大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話   作:アラベスク@arabesuque_38

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外科医氷室セナの憂鬱

「ふぅ……」

 

 ハードな一週間だった。思わずため息が漏れてしまうほどに。四六時中、当たり前のように痛い肩はことさらに重たい。腰を捻るとおよそ人体が立ててはいけない音が狭い更衣室に鳴り響いた。

 今週は当直が多く、ただでさえ疲労が溜まっているのに。とどめとばかりに長時間のオペをようやく終えた。引継ぎも終わって久しぶりのまとまった休暇。まずは何時間も何も食べられていない空腹を満たさなければ。

 それが終わったらゆっくりと温泉にでも入って、マッサージでも受けてメンテナンスでもしよう。

 ため息を吐きながら着ていた白衣を脱ぐ。疲労とともにおなかが早く何かを食べろと主張する。昔ならこんな時コンビニもので済ませていたけれど、何故だか今日は無性にお肉が食べたい気分だった。

 

「…………焼肉にしましょうか」

 

 患者を手続きのカウンターに呼ぶ声。担当医が呼び出される放送。待合室で待つ患者たちの騒めき。それらを後にして開かれたガラス扉の外に歩き出す。

 もうすっかり日も落ちて外灯がともっている。ヒールがコンクリートにぶつかる音を聞きながら行きつけの店へと足を踏み出した。

 

 昔からひとりで待機するのも苦ではなかった。何かあった時、すぐに駆け付けられるようにご飯もコンビニもので済ませていたあの頃。いつのまにか、ひとりでいることが時折辛く感じる瞬間が生まれていることに気が付いてしまう。

 先生が差し入れてくれる甘いお菓子が嬉しかった。帰りたくないとワガママを言って先生を連れてのドライブ。当番でシャーレに行った時に淹れてくれたコーヒーの味。

 お互いに忙しくて、最近ではモモトークでの会話もできていなかった。

 無言で端末を取り出して、ピンク色のアプリアイコンをタップする。スーッと画面をスライドさせていき、目的の人物のトーク画面を呼び出して────、

 

「────いえ、やめておきましょう」

 

 忙しい人だ。今でもなお、生徒たちのためにキヴォトス中を奔走しているのだろう。かつて私たちにそうしてくれていたように。

 そんな彼を、元生徒である自分が疲れさせても仕方ない。どちらかといえば今すぐにでも彼のことを搬送して、病室のベッドに縛り付けてしまう方が彼のためになるのかもしれない。

 いつも働きすぎで、青白い顔に真っ黒な隈を深く刻み込んだ彼の顔を頭に浮かべると────少し気持ちが楽になったような気がした。

 ぐるんぐるん、と思いっきり肩を回す。何故か私の胸元に集中したすれ違う人たちの視線を振りほどいて、空腹を満たすために夜の街へと繰り出した。

 

***

 

「上カルビ二人前とホルモン三点盛、それにライスとビールを大ジョッキで……ああ、壺焼きカルビもお願いします」

 

 注文を受けた店員の背中をぼんやりと目で追う。注がれた水にはまだ手を付けない。周りからは肉の焼ける香ばしい匂い。既に限界を超えていた空腹が唸りを上げて主人に供物を催促する。

 いつもならタン塩やロースを少しずつ頼み、時折カクテキやサンチュを挟むけれど。こんなにも疲れて空腹の時は最初からカルビとライス、そしてビールと決めていた。

 ──こんなところ、誰にも見られたくないものですね。妙齢の女性が一人、焼肉店で肉とライスを頬張りながらビールを流し込む。そんな、くたびれた姿を見知った誰かに見られたらと思うと────、

 

「お待たせしました。ビールと上カルビです」

「────、ありがとうございます」

 

 ぼうっと、そんなことを考えていたら頼んでいたものがやってきた。艶々とした色。綺麗に入ったサシが食欲をそそる。ドン、とテーブルに置かれた大ジョッキには並々と注がれたビール。金と白の美しい配分。「完璧ですね」と心の中で呟いた。

 カルビを火にくべ、燃料が投入されたことで燃え上がる炎を肴にジョッキを傾ける。しゅわしゅわとした炭酸が喉を通り抜け、キンキンに冷えた液体が胃へと注がれる。

 昔はあまり得意ではなかった苦みが全身を貫いていき、気が付いた時にはジョッキの中身が半分にまで減っていた。

 焼いていた肉をひっくり返し、頃合いを見てタレに付ける。ご飯の上に一度バウンドさせて口へと放り込んだ。肉厚で、口にいれた瞬間にジュワッと旨味が広がっていく。タレの付いたご飯を口に入れ、ビールで流し込む。まさに極上の味わいだった。

 

「すみません、ビールの大を」

「あ。それ、もうひとつください」

 

 ひと通りカルビを片付けてホルモンにじっくりと火を通す。いつの間にかジョッキが空になっていることに気が付いた私が追加注文をする。誰かがそれに割り込んできた。

 えっ、と。聞き覚えのある声に網から視線を離す。不健康そうな青白い顔、真っ黒な隈が深く刻まれた目元。頬を緩めて優しく微笑んでいる先生の姿がそこにあった。

 

「────先生、どうしてここに」

「いや、偶然ここを通りかかってね。窓の外からセナが見えたから」

 

 相席でもいいかなと微笑む彼に黙って頷く。あまり見られたくないところを見られてしまった。焼きあがったホルモンを黙って突く。脂がジワリと口の中に広がって独特な食感が私の口を楽しませてくれた。

 

「ホルモン、好きなの?」

「ええ、まぁ……先生もいかがですか?」

「いいの? じゃあ頂こうかな」

 

 焼きあがったレバーを先生の皿へと乗せる。「ん、美味しいね」と目を細めて頷いた彼と、やってきたビールで乾杯した。

 それから運ばれてきた肉を先生と一緒に食べ、近況について報告し合う。相変わらず忙しそうな先生も、明日はちょうどオフらしい。「じゃあ一緒に出掛ける?」なんて、私が口にできなかった言葉でスマートに誘ってくる彼は、こういう意味でも相変わらずのようだった。

 空腹が満たされた所為か、彼の何気ない一言がことさらに胸をざわつかせる。ジッと彼の目を見つめ、シャツの隙間から胸の谷間に溜まった汗を拭う。ちらりと感じた彼の視線には気が付かないフリをした。

 アルコールを摂取したことで熱を帯びた身体、ソワソワとするような感覚が私の胸を襲う。唐突に口数の少なくなった私に気が付いたのか否か、いつもの調子で話を続ける彼がビールのジョッキを静かに傾けた。

 

***

 

「ふぅ……食べた食べた」

 

 ひとしきりお腹を満たし、店を後にする。肉の脂で少しばかり艶やかな色合いをする彼のくちびる。「付いてますよ」と口にしようとして、その言葉を飲み込んだ。

 

「先生、この後もお時間ありますか?」

「ん? 特に予定はないよ。どうしたの?」

 

 首を傾ける彼を人目の少ない路地裏へと引きずり込む。「え、え?」と動揺する彼を壁際に追い詰めた。

 

「どうしたのセナ」

「……医者は想像以上にストレスが溜まるのです」

「そ、それとこれとでどんな関係が?」

 

 ゴクリと上下する彼の喉仏に視線を向ける。珍しく狼狽する彼の腕をぎゅっと掴んだ。

 

「ところで……三大欲求について、先生はご存知ですか?」

「う、うん。知ってるけど」

「生きていくためにとても重要な三つの欲求です。私たちは先ほどそれをひとつ満たしました」

 

 獲物を前にした蛇のように舌を出す。彼のくちびるのてらてらと光る鈍い輝き。それを伸ばした舌で拭い取る。貪るように彼の熱を求め、本能のままに舌を絡ませた。

 

「残り二つを満たすために、うってつけの場所があるのですが」

 

 通りの先に見える蛍光色のネオン看板を指す。腹に感じた熱と、黙って奪い返されたくちびる。私たちの間にもはや言葉はなく、踊るように建物の中へ吸い込まれていった。

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