大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話 作:アラベスク@arabesuque_38
「つっかれた~」
口から溢れた大きなため息。ぐぐーっと伸びをすると背筋が軋みをあげた。
美容師としての仕事は性に合っていると思う。ただ、それは仕事が大変かどうかとはまた別の話。
接客業という職業柄、いろんな人と相対する必要があること。それは日々ストレスとして蓄積されていくものだ。
それを考えると……あの広大なキヴォトスで多感な時期の少女相手に仕事をしている彼の苦労はいかほどのものだろうか。
『先生、お疲れ様。暇な時にお返事貰えたら嬉しいです』
そうは思っていても、こうしてモモトークを送る手は止まらない。「暇な時」という言葉を免罪符に今日もメッセージを送った。
──彼が、すぐにメッセージを返してくる人だということを知りながら。
『お疲れ様。どうしたの?』
ぽこん、と気の抜けた電子音に口角が上がる。
『先生はまだ仕事?』
わかりきったことを聞く。この人がいつも遅くまでシャーレに残っているのは知っていた。
『そうだね。カズサは?』
『今終わったとこ』
彼の仕事の邪魔になるってことくらいわかっている。それでもメッセージを打つ手は止まらなかった。たわいもない話をつらつらと書いていく。
そんな時間がたまらなく好きだった。
『あ、先生』
インカメラにしてピースサイン。今日は少し毛先を弄ってみた。気が付いてくれるといいけれど────、
『少し髪の毛弄った? 似合ってていいと思うよ』
そんな心配はいつも杞憂に終わる。目ざとく、気が付いてほしいところに気が付いてくれる彼は、褒め言葉も欠かさない。
『いつも思うけど、他の子にもそんな風に言ってるでしょ』
『そんなことないよ』
────だって。そんなはずないのにね。いつか誰かに勘違いされて襲われても文句は言えないよ?
『カズサのことは特によく見てるからね』
────ほら。またそうやって勘違いさせようとしてくる。
いい加減わざとなんじゃないかって思ってしまうくらい。
『はぁ……ねぇ、先生。ちょっと時間貰ってもいい?』
これは少し先生に教えていけないといけないね。いつまでもそんな風にしていると、どんな目に遭うのか。いい加減、覚悟を決めてくださいね。
そんなことを考えながら、シャーレへと向けて歩き出した。
***
「ん……先生、髪伸びたね。ちょっと切ってあげようか?」
急にシャーレへとやってきたカズサがそんなことを言い出した。プロとして活躍している彼女にそんなことをさせるわけには、と最初は断ったのだけれども。
「……気になっちゃったから。それに私がやりたいって思ったんだし……あ、そうだ。せっかくなら私の練習台になってよ」
にやり、とわざとらしく目を細める彼女。「練習台」という言葉がただの免罪符だということくらいは、理解しているつもりだ。
でも────、
「先生の可愛い元生徒のお願い、まさか断るなんてことしないよね?」
そうやって屈託のない笑みを見せられると二の句が継げなくなってしまうのだった。
「とりあえず、簡単に梳いて整えるだけね」
彼女が仕事道具を取り出すのを横目で見る。ポンチョのようなもので身体を覆われた私は、ひとまず彼女に背を向けていた。
シャキシャキと金属製の刃が心地よい音色を奏でる。自由自在にハサミを操る彼女はさながらオーケストラの指揮者のようだった。
「──……先生」
「なあに」
「先生って、まだあんな風なことを気軽に口にしてるの?」
「……本当のことだからね」
はらりはらり、と視界の端で切られた毛先が落ちていく。押し黙ってしまった彼女が静かにハサミを操る音だけが耳に触れた。
彼女が言いたいことはなんとなくわかる。幾度となく彼女からは釘を刺されていた。「いつか、勘違いする子が出て大変なことになるよ?」と。
今でもその言葉のことを覚えているけれど、いまいち実感を得たことはなかった。
だって本当にそう思っての言葉だったし、何より今となっては生徒たちより二回りも年齢が上なのだから。
贔屓目に見ても、おじさんがカッコつけて何か言ってるな、以上の感想は出てこないと思う。
「……はぁ」
そんなことを彼女に言うと、深いため息を返される。
やれやれ、と白けたような表情を浮かべた彼女がハサミを置いた。少し大きいサイズの手鏡を手に、カット後の髪型を見せてくれる。
「さっきも言った通り、とりあえず髪の量を減らして整えただけだから。ちゃんとしたカットをしたいならお店に来て」
ちょっとぶっきらぼうな彼女の言い方のわりに、丁寧にカットされた髪をマジマジと見た。私が良く行く安い床屋でする時よりもすごく見栄えがいい。
「ありがとう、カズサ。行くときはちゃんとカズサを指名するね」
「ん……あ、そうだ。最後の仕上げがまだあった。ちょっとこっち向いてくれる?」
「え、あ、うん。はい、これでい────」
鏡を手に持ったまま彼女の方に顔を向ける。
ちゅ、と触れた柔らかな感触。くちびるに当たる熱。わずかに触れ合っただけなのに湿ったように濡れている。
蕩けてしまいそうなくらいに熱いものがこみあげて、身体中を飲み込んでいった。
「言ったじゃん。『肝に銘じておきなよ』って」
獰猛な肉食動物の目。猫みたいな彼女の瞳は、爛爛した輝きを放っていた。