大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話 作:アラベスク@arabesuque_38
思わず叫びだしたくなる夜だった。
机の上に山のように積みあがった書類。捌けども捌けども一向に量が減っていかないのは一体どういうことなのだろうか。
連邦生徒会から送られてきた書類、ミレニアムで発生した爆発事件の顛末書、ゲヘナに行った際に解決した騒動の報告書、トリニティで生徒たちのために使った費用の経費申請書、等々。
机の上にはコーヒーとエナジードリンクの缶が散乱していた。いつもだったら自分で淹れているのにそれすらも億劫で、インスタントにお湯を注ぐ時間すら惜しかった。
目の下にどんよりと蓄積された疲れは、歌舞伎の隈取のようにくっきりと陰になっていた。一体いつから家に帰っていないのか。それどこか今が一体何時なのかすら曖昧。最後に仮眠を取ったのも遥か昔に感じてしまう。
一度大きくため息を吐いて背筋を伸ばす。およそ人体が起こしてはいけないような類の音。首を左右に大きく回すとこれまた断続的な音の連鎖が執務室に響いた。
段々と霞み始めた視界を少しでも回復させようとして親指でこめかみを揉む。目頭をグリグリと押してやると少しはマシになったような気がした。
────それにしても全然仕事が進まない。
先ほどから五分作業をしては背筋を伸ばし、首をぐるりと回して、目の疲れを取る。これの繰り返し。かれこれ二時間以上こんな感じだった。
飲み過ぎて吐き気すら覚える黒い液体で喉を潤して、目をこすりながら書類に視線を戻す。ああ、ついに字が躍っているように見え始めた。
────ああ、そろそろ限界かもしれない。
寝てしまおうか。いや、でもこの書類を片付けないと。
そんな葛藤で雁字搦めになってしまった。
ちょうどその瞬間。机の隅に放り投げていた端末がピロン、と電子音を立てた。
────誰かからモモトークでもきたのだろうか。
タイミングがいい。生徒からの相談事だったらちょうどいい気分転換になりそうだ。そんな少し不謹慎なことを考えながら画面をタップする。
『先生♪(´▽`) 少々お時間よろしいですか?』
画面の青白い光に一瞬目がくらみ、眩しさに慣れた私の目に映ったのは────、
────かつての生徒から送られた懐かしいメッセージだった。
***
相談があるから時間があれば会いに来てほしい──そんな連絡をすると思った通り、すぐに先生は私の元を訪ねてきてくれた。
青白く生気のない顔、目の下に描かれた隈は遠目からでもくっきりと見える。歩いているときも少しふらついている様子から、今回もかなり無理をしているらしい。
────そんなときでも生徒の……いえ、元生徒のために急いで駆け付けてしまうのですね。
自分で呼びつけておいて、という葛藤とこうでもしないと、という決意の二律背反。公園の隅の方、人けの少ない場所に先生を手招きした。
「ようこそ、先生。今日のご体調はいかがですか?」
「うーん、まぁまぁかな。それよりもセリナから連絡なんて珍しいね。どうしたの?」
頬を緩めて笑みを浮かべているつもりなのだろうけれど、傍目から見ると引き攣っているようにしか見えない笑顔。普段の優しい微笑みを浮かべるために表情筋をむりやり動かそうとしているけれど、それに失敗している。
まるで錆びだらけのブリキ人形のようだった。
「ふふふ。立ち話もなんですから、こちらへどうぞ。先生もお忙しいところありがとうございます」
「いやいや。セリナのためならいつでもどこでもこうして駆け付けるよ」
先生が腰を下ろしたのと同時に持ってきたバスケットの中からお弁当箱を取り出してシートの上に並べる。
お手製の卵とキュウリのサンドイッチにバルサミコ酢仕立てのサラダ、ヨーグルトにスコーン、そしてクロテッドクリーム。紅茶は流石にその場で淹れるわけにもいかないから、水筒に移したものを用意した。
「これは……? セリナ、どういうこと?」
バスケットから次々と取り出されるピクニックセットに先生が首を傾ける。
「作戦成功、ですね」
その表情が見たかった私は、深くため息を漏らした。
元々は、頑張りすぎな先生を休ませるためにできることはないかと考えていたことがはじまり。そのうちに昔、彼に同じようなことをされたことを思い出した。
思えばあの時からだったのだろう。彼のことがこんなにも愛おしく、大切だと感じるようになったのは。彼のおかげでこんなにも大事な気持ちを抱けるようになったのは。
「先生はいつも、皆さんのために頑張っていますから」
────だから少しくらい、こんなふうに休んだってかまわないんですよ?
先生と一緒に楽しくお話をして、ささやかなティータイムを楽しんだ。
おなかが満ちて、限界を迎えた先生を膝の上に誘導する。たしかな重みが膝の上へと乗せられて、まだ高い日射しを遮るために彼の目元を手で覆った。
私たちの間を涼やかな風が通り抜け、小さく口ずさんだメロディと重なり合う微かな寝息をさらっていく。
澱みの取れた穏やかな表情に跳ねた高鳴りのままに、ゆるやかに距離をゼロにした。
「ふふふ。幸せですね」
微かに残るクロテッドクリームの甘さに口元が緩んでしまう。
その後に飲んだ紅茶は、いつにもまして幸せな味をしていた。