「まずはゴキブリ共だな」
術式反転
膠着した互いの群れの状況を打破すべく、環の掌に圧縮される式神達。生命から魂を引き剥がす術式反転──抽出されるエネルギーは圧縮の工程を円滑に済ませていた。
「炸裂する雫か……回避に徹すればそこまで怖くはない」
空間に入った裂け目から顔を出したのは巨大な呪霊。"あらゆる障害"を取り除くアジアの神の呪いだ。巨大な体躯に四つの腕を備えている。象のような頭部には、巻き付けた鼻とその根元から生える一対の牙を持ち合わせていた。服装や装飾、頭に載せた冠からは、神の呪いに相応しい気品を感じさせる。
「術式対象に概念が絡む特級呪霊だ。果たして辿り着けるかな?」
「『
勢いよく放たれた一滴の雫。黒光りする群れへ加速したそれは──特級呪霊によって取り除かれ、真反対の方向へ移動していた。
「威力がお粗末──っ?」
一瞬にしてあらぬ方向へ飛ばされた『屰』の雫は弱々しく弾けた。まるで何も込められていないような威力。抽出したエネルギーは雫の形に
「本命はコッチだ」
『
甲殻を白く染めたシナズ。胴節部に走る赤い紋様が毒々しい光を放っていた。口元に存在するのは一際目立つ大きな顎肢。毒を注入するためのそれは別の役割を果たすことになる。
シナズの全身から放たれる明確な死の気配。食欲に操られているハズのゴキブリ達へ動揺が伝播する。黒いマントを羽織ったような本体──黒沐死は恐怖のまま懐から獲物を取り出した。
『
それは一見して肉厚な鉈であった。刃面に空いた六つの穴には白い何かが覗いている。『爛生刀』──生と死の交雑する魔剣を手にした黒沐死は振りかぶりながらその仕掛けを披露しにかかった。
「私ハ!!ソノ色ガ!!嫌イダッ!!」
打ち付け合う甲殻と刃。『爛生刀』は字面通り──
「──シナズが心配か?」
(インファイト!?ここで仕掛けるか!!)
羂索の右拳を環が左腕で捌く。すかさず環は右蹴りを仕掛けるものの、羂索は膝で受けつつ後退していた。左腕には取り出した呪霊を持ち、それを呪力で強化して盾に使いたいようだが──その防御諸共を環の拳は貫いた。
「──ッ!!」
「アゲてこうか……!!」
『
全身から迸る呪力。既に抽出した『
環は距離を詰めて術式を構える。まず実行するのは相手の肉体を百足へ変えつつ削り取っていくプランだった。致命的なダメージが入れば、後に残った環の領域で完封できるためである。
迫り来る『死蟠輪廻』の発動に対して、羂索の取った手段は奥の手の1つ。近接では環に勝ちの目があると思わせ、距離を詰めさせるための──意図して受けた先刻の打撃。その痛みで顔を歪めることもなく、羂索は術式を行使した。
「!!」
「お返し」
咄嗟に膝を着いた環の頭部へ打撃が入る。ミシミシという音は床へ入るひび割れから鳴っていた。羂索を中心とした半径3m程の範囲に強烈な重力が発生している。脳を揺らしながらも、環はなんとか身体を支えていた。
(──ッ!?重い!!手持ち呪霊か!?にしては発生が速過ぎる!!)
無防備な環へ羂索は拳と蹴撃のラッシュをかけていた。強靭な『無常我修羅』による肉体であってもじわじわとダメージが募っていく。
仕上げの蹴りと同時に範囲内の重力が解除された。瞬時に環は反撃の手掌を構える。『死蟠輪廻』の発動を可能とする掌。それを──羂索は
「は?」
「領域展延」
『死蟠輪廻』の不発。何度も行使してきた術式が発動しない事実を受け止める暇は、この戦闘において介在しない。
「術式の中和だよ。領域との同時発動は流石に疲れるね」
「っ!!」
すぐに切り替えた環の攻撃をいなし、捌く羂索。その肉体へ薄く纏うように備わる空間は領域展延の効果範囲である。『死蟠輪廻』による術式効果を、術式の付与されていない領域へ流し込み中和する術──それを領域展開中の状況であっても、羂索は活用する事に成功していた。
両者を後目に、シナズと黒沐死──二体の異形の戦いは佳境を迎える。その決着は目前であった。
「私ハッ!!ワタッ──」
シナズは黒沐死の頭部へ噛み付くことに成功していた。さしもの黒沐死も発言が一瞬止まる。そもそも、『爛生刀』から撃ち出される卵は肉へ植え付けることで効果を発揮する。仮にシナズの甲殻を貫く程の威力を持っていれば、黒沐死に軍配が上がっていたかもしれない。しかし、そのような術を持っているハズもなく。
シナズが行使する術式反転は『無明夜叉羅』により凶悪に変貌を遂げている。それは殲滅に特化したものだった。
肉体から魂を引き剥がされた一匹のゴキブリが即死する。その際に生じたエネルギーは『屰』であれば圧縮して用いるのだが──そのまま他のゴキブリへと触れて炸裂した。すると他の個体も魂を引き剥がされることで……連鎖的に即死効果が引き起こされる。
式神達の順転による侵食と拮抗する程の生命力を持つ黒沐死。しかし即死効果による殲滅を耐え凌ぐことは──不可能であった。
瞬く間に伝染する死の病。もちろん先程噛み付かれた黒沐死も例外なく死に至った。単為生殖による代替という生き延び方も、次々に死へと至る群れの前では意味をなさない。消失反応による煙が上がっていた。
「シナズ!!」
一仕事終えたシナズの気配を察知した環は合図を出した。それは次の標的を片付けるためのもの。狙いは羂索──の前に、飛び道具を妨害する厄介な呪霊を相手取る必要があった。
シナズへ声を発した後、羂索の術式発動を感じ取った環はすぐに反応を示す。
「──またコレか!!」
「慣れてきてるね」
瞬時に羂索の前から飛び退いた環。既に重力の効果範囲を見切っているためだ。術師から半径3m。効果持続時間は6秒……とまで突き止めている。しかし、次の発動までのインターバルに攻めようとすると──
「『うずまき』」
「──ッチィ!!」
──呪霊操術の出番だった。オフェンスに『うずまき』を。ディフェンスには領域展延と、上手く切り替えながら羂索は環に対応している。
環が羂索から距離を取れば、『うずまき』による牽制でますます近寄り難くなってしまう。かといって環が遠距離から飛び道具で攻めようにも、それは巨大なアジアの呪霊によって取り除かれる。このまま無闇に時間を稼がれると、環の領域は破られ、術式使用が困難な状態のまま死に至る可能性があった。その場合──環の敗北を意味する。
合図を受けたシナズはジリ貧に陥る主の身を案じていた。状況を打破しなければ勝ち目は消え失せる。かといってあの呪霊へ近づこうにも、障害の概念として認識される今のシナズには難しい。それ故に主へと思念を伝えた。
「……そっか……分かったよ。任せた……!!」
環へ伝わった決死の覚悟。その意思は固く──梃子でも動かないことが分かった。分かってしまった。故に操作を自律行動へと切り替える。こうなってはもう止めることはしない。呪霊をシナズに任せた環は今一度隙を作るべく、羂索へ畳み掛けた。
環は左手の甲を相手へ打ち付ける。続けて右掌底を。環は自身の術式と拮抗する展延効果を感じていた。すぐに羂索は展延を解除する。術式発動と領域展延は同時に行えないためだった。次に訪れる術式効果──重力による制圧も恐れることなく、環は攻めを継続する。
羂索の取った手段は呪霊操術の行使であった。重力の術式にはインターバルが存在するうえに、展延と生得術式の切り替えの精度を保つにも限界はある。羂索であっても異なる術式の同時発動は不可能であり、三種の手札を切り替えるローテーションをこなしていた。インターバルとの兼ね合いで選ばれた呪霊操術による隙潰し。取り出されたのは棘の生えた呪霊であった。
呪霊は肉壁の役割を果たすことになる。環が右腕を軽く振るった一撃で、見るも無惨に崩れ去った呪霊の体。さらに左フックが羂索の頬へ突き刺さった。
「まだ!!もう一発──!?」
攻めの姿勢を崩さない環は、続けて放った右ストレートの拳を上手くいなされたことに気づく。自らの右腕に添えられた羂索の両手。そして眼前に浮かぶ──極小の『うずまき』。
(しくった──!!)
咄嗟に環は両腕で防御する。受けた反動で若干後方に仰け反った姿勢となった。羂索はさらにもう一発の『うずまき』を構えている。
「まだまだ」
高密度の呪力が環の胸部を貫いた。
シナズは貯蓄していた百足の群れを全て吐き出していた。それらへ順転の術式を行使することで進化を加速させる。
本来想定される進化の形は天元と同様──肉体から天地へと魂が昇華するものであった。天元の場合は結界術によって自我を保っていられたものの、式神では無理のある手法である。そのため、進化の果てに生じる余剰エネルギーを扱うやり方の『塔』は環に重用されていた。
シナズは余剰エネルギーと自らの術式リソースを全て肉体へ還元し続けた。既に『無明夜叉羅』を解除している黒い甲殻が音を立てて軋む程の負荷。それでもなお止まることのない進化と
明らかに異質な呪力。呪霊は"あらゆる障害"を取り除く故に、現在のシナズは呪霊にとって明確な障害として認識されていたハズであった。
『ガゴンッ』と空性結界に響く音。黒黒とした宝輪は大きな音を立てて回転した。その後静止した宝輪には目もくれず、呪霊は術式を行使しようとして──不発に終わる。
ひび割れた胴節部、欠け落ちていく歩肢。今まさに崩れていくシナズの肉体は──障害として認識されていない。呪霊の下へと這い進む姿は決死のソレであった。
呪霊は掌印を組むことで術式対象の拡張を図っていた。主である羂索の計画遂行の障害。現在敵対する式神としての存在。様々な概念として認識を改める度──宝輪は回る。その度に障害としてシナズを捉えられなくなっていた。
気づけば呪霊の目前に迫っていたシナズ。呪霊は術式を行使することなく、巨体をもって相手を押し潰そうとする。立ち向かった呪霊がシナズへ覆い被さる直前──『ガゴンッ』と音が鳴り響く。
しばらく動きの止まった巨体。すると呪霊の魂が天地へ返されていく。シナズによる術式行使は呪霊が穏やかな成仏を果たすまでに至った。パキパキと体節の割れる音が鳴ると、ついには確かな喪失感を術師へ齎す。残された黒い宝輪は鈍く光を返していた。
「……死んどけよ。人として」
「もう空っぽだからな」
呪力が貫いたことでぽっかりと空いた穴。そこから血は流れることもなく、ザワザワと百足が蠢き跡を塞いでいる。既に環の必要な臓器等は置き換わっており、胸部は大部分が空洞と化していた。
環はすぐに地面へ拳を叩きつける。めくれ上がった石版が羂索の視界を妨げ、その間に環は距離を離した。
「……ありがとう。
返答する思念もなく、黒い宝輪は徐々に崩れていく。しかし環は全てを理解し、そして感謝の言葉を発していた。
環の両掌に"矛"が形成されていく。自らの臓器を消費して作り上げた小さな宝塔と銀竹。二つを混ぜ合わせて放つ渾身の──
「『
瞬間的に領域内を埋め尽くす力場。負荷に耐えきれず領域は崩壊する。顕現した醜悪な樹木と錫杖を祀る牢閣は同時に消えていった。
領域展開を終えたことで、互いの術式が焼き切れている現状。反転術式で左半身を治癒する羂索へ環は飛びかかる。赤い双眸は未だ健在のままで、上段蹴りを仕掛けていた。
「のんびり治していいぞ!!」
「──ッ!!タフだね!!」
『矛』による破壊と呪力消費は環にも負担になっていた。それを気にすることもなく、環は呪力操作のみで戦闘を進めていく。
続く環は右拳の打撃を放つ。羂索はスムーズにそれを左手の甲で捌くと、縦拳を胴へと向けた。低い姿勢で距離を詰める環。左耳に拳を掠らせながらもインファイトを仕掛けていた。
さらに加速する環の攻勢。すると遂に互いの術式が回復する。両者は互いの術式が回復したことを感覚的に理解していた。
(勝つ!!反転術式と領域で呪力を削った!!術式が回復した今!!重力で動けなくなる前に──仕留める!!)
さらにキレを増して強化された環の拳が羂索の防御を──貫く。左前腕部の中程から折れた証拠がハッキリと見えた。
重力の効果範囲から環ならば容易く避けられる。しかし防御を貫くほど深く踏み込んで殴り抜いてしまった彼には、発動の早い
「不死殺し──いってみようか!!」
『うずまき』
肉薄して右掌を向ける羂索。反転術式による治癒を後回しにした左腕の負傷は痛々しいものだった。しかし、凝集し渦巻く呪力の塊は環の頭部へ向けられている。
頭部を穿たれれば不死といえども一瞬動きは止まる。次に放たれるであろう重力への対処が不可能となることが予想された。
羂索の脳裏には宝輪の存在が過ぎったものの、あれは魔虚羅の真似事であると結論づける。環の背部や見える場所にそれが浮かんでいる様子もなく、再現するには自らの命と引き換えにしなければならないと予想していた。
環が蓄えていた百足のストックも、もう此処には残っていない。シナズ程の高い能力を持った式神を、今すぐ生み出して対応することもまず不可能だった。シナズがいない今、完全に死へ至る環を蘇生する者は存在しない。
凝縮された一瞬、環の懐から見えた短筒。あの日、真人が殺した内通者。そして操術席に残された1本の──
シン・陰流『簡易領域』!!
「オマエ達が殺した──与幸吉の置き土産だ」
「そうきたか……!!」
簡易領域は『うずまき』による高密度の呪力を弾く。環は一度受けた極小の『うずまき』による不意打ちを警戒していた。
与幸吉へ結界術を封じるアイデアを披露したのは環である。与を蘇生する際に訪れたダム湖──そこに倒れ込む傀儡の、操縦席内部に転がっていた、未使用の簡易領域が封じられた短筒を環は回収していた。これが最後の1本。術式を必要とせず、呪力を込めれば発動する仕掛けであった。懐に備えていた1回限りの防御策が功を奏した形になる。
表情の強ばった羂索が重力の術式を発動するよりも、さらに速く環は動いた。一度きりの機会をものにすべく伸ばした右手。掴んだものは──
「随分無茶したねぇ」
「……夏油さんに言われたくないですよ」
既に解体されたハズの宗教施設。五条袈裟を身に纏った長髪の男がその和室の一角に座り込んでいた。特徴的な前髪を一房垂らして、ニヤニヤと胡散臭い表情のまま話しかける。
環はその男へ悪態を吐いてから座り込んだ。初めて会ったあの場所。呪術へのめり込むきっかけにもなった出会いを環は思い出していた。服装は戦闘後のままで、異様にボロボロの状態である。
「百鬼夜行で高専に侵入した時。僕が無駄足になること気づいていたんでしょう?言ってくださいよそれくらい」
「いやいや、言っても止まらないから黙っておいたんだ。天元とも縁は出来ただろう?よかったじゃないか」
相変わらず笑みを崩すこともなく彼は言葉を続けていた。さっきまでその額に縫い目が走っている者と戦っていたせいで、思わず環の言葉にも棘が多くなっている。
「……家族達のことも、ありがとう。心残りではあったんだ。無事でいて何より」
「本当に心残りだったなら死なないでください。美々子と菜々子がそっち行くところでした。全くもう……」
頭をかきながらおどけてみせる男に対して、環のため息は止まらない。これ以上の愚痴を抑えるためにも男は環へ向き直った。
「それじゃあ……腹は決めたかい?」
「……はい。おばあちゃんの長話が待ってますから」
夏油傑へ向ける言葉。あの時に言えなかったことだけが環の心残りであった。しかし、なんの偶然か会うことはできた。それだけでよかった。妄想であっても構わないと──そう結論づけて。
行使する術式は順転ではなく反転。彼の望まない蘇生を選ぶこともなく、手向ける言葉は──
「さようなら。夏油さん」
「さようなら環。元気でね」
短いエピローグへ続きます。