こんにちは、狸狐です。
色々な反応ありがとうございます。昔からの読者さんも驚かれていましたが、私の作品において【八雲紫は最強】な存在なんですよね。しかも万能である。
故にバックベアードに敗北すると思わなかった、と。
ただこれには理由がありまして、前回の後書きにも書いたのですが紫様を存在させてしまうと彼女1人で大抵解決できてしまうので、出番を減らすための策です。
話は変わって──
ハズビンホテルの続編始まりましたね。もう最高。
私の推しリュートのGRAVITYが聴けて幸せの極みです。そしてサー・ペンシャスの過去も知れて嬉しい。同志がいると嬉しいナ。
まぶたの裏が、白い光でじんわりと満たされていく。
霊夢は、ゆっくりと目を開けた。
「……」
視界に広がったのは、見慣れぬ天井。
鼻をくすぐるのは、薬草のかすかな匂い。
「……ここ、は……」
掠れた声が、ひとりきりの部屋に落ちる。身体を動かそうとするが、まだ力が入らない。薄い布団の下で、包帯の感触と、冷たい金属のような医療器具の管が手首に繋がっているのがわかった。
「……!」
その瞬間、霊夢は気づく。ここは永遠亭だ、と。誰かがここまで運んでくれたのだ。戸の外で足音がした。軽やかで、どこか耳に馴染むリズム。
「包帯を変える時間ですよ……っ、あっ!?」
カーテンの隙間から覗いたのは、鈴仙・優曇華院・イナバ。霊夢と目が合うとウサ耳がピンッと跳ね上がる。
「め、めめ、目が覚めたぁぁぁ……っ!!お師匠さまァッ!!」
「あっ」
そう言いながら、鈴仙は廊下に飛び出した。霊夢が何か言おうとした時には、鈴仙の姿はもう廊下の向こう。残されたのは、薬の匂いと、静寂だけだった。
「えっ、ちょっ…!はっや…」
遠くで風が竹林を揺らす音がする。誰かの声が聞こえるようで、聞こえない。紫のことを思い出した途端、胸の奥が締めつけられた。
「……あのあと、どうなったの……」
答える者はいない。
頭がズキズキと痛む。身体の中にグヅグヅと痛みが刻まれる。たただだ、感情のない機械音だけが響き渡る。
※
戸が静かに開く音がした。
白衣の袖が揺れ、月光のように滑らかな足取りで永琳が入ってきた。鈴仙が後ろに控え、扉をそっと閉じる。永琳は霊夢の顔をひと目見て、わずかに頷いた。その仕草はまるで、計算された呼吸のように乱れがない。
「流石ね。顔色も悪くないし、意識の混濁もない。意外と元気そうで良かったわ」
彼女は言葉を短く切ると、手にしていた診断書を胸元から取り出し、滑らかにページをめくる。金属製のペン先が紙を叩き、静かな部屋に音が響く。
「右腕複雑骨折、肋骨三本の損傷、脾臓の打撲。後頭部裂傷。全身の打撲と擦過傷、多数。それと……」
淡々と告げる声。
その一言ひとことが、氷の粒のように霊夢の胸に落ちていく。永琳は霊夢の表情を見てから診断書を閉じ、静かに息をついた。
「…………ふぅ。まあ、生きていたし負った怪我なんてどうでもいいわよね」
「紫は…?」
霊夢は目を伏せた。
頬を伝う髪が、枕に触れて冷たく感じた。永琳は少し間を置いてから、低い声で続ける。
「──彼女は意識不明のままよ」
「!!」
霊夢ははっと顔を上げる。
永琳は感情を隠したまま、さらに続けた。
「背骨の圧迫骨折。左肺の損傷。首の骨折による脊髄損傷。頭部打撃による脳浮腫も確認された。ここに運ばれた時に緊急処置で『
正反対毒──。
この永遠亭の新入りであり、鈴仙の友達である“苦笑”の爪から精製した毒であり薬。健康体に打てば猛毒に。怪我人や病人に打てば特効薬となる。大天才である永琳はその毒を解読し、なんと改造。瀕死者に打ち込めば超回復させる物へと変化させた(※元気な人やそこまで怪我が重くないものに打つと即死するものにもなった)
「おかげで呼吸は自発的にできるまでに回復した……。でも、しばらくは目を覚ますことはないでしょう」
室内の空気が、ぐっと重くなった。
鈴仙がそっと顔を伏せ、言葉を失っている。永琳は霊夢の脈を取るように、手首を軽く掴んだ。
「あなたは運ばれてすぐに手術を受けた。相当な相手だったようね。的確に人体の急所、怪我したらいけない箇所を狙ってたわ。
そう言われ、霊夢の脳裏にあの妖怪の姿が浮かび上がる。バックベアードの冷酷な目、真っ直ぐな殺意。思い出しただけでも体が震える。本当に、本当に久しぶりだった。
「聞くまでもないか。でも、あなたがここにいるのは八雲紫のおかげよ」
「・・・え?」
「あなたの身体に何重にも結界が張られていた形跡があった。きっと紫が最後の最後で貴女に張ったのでしょうね。そのおかげで急所をやられてもこうして意識を保っていられてる。紫に感謝ね…」
霊夢の喉が震えた。
声を出そうとしたが、音にならなかった。永琳は表情を変えずに立ち上がり、診断書を胸に抱えた。
「安静にしていなさい。しばらくは歩くことも許可できない。……動けば、紫の犠牲を無駄にするだけよ」
「……」
返事は無かったが、永琳はその無言を肯定として受け取った。
「優曇華。あとは任せるわ」
「は、はい!お師匠は?」
「苦笑と一緒に紫の手術よ。薬で回復はしてるけど、骨折はしっかりと手当てしないと変な形にくっついたり、曲がったりしちゃうから。……やれやれ、
そう言うと、永琳は出ていく。
「……霊夢さん、何かあったらそのボタンでお呼びください」
さらに鈴仙が出ていくと、霊夢は1人になる。
するとあの時の現実が襲ってきた。
「私、負けたんだ──」
手も足も出なかった。
カッとなって、バックベアードに突進し敗北した。フラフラな紫が自身を犠牲にしてまでも相手の体をズタズタに引き裂き、ダメージをしっかりと与えてくれたのに、仇を討つこともできなかった。
「負けた・・・。私が、負けた……。負け…」
博麗の巫女は幻想郷を守らなければならないのに。
異変を解決しなければならないのに。
勝ち続けてきたのに。
負けてはいけないのに。
「私は負けた」
霊夢が思い出したかのように言った。
その瞬間、ガチャッと扉が開いて部屋の中に異臭が広がった。ただ臭いだけではなく何度も嗅いだあの匂いだった。
「元気かなあ、霊夢ちゃん。にーひひひっ」
「ねずみ男……」
「なんだよっ、その目は。この大恩人に向かって」
「大恩人?」
「そうよ、そう。俺っちがここまで運んだのよ」
ねずみ男はケラケラと笑って言った。
「まっ、実は俺だけじゃあないんだけど」
「運んだのは私だぜ!」
ねずみ男の後ろから声がして、魔理沙が入ってきた。
彼女の声は明るいが表情は心配そのものだ。
「魔理沙…」
「霊夢も、紫も、こっぴどくやられたな。まだ痛むか?」
「……まあ」
「落ち込むなんてお前らしくないぜ。いつもは失敗すると何か軽口を言うくせに」
霊夢は反応しない。
布団に包まり、ぼんやりとした瞳で窓を眺める。そんな霊夢に魔理沙は言葉を続ける。
「ほら!さっさと起きて、あんな目玉お化けをやっつけ行こうぜ。勝負だ、勝負!どっちが先にやっつけられるか勝負しようぜ!」
「・・・無理よ」
「……霊夢〜。何度も言うがお前らしくないぞ。たった一回くらい負けたくらいでそんな落ち込むなよ。次こそ勝てばいいんだぜ。なっ?」
「・・・さい」
「ん?」
「うるさいっ!!」
霊夢は布団から上半身だけガバッと起き上がると、魔理沙に向かって怒鳴った。その表情、その声、その気迫──。その霊夢が発したもの全てに魔理沙は驚き、息を呑む。
「!?」
「たった一回くらい?何も持っていないアンタが知ったようなこと言わないで!私は……私は“博麗の巫女”なのよ。幻想郷を守護する存在なの!それなのに私は負けた。…結局、紫に守られて……」
どんどん言葉尻が小さくなっていく。
「・・・霊夢」
「負けた
「本気で言ってんのか?」
「……わたしは弱い。わたしは、もう戦えない。怖いの。また誰かが、私のせいで……」
魔理沙は息を呑んだ。
しばらく黙っていたが、やがて靴音を鳴らして霊夢の前に立つ。
「バカ言ってんじゃねえよ……」
その一言には、怒りと涙が混じっていた。
「怖い?当たり前だろ。負けるってのはそういうことなんだよ。痛えし、苦しいし、怖い。強いお前には初めてかもしれないが、私はよく味わってきた!それが負けることだ。敗北することなんだよ」
「・・・」
「だけどな、たった一回負けたところで死んだわけじゃないだろ!死ななきゃいくらでもリベンジできるんだよっ!だから!……だから紫がお前を信じて、後を託してくれた。なのに、なんでそれが分からないんだよ」
霊夢の眉がわずかに動いた。
しかしそれでも、瞳はどこか遠くを見ており、魔理沙は唇を噛み締め、拳を握り、そして叫んだ。
「目ぇ覚ませよ、霊夢!!」
「!!」
乾いた音が響いた。
魔理沙の手のひらが、霊夢の頬を強く打っていた。見ていたねずみ男と叩かれた霊夢は驚きに目を見開く。魔理沙はこの病室を去る途中で言った。
「……っ」
「……そうかよ。お前をライバルだと思ってた自分が恥ずかしいぜ。じゃあな」
魔理沙は馬鹿ではないし、空気が読めないわけではない。
ただ霊夢を応援したかった。同情なんかされたくないだろうと明るい顔をしていようと決めた。
敗北に挫折するな、お前なら立ち上がれる。だってお前は私の最強のライバルなのだからと。
だが悲しいことにライバルだと思っていた相手はもういない。
崩れ去った。
「・・・」ドキドキ
「・・・魔理沙ったら、病人に遠慮ないわね」
乾いたように笑う霊夢。
ねずみ男はただ黙っていた。ねずみ男だって真っ黒な奴じゃない。励まそうと思っていたのだが、目の前で起きた修羅場に固まっていたのだ。
「ねずみ男。……私、どうしたらいいの」
「えっ!?」
まさか頼られると思わなかった。
しかし、今の霊夢はもういっぱいいっぱいで誰かに、本当に誰でもいいから縋りたかったのだ。
「……ぁ、ぇぇ…」
「博麗の巫女……。紫から貰った
「・・・」
ねずみ男は少し考えてから、口を開く。
普段のふざけた感じではなく、どこか自信なさそうに、それでも堂々とはしていながら。
「“負ける”ってのは“弱い”の証明になんのかな」
「そりゃあそうでしょう。勝つから強い。負けるから弱い。それが当たり前でしょう。紫だって最後まで私に言っていた。……
霊夢は何を言ってんだと自論で返すが、ねずみ男はただ続ける。
「じゃあ霊夢ちゃんは、何度も戦いを挑んでくる魔理沙ちゃんのこと弱いと思うか?」
「魔理沙を弱いと思ったことなんてないわ。魔理沙は強い。………ぁっ」
「ほら自分でも言ってるじゃねえか。負ける
霊夢は魔理沙を一度たりとも弱いと思ったことはない。
確かに魔理沙はよく負ける。猪突猛進に突っ込んで、負けて負けて負けて──。でも決して諦めずに何度も何度も立ち上がって、自分よりも遥か格上に挑んでいる。
そんなアイツはカッコいいし、弱くなんかない。誰よりも強いやつだと尊敬している──
「俺の人生経験上……、本当に強いやつってのは最後まで立っているやつのことだと思う」
「最後まで立っている……」
「勝負する以上、必ず片方は負ける。けど大切なのはそこからだ。諦めて逃げて下を向いて生きるか、諦めずに上を見続けるのか……。そこで真の強いやつと弱いやつが分かると俺は思う…」
「紫も魔理沙ちゃんもそれを伝えたかったんだと思うぜ……。“たった一回の敗北くらい簡単に乗り越えてくれよ”ってな」
ねずみ男は
鬼太郎は確かに強いが、最強とは言えない。
よく踏み潰されたり、溶かされたり、喰われたり、切り刻まれたり、眠らされたり、燃やされたり、凍らされたり、血を吸われたり、ハニトラに引っかかったり、カマボコにされたり、裏切られたり─────。
だがどんなに辛く、痛く、苦しいことに直面しても最後まで敵の前に立っていた。
いつも思う。“ああ、敵じゃなくてよかった”、と。
だって何があっても諦めずに目の前に立ってくるんだもの。そんな相手は恐怖でしかないし、強いに決まってる。
「紫が心配してたのはきっとこの状況だと思うぜ。負けを知らない霊夢ちゃんは今みたいに現実に打ちのめされて、立ち上がれない。どんなに強くても這い上がれないから『お前は弱いんだ』。……そう伝えたかったんじゃねえか?」
「・・・っ」
ねずみ男はそれを伝えると、さっさと病室を出て行こうとする。霊夢は掠れる声で彼に言った。
「私、立ち上がれるかなぁ」
「──知らないね。俺には関係ないし。そこは自分で決めるんだな」
「チッ…、チッチッチッ」
柄にもないことを言ってしまったと後悔した。
基本的にねずみ男は説教なんかしない。ましてや誰かを諭したり、誰かのために熱くなったり、泣いたり、センチになったりするなんてあり得ない。人と人の付き合いは軽い方が楽だというのに、つい言ってしまった。
「俺に頼るんじゃねえよ。絶対に俺じゃねえだろ。……チッ、チッ……」
少し離れたところに腰掛けて大きなため息をつく。
「私よりは適任だったよ」
「……藍」
「私や魔理沙、幻想郷に住まう者たちではダメだろう。……戦いとは無関係なお前だからこそ、霊夢は吐けたんじゃないかな」
「うるせえやい」
いつの間にか隣には八雲藍が腰掛けていた。
目元を赤く腫らした彼女が、ねずみ男に笑顔を見せて座っていたのだ。大して驚かず、嫌そうな目で見つめる。
「紫様が言っておられた。──霊夢に足りないものは【敗北】だと」
以前、紫が言っていた言葉を藍は思い出す。
「負けたことがない者は成長できず、すぐに挫折してしまう『
「ならそう伝えれば良かったんだよ。それをわざわざ伝わりにくく言うからこうなるんだ」
「言葉で言っても霊夢は理解しなかったと思う。だから……、だから紫様は弱った身体でベアードに戦いを挑んで……、霊夢に真の意味で理解して欲しかったんだ」
「自己犠牲なんて俺は嫌いだね。……あーあ、どうするかね、霊夢ちゃんは」
「葛藤が待っているだろうな、初めての」
※※
敗北──。
挫折──。
絶望──。
十数年生きてきた彼女に初めての経験が襲う。勝ち続けた、勝利に浸っていた彼女が直面する現実は痛く苦しいものだった。
永遠亭の夜は、静かすぎた。
虫の声すら届かないほど、月の光が澄み切っている。
「・・・っ」
霊夢はベッドの上で膝を抱えていた。
魔理沙、ねずみ男が去ってから、どれくらいの時間が経っただろう。頬の熱も、もうとっくに消えていた。だが胸の奥には、何かがずっと残っていた。鈍く疼くように、熱を持ったまま。
──怖い。
それが正直な気持ちだった。
あの目。あの闇。
バックベアードの眼光に射抜かれた瞬間、心が折れる音がした。「死ぬ」と本気で思った。そして紫が庇って、倒れた。
『紫よりも弱いお前になにができる?』
あの時のベアードの声が何度も何度も反響する。
恐怖により霊夢は、自分の爪を食い込ませるように握った。ベッドの白いシーツに、赤い点が滲む。
(紫がいなかったら……私は今ここにいない)
声は小さく、震えていた。
(だけど私は生きている。生かされている)
唇を噛んだ。
弱い自分が嫌で仕方なかった。あの時の自分の顔を思い出す。恐怖で震えて、目を逸らして、足がすくんでいた。“博麗の巫女”なのに。幻想郷を守る立場なのに。
涙が一粒、頬を伝って落ちた。
「……また、負けてたら…。…次負けたら……」
視界が滲む。
両手で顔を覆って、ただ息をする。吸っても吸っても足りない。胸の奥が締めつけられる。
「……もう嫌。戦うのも、怖いのも、全部……」
逃げよう。
博麗の巫女という地位も、何もかも捨てて、自由になって。
(自由になって……?自由になってどうするの?)
自身の過去を思い出す。
【八雲紫に拾われた】。食べ物もなくて、頼るものもなくて、ただ生きていることに絶望して、死にかけていた私を拾ってくれた。私には才能があることを教えてくれた、博麗の巫女として生きる理由をくれた。
(私が自由になったところで現実は変わらない)
(普通の子たちと違って別に将来の夢や、他にやりたいこともない。……私にあるのは妖怪を退治する術、敵を鎮圧するための体術、怪異への知識、巫女としての役割……)
(なら……なら私は博麗の巫女としての責務を全うするしかない。それを捨てたら本当に私には何も無くなってしまう)
霊夢はゆっくりと顔を上げた。
頬は涙で濡れていたが、瞳の奥にかすかな光が戻っていた。指先が震えながらも、彼女は自分の胸を叩いた。
「……最後まで…立っていた者こそが本当に強い者…」
霊夢はシーツを払いのけて立ち上がった。
包帯が巻かれた脚がまだ痛む。だが、痛みが生きている証拠のように感じた。
「……っ、ぐぅっ…」
歩くたびに、全身の骨が軋む音がする。
それでも前に進む。窓際まで行き、夜の空を見上げる。月が、どこまでも凛と輝いていた。
「……見てなさい、紫、魔理沙。私は……もう負けない。絶対に負けない。──誰にも弱いって言わせない」
その言葉は誰に向けたものでもなく、ただ夜に溶けていった。だが、確かにそこには“決意”が宿っていた。霊夢は拳を握る。震えはもう、恐怖ではなかった。闘志。それが、ようやく戻ってきたのだ。
そして霊夢は静かに呟いた。
「もう一度、博麗の巫女として……立つ」
※
永遠亭の廊下は、月明かりに照らされて青白く光っていた。
霊夢は、裸足のまま歩いていた。包帯の擦れる音と、床の軋む音だけが、夜の静寂を割っていく。
霊夢は病室の扉を開けた。
「・・・」
ひやりとした空気が流れ出る。
そして、そこに横たわる紫の姿を見て、霊夢の息が止まった。
「・・・っ」
ベッドの上の紫は、もはや“賢者”ではなかった。
無数の管がその身体に刺さり、心拍計のモニターが一定のリズムで命の音を刻んでいる。腕にも、胸にも、腹にも包帯。その下にある皮膚は紫色に痣を残し、呼吸のたびにわずかに上下する胸は痛々しいほど弱々しい。
かつて優雅に扇子を掲げ、妖艶に笑っていた姿など、もうどこにもない。あるのはただ、命の火を細く灯し続ける一人の女だった。
「…ゆ、かり……」
霊夢は足を止めたまま、何も言えず立ち尽くす。
喉の奥が焼けるように痛い。
手を伸ばす。
紫の手は冷たく、細い。まるでこのまま掴んでいなければ、指の隙間から崩れ落ちてしまいそうなほど。
「……こんな細かったんだ。アンタの方こそご飯食べてないんじゃない……」
霊夢は俯き、唇を噛み締める。
目尻に、滲んだ涙が一粒。機械の電子音が、静かに響く。まるで紫の代わりに呼吸をしているようだった。霊夢はゆっくりと椅子に腰を下ろし、
そのまま紫の顔を見つめ続けた。
「動いていいのか」
「無理やり動かしてきたわ」
藍が背後に立っていた。
多分、この世で一番八雲紫を敬愛している存在がいた。
「……ねえ」
「なんだ?」
「私はもう二度と負けない。それを紫に言いに来たの」
霊夢の拳がさらに硬く握られる。
「でも
嫌い。
面倒くさいことなんか嫌い。辛いことも、汗をかくのも、一生懸命なのも嫌い。私には向いてない。
でも、それよりも、不甲斐なく負けた自分が一番嫌い。
大嫌い。もう負けたくない──。
「修行……、今からでも間に合う?」
「逃げる選択もあったんじゃないか?誰も責めないぞ」
「そんな選択、持ち合わせてない。幻想郷も、紫も、そして魔理沙も守るわ」
「ふふっ。……傷が治り次第、向かうとするか。巫女たちの修行の聖地である【チベットのカイラス山】に……!!」
※※
約3週間後──。
完治とまではいかないが、しっかりと両足で歩き、空を飛ぶまでに回復した。永琳はまだ入院していろと言っていたのだが、霊夢は永遠亭を出て博麗神社に戻った。
「もういいのか?」
「いつまでも寝てるとまた怠けたくなっちゃうからね」
ふざけるように笑った霊夢がいる神社には藍とねずみ男だけがいた。ねずみ男は辺りを見渡すとつまらなそうな顔をした。
「おーおー、霊夢ちゃんが行っちまうっていうのに誰も見送りに来ねえ。寂しい奴らだねぇ〜」
「博麗の巫女がいないというのは、幻想郷の……特に里の人間たちを不安にしてしまう。これは内密にすべきだ。ねずみ男、決して口外するなよ」
「わーってるよ」
「ただ関係者には伝えようと思う」
霊夢はいつもの巫女服に着替えると、八雲藍が開いた隙間を覗いた。遠くには幻想郷にはない渓谷が広がっていた。
「・・・カイラス山は修行を望む者の前にのみ現れる聖なる地。霊夢、お前が望んだから現れたんだ。適正ありということだ」
「神社の方は…」
「私が全てをこなす。結界の修復及び維持、人間たちの守護は任せてくれ」
「そうそう。大きな船に乗ったつもりでいてくれて構わないぜ。にーひひひ」
「アンタだけは信頼できないわ…。けど……」
霊夢は2人に向き直し、そして頭を下げた。
霊夢が絶対にやらない行動に驚愕したが、馬鹿にしたり、煽ったりはしなかった。
「お願いします…。私がいない間の幻想郷を」
「ああ」
「あいよ」
「ちょーっと待った!!」
霊夢が出発する直前に、何者かが飛び出してきた。
箒に乗った黒い帽子を被った少女──霧雨魔理沙だった。
「私に挨拶しないってのはちょっと薄情じゃないか?」
「魔理沙……!」
「行くのかよ」
「ええ。………あの時は…」
「言うな」
霊夢の言葉を静止して、鼻をかきながら照れくさそうに言った。
「まぁ、そのなんだ…。修行頑張れよ。里の人間は私が全部守ってやるぜ」
「……!」
「ただ!お前だけが強くなると思うなよ。次会う時には私ももっと強くなってやるからな!!そして幻想郷最強の座は私が貰うぜ!──だから途中でやめんなよ、私のライバル……!!」
「魔理沙……っ、……そっちこそ弱くなってたら許さないから!私のライバル!!」
霊夢は旅立つ。
胸を張って、幻想郷を守れる巫女になるために。内から外へ修行しに行くのだった。
「ようやく来おったか」
深山幽谷。
常の人が足を踏み入れぬ、チベットにある山【カイラス】。昼であるはずなのに、空気は薄暗く、白い霧がすべてを覆っていた。木々は伸び放題に絡み合い、地面は湿って冷たい。
「随分と遅かったのお」
霧の奥、木々の陰。その“何か”は音も立てずに佇んでいる。一人ではない。二人、三人が霊夢の姿を眺めている。
「あれが今代の巫女か。……今まで来た中で、随分と鍛えがいのありそうな娘だな」
霧の奥から、低くも威厳ある声が響く。影がゆらりと姿を現した。髪は白く、眼光は鋭い。腕には無数の古傷。ただ立っているだけで、山の空気が震える。
「覚悟はできているようだな」
三者の瞳は、それぞれが異なる力を宿しながらも博麗霊夢を見据えていた。
「まだ、弱い」
「だが……磨けば光る」
「打てば、砕けるかもしれぬ」
「それでも、打たねばならん」
霧の奥から、白い煙のように漂う気配。山そのものが息を潜め、まるでこの瞬間を待っていたかのようだった。
霊夢が行ってしまった後に、ねずみ男は帰路で笑う。
どこで見つけたのかボロボロの野良馬に乗って愉快そうにケタケタと笑う。
「んふっ、んーふふふっ!!紫は寝たきり、霊夢ちゃんもいなくなった…。さーて、これからは正義派のかっこして悪いことたくさんしてやろうっと」
「ひひんっ」
「えっ!?うわっ、んぎゃっ!?」
しかしこんな臭い男に乗られて不快だったのか、馬はねずみ男を振り落とした。
「いってえなあ!この馬!次会ったら大根と一緒に漬けてキムチにでもしてやるからなァッ!!」
※※※
『……フフフ』
「どこか痛みますかな、我が主人」
『いや、違う。ただ思い出したのだよ。……我が力であの八雲紫を叩きのめしたことにネ。フフフ……フハハハハハハ!!』
「そんなに喜ぶほどの障壁だったのでありますか?その……ユカリというのは」
『我が知る最強の存在。それをこの……我の手で潰したのだ。なんたる幸せよ』
「つまりィ……、幻想郷最強の存在が潰えたということは、もう勝ったも同然ということでありますな?ならば後は簡単ですナ。吾輩に命じてくだされば、魔女たちを全員生け取りにしてみせますぞなもし!!」
『いいや。幻想郷に挨拶をしたのは我だ。ならば終わらせるのも我でなければならない……!!ふふふ……、正直に言えば狩りの楽しみは譲れないということサ』
「流石は主人でありますな、ひょひょひょひょ」
『ただ……奴らも怯えてワルプルギスの夜を待つわけがない。何かしら抵抗をするか……、八雲紫の復活か…。何か企んでいるに決まっているからネ。……もう手は打ってある』
「“手”ですと?ふぅむ、手はなんであるかな……」
『ガルルルルゥゥゥ……、いいねぇ。今夜はいいお月さんだ』
次回からは霊夢修行編
そして、霊夢が居ない幻想郷でねずみ男が活躍!?する回が始まらんぞなもし!!