それ自体が最大のチャンスではないか
アイルトン・セナ
「ン? あぁ、この服は勝負服だ」
俺はぽかんとしたままのトレーナーを椅子に座らせると、ポケットに入れたままになっていたコーヒーを投げてよこした。気付けには丁度いい。ウイスキー飲ませるわけにもいかないからな。
「しかし勝負服というとレースの時に着る服では……」
「制服は性分じゃない。まぁそのせいで服装指導を何度も何度も食らうわけだが……勝負服は制服の一部と思わないかね? 一応、規則は確認したがグレーなのが気になるがね。そろそろ制服に戻すかね……そいつは慰謝料と思ってとっておいてくれ」
トレーナーは頷くと缶を握って俺のことを凝視してきた。ジロジロ見られるのは好きじゃないが、睨み返しておくのも面倒なので、そのままにさせる。
「なんだか君……変わってるね。ごめんね、急に」
「いいさ、よく言われる」
そして俺はじっと缶を見つめた。
トレーナーは飲もうとして気が付いたようだった。
「蓋が開いてるんだけど」
「気にすんな」
「いや……なんか飲まそうとしてない?」
「いや別に」
「……」
「………トレーナー、うら若いオンナノコがそんな変なもの飲ますなんてコトあるわけないじゃないですかあはは」
「そっかぁ……じゃあこうしよっか。飲んで」
お前みたいな勘のいい男は嫌いだよ。
この前製造したばかりの薬品をこっそり仕込んだ缶なんだが、どうしても口の部分だけ封をさせられなかったのだ。
そして俺はそれを受け取ると、ポケットにねじ込んで首を振った。
「いやー………じゃあこっち」
「じゃあってなんだよ……そのけばけばしい液体はなんなんですかね……」
俺は別の試験管を渡そうとしたが、受け取ってくれない。
「一時的にリミッターを外してくれる薬なんだけど興味はない?」
「絶対ヤバイ薬じゃないか!」
とすったもんだしてる間に面倒になってきたので、俺はおもむろに腰に手をやると、屈みこんでそれをかけた。手錠である。おもちゃに他ならないのだが金属製には違いなく、これを引きちぎるのは人間には無理だ。
両足を拘束されたトレーナーは暫し呆然としていたが、俺がにじり寄ってくるのを避けようとしていた。おもむろにボイスレコーダーを取り出すと、記録を開始する。
自分で飲むのは結構リスク高いからな。こういうときは
「テストテスト。感度良好。被検体ナンバー〇〇、成人男性、年齢三十台、脚部大腿四頭筋の………」
「だれかー!?」
「覚悟を決めたまえよ、人払いは済んでいるし、今はシフト入れ替わりの合間。誰もこないさ………」
面倒だな。俺はトレーナーの腿に跨ると、試験管を押し付けていく。
「……いた。またそんなことやってるんですかって……!?」
がらりと扉が開いたかと思えば、漆黒の長髪を垂らしたエキゾチックさを感じる外見をした女の子が入ってきた。マンハッタンカフェ。コーヒーの同志である。
コーヒー党なので結構話が合うのだ。
「跨るのはまずい……まずいですって!?」
顔を隠している癖、指の隙間からこっちを凝視する器用な真似をしてくるカフェ。俺は今の姿勢を確認してみたが、なんだ、生娘じゃあるまいしこれくらい許容してくれや。いや生娘だろうな。あっ俺も生娘だったわ。あはは。
「とにかく! 私が来たからにはここまでですからね!」
「……チッ。ついてるねぇ、ミスター・モルモット。こうなってしまっては解放するしかないようだねぇ」
カフェが騒いで人呼ばれると厄介なので、この辺にしておくことにする。かちゃりと手錠を外して足を解放すると、素早く缶コーヒーを回収する。
カフェは不安そうにこちらを見つめてきている。
「あっ、そうだ。タキオンさん。先生が呼んでいましたよ。次の選抜レースについて……あと進路について話があると」
「パス」
「だめです」
「ハイ………だるいけどいくしかないのかね。それじゃミスター・モルモット、この辺で」
「タキオン? 君があのアグネスタキオンなのか……」
「悪名が広がっているというのはよろしくないね、まあ気にしたことはないんだがね」
この正面衝突してしまったトレーナーも、どうやら俺のことを知っているようだった。
俺はひらりと袖を揺らすと、扉を潜った。
結局話は半分も聞いちゃいないが要するに、選抜レースでないと退学である。
全く面白くもない。眼鏡にかなうトレーナーもいないなら自分でトレーニングした方が億倍もマシというものだ。ことレースに関しては……朧げながら、経験があるのだから。
殺気にも似た意識の削り合い。一瞬の読み合い。危険性と、順位を天秤にかけるそれは、機械を使おうが、足を使おうが同じことだ。
「簡単に退学になんてできやしない癖に、素でいいなさる」
規則は熟読したし、契約書も知っている。簡単には切れないのだ、生徒を退学させるには相当な素行不良や犯罪行為がなければならない。そのギリギリのラインは潜っているつもりだし、テストはいつも満点に近い成績を取っている。なので脅しているのだろう。大人という生き物の性分である。
本格化と呼ばれるウマ娘の旬の時期は極めて短い。たった数年で燃え尽きるケースも少なくはなく、こんなことしてる場合じゃない。故に俺は今回もレースをすっ飛ばすことにする。
もっと速く。もっと、もっとと魂が叫んでいる。かつてできなかったように。そう思うと、もう一つの感覚がこみ上げてくる。私もそうなのだという別の声が。
最速を求めて、ついに至れなかった。その無念さ。もう一度生を受けたのならば、その短い、儚い、ものの数年にも満たない旬の時期を、くだらないことに使っている場合ではない。
「しかしあれは本気だったな……流れとしては会議と委員会の投票で決定がなされるはず。そこまで話が進んでいるのであれば」
潮時だろうか。未練があるわけではないが、学園から出て行って、そこでどう『最速』に到達するのかということについて考えを巡らせる。
「まずは……」
「ヨォ、タキオンよぉ、なんでテメェがここにいやがる」
「その二人称は嫌いだね」
「相変わらずめんどくせぇやつだな………選抜レースはどうしたって聞いてんだよ」
俺はポケットから取り出したシュガーシガレットを指に挟むと、トントンと叩いてもう一本取り出して差し出した。
相手は首を振ってきた。一本目を噛みしめて飲み込むと、二本目を咥える。
「でないよ。時間がもったいないしね」
「後悔するつもりはないってことかよ。学園でのテメェの立場がやばいことくらいわかってるだろうが」
エアシャカール。ロジカルであることを是とするウマ娘。パンクな恰好をしており、普段持ち歩いているノートパソコンはとにかく落書きだらけだ。刺青でも入れてそうだなという勝手な印象を抱いている。
「これで試験だけは一人前で前を行きやがる。むかつくぜ」
思春期の女の子らしからぬ言動はどうにかした方がいいと思うがね。まあ俺の言えた話ではないが。
シャカールは腕を組みそっぽを向きつつ、俺に言う。心配だからだと素直に言えばいいのに、それじゃ伝わるものも伝わらん。
「ああ、よく言われる。ありがとう。心配で来てくれたんだろ、シャカール」
「チゲェわ! 警告しに来たんだよ。このままじゃ
シャカールは肩を怒らせて遠ざかって行ってしまった。
「………フゥン、俺のことが心配なのか、あるいは誰かから言づけられたかだな……律儀な野郎だ」
野郎ではないが。
俺は、物陰でこちらを窺っていたトレーナーに向けて耳をその方角にぴくつかせつつ、手招きをした。
「そんなところで不審者してないでモルモットしに来たらどうだ?」
こっちのタキオンさんはコーヒー党 甘党は変わらず
中の人の世代的にマックスコーヒーとか好きだったかもしれない