大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話 作:アラベスク@arabesuque_38
「うふふっ、先生。いかがですか?」
先生をお呼びしての定期研究報告会──という名の逢瀬をするのも、これで何回目になるのでしょうか。
先生は相変わらずご多忙で……忙しい仕事の合間を縫って、こうして私の元へと足を運んでくれている。
私は昔も今も変わらず、究極の美食を探究する毎日。でも……私の中ではもう、私にとっての究極の味はわかりきっていました。
「美味しいよ。ハルナのコッコ―ヴァン、ようやく食べられたね」
先生と夜の食堂で研究した料理。鶏肉を柔らかくワインで煮た単純な料理。もちろん下拵えは万全に、隠し味も怠ってはいなかった。
あのときは扱えなかった本物のワイン。こうして先生と食卓を囲んでいるときも嗜むようになっていた。
「うふふっ、それは何よりですわ。私の一番特別な御方におもてなしができて、喜んでいただけたのなら……それが私にとって特別な瞬間ですから」
一番好きな御方と一緒に過ごす時間。美食にとっての大切なシチュエーション。私にとっても、そんな時間がいつだって特別ですわ。
最初は私自身のために始めたこと。それがいつの間にか目的が変わってしまっているだなんて、あの頃の私に聞かせたら怒られてしまいそうですわね。
「こうしていつもご馳走してくれるし、ハルナには何かお礼をしないといけないね」
「あら、私が好きでしていることですのに。うふふ……でも、先生のお気持ちは嬉しいですわ。実は私……まだ味わったことのない美食がありますの」
食べ終わった食器を下げて先生の隣へと腰を下ろす。机に置いたグラスの中で赤紅色の液体が静かにさざ波を立てた。
「聞くところによると……それはとても甘美で、幸福で、特別な味がするそうですわ。フフフ……そのような美食、私が味わわないわけにはまいりません」
もちろん、お手伝いいただけますわね? と彼の瞳を見つめる。私を魅了する笑みを顔一面に浮かべて、ゆっくりと首が縦に振られた。
頬が緩む。抑えきれない歓びが、喉をついて出てしまいそうだった。グラスを満たす液体を口に含む。芳醇な味わい。ほのかな酸味と調和するように感じる僅かな苦味。存分に口の中で味わい尽くし、ゆっくりと喉を鳴らした。
飲み下したワインよりも赤い舌をゆるりとくちびるへと這わす。先生の視線がそれを追って動いているのを感じた。
もう一度、赤紅色の液体を口へと含む。少し、こうして酒精で理性を飛ばさないと、私も……少々、恥ずかしいと感じてしまう。
意識の空白をつくように彼のくちびるに触れた。彼の後頭部を抑え、舌でくちびるをこじ開ける。口に含んだ液体を重ねた粘膜の向こう側へと流し込んだ。
殿方にキスを強要するという征服感。はしたない────という背徳感と交わって、より一層の味わいを感じられた。
「料理は下拵えが肝要ですわ。それに……美食の道を探究し、共に歩める方ができたら……そう願っていました。そして、それが貴方なら……と」
絡み合った私たちを繋ぐように透明な架け橋が作られて、ぷっつりと音もなく消えていく。最後に深く深く、彼のことを貪りつくさんとばかりに強く口を吸い、くちびるを離した。
「先生さえよろしければ……共に歩んで下さりませんか?」
差し出した私の手を彼の視線が捉える。私の腰に回された手にぎゅっと力がこもり、そっと私の手を取った。
──うふふ。運動後の美食は格別なもの。それが、先生とともにできるのであれば、なおのこと……ですわ。
「では、先生。改めまして……この後、少しお時間いただけますか?」
今宵も、美食の探検と洒落込みましょうか。
***
カーテンから差し込む朝日に目を細めた。全身を覆う気怠さ。腰の辺りが特に疲労が溜まっていた。
ゆっくりと身体を起こすと、さらさらとした銀糸がまばゆい朝日の中で煌めく。隣で毛布を押し上げるふくらみ。閉じられた瞳と規則正しく上下する隆起に目を細めた。
シーツの上に散らばった彼女の髪に触れる。艶やかな色。丁寧に手入れがされていることが伺える。無造作に触り続けるのもよくない、と首を振って布団から這い出した。
肌着すら身に着けていない自分の恰好を見下ろして苦笑する。その辺に転がっていた下着を拾いつつ、タンスの中から着替えを取り出した。
────洗濯は、後でまとめてしてしまおう。
『美食にとって、シチュエーションもなくてはならない存在です』
そんな彼女の言葉が脳裏に蘇る。
──ああ、と本来の目的を思い出した。昨夜はそのための下拵えだったというのに、随分とはしゃいでしまったものだ。
軋むベッドの音。彼女が目を醒まさないことを確認してキッチンへと足を向けた。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターをやかんに入れて火にかける。ハルナからレクチャーを受けてしっかりと軟水のものを用意した。その方がコーヒー本来の甘味や酸味、風味を楽しめるとのこと。
コーヒー用とは別にケトルでもお湯を沸かす。こちらは水道水で十分だろう。
冷蔵庫から小分けに保存されていた豆を取り出してコーヒーミルへと入れる。本当は手で挽いた方がいいのかもしれないけれど、プロではないので電動ミルを使おう。
ガガガガガと景気のいい音を立てるミルを一瞥し、今度は沸かしていたお湯の方へ。ケトルはちょうど準備ができていたのでドリッパーとサーバー、そしてカップを温めておく。
ドリッパーにフィルターをセットして、沸騰したお湯はドリップポットに移して少し置いておく。挽き終わった粉からは目の覚めるようないい匂いが漂っていた。
フィルターに移した粉にお湯を少し注ぐ。表面に含ませたお湯を蒸らし、二十秒ほど待つ。それから小さく円を描くように少しずつお湯を注いでいった。
コーヒーの馥郁とした香りが鼻腔をくすぐる。入れ終わったコーヒーかすの表面には細かな泡が残っていた。
「ふふっ、良い香りですわね」
「おはよう、ハルナ」
「ええ。おはようございます、先生」
シャツを一枚だけ羽織った姿のハルナがキッチンに顔を出した。白い布地の向こうに透けて見える肌が目に眩しい。
注ぎ終わったコーヒーを彼女へと手渡した。これが彼女が味わいたいと言った美食。男女が一夜を共にした後、一緒に味わう「夜明けのコーヒー」。
「……最愛の殿方と結ばれ、睦みあい……そして頂く目覚めの一杯。これぞ正しく……──うふふっ、本当に暖かいですわ」
白磁のような肌をほんのりと桜色に染める。キラキラと輝く赤紅の瞳。満面に喜色を浮かべる彼女の相貌は、この世界の何よりも美しかった。
「悪魔のように黒く、地獄のように熱く、天使のように純で、まるで愛のように甘い。そして────これぞ正しく……私にとっての真の美食ですわ」
彼女の煌めきに目を奪われた私は、そっと彼女の身体を抱き寄せて────、
────コーヒーの味をお互いに分け合うことにした。