──偶然か、必然か。あるいは幸運か、不運か。それはいつかのどこかで起きた、明暗丞久ですら把握していない、誰の記憶にも残っていない、シュブ=ニグラスを巡る事件。
その時に消滅した邪神の
残滓は使い道が無いにも関わらず純度の高い小梅の魔力で長い時間をかけて徐々に回復し、小梅の魂を通して数十年後に産まれた
「【あ、uU、う、aあ」】
──だから、
「……まさか、その辺の大学教員がシュブ=ニグラスの器として極上であり、尚且つその中に既に力が宿っているなどと……もはや道端にダイヤの原石が転がっていたに等しい幸運だ」
屋上の真ん中で、スーツ姿の田中──これも偽名である──が、そう言って古い本を片手に、小梅の魔力を軸にシュブ=ニグラスの力を顕現させる。彼女の頭には山羊のような角が生え、虚ろな目の瞳孔は四角に変異して行く。
「あとはこの俺の命令だけを忠実に聞くように調整して……あの探偵、いや正義の味方気取りのハスター
魔術師によく見られる傲慢さと強欲さをこれでもかと見せながらも、田中の怒りは今この場には居ない丞久に向けられていた。
──コンッ、カラカラカラ。
そんな金属音が、屋上に木霊する。
反射的に顔を動かして音の正体を探ろうとした田中は、屋上と校内を隔てる扉から、何かが伸びていることに気が付く。
床には金属の物体──鍵穴だった物が転がっており、代わりとばかりに本来なら鍵穴があったであろう場所から伸びているその何かは、月光に煌めく刀の刃だった。
「……っ!」
その刀身は、スゥ──っと滑らかな動きで下へ動き、ドアノブを器用にガチャリと捻る。
中から外へと微妙に開けられた扉の隙間から躍り出てきた刀の持ち主・明暗丞久は、逆手に持ったそれを引き抜きながら対面した。
「こんばんはぁ。悪者退治に来たぞ」
「──母さん!」
「……待て、アレは夏木女史じゃない」
続けて後ろから出てきた太陽が、思わず小梅に駆け寄ろうとして丞久に止められ、それとなく背中に手を当ててバレないようになんらかの魔術を行使される。
「……?」
「ちょっとしたおまじない」
小さく呟いた丞久だが、夏木小梅の側頭部から伸びた角と四角の瞳孔、そして体から溢れてその身を包むどす黒い魔力を前にして、彼女の口が無意識にその名を口にした。
「シュブ=ニグラスだな」
「【……あaaa、hA、す、タaa?」】
「──【
小梅と『何か』の声が重なり、二重に聞こえてくる奇妙な感覚。丞久もまたうなじに回した手で
「【うuu、Aaあ、ハaa、sUう、Taあ」】
小梅──の体を借りた神格・シュブ=ニグラスは、レインコートのフードを被る丞久の中にあるハスターの力に反応して、その瞳を爛々と妖しく輝かせていた。
月明かりが照らすそんな小梅の顔を見ると、太陽が不思議そうに口を開く。
「……なあ、なんか母さんの顔、昼に見たときより若くなってないか?」
「ワンチャン見間違いに出来ないかと思ったんだけどな。……たぶん、夏木女史とシュブ=ニグラスの相性が良すぎるんでしょ」
丞久はそう言うと、小梅から田中へと視線をずらして言葉を投げ掛ける。
「……新しいオモチャが手に入ってウキウキしてんなあ。そんで何するんだ? 世界征服だの滅亡だのと出来ないことに挑戦するのは普通に無駄だからやめた方がいいんじゃないか?」
「黙れ! 旧支配者に寵愛されておきながら、下等生物の味方をする裏切り者風情が」
「その味方面やめてくんねえかなあ。宗派が似てるってだけなんだからさ。しかも『下等生物』って、みんな同じ事を言うよな」
丞久は田中の言動を鼻で笑って続ける。
「どうせ私みたいな格上に潰されて終わるか、利用してた怪物に謀反されて死ぬかのどちらかなんだから、自首した方が身のためだぞー」
その言葉にピクリと眉を跳ねさせ、露骨に不機嫌になると、田中は傍らで
「シュブ=ニグラス、ハスターの器を殺せ」
「【……uuう、ああa」】
あくまでも主導権は田中にあるのか、小梅──否、シュブ=ニグラスはほんの一瞬抵抗を見せつつも、指示に従い足に力を込める。
ピシリと床に亀裂が走るほどに力を入れて屈むシュブ=ニグラスを見て、丞久が半ば反射的に両腕を胸元でクロスさせるのと、そこに彼女の拳がめり込むのは全く同時だった。
「【uうuuあaaa」】
「ぐぬっ」
ドバン!! とライフル銃で発砲したかのような破裂音に続いて暴風が吹き荒れ、丞久の横に立っていた太陽はたたらを踏んで後ずさり、なんとか踏み留まりながらも声を荒らげた。
「丞久、俺はどうすればいい!?」
「夏木女史を本気で止めたいなら殺す気で急所を狙え! 出来ねえなら引っ込んでろ!」
「──、ッオラァ!!」
刹那の逡巡を挟みながらも、太陽は即座に丞久に殴りかかっている
「っ……
「ちっ、やっぱ下がれ流石に荷がおも゛──
太陽に下がるように言おうとした丞久の体がぶれ、最後まで言い切る前にその場から消えたように吹き飛ばされた。カラン、と刀が床に落ちるのを見て、太陽は一手遅れて丞久がシュブ=ニグラスに蹴り上げられたのだと理解する。
「丞久ッ!!」
慌てて上を見た太陽の視界が捉えたのは、フェンスすらも大きく超えて宙に投げ出された丞久が、シュブ=ニグラスに更に蹴り飛ばされてプールの屋根を突き破り落下する姿だった。
「クソっ、【完全顕現:ビヤーキー】ッ!!」
落下中の追撃を右腕で防ぎつつ、丞久は左手で結んだ印と魔術で眷属を呼び出す。
続けて背面に嵐のような暴風を纏って屋根を突き破り、勢いのままに水面を跳ねてタイルに着地すると、ぶぱっと鮮血が鼻から溢れた。
「ごぶぇっ、威力を……殺しきれねえ……」
遅れて、ばしゃあん! とプールの真ん中に落ちてきたシュブ=ニグラスは、周りを蠢く魔力を器用に操作して水底に突き刺し、水面の少し上にふよふよと浮かんでいる。
「……ったく、壮絶なDVだな……私は夫じゃねえし夏木女史も妻じゃねえけど……」
「【Tu、まaa?」】
「違う違う違う違う」
「【ち、gAあ、う?」】
カクン、と首を傾げるシュブ=ニグラスを前に、丞久は鼻を袖で拭いながら呟く。
「……夏木女史がシュブ=ニグラスと相性が良すぎるあまりに、かなり弱っている力の欠片にも関わらず出力が高いのか。私とハスターレベルの適性があるのは流石に想定外だって……」
ちら、と突き破って穴の空いた天井を見上げつつ、丞久は眼前で足元の水の揺らぎをぼんやりと眺めているシュブ=ニグラスを見やる。
「まったく、初対面から妙にときめくと思ったら、体内に神格の力がある繋がりだったんだから驚きだよなぁ? 私がいきなり人妻趣味に目覚めたんじゃないかと思って自分を疑ったもんだ」
「【う、aあuu?」】
「────。ガオー」
「【……Gaあ、oおoo」】
意思があるのか無いのか、うめき声以外では丞久の言葉を度々反芻するだけのシュブ=ニグラスを見て、まるで子供のようだと思案する。
──否、子供なのだ。彼女は夏木小梅という母親の中で1から育ち直し、太陽の成長を見たもう一人の母親であり、幼い子供なのだ。
「なんかちょっと罪悪感が湧いてくるが、こっちもまあ必死なもんでな」
「【Mo、ん、dEな」】
「敢えて言うぞ、頭上注意」
すっ、と上を指差した丞久に釣られて、シュブ=ニグラスも上を見ようとする。
その瞬間、落下してきた翼竜と蜂を掛け合わせたような巨体の怪物の足に体を鷲掴みにされ、そのまま水の中に沈められた。
「【Gaぼboごぼboぼぼbo!?」】
「さっき言ったろ、【
ばしゃばしゃと激しく水の中でシュブ=ニグラスが暴れる裏で、丞久は足元に指で円を描き、その中になんらかの術式を書き込む。
「事前に、効果範囲を大学全体に広げて効力も強めた【人払い】をあちこちに仕込んだ。もうここら一帯に
徹底的に田中の計画を邪魔することに尽力しつつ、丞久の意識はシュブ=ニグラスに向いている。このまま窒息して気絶させられればと思案するが、懐の
躊躇う理由は、単純に刃物であるがゆえに当たりどころを考えないと夏木小梅本人を殺してしまうから、というのもあるのだが──
「……使いたくねぇ~~~、耐久力一切無いくせに値段だけ無駄に高いんだもんなあ。上手いこと自力で抑え込んでくれないかな」
深いため息をつきながら、そう独りごちてシンと静まり返る水面に視線を移す。
いくらシュブ=ニグラスが神格の一端であろうとも、使っている体が人間である以上、
「人間をベースに神格を喚び出すのはコストと手間の両方で楽できるってのがメリットだが、急所が人間と同じなのはデメリットだな」
ひとまず、これ以上沈ませたままでは窒息を通り越して溺死するため、丞久は怪物──ビヤーキーに退くようにジェスチャーする。そしてビヤーキーは、
「…………ヤバ」
天井の穴から降り注ぐ月光が、プールの中心で、魔力の壁で水を塞き止めて水底に立っているシュブ=ニグラスを写し出す。
「【……い、i、tA、ii」】
「あ、痛覚あるんだ。そりゃあるか」
押さえつけられた時に額を切ったのか、シュブ=ニグラスの顔が赤く濡れている。しかし傷口自体は映像を逆再生するかのように即座に塞がり、血液もまた皮膚に吸収されるように消えた。
シュブ=ニグラスはプールの中から自分を見下ろす丞久に、どことなくムッとしたような顔をすると、屋上の時のように足に力を入れる。
「どうした? 来いよ」
「【……uuuう、Gaあoo!」】
ちょいちょい、と指を曲げて手招きするように煽るジェスチャーをすると、シュブ=ニグラスは意味は分かっていなくとも馬鹿にされていることは雰囲気で理解して愚直に飛び掛かってくる。
「──なんちゃって」
だがその行動は、どこからともなく現れた
「【──んNaあぁaaaa!?」】
「おっと、さっき魔術名を口にしたときに
わざとらしくすっとぼける丞久が、そう言いながら同じように穴から屋根の上に跳んで更に跳躍し、シュブ=ニグラスを足で掴んで大学の屋上に戻ろうとしているビヤーキーの背に乗る。
「【nぎya」】
乱雑に投げ捨てられるシュブ=ニグラスが屋上の床に顔から激突し、その傍らにダメージが残っているのか僅かにふらつく丞久が着地する。数分掛けて戻ってきた丞久は、視線を右往左往させて太陽を探し──ふと気がつく。
「あ、やべ」
一般人を見下している魔術師と太陽を同じ場所に残したことを思い出し、流石に不味いのではと思案するが──その嫌な予感は的中した。
「ふん、まだ原形を保っていたのか。ハスターの器なだけのことはあって無駄に頑丈だな」
「……おいおいおいおい」
「なんだ? 何を驚いている?」
「いや、
飄々とした態度の田中の手には、一丁の拳銃が握られている。
丞久との間には太陽が倒れていて、暗がりで見えづらいながらに液体が漏れているのだが、それは間違いなく彼の血液で────
「【たaa、iiい、Yoおoo……?」】
「……あーあ」
丞久は倒れている太陽を、呆れの混じったような、冷めきった目で見下ろしていた。
お気に入りと感想と高評価ください。