大人になった生徒たちが先生の時間を頂く話   作:アラベスク@arabesuque_38

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経営者桐藤ナギサの休息

 厳かなクラシック音楽を背景に声を潜めた低い囁き声が耳を撫でる。仕事のことや、お互いの伴侶のことに愚痴をこぼす声も織り交ぜられていた。

 常連客のような初老の男性がバーテンダーと親しげに言葉を交わす。カウンター上に置かれた四角いナプキンと厚紙で作られたコースター。カラフルなカクテルとその周りを彩るように添えられたくし切りのライムをぼんやりと眺めた。

 

「ふぅ…………」

 

 何の気なしにため息が口から零れた。手元のカクテルグラスをくるくると意味もなくもてあそぶ。

 週の終わり、溜まった疲れを癒すために足を運んだバーラウンジ。ぼんやりと時間を過ごすには最適の場所。

 普段酷使している脳にひと時の休息を与えるために周囲の音に耳を傾ける。ゆっくり時間が過ぎていく様を肴にアルコールを楽しむ。

 生産性などあったものではない時間だけれども、こんな余分な時間が今の私には必要だった。

 たとえ規模がそこまで大きくないとはいっても、経営者としてある以上気苦労がない瞬間は訪れない。まして経験豊富な海千山千の怪物たちからすれば私などそこらの小娘と変わりはないのだから。

 

「それでもなんとか今週も乗り切れましたね……」

 

 社交や外交、かつてティーパーティーのホストと呼ばれていた頃から担っていたことではあるけれど、いつまで経っても慣れることはない。

 日々の疲れを癒すために、こういった場所に足を運ぶのもやむを得ない。何せ会員制でもないとひっきりなしに節操のない男性に声を掛けられて休む暇もないのだから。

 日常を忘れるために訪れる空間に、無粋な人物は一人たりとも入れたくはなかった。

 

 ────多少はご褒美があってもよいのではないでしょうか。

 

 今週は特にのらりくらりとこちらの交渉を交わし続ける妖怪のような人物との商談を成立させた。本当にハードな一週間だったのだから。

 

『先生、少々お時間を頂けないでしょうか?』

 

 今この瞬間、もっとも一緒の時間を過ごしたい人物へメッセージを送る。

 彼と過ごす時間が、これ以上ないほどに自分自身へのご褒美となるのだから。

 

***

 

 ホテルの最上階に位置するバーラウンジ。場末の居酒屋がよく似合う男だと自負している庶民派の私からすれば、気後れしてしまうような厳かな場所。涼やかなベルの音と一緒に耳に入ってくるクラシックの調べは、紛れ込んだヨレヨレのスーツ姿の場違い感を白日の下に晒す。

 ボーイに案内されるがままに端の方にある席へと通される。周りからはよく見えない奥まった場所。ようやくそこに見知った顔を見つけ、ほっと胸をなでおろした。

 

「やぁ、ナギサ。待たせてしまったかな」

「ごきげんよう、先生。急にお呼びたてしてしまい、申し訳ありません」

 

 ティーパーティーのホストと呼ばれていた頃から変わらずの上品な所作。元からある美しさはより洗練され、彼女がいる場所だけが輝いているようにさえ見えた。

 久しぶりの邂逅。今日はどこか陰のある表情さえも息を呑む程に美しく、喉が渇いてもいないくせに湧き出てきた唾を飲み下した。

 

「や、ナギサのお誘いなら喜んで……でも、こういうところは慣れていないから何か粗相があったらごめんね」

「ふふっ、そこまで固くならなくても。ここには先生と私しかいませんよ?」

 

 上品に口に手を当ててころころと笑う。艶やかな流し目とつやっぽく弧を描く曲線。今日はなんだか当てられっぱなしだった。

 成人して余裕を得た彼女は向かうところ敵なしといえる。伝え聞く限りでは男性からの誘いも星の数ほどあるとかないとか。それが決して放言ではないことを思い知らされた。

 

「先生、何か飲まれますか?」

「ああ、そうだね……ナギサは?」

「ふふっ、せっかくですから……先生に選んでいただきたいですね」

 

 責任重大だ。小さなメニュー表には聞いたこともないような種類のお酒が並んでいる。

 値段は……今は見なかったことにしよう。

 

「じゃあ……これなんかどうかな?」

 

 ロングランド・アイスティー。

 紅茶が好きな彼女にぴったりな名前をしている。中身がどんなものかはわからないけれど、意外といい線をついているんじゃないだろうか。

 ふと、彼女がペットボトルの紅茶を飲んだ時の渋い顔を思い出した。もしかしたらあの時と同じ反応が返ってくるかもしれないな。

 

「あら……先生ったら。私にこんなものを飲ませてどうするおつもりですか?」

「……え?」

 

 うふふ、と意味ありげに目を細めたナギサの視線に射抜かれる。大きくはねた心臓に気が付かないフリをして、彼女に理由を問うた。

 

「あら、残念です。知ってて勧めていただいた訳ではないのですね」

 

 ロングランド・アイスティー。ウォッカ、ジン、テキーラ、ラム酒といった錚々たるメンバーの揃った、いわゆる「女殺し」と呼ばれるアルコール度数の高いカクテル。

 知ってて勧めるなら、しかるべき下心があると受け取られても仕方がない代物だった。

 からかうような視線を向けながらクスクスと笑う彼女に謝罪をしてメニューと向き合う……けれど、すぐに白旗を上げた。

 

「ところで……先生はカクテル言葉、というものをご存知でしょうか?」

 

 情けないけれど、下手なものを勧めるよりは……ということでメニューを渡すと、不意に彼女がそんなことを言い出した。

 カクテル言葉。花言葉と同じようにカクテルにも意味を持たせたものがある、ということは知識では知っていた。

 

「たとえば……モーニンググローリーフィズ」

 

 朝顔の名を関するカクテル。秘められた意味は「貴方と朝日を迎えたい」。

 彼女の笑みが一層深まった。なんとも直球な言葉。彼女の口元が蠱惑的な曲線を描いている。

 

「これはいかがですか?」

 

 グランドスラム。秘められた意味は「二人だけの秘密」。

 瑞々しさを演出するグロス。ぷるんと震えるくちびるが艶めかしく揺れた。

 

「どうされました? お顔が赤いようですが……もう酔われてしまったのでしょうか」

 

 ナギサの白魚のような指が文字の上を踊る。象牙で作られた女神像のように美しい肌。うっすらと薔薇のような色に染まりつつある彼女の頬から目が離せなかった。

 

「たとえば……私がここでシェリーを、なんてお願いしたとして……先生はなんと応えてくれるのでしょう?」

 

 ナギサに教えてもらわなくても、流石にその意味は私も知っている。重ねられた彼女の手が私の心までも絡め取った。

 蠱惑的な囁きがぬるりと脳髄を赤く染め上げる。冷静な判断はもう、とっくの昔にできなくなっていた。

 

「ふふっ、ご心配なく。部屋は取ってありますので(・・・・・・・・・・・・)

 

 ご丁寧に退路までも塞がれて。ここまでお膳立てされて、目の前に用意されたご馳走を受け取らない選択肢は私の中にはない。

 差し出されたカード状のルームキーを、迷うことなく手に取った。

 

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