神々、君に背き奉る   作:アグナ

14 / 63
龍神伝説 Ⅳ

 ──彼女の故郷は此処よりずっと西側であった。

 

 元々彼女の父は、偉大なる水の支配者。幾千万もの竜蛇を従える水中の主であった。そんな竜王の娘として彼女はこの世に生を受けた。

 そして生まれ持って彼女は、否──彼女たちは役目を背負っていた。

 

 それは偉大なる教えを多くの人々に説くこと、そしてその教えを守護することである。

 

 彼女は役目を全うした。大地の渇きと人々の飢えを癒すために、水中の王たる竜王の娘として慈雨を地上に授け続けた。

 そんな日々が続く中、彼女の下に教えの研鑽に励む一人の僧侶が現れた。天を舞い、地に恵みを齎す彼女に向って僧侶は言った。

 

 我が国を、今なお干ばつに苦しむ我が国を救いたまえと。態々、極東から遠く大陸までやってきた僧侶はそう言って彼女に乞い願った。

 聞けばかの僧侶は未だ教え無き極東の地より大陸へと渡り、正しき教えを授からんとやってきたという。本来、教えを学び、修練する者たち人々を守ることこそ我が役目。なればこそ教え無き地に足を運び、無信仰者たちを救う義理など彼女にはなかった。

 だが……。

 

 我々の役目は守護のみに非ず、かつてあの方が我々にそうした如く、我々もまた未だ教えを知らぬ者たちに正しき教えを授け、導いてやらねばならぬ。

 

 父はそう言って我ら兄弟姉妹たちに役目を説いた。故に彼女は、彼女に祈雨するその声に頷いたのだ。そうして彼女は遠く遠い異境の空、渇ける極東の空に顕現したのだ。

 地を満たす大雨と共に現れた彼女を異境の者たちは崇め奉った。彼らは大陸より訪れた彼女を権現という日ノ本の神たる新たな称号を与え、鎮守の神として祀り上げた。

 

 新たな地で得た新たな名と守護領地。彼女は異国の地でも役目を全うすべく、慈愛の雨と荒れ狂う水難を祓い治め続けた。

 彼が──訪れたのはそんな日々の中であった。

 

 嵐と疫病を伴って、竜王の娘を前にその男は現れた。

 

 その身は嵐、その身は災厄、その身は異形。故に男は故郷で忌み嫌われ、娶れる妻も存在しなかったいう。だが、鴉の声に導かれ、遠く遠いこの異郷の地を故郷にする竜王の娘であれば妻となってくれるのではないかと信じ、訪れたのだと。

 流離う神、異形の王は過酷な旅と自らの来歴を語り、最後に希った、どうか俺の妻になってほしいと、彼女に頭を下げたのだ。

 

『嗚呼……今でも(わたくし)は貴方様を覚えております』

 

 孤独に流離うその道中、一人彷徨うその寂しさ。

 彼の語る彼の言葉を今も昔も覚えている。

 

『貴方の言葉を、貴方の顔を、貴方の名を……どうして、どうして……』

 

 故に彼女は知っている、聞いている。

 否が応でも理解できる。彼の体験、彼の実感、彼の心理。

 神をも蝕む、孤独の毒を。

 

『夫は何処(いずこ)へ……夫は何処(いずこ)へ……貴方様──』

 

 呼ぶ声に応える声は何処にも非ず。

 寂しさに喘ぐ彼女は不意に自らが舞う空を見た。

 美しい青と燦々と輝く太陽──この国の皇が治めたもう国。

 

 ……そういえば、かつて彼は太陽を隠し、幾千もの悪神を従えて国を荒らす悪王として顕現したという。ならばこそ青空と太陽は彼が治める国に非ず、嵐と曇天こそがかの領地。雲一つとない雨無き土地に彼が居ないのは当然のことやもしれぬ。

 

『嗚呼、ならば、ならば……貴方様のした如く、空と光を再び閉ざせば、貴方様に再び出会えるのかもしれません──』

 

 くおん……と鳴くと曇天が集う。

 ぽつり、ぽつりと、地に水が落ちる。

 地は乾いておらず、人々は雨を乞わず、彼女を呼ぶ声は一つもない。

 

 なれど地上に現れ、孤独に歪み、まつろわぬ身となった彼女に守護神たる自覚は既になく、あるのは孤独に蝕まれ、夫との再会を願う一人の女神(おんな)の姿。

 

『雨よ、雲よ、空と光を遮るがよい。貴方様、どうか、どうかこの雨音を聞いて。(わたくし)の呼びかけを、私の願いを──貴方様──』

 

 斯くて空は閉ざされ、慈雨は山を壊す水害と化した。

 まつろわぬ身たる彼女にもはや己が役割と責任の自覚はなく。

 

 遠き地より舞い降りた龍神は、人々を害す『まつろわぬ神』へと変貌した──。

 

 

 

 

 遂に踏み入った夜叉ヶ池を前に二人は此処まで順調に進めて来た足を止める。

 

「──恵那」

 

「──うん、これは……」

 

 ──夜叉ヶ池。

 龍神伝説を残すそこは景勝地として有名なだけに本来は絶景が広がっているという。

 周囲を山岳地帯に囲われるために、夏に見れば青々と雄大に広がる森林群が、秋に見れば紅葉に染め上がる雅な風景が、美しい池の景観に季節の彩を見せる。

 元より夜叉ヶ池は湧き水と伏流水によって標高千メートルに作られた自然の揺り籠。人の手によって汚されにくい箱庭だ。県の名水にまで選出された水の美しさは、池に対する万人のイメージを塗り替えてしまえるほどに汚れなく、水中には夜叉ヶ池のみに生息する固有種まで住み着いている。

 伝説と神秘、人知及ばぬ自然の芸術。それらが成す優美さこそが、数多の登山客をこの山が引き付けて離さない由縁であるといえよう。

 

 しかし──二人の目の前に広がっているのは違う光景であった。

 

 濃霧、超人的な身体能力を持つ両者ですら数メートル先を見通せないほどの深い霧。まるで光を閉ざすかのような深い深い濃霧が眼前に広がっている。

 

「元々、霧が発生しやすい場所だって聞いてはいたけど……」

 

「雨音さえ閉ざすのは異常にすぎる。それに」

 

 光も、音も、景色も、本来池の外から届くはずの全ての影響は霧の中に閉ざされ、囲われ、遮断されている。これでは本当の意味での箱庭だ。恐らく、すぐ隣に隣接する恵那と十メートルでも離れたならば、姿ごと気配すらも見失うことだろう。神殺しとしての超能力を有する怜志ですらだ。

 

 加えて、霧の内部には畏れさえ抱くほどの深い深い情念で満ちていた。

 悲嘆、傷心、痛哭、哀惜──即ち、度し難いほどの負の情念。

 世界全てを覆い尽くすような、深い悲しみ。

 

「成程。異変は意図したものというより、これが原因か。この場に満ちる神力……流石はまつろわぬ神。ただの感情の発露でさえ、混沌を呼び込むか──」

 

 怜志が口にしたのと同時に──その正体を肯定する様に。

 何処からともなく声が響く。

 

『嗚呼、恐ろしや……恐ろしや……』

 

 それは嘆き。

 

(わたくし)の水に、(わたくし)の空に、(わたくし)の山に……(わたくし)の守護する世界に、貴方様を迎え入れる庭に、天魔外道、三障四魔が入り込んでいる』

 

 無差別にまき散らされていた情念が一つの形を経て指向性を持っていく。その向く先はただ一人、怨敵にして宿敵たる神殺しへと。

 

『あな恐ろしや、あな怖ろしや……斯くなる上は……』

 

 ──濃霧の先に見る夜叉ヶ池。

 その水面が膨れ上がる気配を怜志は察し、身構える。斯くして音もなく茂みから飛び出す蛇が如く。

 

『竜王より受け継ぎし、我が牙と我が力を以て、我が領地に巣食う魔を排して進ぜようか……!』

 

 蛇の殺意が怜志たちを強襲した。

 

「散開ッ!」

 

 怜志が叫び、同時に怜志と恵那が左右に跳躍する。

 直後、二人が直前まで立っていた場所に何かが飛び掛かり、爆発する。

 

「水……? いや、これは……!」

 

 咄嗟に顔を庇った腕に掛かる水飛沫。

 夜叉ヶ池から飛び出してきたと思われるものは水流そのものだ。

 地に叩きつけられ、弾かれて、飛沫となって周囲を濡らした。

 

 しかし、水流はそれで途切れず、散ったはずの水が再び集って元の形へと戻っていく。

 それで気づいた。水流、その正体は異能に操られて像を成す水の攻撃などではなく、それ自体が意思を持った水の化身……!

 

「水蛇……この場合は蛟と呼ぶべきか……」

 

 ──シャアアアアアアアアア!!

 

 怜志の呟きを肯定する様に水流の化身……蛟は舌を鳴らして再び怜志へと襲い来る。

 目算にして頭部のサイズだけでも五メートルを優に上回る大蛇。

 飲み込まれれば質量だけで圧殺され、生き残ったとしても瀑布を思わせる勢いで流れる水流の身体に飲まれれば一瞬のうちに飲み込まれるだろう。

 

 故に、今度は後ろに跳んで怜志はその直撃を避ける。

 

「八重垣作るは天国の刃、神州正気凝って百錬、鋼を以て動天地異、治め奉る──」

 

 着地と同時に怜志は懐より、鉱石を取り出し、拳を叩いて打ち刀を形成する。

 魔性を殺す古の霊刀、障害を祓い国威を示す天国の秘中。

 その切れ味は相手が水の身体を有していようと関係ない。

 

 ──シャアアアアアアアアア!!

 

「ふっ……!」

 

 三度の強襲。されど三度も見ればその動きは読み切れる。

 飛び掛かってくる蛟に敢えて踏み込み、接触直前で斜めに跳んで怜志は通り過ぎる蛟の側面を取る。夜叉ヶ池から伸びる数十メートルもの蛇行する全長。その巨体さゆえに露出する無防備な体目掛けて刀を振り下ろした。

 

 斬り込む一瞬に爆発する神殺しとしての圧倒的な呪力。

 果たして、刀身を遥かに上回る大蛇の身体は真っ二つに切り裂かれた。

 刃の届く限界など関係ない。霊刀は主が切り裂くと確信したもの皆すべてを物理法則を無視して両断するのだ。されど蛟はそれで死ぬことは無かった。

 怜志の斬撃に悲鳴を上げ、身悶えた後、水は再び集い始める。

 

「これでも再生するか……ならば、首を落とせば、どうか──」

 

 やられた怒りを漂わせながら再生を終えた蛟が蜷局を巻く様な形で怜志の頭上から飛来する。周囲を水流に囲われた逃げ場のない檻。だが、そんな状況でも怜志の表情に焦りはなく、冷静に半歩分ほど片足を引いて、居合の構えを見せる。

 

 そして降りかかってくる蛟の頭部目掛けて鋭く一閃、顎下から頭頂部に掛けて、美しいシンメトリーを描く剣閃が迸った。

 攻撃に一瞬遅れて現実が追い付く。

 頭部を両断された蛟は、そのまま蛇の形を失う様にざばん!と水流を成す身体をただの水に変えて地面を濡らした。

 

「……水を使った眷属というより、水そのものに意思と形を与えて眷属に変えていたのか。流石はまつろわぬ神、有機物、無機物問わず生命としての形を与えるとはな」

 

 死に絶えた、というより元の形へと還った蛟の後を眺めながらぼそりと呟く怜志。そこには非常識への驚きと神の偉業に対する感嘆が宿っていた。

 とはいえ、余韻に浸っている暇などない。何故ならば、蛟の正体が怜志の語った通りのものだったのだとすれば……怜志の足先が夜叉ヶ池の水面へと向く。

 

「やはりか……今度は三、五……九か。さながら八岐大蛇だな!」

 

 ──シャアアアアアアアアア!!

 ──シャアアアアアアアアア!!

 ──シャアアアアアアアアア!!

 

 牙を剥く九つの蛇身。濃霧で影を見るのにも目を細めながら、怜志が感想を漏らすと同時に、今度は九つの首が怜志へと飛び掛かってくる。動きは単調。されど数が多い。

 密集するように迫る蛟は巨体さもあって、その単調な動きだけで怜志の逃げ場を大きく減らす。殺す手段があるとはいえ一度に飛び掛かられれば手立てはなく。水流に飲み込まれるわけにはいかない怜志にとってはただそれだけで致命傷だ。

 故に無理に殺そうとせずに怜志は回避に専念する。

 

 逃げ方を誤れば一巻の終わりだが……元より紙一重に生き残ることに関して、怜志は誰よりも卓越している。

 無作為に逃げ続けた結果、敵にまんまと囲われる──そんな間抜けは神殺しになぞ至らない。

 

「はっ──!」

 

 躱す──躱す、躱す、躱す、躱す……一度として蛟の牙が怜志に触れることは無い。そして隙を見て……斬る!

 

 ──シャアアアアアアアアア!!

 

「先ず、一つ──」

 

 九頭竜から八頭竜に数を減らした敵影を見て呟く。その一言に怒ったのか、或いは仲間を討たれたことそれ自体か。

 怜志の言葉を掻き消すように、一頭の蛟が怜志の残心に牙を伸ばす。

 

 無論、躱す──想定外は、その直後に起こった。

 

「しまっ──!?」

 

 ガクン! と刀を構え直そうと引いた片足が、唐突に滑り落ちる。

 崖──怜志は知らぬ間に山の斜面の淵に立っていたらしい。濃霧で視界も気配も効かない上、巨大な蛇身相手に大立ち回りをしていたせいだろう。

 

 地形の制限によって此処で怜志の体勢が大きく崩れる。

 そんな隙を蛟が見逃すわけもなく。

 

 ──シャアアアアアアアアア!!

 

「チィ──ッ!!」

 

 怜志の視界を蛟の頭部が覆い尽くした。

 落ちるか、飲み込まれるか。一瞬で逃げ場のない選択肢に立たされる怜志。

 ──否、己が選ぶのはどちらでもない。

 この身は神殺し。天の道理に抗った恐れ知らずの愚者にして戦士。

 

 提示された選択などクソ喰らえ。

 己の道は己で決める。

 

「フッ──!」

 

 跳ぶ。バク宙の要領で両足をバネに後方へと怜志は飛んだ。

 過ぎてゆく蛟の頭部、ぐるりと回転する世界の向こうでそれを収めつつ、怜志は山肌の斜面に着地。直後に重力に従って自由落下を始める身体を、斜面に刀を立てて強引に抑えつける。

 

「ッ、おお……!」

 

 一瞬のうちに可能な全てを最善で潜り抜けた怜志は、何とか戦場に踏みとどまった。

 落下は僅かに七メートル。渾身の三点着地が命を拾う。

 だが、安堵の暇など欠片もない。

 刀を抑えに使い切り、不安定な足場にしゃがむ怜志に向けて蛇身は容赦なく追撃をする。

 

 ──シャアアアアアアアアア!!

 ──シャアアアアアアアアア!!

 

 左右から二頭。挟み込むように挟撃。

 刀は使えず、逃げるためには動作が追い付かない。

 迎撃手段も回避する手立てもない以上、怜志にこれ以上はない──。

 

「舐めるな! 刀だけの男と思うてかッ!!」

 

 その決めつけを喝破するように怜志は片手に符を握る。

 こと『水』が相手であれば……術であっても怜志はそれなりにやるのだ。

 

「五行相克──土克水! 急急如律令!!」

 

 五行説──陰陽道における五つの属性、火・水・木・金・土の相互関係。呪術としては基礎も基礎の概念であり、術式であるものの神殺しとしての莫大な呪力を基に築かれる防波堤は蛟の進撃を許さない。

 土塁に阻まれ、蛟が止まる。水が弾け、頭部の形が砕け散る。

 本来であれば此処から同じ形に戻ろうとする水の力が働くはずだが、蛟の再生は起らなかった。土壁に弾けた水はそのまま渇き、取り込まれ、水分を吸い尽くされ、そのまま水流ごと取り込まれる。

 

 複雑な術式を抜きに行われる資質任せのパワープレイ。蛟成す呪力を上回る勢いで発動した土克水の関係が慈雨の化身を渇き殺す。

 

「これで残すは六つ──さて、こちらは捌き切れそうだが恵那の方は……」

 

 三度繰り返される返り討ち、流石に蛟たちも警戒しているのか追撃の手を収め、鎌首を擡げながら怜志の動向を伺っている。一息つく怜志の方はというと霧の中に見失った相棒の身を案じて、気配を探る。

 が、やはり濃霧の力か、人の気配は疎か周囲の状況すら正確に把握することは不可能だった。そもそも地理を理解しているにも関わらず、怜志をして道を踏み外すほどに濃霧は濃い。

 

 怜志の技量があれば蛟は対処できない手合いでは無いはずが、それでもこうして油断ならない状況に陥っているのは一重にこの濃霧があればこそだ。

 権能を使えば、一息に切り抜けることも可能であろうが──。

 

「……駄目だな、権能(チカラ)は使えん。単に気分の問題かとも思ったが、やはりそういう制限か」

 

 ──シャアアアアアアアアア!!

 

 嘆息する怜志の呼吸の隙を見咎めて蛟が再び飛び掛かる。

 が、僅かな予備動作を見切って呆気なくそれを回避した怜志は、敵の数を減らしたことで回せるようになった思考の余裕を状況整理に回す。

 

“軍神の権能には制限がある──少なくともこいつら相手には使いようがない”

 

 毘沙門天(クベーラ)より簒奪せしめた九つの宝具、軍神が有する武具や加護を顕現させる怜志の権能は、発動させれば回数制限もなく九つの宝具を自由に使いこなせるという正に破格の権能だが、その分、それ相応の制限というものがある。

 それは相対する敵が、怜志をして死を感じ得るほどの大敵であること。全身全霊、全力で挑まねばならぬほどの猛者であることである。

 

 一見して敵対者がまつろわぬ神、神殺しであれば誰でも満たせそうな制限であるが、問題はこの基準が怜志の気分と連動していることだった。

 先に見た通り怜志は見切りに長けた達人である。数で押されようとも敵が凄まじい使い手であろうとも、早々に手傷は負わないし、血を流すことも、痛みを感じることもない。

 

 ギリギリで躱し、返す刀で斬り落とす。文字通り刀の生成から含め、地力のみで神殺しを成し切った怜志の自力は凄まじく、ともすればこの通り刀だけでも神々の戦いに挑むことが出来る。

 逆に言えば、刀で凌げている限りは怜志にとってそれは本当の意味での全力を出すまでもない状況なのだ。

 

 つまるところ刀に絶対の自信を持つ怜志ほどの使い手をして死を感じさせるほどの状況──その自覚なければ権能は使用できない。する気すら起きない。少なくとも無傷の状況で切り札に手を出すことはあり得ないのだ。

 

 故に蛟は厄介だった。捌くだけならこの通りどうとでもなる。なってしまう。

 だからこそ状況を大きく打破しうる権能は未だ使えず、一息に振り払う手段を持たぬが故に拮抗してしまう。

 

 血を流せば、或いは命の危機に瀕する苦痛を感じる状況を故意に作れば使えるやもしれないが……。

 

“それこそありえん。真剣を抜いた以上、手抜きなどありえない。挙句に手抜いて手傷を負うなど武人の恥だ”

 

 ……無駄な誇りと余人は切り捨てるだろうが、それほどの誇り(プライド)があればこそ、怜志は神殺しにまで至ったのだ。一度構築された我の強さを消し去ることなど出来はしない。

 たかだか蛟相手に、権能を振るう必要性を怜志は今も感じられていない。

 

「とすれば、このまま持久戦だが……」

 

 気になるのは敵の正体だ。今も立て続けに襲い来る蛟たちはあくまで本体ではなく使い魔の類だろう。先に響いたあの声の主、アレに呼び込まれた眷属に過ぎない。

 故に此度の異変を収めるには大本を挫く必要があるのだが……敵の首魁は未だ濃霧の中、姿も気配すらも察することが出来ぬままだ。

 

 そして蛟──単純に水そのものに意思を与えているこの眷属たちは何体狩ろうとも恐らく首魁への打撃には全くと言っていいほど役立たないだろう。

 様子を見るにそれこそ池の水が枯れ果てるまで召喚可能であろうし、一度に呼べる数もまだ上があろう。最初に一、次に九……そうして何十体、何百と召喚されれば流石の怜志も成す術がない。

 

「そこまで相手すれば流石に権能も使えようが……持久戦で散々呪力を使わされた挙句のそれでは勝ち筋も見えなくなるというもの、せめて何とかしてこの濃霧だけでも振り払えれば──」

 

 残る六体の蛟、それらが再び一斉攻撃を喰らわせようと息を合わせるようにして怜志の前に構える。キリのない状況に怜志は軽く舌打ちをしつつ、刀を構え、残る蛟も狩り尽くしてやろうとするが──不意に頬を風が撫でた。

 

「……──そうか、そういえば相性がいいのはお前も同じだったか」

 

 言って、怜志は構えを解いて無造作に両手を降ろす。

 敵を眼前にあまりにも無防備な形。

 油断か慢心か、その隙を蛟たちが許すわけもなく。

 怜志目掛けて一斉に六体の蛟が襲い掛かる──。

 

「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし──今は吾が名の惜しけくもなし!」

 

 凛然と響き渡る厳かな呪歌。

 刹那──横並びに一斉攻撃を行おうとした蛟が横一線に切り払われた。

 迫る水魔の障害を鎧袖一触にする白銀の輝き。

 

 その正体は軽やかに怜志の隣へと着地した。

 

「無事、王様? ……って聞くまでもないか。清秋院恵那、遅参失礼仕る……なんてね!」

 

「いや悪くないタイミングだ。丁度、雑魚の相手も飽いていた──合流も出来たことだし、そろそろ引きこもりの顔を拝みに行くとしよう」

 

 視線を向けることもなく刀を構える怜志に、ニヤリと笑いかけて恵那もまた構える。

 眼前では再び水流が蛟の像を成して増えるが、状況を代えられそうな手札は揃い切った。

 

『──その気配は……』

 

 今まで使い魔任せに沈黙を保っていたまつろわぬ神の声が向こうから響く。

 やはり霧の向こうに神は隠れ潜んでいるらしい。

 ならばこそ、濃霧を切り拓いたその先に敵の首級は見えてこよう。

 

「準備は整った、さあ、戦争を始めようか……」

 

 軽く首を鳴らしながら、そう言って怜志は微笑を浮かべた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。