アクアの叫びが山の空気を震わせた。アイの手から刃物がこぼれ落ち、何かがほどけたように、アイは泣きながらアクアの胸に飛び込んでいく。
「…おかえり、ゴロー先生!」
二人は互いを確かめ合うように抱きしめていた。まるで、この瞬間をずっと待ち続けていたかのように。
そしてその光景を少し離れた場所から、ルビーは黙って見ていた。
ルビーの唇が震える。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
──ママが、ゴロー先生と再会して、幸せそうにしている。
喜ばしいことだ。ずっとずっとママはどこかで寂しそうで、アクアが無理をして支えてきたのを、ルビーは見ていた。だから、心から思う。よかった。ママが生きていて、笑っていて、幸せそうで、本当によかったって。
でも。
でも。
…どうして、胸がこんなに苦しいの?
思い出す。病院のベッド。点滴の針。無力な体。
そして、唯一希望だった人。
優しくて、あたたかくて、私を「さりなちゃん」って呼んでくれた、あの人──雨宮吾郎先生。
彼がいてくれたから、生きていられた。彼の言葉に何度も救われて、恋をして、初めて「生きたい」と思えた。
たとえ叶わないとわかっていたとしても、それでも…私は、恋をしていた。
そんな人が、いま目の前で──ママと、夫婦だったって、笑い合ってる。
「は…はは……」
ルビーは自嘲するように笑った。ママはアイ。私が大好きだった、B小町のアイ。
最期に「推しに会えるなら死んでもいい」なんてバカみたいなことを言って、そのまま死んだ私の、唯一無二の推しだった人。
その“推し”が、“推し”と恋してた人と、幸せになってる。
「…なにそれ。なにそれ、もう……」
ルビーの視界が歪む。これは涙?なんで?
ママとゴロー先生が結ばれて、喜ばしいことのはずなのに。
心のどこかがギシギシと軋んで、叫び出しそうだった。
わかんない。わかんないよ。私は何を祝福して、何に嫉妬してるの?
「アクア……いや、ゴロー先生。ずるいよ……」
小さく呟いたその声は、誰にも届かない。
でもルビー自身には、はっきり届いていた。
私は今、この幸せな再会に、心の底から笑えない。
私は、前世の未練を捨てきれていない。
私は──私は……
それでも。
「……ママ、よかったね」
最後には、少しだけ無理をした笑顔で、ルビーはそう言った。
──そしてその胸の奥に、誰にも言えない秘密の痛みを、そっとしまい込んだ。
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山を降りた帰り道、ルビーは少しだけアクアから離れて歩いていた。
いつもなら隣に並んでお喋りしているのに、今日は妙に距離を取っている。
アクア──いや、雨宮吾郎は、その沈黙を重く感じながらも、声をかけるタイミングを測っていた。
やがて、ルビーがふと立ち止まり、ぽつりとつぶやいた。
「さっきのこと、ママには内緒にしとくから。…“吾郎先生”が誰なのかって」
アクアも立ち止まった。ルビーの横顔は、どこか切なげだった。
「ありがとう。助かるよ」
「別に……助けようって思ったわけじゃないよ」
「……そうか」
気まずい沈黙が流れる。風が木々を揺らし、葉のざわめきが耳に優しくも虚しく響いた。
「……嫉妬しちゃったんだ」
ルビーが、ぽつんと呟く。
「ママに、じゃないよ。…先生に、かな。いや、どっちにも、かも」
言葉を選ぶように、慎重に、でも確かに感情を押し込めながらルビーは続けた。
「私、前世で先生のこと、好きだった。恋愛的に、本気で。でも叶わなかったの、わかってたし、あれは子供の片思いだったって、思い込もうとしてたけど……」
目を伏せたまま、ルビーは苦笑する。
「今日、先生が“ママを愛してる”って言ってるの聞いたとき、心がぎゅっとなった。…自分でも引くくらい、悲しかった」
アクアは何も言えなかった。ただ、ただルビーの横顔を見つめていた。
「ママのことも、大好きだった。推しだった。憧れだった。でもそのママが先生の“奥さん”だったなんて、知った瞬間、頭が真っ白になって、何が何だかわかんなくて」
そこで初めて、ルビーがこちらを見た。瞳には涙が滲んでいた。
「私って最低だよね。ママの幸せ、祝ってあげたいのに、素直に喜べない。心のどこかで“どうして私じゃなかったの?”って思っちゃったんだよ。最っ低」
アクアは静かに、でも深く息を吐いた。そして、ポツリと口を開いた。
「…ごめん」
「え?」
「お前に、こんな思いをさせてごめん。俺が…もっと早く気付いていれば、あるいはちゃんと向き合えていれば、お前の気持ちも、あのときの気持ちも…少しは救えたのかもしれないのに。俺は医者だったのに…あのとき、さりなちゃんの最後の心を、ちゃんと見てあげられなかった」
ルビーは、目を見開いた。アクア──吾郎の顔は、まるで自分を責めるように歪んでいた。
「…前世でお前を救えなかったこと、ずっと悔いてる。だから、せめて今世ではって…でも、結局また傷つけてる」
アクアは言葉を詰まらせ、拳をぎゅっと握る。
「ごめん。本当に、ごめん」
沈黙。しばらくの間、二人の間を風の音だけが通り抜けた。
やがてルビーは、ふっと笑った。
「……やっぱり、ずるいね。先生は」
「え?」
「そんな顔されたら、許すしかなくなるじゃん。こっちはずっとモヤモヤしてたのに…ずるいよ、ほんと」
アクアの目が揺れる。
「…でも、先生が謝ってくれて、ちょっとだけ、救われたかも。…前世の“さりなちゃん”が、報われた気がするから」
そして、ほんの少しだけ近づいた。
「もう、先生とは呼ばないよ。いまはアクアなんだから」
アクア──いや吾郎は、静かに頷いた。
「…うん。ありがとう、ルビー」
「でもさ。私がどれだけ先生のこと好きだったか、ちゃんと覚えててよね。…それが、私の誇りなんだから」
そう言って、ルビーは先を歩き出した。さっきまでの距離はもうない。隣に立つ足音が、確かにそこにあった。
過去と今が重なって、そしてまた、少しだけ前に進み始めたのだ
めっちゃ悩んだけどやっぱりハーピーエンドにしました