炬燵に入って向き合う二人。天板の上には蜜柑が数個ほど置かれていた。隣の石油ストーブのやかんがシュンシュンと蒸気を鳴らしたところで、環は口火を切った。
「どうだった。九十九とのおしゃべりは。少なからず因縁があるんだろ?」
薨星宮へ訪れた際の態度や天元へ向ける表情から、九十九と天元との間に何かしら面倒な関係があることを察知していた。険のある口調を使うことは環にも覚えがある。羂索へと向ける自らの表情。それらもあんな様子かもしれないと、環は内心省みていた。
「どうにもならなかったよ。千年もの間、結界の維持に徹するうえで行ってきた末路。私が子供達に背負わせてきた業と、利用してきた事実を蔑ろにした……因果の歪みのせいにはしない。彼女は私に楽をさせないと言ってくれた」
「同化せずに進化したけど理性を保てた──とかのくだりだな。それを許さない……許せない心情もあると。おばあちゃんも苦労してるなぁ」
やかんを手に取り二つの湯呑へ麦茶を注ぐ環。同情こそすれど、そこまで天元の事情へ寄り添うつもりもなかった。注ぎ終えたところで、彼は麦茶を勢いよく飲み干し言葉を続ける。
「ぷはぁ……もう同化も何も必要ないさ。肉体と理性は最も安定した状態のまま。魂の大元は縛り付けてある。人身御供はようやく終わりだ」
『死蟠輪廻』は天地に遍在する天元の魂を本体へ固着させた。理性を失い人類へ敵対するようなこともなく、天元は式神として結界を保ち続けられることになった。環はその状態を喜ばしいこととして天元を励ましている。
「楽をするつもりはなかった。しかし、私の中で何かが変わったのも事実だ。でなければ君を後継に据える"縛り"など結ばなかっただろう」
「その年でも人は変わるんだな。不死であっても不老じゃなかったんだし……当然か」
環へ向けられる四つ目。気だるげに開かれたそれが蛍光灯の光を反射して赤く瞬く。しばらく思案を続けていた天元はおずおずと口を開いた。
「私には人の心までは分からない。それは今も尚同じだ。出戸環。君は……私のことを恨んでいないのか」
去年の百鬼夜行の最中、この空性結界に入りこんだ環は天元と"縛り"を結んだ。仮に天元が環を拒絶し結界外へ弾けば、高専内で夏油傑の敗北を防げたかもしれないこと。それどころか、遺体の所在と引き換えに"縛り"を持ちかけるそのやり方に対して環は一度怒りを見せていた。天元はその疑問を環へようやくぶつけることにしたようで。
「……自分ならいくらでも蘇生できると思ってたし、実際にそうし続けてきた。夏油さんの肉体は取り戻したい。家族ともう一度会いたいと願い続けてきた。それが本人にも、誰からも望まれてなくてもよかった。そのハズだったんだ」
目的は依然変わらずとも、経験によって少しずつ何かが変わっていることを環は自覚していた。
伏黒甚爾はその命を失うことを知りながら、それでも最後まで戦った。共に生き永らえる道を選ばず、死による別れを受け入れて。
与幸吉は最後まで仲間達の無事と幸福を思っていた。彼の本体である宝塔は京都校の者へ預けられ、特徴的な機械音声は今も尚生き続けている。
夏油傑は最後まで蘇生を拒んでいた。死すら覆す環の異能に頼ることなく、自らの大義と生き方を貫き通した。
「今は
夏油傑の庇護下にいるうちであれば、或いは、他の何もかも顧みない
美々子と菜々子は宿儺へ乞い願ってでも肉体を取り戻そうとしていた。それは環のように蘇生を可能とするからではなく、ひとえに夏油傑の尊厳を守るためであった。だからといって、夏油も出戸環も彼女達が無駄死にすることを許容するわけではない。夏油傑が死後に願ったことはそんなことではなかったから。
意志を継ぐ者、夏油傑を慕う者。夏油はただ彼らのためを思って、自らの失敗を予期しても尚家族の無事を優先した。不器用で真面目な彼なりの想いに──環はようやく思い至ったようで。
「……もう少し──君と話していたかった」
「これからいくらでもできる。あんたとの長話もそう悪くない」
地響きが大きくなっていく。空間にハニカム構造状の亀裂が走った。ガラスの砕けたような音が鳴り響くと、正六角形の構成物が剥がれ落ちて空間に綻びが生じる。
薨星宮直上の空性結界。結界術に長けた術師でなければ侵入など不可能である。ただし、千年もの間呪いの世界を生きてきた者ならば──容易く踏み込めたようだ。
「やぁ出戸環。天元はどこにいる?」
「……よう羂索。おばあちゃんはオマエに会いたくないんだと」
黒い長髪に五条袈裟を纏った男──羂索。特徴的な前髪を垂らし、額には縫い目が見える。周りを見渡して天元が姿を現さないことから、羂索は事情を察し始めていた。
その空間には松の木が所々から生えている。床に並べられた大きな石版と、その間に通る水路は近代的な和風庭園を思わせた。
そこに立つ少年──出戸環。いつもならば傍らに居るシナズの姿は見えないものの、羂索への返事は軽い調子であった。両者の距離はある程度離れていたが、会話に支障が出ることもない。
「天元への術式行使は済ませたみたいだね。私の手を借りるまでもなかったと。結界術は上達したかい?」
「白々しいな。僕の術式なんぞなくとも、天元を取り込めたくせに……それで?"縛り"を履行する気はあるのか?」
羂索と環の間で結ばれた"縛り"。それは天元への術式行使の確約を含めた停戦協定のようなもの。条件を満たせば肉体をあけ渡すとして、お互い納得のうえで結んでいる……ハズだった。
「あぁ、そうだったね。天元さえ手に入ればこの肉体は役目を終え、夏油傑の蘇生が可能となる。君の望み通りの筋書きだ。だが私は──」
「──次は出戸環……僕の死体にするつもりか?約束通り
条件を満たすまで羂索からの手出しを禁ずる"縛り"。家族達という複数人への干渉も防ぐために、譲歩できる限界の条件が『天元への術式行使まで』であった。それは既に満たしている。
つまり、
「一応聞いておこうか。天元と人類との同化。僕の術式を用いると近道になるらしいが……それでオマエに何の得がある?何故オマエは日本全てを呪いたいと思った?」
「面白いと思ったから」
大規模な仕掛けに反して、すぐに返ってきたのは単純な理由であった。片眉を上げる環へ羂索は続けて純粋な望みを語り続ける。
「面白いと思ったことが、本当に面白いかどうかは実現するまで分からないからね。君が今まで蘇生を行ってきた理由はどうかな。君も私も、小難しく意義を自問するタイプではないだろう?できるからやってみる。私達の手の届く範囲には生と死、人類と呪いがあっただけだ」
「……そうか。そうだったな。いちいち他人が死んでも、他人を蘇らせても悩みはしない。僕が天元の方についた理由もそう大したものじゃないし……ただ、まぁ、夏油さんの体を奪ったオマエに──」
呪力の"起こり"。それは大規模な術式行使や領域展開前などにおいて、発動直前に術師からみなぎる呪力のことだ。
環は順転と反転の二つの行使を
呪力の起こりを察知した羂索は咄嗟に呪霊を構えた。冷や汗を一筋流しながらも行使するのは極ノ番。しかし、高密度に圧縮された呪力による迎撃すら、心もとなく思える程の──破壊が齎される。
「──ムカついただけだ」『
『うずまき』!!!
空性結界に生じる幾重もの綻び。空間維持に負荷をかけるほどの衝撃が広がる。
『うずまき』による高密度の呪力は、『矛』の着弾点から遠ざかるために用いられていた。結果として、半球形に抉られた爆心から遠く離れた位置に羂索は立っている。反転術式による治癒を行うことで白い煙が左半身から上っていた。
「一撃で終わらせる気だったかな?」
「まさか。小手調べだよ」
シナズによる『
羂索は呪霊に乗ったまま勢いよく迫ってくる。近距離の戦闘であれば『矛』は使いづらく、自爆覚悟で撃たなければならなくなるために、環は他の手を切らざるを得ない。
(距離を詰めてきた。順転よりも『矛』が怖いみたいだな)
「君の
迎え撃つのはシンプルな数の暴力。シナズの口から放たれる黒い濁流は夥しい数の百足で構成されていた。
『
すると対抗するように羂索の影から染み出した黒い液体。そこからザワザワと音を立てて這い寄る者は──
「……私ハ!!鉄ノ味ガ好キダ!!」
黒々とした胴体から溢れ出す群れは、全て生きた実体のあるゴキブリである。無限の食欲を持ち、食べただけ単為生殖を行う黒沐死は百足を喰らい同族を増やしていった。
一方で、環の百足達は存分に術式を行使していた。胴節部へ食いつかれながらもゴキブリへと噛み付けば──百足は再び産まれ始める。
現代の黒い悪魔と不死を産む百足。ぶつかり合う二種の黒い激流内では、羽音と甲殻の擦れる音が鳴り止まない。
環の思考に過ぎった殲滅の一手。『
「いやいや。ソレに合わせるのは領域以外有り得ないでしょ」
領域展開『
(マジか……!?)「天元!!」
苦悶の表情で構成された樹木。首のない腹の膨れた女体が数体、幹を一周するように貼り付けられている。樹木の根元には脚をたたんで座る人型達の姿が見え、女体や人型に走る紋様からは液体が滲み出ていた。
顕現した生得領域は悍ましい世界観を想起させるものの、そのような感傷に浸る暇もない程に──事態は逼迫していた。
領域外殻に包まれたわけではない。しかしながら、術式の付与されていない空間と捉えるには無理のある、甚だしい殺意と呪力を環は察知した。感じた違和の真実に気づくより先に、半ば本能に突き動かされるまま環は掌印を組んでいた。
展開と術式の付与を瞬時に終わらせる。この空性結界の主である天元の力も借りることで、早業の領域展開を可能とした。
領域展開『
「羂索の領域を解体する?」
羂索の襲撃より二日前。空性結界によって構築された中庭の一角に腰を下ろしている環は疑問を投げかけた。池で泳ぐ鯉に餌をばら撒き、不思議そうに天元へ視線を向けている。
「この空性結界はある程度中の構造を設定できる。羂索程の結界術に長けた者であれば自由に舞台を整えられるだろう」
環を見下ろす天元は腕を組んでそう語っていた。立ち上がった環は天元と並び立つと……自らの背丈の方が低いことを自覚する。彼は少し眉根を寄せて意見を述べ始めた。
「結界術の練度を上げるべきか?領域で負ける気はないが、舞台そのものを弄られると面倒だな」
「いや、あちらの練度が上であってもいい。羂索にとって自由に設定できる──地の利があると思ってもらうことが重要だ。結界内に留まってもらうために。だがあくまで空性結界の主は私。空性結界の内側で戦闘を進め、羂索に領域を展開させる」
結界術によって自由に舞台を変えることのできる空性結界。ここ数日の打ち合わせのために、天元は様々な場所や状況を再現していた。それらも、設定した空性結界ならではのものだという。環は過去に此処へ入り込んだ時の小洒落たバーを思い出していた。
「結界内の情報は主である私に筒抜けだ。羂索の領域を分析し、領域のベクタパラメータを中和する設定を空性結界から流し込む」
「全然分からん。羂索の領域をどうにかできるってことでいいのか……?」
行儀悪く座り込んだ環は、さっきまで鯉に与えていたお麩を口へと放り込む。天元からの視線が少し鋭くなったところで、環は理解を放棄して話題を進めた。
「まぁいいや。何秒かかる?」
「10秒あれば」
領域は強力無比ではあるが、展開を終えると暫く術式の使用が困難になる。展開させた領域を天元が解体。すると羂索は術式が焼き切れた不利な状態へ追い込まれる。そこで環が反撃を許さずに攻勢へ出る──という一連の流れ。
「10秒か……そういう有利な状況は自ら先に押し付けるものだろ。こっちから領域の押し合いを仕掛けるやり方はダメか?式神でもある
式神を用いた結界術は環にも覚えがあった。百足で外殻を構成する『伊賦夜坂』だ。式神でもあり、天元でもある今の彼女はずば抜けた結界術を持ち合わせている。その式神としての縁は呪術的にも環と高い親和性があり、一見上手く行く仕組みのように思えたが──
「駄目だ。それだと始めの領域の外殻が君の領域になってしまう。私が戦闘に出張ることができない以上、最速で解体できるのは外側の領域から。君の外殻への干渉ならば空性結界を通してすぐにできるが」
天元はあくまでサポート役であった。本体が共に戦闘を行うリスクが高いことは、既に両者の共通認識となっている。一瞬でも環が死んでしまえば、主従関係の弱まった天元を取り込まれる危険性があるためだった。
天元曰く、空性結界を通しての干渉が最も高い効果を発揮するようで。式神として環の結界構築を補助することは可能であっても、環の領域内にある、もう一つの別領域へ干渉する──という複雑な条件は好ましくないらしい。
「……じゃあやっぱり、羂索が先んじて展開した領域を
首を捻ったまま結論づけた環に天元は胡乱げな視線を向ける。
「不安か?勝つ気ならばこのプランを薦める」
「──不安というか……不満だね。せっかく渋谷でいいモノ見られたのに、やってみたいとは思わないのか?おばあちゃん」
ちょくちょく挟んでくるその呼び方に顔を顰めて反応する天元。それを見て口元を綻ばせながら、環は土産話に花を咲かせ始めた。
「色んな領域を受けてきた。無量空処は死体になってやり過ごしたけど、体感した中で最も洗練されていたのは五条悟の領域ではなくて──
「結界術に必要なものは具体的なイメージだ。種もなく花を咲かせるような──そんな無茶を実現する離れ業……錆び付いた私の感性では難しいよ」
誤算──しかしその中でとった無意識の一手だった。本来のプランでは行うハズもない領域の同時展開。天元は動揺を隠せないものの、掌印を構えて環の意図を半ば察していた。
(この領域は渋谷で宿儺が見せた……!!結界を閉じずに領域を展開し術式を発動する離れ業……!!領域を押し合う外殻が……ない!!!)
本来想定される領域の押し合いとは外殻同士の衝突である。しかし羂索の展開した『胎蔵遍野』には外殻が存在せず、術式効果のみが空間へ広がっていく。
「天元!!」
環の合図する声と共に顕現した領域。環の領域内では空間に付与された両者の必中命令が重複、打ち消し合うことで、どちらの術式も効果を発揮しなかった。
しかし外殻の押し合いをしないために、『胎蔵遍野』の必中効果はさらに外へ広がり続ける。その効果は環の領域外殻へと及び──未だ
「へぇ。引き籠もりにしては思い切ったじゃないか」
(私の空性結界と環の外殻を融和し──構築を支持する……!!)
天元は忙しなく掌印を動かしながら、空性結界によって環の外殻を補強していた。ミシミシと外殻の軋む音が響きながらも、形を保ちながら依然領域は無事なまま。外殻を無理やり維持して状況を保つ試みである。環の体験した宿儺の領域──その実現こそ叶わないものの、話題として上がり思考の片隅に残っていたからこそのコンビネーション。
羂索は嘆息しながらも、思い通りにいかない現状へ悪態を吐く。
「押し合いすら成立せずに領域は崩壊──という想定だったんだけど。君達は本番に強いタイプだな」
「年寄りの意地も捨てたもんじゃないだろ。ここからが土壇場さ……!!」
どちらかが大きなダメージを負い、どちらかの領域が崩壊すれば──即座に必中術式が敗者へ襲いかかる。
領域をかけた死闘。幕は切って落とされた。
次話は九分九厘完成しております。