ノーブレスオブルージュ~その唇は吐息をしない~ 作:雨居神宮
「はぁ……ふぅ……」
血溜まりに伏せる女戦士を見下ろしながら、俺もゆっくりと地面にしゃがみ込む。
マルグリット卿。魔王軍幹部として【抱天】の二つ名を持つだけあり、かなりの強敵であった。
恐るべきは、彼女の生き汚さだろう。殺し合いに反則は無いとはいえ、こうも手を変え品を変えて命を狙ってきた敵は初めてである。おかげで瞼を切られて片目は使えないし、腹に風穴まで開けられてしまった。
剛活性の魔力防御を容易く貫くとは、まさに研ぎ澄まされた必殺の牙。なんとか勝ちは拾えたものの、もう少し長引けば、ふとした拍子に結末は逆になっていたかも知れない。
「えっと……あったあった」
だから。これから俺のやろうとしているのは、愚かと笑われる類のことだろう。
魔大陸に流れ着いて、ほとんどの荷物を失った身だが、幸いに胸元に忍ばせていた小さな金属筒は無事であり。
回復薬。イグニスがシェンロウ聖国で作りすぎたと。君はいつも怪我をするのだからと、持たせてくれた物。実際に今の俺は大怪我をしているので、その慧眼には本当に感謝だ。
「使い道を知られたら、また怒られそうだけどね」
そんな、愛情の詰まった大事な物を。自分も命の瀬戸際に居るというのに、なぜ己で切り伏せた敵に施そうとしているのだろう。
流石に躊躇いはある。
彼女を生かした所で、寝首を掻かれるかもしれないし。そもそもに、ただの勘違いという可能性だってあった。
「それでもなぁ」
勝負の最中は、何が本当なのかと疑心暗鬼になるほど卑劣だったマルグリット卿。だけど、最後に見せた行動に。家族に会いたいという気持ちにだけは、嘘がないように見えたから。
運試しでもしてみるといいさ。
俺は、すでに意識の無い菖蒲色の髪をした女性を仰向けにする。
ビキニアーマーと編みタイツというハレンチ極まりない恰好だけに目のやり場に困るが、露出の多いお陰で、脱がさずとも怪我の視認は容易だ。
キュポンと金属筒の蓋を外し、黒剣の切り裂いた跡へと液体を振りかける。
流石は魔女のお手製。回復薬は触れた箇所から、見る見るうちに怪我を塞いでいった。深手だけに内蔵の具合までは分からないけれど、取り敢えず外傷が治れば大丈夫だろう。
「少し飲ませた方がいいんだっけ。腹をやると、しばらく血尿や血便が出るんだよなぁ」
経験者は語るという奴である。そいと筒を口に押し込んで、余りを飲み込ませれば応急手当ては終わりだ。
彼女の肩を担いで、さっさとこの場から逃げようとすれば。その声は頭上から聞こえて来る。
「よもやマルグリットが敗れるとはな。強さと貪欲さだけは評価していたのだが、所詮は人間か」
「やあ、昨日ぶり。えっと……名前なんだっけ?」
闘技場の観客席から、青銅色の髪をした男が冷たい視線で見下ろしていた。
俺は煽りではなく、本当に彼の名前を知らないので問うのだけど。勝負に集中するあまり、外の状況へ気を配れなかったと唇を噛む。
「なんだ、羽虫は私の名すら知らんのか。偉大なる魔王、【竜巣】のランガよりこの地を制覇すべく向けられた竜の吐息。【地吹雪】こそ私だ」
「ああ、聞き覚えがあるね」
鬼娘から知らされた、この町の支配者である。やっぱりお前だったかと目を細めると同時、タイムアップを知った。
そもそもに女戦士と争う理由になったのは、俺が魔王への献上金に手を付けたからで。青銅男は魔王軍幹部として代行の権利を持つようだ。反逆の芽ありと彼が竜笛を吹くだけで、荒れ狂う数十の地竜が町を襲うだろう。
「マルグリットを倒すほどだ。地竜を殺したのは貴様だな?」
「いやぁ……知りませんねぇ」
「何っ!? よもや他にも仲間が居るのか」
まさか信じてくれるとは。卑劣な女と戦ったばかりなので、素直さに罪悪感すら覚える。
ムムムと顎に手を当てて考え込む青銅男をよそに、俺は首を回してぐるりと闘技場を見渡した。
リュカはもう逃げたのだろうか。観客席には市民はおろか兵士の姿まで見当たらない。
マルグリット卿との戦闘が始まった時点だと大混乱が起きていたばかりに、その静けさが逆に不気味である。
まるで嵐の前というか。津波が来る直前に、大きく潮が引いていくような。静寂が不安を育てているかのようだ。
「……町の人達はどうした?」
「貴様らが呑気に遊んでいる内に、とっくに逃げたわ。もっとも門は巨人が守っている。逃げ場など何処にも無いと言うのにな」
男は表情を少しも動かさずに、ただ事実だけを告げた。
そうか。巨人族が町の外に居るには大きさのせいと思っていたけれど、住人を閉じ込める意味もあったのか。その言葉で、ここは町という名の檻であったのだと気付かされる。
「一応聞くけどさ。お金を返したら、滅ぼすの止めてくれる?」
「寝ぼけた事を。私がここに足を運んだのはな、確かめたかったからだ」
ギョロリと爬虫類のような目が見開かれる。抑揚の無い声色ながら、確かに怒りが乗っていて。お前に分かるかと、愚痴のような台詞が続いた。
「やっと奴隷の人数も集まり、拠点として軌道に乗って来たというのに。支援をすべき先発隊は崩壊し、今度は育てた町を自ら壊さなければいけない。ああ、なんて無駄な時間を過ごしたものか。それもこれも、全ては貴様のせいよ!」
「ごめんなさい」
「許すか間抜けが! 謝るくらいならば、最初から手を出すなというのだ。獣では分かる道理がなぜ理解出来ん」
現場管理者の悲しい所か。いくら自分では嫌だと思っても、上の決め事は守らなければならないようだ。
彼の中で、町の消滅は既に決定事項。騒ぎを知って即座に竜笛を吹かなかったのは、ただ単に原因となった害虫を見たかったからだと。
「まぁよい。どの道、虫が紛れ込んだならば、まとめて消す方が効率良かろう。私が手ずから裁きを下してやる。絶望の中で、せいぜい悔い改めろ」
「なっ……!?」
黒い軍服を破り、バサリと開かれる蝙蝠のような羽。
氷のような端正な美貌は、鰐を思わせる化け物へと変わり。身体全体が、空気入れで膨らませるように、ぷくぷくと巨大化していくではないか。
竜人族とは、竜の力を持つ人ではなく。その身を天空の支配者へと変えられる種族だったらしい。
そんな馬鹿なと思考が飛びかけるのだけど、思えばリュカも人狼に姿を変えるのだ。もはや凄いね魔族と割り切るしかないのだろう。
「ディネーヴェ……様? ディ、ディネーヴェ様、お待ち下さい、私は!」
「目が覚めたかマルグリット。こんな羽虫に負けるなど竜巣軍の恥さらし目が。このままお前も、消えて無くなれ!」
意識を取り戻した女戦士が、氷竜を見て表情を蒼褪める。
マルグリット卿は俺を押し退けて、絶叫をしながら待ってくれと乞い縋り。その希望を断つように青銅色の鱗をしたドラゴンは空へと舞い上がってしまう。
「ま、まずい。まずいぞこれは」
奴が何をしようとしているかなど、考えるまでもない。
このまま上空に登り、町全体を射程に収める事の出来る高度から
これぞ、かつて世界を震撼させたという驚異。
剣や槍は言うに及ばず、魔法すらも届かぬ空の彼方から。竜は一方的に人類を滅ぼす事が可能なのだった。
「ああぁああ!! クソ、終わりだ。もう、何もかもが終わりだ!」
「……」
竜が天を駆ける姿は、女戦士のトラウマを刺激したか。あの卑劣ながらも勇ましい戦いをした女が、人目も憚らずに泣きじゃくる。
まさに絶体絶命の危機なのだけど。その光景を見上げながらも、何処か冷静な俺が居た。
そんな最強生物が、なぜ今は空を支配していないのか。
愛しの魔王が心の中で囁いてきた。そう。あの時、ジグルベインは確かこう言ったのである。「くだらぬ。それは一度墜ちた幻想だ。もはや汝らが翼をはためかす空は無い」と。
思えば、混沌の魔王が竜王を倒したとて、残りの竜が簡単に駆逐されるはずがなかった。
攻略法の確立。技術の進歩。空に座した最強は、人類が地で積み上げた歴史に引きずり落されたのだ。
「お前らはもう、時代遅れなんだよ!」