ビャールナンはいきなり突き落とされた。真っ暗な世界に。ついさっきまで、アインズとかいう化物の目の前にいたはずなのだが。
「痛ッ!」
床にひざから落ちた。石ででもできているのか、固い何かにぶつかった。しかし、辺りは真っ暗で何も見えない。訳がわからない。すぐさま脳裏に浮かぶのは、この理不尽な状況への怒り。
「おのれ!おの……!ヒッ!」
ふと、左手に何かが触れた。思わず手を引っ込める太った王。
「な、何だ?」
小枝のようだったが、感触がそれではない気がする。そしてよく耳を澄ますと、何やらカサカサと擦るような音がそこかしこからした。どこか聞き覚えのあるような音だ。
冷や汗が湧き出す。ここはいったい何なのか。自分はどういう状況にあるのか。
するとこの真っ暗な部屋にぼんやりとした光が現れた。10メートルほど先に赤い光が。その赤い光を背負った、何者かが床の下から現れた。
息を呑むビャールナン。
現れた存在から声が届く。よく通る落ち着いた声だ。
「はじめまして。わたくし、この領域の守護を任されております。恐怖公と申します」
「恐怖公?」
どこかで聞いた名のような気がする。どこでだか忘れてしまったが。それに逆光の上、光自体が弱いので、姿が朧だ。顔どころか全身がハッキリしない。だが、そんな事はどうでもいい。
ビャールナンは姿勢を正すと、この恐怖公と名乗る相手に宣言した。
「わしはマガーハ藩王国、国王、ビャールナン・カンマ・ヌシュラジだ。わしを国に戻せば、そなたに褒美をやろう」
「褒美ですか。どのようなものが貰えるでしょう?」
「望むものだ」
「では、あなたの身をいただくのが我が望みです」
「な、何を言っている!?わ、わしをい、いただくとはどういう意味だ!?」
「そのままの意味ですが。すなわち、我が眷属があなたを"いただく"のです」
恐怖公は、杖を軽く振るった。
それを合図に、あちらこちらからザーっという砂が押し寄せるような音がした。
ビャールナンは、狼狽えながら周囲を見回す。薄暗い赤い光に慣れてきたのか、辺りにいるものがだんだんと見えてきた。そしてそれは見覚えのあるもの。何度も見たおぞましいもの、ゴキブリだった。それが部屋中にひしめいていた。
「ひゃぁー!」
悲鳴とも鳴き声とも取れるような声を上げる、太った王。唯一言葉を解すこの部屋の主に、縋るような視線を向ける。だが今その正体が分かった。この部屋の主、恐怖公もまた巨大なゴキブリだった。
「……!!」
口は開閉を繰り返すだけで、息もできない。瞼は開いたまま、閉じるのをやめてしまっている。全身は凍らされたように動かない。
恐怖公は悠然と言葉を綴った。
「いずれにしても、アインズ様よりあなたに罰を与えよとの命を受けているので、国に帰る望みはかないません。ですがご安心を。あなたの命は保証されておりますし、心が壊れる事もないでしょう」
「…………」
彫像のように動かないビャールナンは、ゴキブリの海に沈んでいった。
「ハッ!」
ふと目を覚ましたビャールナン。とてつもない悪夢を見ていたような気がする。ゴキブリに体中を食いちぎられるという夢を。
「ゆ、夢だったのか……。はぁ……」
心の底から、安堵のため息を漏らす太った王。そして、とりあえず体を動かそうとする。しかし動かない。
「ん?」
ぼやけた頭がハッキリしてくる。何かに縛られている。そう感じた。さっきまでの安堵感は消え失せ、焦りが浮かぶ。慌てて辺りを確認すると、壁に拘束されていた。まるで拷問を受ける罪人のように。
「な、な、何だこれは!?」
さらに周囲の状況が見えてくる。無機質な床に壁。そして近くにある荷台の上には、拷問器具としか思えない道具が並んでいた。ここは拷問室。そんなキーワードが脳裏に浮かんだ。動揺が体に溢れ出す。
その時、聞き覚えのある声が耳に入った。声の方へ視線を向けた。二人の女性と、得体のしれない何かが一体いた。
「この通り、頼むっすよ。ニューロニストさん、いえ、様!」
「ん~、でもねぇ~」
二人の女性に挟まれた得体のしれないものは、くねくねとその身を動かしながら答えていた。
すると一方の女性が、隣の女性に手招きする。
「ほらほら、ナーちゃんも頼んで」
「私は別に場所にはこだわらないから、ここじゃなくてもいいわよ。というか、さっさとケリを付けたいし」
「それじゃ、楽しくないっすよ」
「楽しいのはルプーだけでしょ」
「まあ、そりゃそうっすけどね。ニャハハハ」
朗らかな笑い声が、ビャールナンに届く。そして思い出した二人の女性を。アインズ・ウール・ゴウンに従っていたメイジだ。名前は忘れたが。
次に、その二人に挟まれた存在にも意識が向かう。
それはなんとも形容しがたい姿をしていた。タコを頭に被った緑色の轢死体とでも言うべきだろうか。それがさっきからくねくねと動いている。正体は分からないが、化物なのは間違いない。
「ひゃぁっ!」
思わず悲鳴を上げてしまう太った王。すると三人が一斉に彼の方を向いた。
赤毛三つ編みの女性が話しかけてくる。
「お、目が覚めたんすか。お待たせして、申し訳ないっす。ニューロニスさんが、なかなかお願い聞いてくれないんすよ」
やけに楽しげに話しかけてくる女性。すると隣にいる化物が肩をすくめる。
「はぁ……もう、分かったわん。今度、何かでお返ししてもらうわよん」
「ありがとうございます!この恩は絶対忘れないっす!」
「時間は、一時間」
「い、一時間……!」
「何よ」
「いえいえいえ、それで十分っす」
「それと、道具は綺麗にして、後片付けもしっかりする事。いいわねん」
「もちろんっす!」
「んじゃあ、私はしばらく外すわん」
そう言って緑の轢死体は背を向け、歩き出した。
赤毛の女性は肩を落とす。
「二人で一時間……。片付ける時間を考えると、一時間フルには使えないから……。となると、一人当たり……」
「私はさっさと終わらせるから、ほとんどの時間、ルプーが使っていいわよ」
「そうっすか?んじゃ、さっそく始めるっす」
その言葉を合図に二人は、ビャールナンの方へ近づいてきた。
傲慢不遜で、空気の読めない彼でも分かる。これから自分の身に、恐ろしいことが襲いかかると。目は血走り、口は震え言葉を発せない。
ルプスレギナはにこやかに、凍える子供のような無様なデブに話しかけた。
「お待たせしたっすね。これから楽しい時間の始まりっすよ。まずはナーちゃんから」
「お前ごとき蟯虫が、よくもまあ、ふざけた事を私たちに言ってくれたわね。覚悟しなさい」
ナーベラルは怒りの表情を浮かべ、汚物でも見るような視線をビャールナンに向けていた。そして右手に魔力を集めだす。それを少し下がった位置で、楽しそうに眺めるルプスレギナ。
さっさと終わらせると言った彼女。何の魔法を選ぶのか。魔法を喰らったデブはどんな悲鳴を上げるのか。そして何よりも、その後の残った時間で、どの拷問器具を使うのか、次々と頭を過る楽しみな光景。ルプスレギナに、自然とサディスティックな笑顔が浮かんでいた。
ビャールナンが、その生命を閉じたのは、この45分後であった。
プーリヤンカはふと目を覚ました。最初に気づいたのは唇の甘い感触だった。何気なく口元を触れる。
次に気づいたのは、目に映るベッドの天蓋のようなもの。そして理解する。自分は寝ていると。同時に思ったのは、何故寝ているのかだった。
確か、王都から逃げる準備のため自室に入ったはずだ。それが何故、ベッドで寝ているなどという状態になっているのか。
半身を起こす彼女。すると脇から声がかかった。
「おお、目が冷めたか。我がミューズよ」
「ミューズ?」
プーリヤンカは首を傾げる。そもそも目の前の人物は誰なのか。青い髪に青い髭。なかなかの体躯の男性だ。しかもその身なりは立派なもので、王族と言われても納得してしまう。
だがそれ以上に、自分の心に響くものがあった。胸の高鳴りが。この目の前の人物に、何故だか惹かれていると。演劇であるような、運命の人物に出会ったかのような気持ちだ。
もっとも、そんなものが突然湧き上がった理由が分からない。モモンに対しても、こんな気持を抱いたような気がする。神官として育ってきたために、色恋沙汰に慣れてないせいだろうか、などと思ってしまう。
目の前の、偉丈夫はベッドの脇に椅子を持ってきて座る。
「その顔つき、服装からするとハルケギニアの者ではないようだな」
「ここはハルケギニアなのですか?」
「そうだ。ガリア王国だ」
「ガリア王国……」
彼女は、サハラの西、ハルケギニアの存在は知っているが、そこにどんな国々があるかまでは詳しくなかった。
だがそれ以前に聞かねばならない事がある。
「何故、私はここにいるのでしょうか」
「余が召喚したからだ」
「召喚?」
「お前は、余の使い魔となったのだ」
「使い魔……」
つまりは、この人物と従属関係を結んだという話だった。しかし何故だか、彼女にはそれが甘美なものに聞こえた。揺るがぬ絆のように。
青い髪の偉丈夫は、思い出したように話し出す。
「そうだ。自己紹介をしていなかったな。余は、この国の王、ジョゼフ一世だ」
「ジョゼフ一世陛下ですか。お初にお目にかかります。私は……」
「よい」
ジョゼフは何故か静止の手をかざす。
「お前は、余のミューズだ。それでよい」
「ミューズとは?」
「古い言葉で女神を意味するそうだ」
「め、女神などと……」
思わず頬が熱くなるのを感じる。
ただそれはあくまで、あだ名のようなものだ。そもそも目の前の王に仕えるならば、外で動かねばならない時もあるだろう。なのに女神を意味する名を名乗るなど、使い魔にはふさわしくない。
では本名を名乗るべきか。何故か彼女はそれも気が進まなかった。愚かな王に愚かな父。民の信頼を失い、化物の軍勢に滅ぼされた故郷。それらに対し無力だった自分の名を。
ふと、棚に並んでいる本に目が止まった。それを指差す。
「あの本の名前は、なんと言うのでしょうか?」
「シェフィールドだ。古い言葉で荒野の集まり……だったかな。そんな意味だ」
「陛下からいただいた名をありがたく思います。ただ、使い魔として外で働く場合もあるでしょう。その時は、私はシェフィールドと名乗りたいと思います」
「荒野だぞ?何故そのような名を?」
「荒野だからこそ、開拓しがいがあると言うもの。私はこの地で、何もない所から始めたいと思っております」
「そうか。では今後、そう名乗るがよい」
「はい。陛下」
シェフィールドは深く礼をする。
ハルケギニアに二人目の虚無の使い魔、ミョズニトニルンが誕生したのだった。ただこの時点では、彼女は自分の存在の意味にも、額に刻まれたルーンにも気づいていなかった。
それから月日は流れ、二年の時が過ぎる。ロバ・アル・カリイエ、サハラ、そしてハルケギニアは、程度の差こそあれ各地域の様相は変わることになる。
ロバ・アル・カリイエ編のエピローグを入れたかったのですが、文字数的に微妙だったので、前話には入れませんでした。ただハルケギニア編が始まる次の話に入れるのも、構成が妙になってしまうので、独立させる事にしました。文字数少なめですけど。