大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話 作:アラベスク@arabesuque_38
ひそひそ、と。まるで他人に聞かれたく話をするような低い囁き声。仕事のことや、お互いの伴侶のことに愚痴をこぼす声。バーテンダーに対して自分のことを話している常連客のような初老の男性。
カウンターに沿って置かれた四角いナプキンと厚紙で作られたコースター。その上に乗せられたカラフルなカクテルとその周りを彩るように添えられたくし切りのライムをぼんやりと眺めた。
「ノア君、楽しんでいるかな?」
「ええ、おかげさまで」
鼻に付くきついオーデコロンの臭い。耳障りがよいとは言えないくぐもった声。隣の椅子がギッと軋みを上げた。
品定めをするような視線で私のことをねぶる年配の男性。接待相手のお得意様。遠目には自分の上司が別の相手と歓談している姿が見えた。
突然回ってきたお鉢に少々げんなりする。既婚者なはずの目の前の男の左手には鈍く光る輝きが見えなかった。
「少しノア君と飲みたいと思ってね。彼には悪いけど抜けてきてしまったよ」
「まあ……それは光栄です」
取ってつけたような笑みを顔に貼りつけて大袈裟に喜んで見せる。今日だけで少なくとも二十回、その脂ぎった視線を身体の至るところに感じていた。
きちんと仕立てられたスーツに注意深く結んだシルクのネクタイという出で立ちは、地位相応の貫禄を感じさせられるのに。私はどうしても、この人のことを好意的に見ることができなかった。
「一杯だけ付き合ってくれんかね?」
「……──ええ、喜んで」
本心では断りたかった。でも、その選択肢は私にはない。
手慣れた仕草でバーテンダーに合図を送るこの男は、どれだけ苦手であろうが今回の商談のキーマン。ここで愛想のひとつでも売っておかないと、後で困るのは私たちなのだから。
──こんなにいい雰囲気のバー。どうせならもっと素敵な男性ときてみたかった。
ふと脳裏に浮かぶのは頼りない風体の、頼りがいのある男性の顔。いつも書類の山に埋まって呻いている姿を思い出す一方で、脅威に対して毅然と立ち向かう誰よりも生徒のことを考えるおとこのひと。
「────B-52です」
初老のバーテンダーの落ち着きのある声で思考の海から引き起こされた。
目の前に置かれたショットグラス。三色の層が作られた見た目も美しいカクテル。
「ふふ、ここからがおもしろいんだ」
隣で得意げに笑う声を無視してカウンターの向こうにいる紳士の手元に視線を注ぐ。一番上の層に火をつけ、青白い炎が彩りを添えた。
「ストローで素早くお召し上がりください」
差し出されたストローをジッと見つめる。見た目の美しさに騙されそうになるけれどこのカクテルの度数が高いことを私は知っていた。カウンターの下で私の膝に手を回す男の顔は、楽し気に揺れている。
「──いただきます」
くちびるを窄め、ストローを咥える。隣から注がれる視線は無視して目の前のグラスに意識を集中させた。
クリームの甘さ、コーヒーの風味と柑橘の風味が鼻の奥から香ってくる。一息に中身を飲み干し、後からやってきた余韻に酔いしれる。バーテンダーの腕の確かさが伝わる一杯。
「いい飲みっぷりじゃないか。どうだね? もう一杯」
心地よく浸っていた余韻を壊すように割り込んでくる声。さすがの私も、我慢の限界だった。彼に見えないように手で合図を送る。
「一杯だけの約束ですよ?」
隣から伸びてきた手をヒラリと交わし慌ててやってきた上司と交代した。悔しそうに顔を歪める彼に頭を下げる。「楽しかったですよ」とくちびるに手を当てながら笑みを浮かべると、溜飲を下げたように前へと向き直った。
もう帰っても大丈夫、とお墨付きをもらった私は、昼と比べて涼しくなった夜の街をフラフラと歩いていた。
どうせなら────なんて脳裏を過ぎった行動。ふと脳裏を過ぎった彼に会いたいと思ってしまったのもお酒に酔わされてしまったからだろう。
────少しくらい、甘えてもいいですよね?
『先生、ちょっとお時間いただけますか?』
端末に浮かんだ文字列を眺め、送信ボタンをタップした。
***
「あ、せんせえ」
「あちゃ~……ノア、結構酔ってるね」
「うふふ、よってませんよぉ~?」
ノアに呼び出されて夜の街へと繰り出した。日が落ちるとさすがに昼間の陽気も影を潜め、幾分か過ごしやすくなっている。それでも肌に貼りつくような湿度の高い空気にシャツが背中に貼りつく不快感は如何ともしがたかった。
彼女に指定された場所まで着くと、ふわふわと頭を揺らして楽しそうに鼻歌交じりの彼女の姿。明らかに酒精に飲まれた様子の彼女を遠巻きにけん制し合っているハイエナたちを視界に収め、小走りに駆け寄った。
「ノアがこんなになるなんて、珍しいこともあるもんだね」
「せんせぇ~……なんだかふわふわします。おそらのうえにういてるみたい」
生塩ノアはお酒に弱い。最初は意外だと思ったのだけれども、彼女が人前でそういう姿を見せないのは徹底した自制心の賜物だ。
彼女が泥酔する時は決まってユウカと一緒の時かはたまた私と一緒にいる時だった。フラフラと踊っているかのような足取りの彼女を背中に乗せる。
彼女の家までは遠いし、一人で帰ることも難しそうだ。
「──……仕方がない、か」
「あはは。せんせぇのせなか、おっきいです」
しがみ付かれてむぎゅっと押し潰された大きなふくらみ。彼女が身動ぎをするたびにカタチを変えていく柔らかい感触をできる限り意識の外に置く。
これは不可抗力だから仕方ない、決して疚しい思いがあるわけではない。そんな風に言い訳がましく理屈をこねながら、来た道に向けて歩き出した。
「せんせえ……さいきんつめたくないですかぁ? わたしだって……せんせえ、もっとかまってくれたっていいんじゃないですかぁ?」
ノアのサラサラとした髪が頬を撫でる。ふわっ、と漂ってくる花のような甘い匂い。首筋に顔を埋め、鼻先をグリグリと擦りつける彼女に理性の糸が引き絞られていく。
ふんふん、と鼻息を荒げる彼女にあえて返事はせず、そのまま黙って歩き続けた。
もう生徒と先生なんて言い訳はストッパーにならない。あの頃、彼女を止める言い訳にしていたお決まりの科白。翻せば私自身を縛る枷でもあったのだから。
「ノア、着いたよ」
「ふわ……せんせえのにおい……」
ようやく着いた愛しの我が家。夢とうつつのはざまに揺れる彼女を普段使いのベッドまで誘導する。
ぼふりと枕に顔を埋めてグリグリと顔を擦りつけるノア。ぐちゃぐちゃに乱れた髪。愛用の枕にはくっきりと赤いルージュが付いてしまっていた。
「お水取ってくるから」
「いや、いかないでください」
台所へ向かおうとした私の裾をノアが掴む。凄まじい力で引っ張られ、気が付いた時には彼女に組み伏せられていた。
艶やかな銀色のカーテンが顔の周りを覆う。暗く翳った彼女の表情を伺うことはできなかった。
「せんせい……わたしはもう、こどもじゃないんですよ?」
艶々と妖しく光る花弁。半分だけ赤く彩られたつぼみが緩慢な動きで近づいてくる。くちびる同士を重ねるだけのあどけないキス。
私の頭に両手を回して何度も何度も執拗に重ねてくる。お互いの熱を交換するような激しさに二人の境界がなくなってしまった。
「──……いいの?」
「おもいっきり、せんせいをきざみこんでください」
────それから先のことは、言うまでもないだろう。
***
「……あ、あの。昨晩のことは……忘れて、いただけませんか?」
翌朝。すっかり正気を取り戻した彼女がか細い鳴き声を上げた。彼女自慢の記憶力は酔っていてもなくならないようだ。
「────それはできそうにないかな」
ぐちゃぐちゃに乱れた髪で耳まで朝焼けの色に染めた彼女の口を、今度は私の意思で有無を言わさないように塞いでしまうことにした。