疑てきな目を向けてくる。
「本当にお米の料理なのよね?」
「疑われて俺は悲しいよ」
「そう思うのなら日頃の行いを見直して欲しいわ」
「今回は本当だもん」
どこか納得のいかない顔で準備に取り掛かる雪女。そんな彼女を後目に、俺は氷室から持ってきた食材を机に並べていった。芋に根菜、茄子と野菜ゴロゴロである。こっちの世界は魔力の色も付くからとてもカラフルなものが出来そうだ。
(というかサガミン、1からカレーなんて作れるんだね。女子力高けー)
「いや、初めてだよ」
(ほぁ!?)
ギャルが驚きのあまりに吠えた。何事かしらとティアが訝しんでいるので止めて欲しい。俺にそんな料理スキルがあれば苦労しないのだ。なんちゃって風をさも本物のようにお出ししているだけなのである。
(高いのは適当力だったのね。うーんカレー粉も無いんじゃ、カレーベースを作るのが楽かな?)
(ま、まさかこのギャル)
「ちゃんとしたカレーの作り方を知っているのか!?」
ウインクしながら、グッと親指を立てるアサギリさん。
そんな知能があるようには見えなかったので、なぜだと聞けば、料理を作りSNSに投稿するのが趣味だそうで。
(だから休日は映える物を作ってたのよーん)
「いいね!」
講師を首になった俺は先生に従い作業を進めていく。ティアは困惑しながらも、工程をしっかりメモして一緒に付き合ってくれた。
いまや地球ではお手軽料理の一つとして数えられるカレーだが、その根幹を支えているのが投入するだけで味やトロミをつけてくれるルウである。すなわち、手作りの場合はルウが代用している基礎を作る。
「それこそがカレーベース。トロミは野菜を煮込むことによって自然で優しい口当たりになるぞよ」
「って言ってるのね!」
「はい」
どうやら俺の信用は地へ堕ちたらしい。求められる役割は翻訳になり、二人でおっかなびっくり初めての調理工程に挑んだ。
みじん切りにした玉ねぎを鍋で炒め、火が通ってきたら刻んだニンニクやショウガで香り付け。そして荒く刻んだトマトを潰しながら良く混ぜる。玉ねぎやトマトと水分の多い野菜だけに、それだけで鍋には汁が溢れる。
「あら、この段階ですでに美味しそうね」
「だけど、これがカレーになるのか?」
(うふふん。そう思うっしょ。水分出たところで、いよいよスパイス入れていこうか)
スパイスには多種多様な種類があるが、以外や3つからカレーは作れるようだ。その欠かせないものこそ、クミン、コリアンダー、ターメリックなのだとか。
俺は浮遊島で玉金を手に入れた時から、この瞬間を切望していた。
まずはその3種を加え溶かしこむ。全体が小金色に染まり、鼻孔をくすぐる芳醇な香りが漂う。
「凄い、一気にカレーっぽくなった!」
「食欲を誘う匂いね。いいじゃない、いいじゃない!」
早速と小皿に取り分け味見をした。その奥深い味わいは、日本を通り越してインドの光景が見えるようだ。へぇと感心するティアの隣で、けれど何か足りないなと首を捻った。
(そりゃまだベースだし。スパイスも3種類しか入れてないからねぇ)
本来はヨーグルトやガラムマサラという複合スパイスも足すらしい。言われればカレーのくせに全然辛くも無いのである。
ならば足しましょうか異世界要素。辛味は火炎草の粉末を使い、エーラという辛くほろ苦い種、ダルニーチという甘い香りを放つ魔木の皮、臭みとりに使われる花ロボンゴも入れてしまえ。
「よっしゃ、ベースは完成。あとは肉や野菜と煮込めばカレーの出来上がりだ!」
「うふふ。計算は完璧よ。これは最高傑作になる予感なのだわ」
(ちなみにそれ、なんの肉?)
ウィレルは栗鼠っぽい魔獣だ。木の実が主食なので、肉もどこか香ばしい味がする。そう伝えればギャルはげんなりした顔でやっぱいらないと言ってきた。食べず嫌いはよくないぞ。
「おお~なんか今日は凄い香りがするわね」
「本当。なに作ってるの?」
「後でのお楽しみなのだわ」
カレーを煮込んでいると、帰ってきたカノンさんたちが匂いに釣られて厨房まで顔を出す。ヴァンも頻りに食わせろと訪れていたので、苦笑しながら追い返した。
やがてリュカが腹を空かせて戻ってきて。じゃあ食事にしようかと、いよいよお披露目の時。ご飯をよそった皿を机に置き、ルゥは目の前で掛けてカレーライスを完成させる。
「この色は、もしかして玉金かい?」
「流石にお目が高い」
魔女は、独特な黄金色から見ただけで素材を看破した。そうだよと頷けば、匂いを手で仰ぎ、複雑なスパイスの香りにこれは凄いと頬を緩め。
「さっきは無茶を言ってごめんね。ティアに相談したらイグニスに負担しかないって怒られたんだ。俺ももっと努力するから、もう一度話合わせて」
今日はせめて異世界の味を楽しんで欲しい。
意図せず本格的な料理なってしまったわけだが、赤髪の少女はカレーをスプーンで掬い口に運び。舌鼓を打った後にこう言う。
「よく出来ました」
「……っ!」
おや。ヘドロのようにニチャリとへばりつくような暗黒の笑み。味のことだと信じたいのに、思考を誘導されたという疑念が晴れず、慄くことしか出来なかった。