大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話 作:アラベスク@arabesuque_38
その日は特に仕事が上手くいっていた。
『尾刃主任、この書類についてですが……』
『ああ、これはここを直して先方に届けてくれ』
『はい、承知しました』
私を支えてくれる優秀な部下たちは、十を言うこともなくこちらの意思を汲み取ってくれる。もちろん日々のコミュニケーションを疎かにしたことはないし、その積み重ねの結果がもたらしてくれた結果なのだと思う。
配属当初は仕事に慣れず、覚えることも多いながらも必死に食らいついてきた彼らはもはや立派な戦友になっている。
こんな私を上司として慕ってくれて「主任のためならがんばれます」と言ってくれた時は思わず目頭が熱くなってしまった。
頼れるのは部下たちだけではない。
『尾刃君。先ほどの書類だが、上の許可を取ってきたよ。このまま進めてくれ』
『本当ですか? この稟議は正直通らないと思っていましたが……』
『いや、君たちが頑張ってくれたおかげだよ。私は君たちが完璧に仕上げてくれた資料を説明するだけなのだから楽なものさ』
私の直属の上司もまた、尊敬に値する人物だった。私たち部下の提案と上層部からの要求を上手く調整して現場に負荷が掛からないようにしてくれている。おかげで仕事をする上で煩わしさを感じたことがなかった。
やり手の仕事人間らしくどんどんと仕事を取ってくるけれど、私たちが疲弊することがないように細やかに目を配ってくれる。
────かつての私にこれができていれば、と思わない日はなかった。
積みあがったタスクを整理し、部下たちのスケジュールを確認し終えた頃。ちょうど今すぐにやるべき作業もなくなってしまっていた。来週になれば提出した資料に対する回答が返ってくるだろうから、またやることはあるのだけれども。
時計の針は定時を少し過ぎたところ。部下たちはまだ机に向かって作業をしていた。このまま帰ることもできるのだけれど、なんだか後ろめたさを感じて近くの部下に声を掛ける。
「ちょうど手が空いてしまったのだが……何かできることがあるかな?」
「いえ、あと十分程で終わるので大丈夫ですよ」
「もう定時も過ぎていることですから、たまには早く上がったらどうですか?」
「折角の金曜日ですし、羽を伸ばしてください!」
そんな部下たちの声に押され、無理やりまとめさせられた荷物と一緒に執務室の外へ放り出されてしまった。
────仕方ない、と上司にメッセージを送る。「たまには飲みに誘ってよ」と以前言われていたのを思い出した。
『折角誘ってくれたところ申し訳ないんだけれども、今日は奥さんの代わりに子守りをしなくちゃいけなくて……また今度お願いします』
ごめんなさい、と犬が両手を合わせるスタンプと一緒にそんな返答が返ってきた。
────さて、本格的に暇になってしまったな。
このまま家に帰っても冷蔵庫から出したビールを片手に動画サイトでドラマや映画を見るだけ。それはなんだかいつも通りすぎて味気ない。
かといって今からどこかに出かけるのも…………ああ、そうだ。
脳裏にある人物の顔が過ぎる。「いつでも連絡してね」と言われ、その言葉のままに卒業した今でも連絡を取り合っている彼の顔。
『先生。お忙しいところ恐縮ですが、少々お時間よろしいでしょうか?』
昔から変わらない、指摘されても直らない……いや、直す気もない呼称を添えて。
端末に浮かんだメッセージを何度も確認してから送信ボタンをタップした。
***
「「乾杯」」
先生といつもの屋台で合流してお互いにジョッキをぶつけ合う。並々と注がれた金色の液体が零れないように一気に喉に流し込んだ。ウーロン茶を卒業してからはビールが焼き鳥のお伴になっている。
しゅわしゅわとした炭酸が喉を通り抜け、キンキンに冷えた液体が胃へと注がれた。心地よい苦みが全身を駆け巡り、気が付いた時にはジョッキの中身が半分にまで減っていた。
「やっぱり仕事終わりの焼き鳥は格別ですね」
苦味が焼き鳥の脂を一日の疲れごと押し流し、さらにもう一本と食欲を増進させる。気が付けばテーブル上の皿も空になっていた。
「うん。カンナの言う通り、このお店のは一味も二味も違うよね」
ニコニコと楽しそうな笑みを浮かべる目の前の男性も、ジョッキを一気に空にした。「今日はちょうど飲みたい気分だったんだ」と私の誘いに二つ返事できてくれた先生。
彼だって仕事が忙しいだろうに、元生徒の私にこうして付き合ってくれる。「生徒と一緒にお酒を飲むのが夢だったんだ」なんて言う彼はいつも楽しげでつられた私の頬も緩んでしまう。
「生中、ジョッキを二つおかわりで」
「……カンナ、飲み過ぎないようにね」
「ふふっ。大丈夫ですよ、先生」
すぐにやってきたジョッキをもう一度彼とぶつけ合い、喉を潤す。普段ならこんなに羽目を外すことはないのだけれども、彼と一緒であれば……今の私にも鎧を外せる場所が必要だから。
かつて先生と生徒の恋愛は……なんて話もしたけれど、今となってはもうそれも昔の話。ヴァルキューレの狂犬ではなくなった私を縛る枷ではなくなっていた。
「ふぅ、飲んだ飲んだ。カンナも顔が真っ赤だけど大丈夫? 送っていこうか?」
「──……私はまだまだ満足していませんが」
帰路に付こうとした彼の服を引っ張る私の手には、犯人を確保した時よりも強い力が込められていた。
***
朝、カーテンの隙間から漏れる太陽の眩しさに目をしかめた。ガンガンとフライパンをおたまで叩いたような不快な音が頭の中で鳴り響いている。いつもだったら起床時間を告げてくれるはずの目覚まし時計も今日は仕事をしてくれなかったようだ。
のっそりといつもよりも気怠い身体を持ち上げる。全身を包み込む倦怠感、ジクジクと下腹部に感じる疼痛。何よりも自分の寝室で感じるはずのない違和感。
「ここは…………?」
見慣れない天井。自分の服装もいつもの寝間着ではなく、何故か男物のシャツを一枚だけ羽織っていた。どうやら下は履いていないようだ。
隣からは規則的な寝息が聞こえてきた。おそるおそる布団を捲る。見慣れた、しかし自分の家では見るはずのない人物。
────ああ、そうか。
その一瞬で事態を把握して、ボッと顔に熱が灯る。別に難しい話でもなんでもない。酔った勢いで迫った女の気持ちに男が誠意をもって応えた──ただそれだけの話。
────まぁ、幸せだからいいか。
目の前にある問題は珍しく先送りにして、倦怠感に身を任せてもう一度瞼を閉じた。