大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話   作:アラベスク@arabesuque_38

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プログラマ小鈎ハレの憂鬱

「はぁ……糖分が足りない……」

 

 呻くようなため息と共に机の下に備え付けた小さな冷蔵庫の中からエナジードリンクの缶を取り出す。愛用しているコンパクトなミニ冷蔵庫は、もっぱら妖怪MAX専用の格納スペースになっていた。

 机の上に散乱した大量の空き缶を脇に避け、突っ伏しながらプルタブを開ける。炭酸の弾ける爽やかな音は曇った私の心を晴れさせるには足りず、リクライニングチェアが主を失って軋みを上げて戻ってくる。その鈍い音が私の心をさらにどんよりとさせた。

 防音設備の整った自室は外の喧騒とは無縁の世界。慣れ親しんだ炭酸の刺激と糖分の甘さ、カフェインによって冴えわたる脳とは裏腹に重たい身体をリクライニングチェアへと沈み込ませた。

 

「人の心も、顕微鏡で覗き込んで、見ることができたら良いのに……」

 

 在宅での仕事は外界のストレスもなく、職場よりも遥かに整った環境で日々の業務に打ち込める。そして何より、エナジードリンクを自販機まで買いに行かなくてもすぐに飲むことができるというメリット。私にとっては楽園のような場所だった。

 それでも面と面を合わせていないコミュニケーションは、こちらがよくても相手の方が慣れていないだけで双方にとって多大なストレスになる。

 つい先ほどもクライアントへの説明が上手くいかず、予定よりも打ち合わせの時間が長引いてすっかり疲弊してしまった。

 

「ヴェリタスの部室が懐かしいよ……」

 

 くぴ、と甘ったるい炭酸飲料を流し込む。喉を刺すような刺激。あの頃の妖怪MAXはもっと美味しかったはずなのに。

 チヒロ先輩がいて、コタマ先輩もマキもいて。時々思い出したかのように顔を出してくれるヒマリ部長がいて────そしてあの人も、先生も……妖怪MAXを手土産に、会いに来てくれていた。

 ずっとひとりでいると無性に人肌が恋しくなる。や、その……別に変な意味ではないけれど。アテナ3号がいつも一緒にいてくれるとはいえ、なんとなく誰かの存在を求めたくなってしまうのだ。

 あの頃から変わらず先生に惹かれるこの心。それを分析するためには、もっと多くのデータが必要だと結論付けていたけれど。今のこの状況はまさに、うってつけなのではないだろうか。

 

 ────なんて、ただ単純に寂しくなって。先生に会いたくなっただけなんだけど。

 

『先生、ちょっと時間いいかな?』

 

 深く考えることを放棄して端末に文字列を打ち込んだ私は、普段はたっぷり三分ほどしている推敲をすることなく「えいやっ」と送信ボタンをタップした。

 

***

 

「や、先生。ようこそ、我が家へ」

 

 玄関を開けると雨の音がした。髪の毛からは雨粒を滴らせ、少し息を上げた男の人。私の急な呼び出しにも嫌な顔ひとつもせず、「急いで行くね」と駆け付けてくれる彼に「水も滴るなんとやらだね」なんて冗談めかして言うと少し恥ずかしそうに俯いた。

 

「急に夕立だなんて。天気予報も信頼できなくて困るね」

 

 そんな誠実な人に対して嘘を吐いた。確かにキヴォトスで一般的に使われている予報では今日は一日曇りのはず。でも気まぐれで作った私の天気予報AIが導き出した予報ではちょうどこの時間から夕立がくると告げていた。

 

「先にシャワーを浴びてきたら? いや、別に変な意味ではないよ?」

 

 雨に濡れたから、髪を洗いたいでしょ? と着替えを一式手渡した。いつかこんな日がくるといいな、と思って用意していた大きめのスウェット。流石に下着はないけど、という言葉はかろうじて飲み込んだ。

 曇りガラスの向こうで衣擦れの音がする。いつも自分が使っているところに彼がいるかと思うと変に心がざわついた。

 もう仕事はおしまい。ディスプレイのスイッチを切ってキッチンの冷蔵庫へひたひたと歩いていく。取り出した蒸留酒をグラスに開けて、飲みかけの妖怪MAXをブレンドする。

 ネットで見たカクテルだけど、結構ハマってしまっている。悪酔いをしたり、中毒性があったり、とあんまり飲み過ぎはよくないみたいだけれども。ここには私と先生しかいないから平気だね。

 

「あ、先生。お帰り。はい、駆け付け一杯」

 

 髪をタオルで吹きながら、シャワールームから出てきた先生にカクテルを手渡した。二人で軽くグラスを合わせて傾ける。初めて飲む先生は「少し変わった味だね」なんて笑っていたけど。

 そうして私の勧めるがままにカクテルを飲み続けた先生は、ずいぶんと酔いが回っていた。最初こそ私の仕事の悩みとか、最近のキヴォトス事情とか、そうした真面目な話をしていたのだけれども。

 ゆらゆらと波打ち際にあるブイのように頭を揺らす彼に「少しベッドで休んだら?」と促した。「流石に悪いよ」と断る彼を無理やりベッドに寝かしつける。

 

「先生の服は濡れちゃってるでしょ? 乾くまで時間もかかるし」

 

 うーん、と唸りながらも限界だったのか、先生がベッドに倒れ込んだ。

 瞼を閉じて静かに寝息を立てる彼の髪をかき上げる。穏やかな表情。この瞬間を永遠に楽しみたいと思ってしまう。

 ──ねぇ、先生。先生にとって私の家は居心地がいいのかな? こんなに無防備に、こんなに無自覚に、私の前で寝てしまうなんて。

 

「ネットも自由に使えるし、エナジードリンクもたくさんある。それに、その……私もいる、し……」

 

 独身の女性が、独身の男性を家に呼ぶ意味を、先生は少し考えた方がいい。ああ、先生の気持ちも私の先生への気持ちも、数値化できればよかったのに。

 呑気に「ハレ……」と夢の中で私のことを呼んでいる先生に、ゆっくりとくちびるを重ねた。

 

「ハレ……?」

 

 先生の瞳がぱっちりと開く。幽霊でも見たような表情。失礼しちゃうね。

 この期に及んで何が起きているのかもわからないような顔をするのはどうかと思う。

 

「ほら……据え膳食わぬはなんとやら、だよ? あ、今のは先生の好きな意味で捉えてもらっても、いいよ?」

 

 二回目のキスも……慣れ親しんだ、甘ったるい味がした。

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