大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話 作:アラベスク@arabesuque_38
「はぁ…………」
二人掛けのテーブルにビールジョッキを叩きつける。ドスン、という鈍い音が店内に響くけれど、私の立てた音はすぐに周りの喧騒に掻き消されてしまった。
中身の空になったジョッキを掲げて店員におかわりを注文する。すぐに運ばれてきたジョッキを傾けて、一気に半分くらい胃の中に流し込んだ。もう三杯目にもなるというのに一向に気分は晴れてくれない。
頼んでおいたチョリソーにフォークを突き立て、乱暴に噛み千切った。ああ、あれもこれもすべてあの小憎らしい上司のせいだ。
事あるごとに仕事を押し付け、やることと言えば私にセクハラをするくらい。「アコくん。君、肩が凝っとるそうだね。どうかな、私が揉んであげてもいいが」ですって? 誰のせいで肩が痛いと思っているのか。「デカいのをぶら下げとると大変だろう?」ですって? その卑猥な視線を向ける目をくり貫いてやろうか。
私が誰の尻拭いをするために一人で深夜まで残業をして仕事を片付けていると思っているのか。その癖自分は「いや、妻と子を待たせているのでね」なんて言いながら毎回定時に帰る。こっちの身にもなってほしいものだ。
思い出すだけでもムカムカとしてきた。グイっと残り半分も胃へと流し込む。ああ、またおかわりを頼まなければ。
仕事を押し付けられるのもまぁいい。あんな上司よりも直接私がやった方が百倍効率がいい。セクハラしてくるのも……百歩譲って許してやろう。こっちはきちんと証拠を残しているのだから、最終的には出るところに出てやる。
なによりも許せないのは「そんなしかめ面をしとるから彼氏の一人もできんのだぞ」という完全に余計なお世話な一言だった。あんたに言われるまでもなく、私に釣り合うだけの男がいないのだから仕方ないだろう。
女一人、こんな風に行きつけのビアホールで飲んでいると、嫌でも男が寄ってくる。ただ、そんな男どもの中にいいひとなんているわけがないだろう。
今日だって二人ほど寄ってきた男をあしらったばかりなのだ。どいつもこいつも私の胸にいやらしい視線を向けて、魂胆が丸見えなのだから。少しは隠してみたら? と声を大にして言いたい。
男なんてみんなそう、無駄に大きく育ってしまった胸かぴっちりとしたパンツスーツに包まれたおしりしか見てこない。はぁぁぁ、ともう一度大きくため息を吐いた。ああ、またジョッキが空になっている。
背もたれのないスツールに座り続けているせいか腰まで痛くなってきた。そういえば最近は愚痴を誰かに聞いてもらってない。確かあの頃はいつもあの人に聞いてもらっていたっけ。
今思えばあまりにも子供っぽい行動で顔から火が出そうだし、あの人にとってもいい迷惑だったのだろうけど。嫌な顔ひとつせず……いや、少しは嫌そうな顔をしてた気もするけれど。毎回私の話に耳を傾けてくれていた。
────どうしてあの人には愚痴を吐き出せたのだろう。そんな疑問はアルコールに飲まれて消えてしまっていて。
『先生、少々お時間頂戴できますと幸いです』
気が付いた時にはやたらと固い文言を打ち込んで送信ボタンをタップしていた。
***
「せんせえ~、おそいじゃないですかぁ」
「やぁ、アコ。今日もだいぶお疲れみたいだね」
アコからやたらと固いモモトークを受け取った後、彼女に指定されたビアホールへと向かう。案の定というか、既に泥酔しきったアコがジョッキを片手に管を巻いていた。
こうして彼女に呼び出されるのは何も今に始まったわけではない。生徒だったときも「用がある」と呼び出されては愚痴を聞いたり、彼女が大人になってからもこうして、よく呼び出されていた。
呼び出されること自体迷惑だと思ったことはないし、彼女の愚痴を聞くのも嫌いな訳でもない。むしろ、出会った頃から変わらず忙しそうな彼女の負荷を少しでも肩代わりできていたら嬉しいとさえ思う。
「って、きいてますかぁ? せんせぇ、あいつったらまぁたわたしのむねばかり──」
風紀委員会所属だった時は敬愛する上司がいたおかげでまだマシだったようで、今となっては以前よりもストレスがひどいようだ。何度か仕事を変えてみるように言ってはみたが「負けたような感じで嫌だ」と突っぱねられた。
────まぁ、優秀な彼女のことだ。今にその嫌な上司に取って変わるくらいのことはやってのけてしまうのだろう。
「そういえばぁ、さいきんこうはいができたんですよぉ~けっこうものおぼえがよくてあまうせんぱぁいってしたってくれてるんですぅ」
ひと通り愚痴を吐き出して満足したのか次は期待の新人君に話題が移る。無能な上司とは違ってかなり優秀らしく、アコも気を良くして色々と教えてあげているらしい。
曰く手が触れただけで顔を真っ赤にするところが可愛い、だとか。「天雨先輩、何か手伝えることはありませんか?」と残業に付き合ってくれる、だとか。この間はご飯に誘われた、だとか。
「あははっ、みどころがあっていいこなんですよぉ……あれぇ、せんせ~? わたしのはなし、きいてますかぁ?」
「──……あ、ああ……ちゃんと聞いてるよ」
気が付いたら鼻筋に皺が寄っていた。幸い彼女は気が付いていないようだけれども。不純な感情に対しては妙に鋭いくせに、妙なところで変に鈍いところは昔から変わっていない。
きっと件の後輩君の向けている感情にも気が付いていないのだろう。もっとも、気が付いてもらっても困るのだけれども。
「あ~あ、わたしにもいいひとがほしいのに……なんでこんな……うぅ……」
かと思ったら今度はシクシクと泣きだした。普段は抑えつけられているのか、お酒に酔うと感情がすぐに表に出る。喜怒哀楽を全身で表現する彼女を愛おしいとさえ思う。
アコならすぐにいい人が見つかるよ、と頭を撫でた。
「そんなこといってぇ……なぐさめるだけなぐさめてわたしのことはぽいですかぁ?」
そんな妙に人聞きの悪い。別に私が良くてもアコが気に入らないんでしょう?
「はぁ? わたひがいつそんらことをいいまひたぁ? こぉなったらかけまひょうか?せんせいがまけたらせきにんをとってもらひまふからぁ」
フラフラと揺れる彼女が「おもへ」と言い、私が黙ってコインを宙へと放り投げた。
ゆっくりと落ちてきたコインをキャッチする。「はやくひらいてくだひゃい」と私を睨むアコに向けて見せつけるように被せていた手を退けた。
コイントスの結果は────あえて、語る必要もないだろう。
***
「きょりがちかいですよぉ……べつに、きらいなわけじゃ……くぅ」
背中に感じる僅かな重み。胸のつかえがとれたような表情を浮かべ、すやすやと寝息を立てる彼女。帰路につく私の足取りもまた、来たときよりも幾分か軽くなっていた。