「ほう──自ら死地に戻ってくるとは。ふふふ、実に獣らしい愚かさですが、その潔さだけは褒めて差し上げます」
──『馬』から飛び降りて来た、怜志に驚く様子もなく。
夜叉ヶ池に舞い戻った神殺しに対して、幼き女王は憐れむように出迎える。
「別に首を差し出しに来たわけではない。取りに来たんだよ、落とし損ねたその
「戯言を。この状況を見て本気でそう思っているのですか? それとも貴方なりの虚勢なのかしら、神殺し……貴方方の宿敵、《鋼》の英雄を前にまだそんなことを言うなんて」
憐憫を兼ねた挑発には挑発のままに返す。
怜志はまつろわぬ善女竜王に気を立たせるようにして言葉を選ぶが、彼女が取り乱す様子はない。寧ろ出会った当初よりも悲壮感も憤りもなく、余裕に満ちているようにさえ見える。
その理由は考えるまでもない。
チラリと怜志は女王に侍る騎士のようにして構える《英雄》へと目を向ける。
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
「……成程、牛頭天王を招来させたか」
ビリビリと肌を焼く様な気迫と聞く者を戦慄させるが如き咆哮。二対の立派な角を持つ牛頭の偉丈夫に怜志は確信を持って言い切る。
その視線は鋭く、偉丈夫が持つ神刀へと向けられていた。
「ええ! ええ! その通り! まつろわぬ放浪の果てに我らは再び一つとなったのです! 我が夫、我が英雄、我が最愛の貴方様と!」
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
「ふむ……」
喜悦を叫ぶ女王と、それに共鳴する様に吼える異形の英雄。まるで既に勝負に勝ったかのような態度の彼女らを、怜志は冷静なままに観察する。
……彼女の隣に立つ英雄は紛れもなく伝説の通りの牛頭天王だ。その異形と風貌からその一点は確信を以て言い切れる。
だが……。
“牛頭天王であることは間違いないだろうが、
少なくとも怜志の目に映る牛頭天王の姿はかつて見た《鋼》の軍神──毘沙門天のそれとは異なる。向こうは如何にも戦士といった風情で純然たる闘志を叩きつけて来たが、牛頭天王のそれはどちらかと言えば外敵に対する排外装置、何処か機械じみた無機質なものを感じる。
無論、それで簡単に攻略できるほど甘い相手ではないだろうが、しかし。
“日本が誇る大御霊の一角──というには些か迫力不足だな。それに気になるのはあの刀──”
牛頭天王が握る神刀──恵那より切り離した天叢雲劍。今や敵に奪われ、我がものとされた神刀からは《鋼》というより《蛇》の気配がする。
直感に過ぎないが、恵那の『神がかり』に類似した気配……英雄を復活させたのではなく、英雄の力を借りているような。似ているようで本質の異なる印象を。
“あの女神は水に意思を与えて使い魔にしたり、恵那に牛頭天王の神気を吹き込み形代にしてみせたり、自らが使うより“与える”力の行使を得手としているようだった。そこにヒントがあるということか──? まあ、良い、なんにせよ”
呼吸をゆっくりと整えながら怜志はゆらりと刀を構える。
──名は既に知れた。
──牛頭天王の由来も想像は付く。
しかし、そもそもの疑問──何故、この地に夜叉姫の名に善女龍王が顕現できたのか。その真実は不明のままだった。
「まずは──そこら辺りから着手していくとしようか……」
孫氏に曰く「敵を知り己を知れば百戦危うからず」とも言う。敵の本質を真の意味で理解し、解体し、攻略してこそ勝利は見えてくるだろう。
不明を不明のままにして土壇場で足を掬われてはたまらない。
より確実な勝利を得るべく、必要なのは情報収集。
「仏敵滅殺の時です! 神殺し! 我が夫、愛しの君の刃にて地獄へ送って進ぜようぞ!」
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
「その言葉、そっくりそのままそちらに返そう──身内を傷つけたお礼参りだ。釈迦の下まで叩き返してやる……涅槃で説法の一つでも喰らって来いッ!」
仏性の何たるかを忘れし龍神に突き付ける、魔性祓いの倶利伽羅剣。棚上げしていた戦の決着を付けるべく、此処に決戦の幕が上がった──。
………
………………
…………………………。
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
開戦と同時、やはりというべきか。
いの一番に突撃してきたのは牛頭天王であった。
背後の女王を守る様にして神殺しの前に立った偉丈夫は巨大化した天叢雲劍を容赦なく怜志へと叩き下ろす。
その膂力たるや以前交戦したヴォバン侯爵の巨狼化のそれに匹敵するだろう。まともに受ければ一撃で刀ごと怜志は叩き斬られて殺されるはずだ。
「やはり
正面から受けて立つのは危険であると即座に見切り、怜志は半身になって刀を担ぎ込むように引き下げながら相手の剛剣を潜り抜けるようにして牛頭天王の一撃を往なす。
刀の接触と同時に、あわや勢いで刀を持っていかれそうになるものの、手首の微調整で以て掛かる負荷を逃がし切り、言うは容易いその難行を見事に達成する。
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
だが無論、一撃上手く流したところでは終わらない。
何せ剛剣は通常攻撃だ。
逃がした獲物を今度こそ仕留めるべく咆哮を上げて牛頭天王が追う。
一撃、二撃、三撃、四撃、五撃、六撃、七撃──!
いずれも振り下ろされるたび、水面を弾き飛ばし、夜叉ヶ池に大津波を引き起こすが、繰り返される斬撃全ては怜志を仕留められずに水面のみを揺さぶるに留める。
凄まじい剛力無双振りではあるものの、それだけで神殺しを仕留められるほど怜志は柔い存在などではない。寧ろ剣技で以て神殺しに至った怜志の領域は並みのモノではないのだ。
ましてや殺した相手は《鋼》の軍神。
それこそ、
……とはいえ、それはあくまで
この場に限って言えば敵はもう一人存在している。
「微力ながら手助けさせていただきますわ、貴方様──!」
「……チッ」
立ち回る怜志の周囲に広がる水面が急速に濁り始める。
先読みした怜志は即座に水上を駆け出し、怜志を囲うようにして現れた濁り水による包囲から脱出した。果たして読みは当たり、怜志が先ほどまで立っていた場所に、蛟たちが噛みつく。
──シャアアアアアアアアア!!
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
戦場はあっという間に大混戦だ。
刀一本、我一つの身で立ち向かう怜志に対し、蛟たちは所構わず襲い掛かり、蛟たちごと巻き添え上等で牛頭天王が一撃必殺の剛剣を振るう。さらに後方で支援する善女龍王が時たま水の刃を飛ばして、怜志を狩りに来るのだからたまらない。
「流石に厳しいか……おん、べいしら、まんだや、そわか──
真言詠唱、権能発動。
《鋼》の軍神より簒奪せしめた軍師の慧眼を怜志は起動し、事に当たる。千里眼の要領で夜叉ヶ池周辺に視点を固定し、視覚外という状況を完全に無くした。
もはや完全なる背後からの攻撃ですら怜志は完全に見切って、回避や防御の行動を行える。
「これで、暫くは持つだろう。さて──」
敵の挙動をつぶさに監視しつつ、怜志はその思考を敵の正体を完全に見破るための思考に割いた。
“まずは改めて振り返ろうか──敵はまつろわぬ善女龍王。牛頭天王の妻である頗梨采女の別名であり、神泉苑に語られる龍神、清瀧権現とも同一視される神格だ”
西洋ならばいざ知らず、東洋の神格であれば怜志とて多少の知見は持っている。ましてや須佐之男命と同一視される牛頭天王に関する存在であれば当然のこと。
かの神が有する天叢雲劍は『天国の刀』ではないが、同名の親戚のような刀にまつわる事情とその周囲の事柄は知っていて然るべき事である。
“司るは祈雨、雨乞いの恩恵。他にも牛頭天王繋がりで陰陽道の歳徳神や櫛名田比売との繋がりも考えられてはいるが……まあこれは良いだろう。主体が善女龍王ならば煩雑な神格性はそれほど強くない筈だ”
開戦以来、水にまつわる権能しか使用していないところを見るに、農耕神や方位神としての機能は持っていないのだろう。或いは隠しているという可能性も考えられるが──幼子にしか見えない容姿からして、善女龍王の属性が強く顕れているのはあまりにも明白。
彼女を語る法華経直々に「娑竭羅龍王女 年始八歳」と描かれ、彼女を描く様々な象容も女童風に書かれていることからも疑いはない。
まつろわぬ善女龍王、これは前提であるはずだ。
“問題は何故それが夜叉ヶ池に顕れたのかということ。普通に考えれば雨乞い繋がりなのだろうが、それだけでは些か弱い。考えられる説として人身御供の伝説と思われて語り継がれてきた夜叉ヶ池の伝説が、そもそも彼女をモデルに描かれていた、などというものだが……”
事前の調べによると夜叉ヶ池の伝説は火のない所に出た煙ではないらしい。何でも、この池を中心に語られる龍神伝説は一説には元々は当地の神主・司祭を務める一族の祖先説話である説や、記紀神話における玉櫛媛に関わる『蛇婿入り』をベースにした伝説であるなど、ゼロから作られた民話ではないとのことだ。
だとすれば、雨乞いを司る竜として善女龍王がこの地で語られたのを、後世において夜叉姫と改め、受け継がれていった……そう考えることにそれなりの根拠はありそうだが。
“とはいえ雨乞い繋がりだけではな……ああ、そういえば善女龍王も夜叉姫も同じ姉妹で、妹だったか。逸話によって次女か三女かはズレるものの上の姉妹に代わって異形の嫁に入るという逸話は共通しているか”
もう一点付け加えるなら“夜叉”の呼び名だろう。アレは元々、日本独自の言語ではなく、大陸から伝わってきた国外の言語であったということは有名な話。
夜叉姫という呼び名自体、後世の後付けであるとされているため、あまり考察の要素として頼れないが……元々同じ外部から入り込んだものとして“夜叉”と名付けた、とするなら多少の合点は付く。
少なくとも名前的な要素で疑いを持つ必要はないと見える。
“だとすれば考えるべきは善女龍王と夜叉姫伝説が同じものとした上で、雨乞い伝説以上に確たる繋がりを両者の間に見出す明確な線──必要なのはこれか”
「くっ、相変わらずちょこまかと……! 山猿のように逃げ回ることだけは達者なのですから……斯くなる上は貴方様!」
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
「っ! ──仕掛けてくるか!」
苛立つ女王の声に弾かれ、怜志は思考を寸断する。
考察を深めたいところではあるが、今は戦闘の最中にある。
優先順位を違えてはならない。
敵の挙動が変わる、切り札かそれに匹敵する何かしらの手段を用いてくることはあまりにも明確だ。
「凶事あれ! 苦患あれ! 我ら流れる者、風と共に放浪する者! 天王への恐れを知らぬならば、その身を以て厄神の力を検めるが良い! 護符無くして窓戸を閉め切ろうとも、我らの進撃を阻むことは何者にも出来ず!」
『おん、はられいきゃ、牛頭、でいば、請願、随喜、延命、そわか──!』
善女龍王の言霊に重ねられるように放たれる牛頭天王の真言。
咆哮しか上げていなかった異形の英雄は英雄に似合わない地獄の底から響く様なおどろおどろしい不気味な声音で呪文を唱える。
すると、何処からともなく強烈な勢いで以て黒い風が吹き荒れ、怜志の視界を覆う。
どうやら風は夜叉ヶ池全域に広がっているようだ。肌を撫でる風は濡れ手で触れられたような、生暖かく湿り気を帯びた肌気味悪い様相で水域を支配する。
「なんだこの風は……?」
見通しが悪くなるのと、強風と言ってもさほどの勢いを持っていないことに怜志は若干の肩透かしを受け、困惑する。確かに不気味かつ、とても快適とは言えない環境変化であるものの、一見して戦いを続ける上での不利は特に見受けられなかった。
元より千里眼の他に、この目には透視の機能もある。今の状態ならば開戦した当初に見かけた人の気配を遮断する濃霧の中でも問題はない──その見当違いの怜志の自負は、視界に飛び込んできたものを見て消えた。
バシャリ、と音を立てて不幸にも巻き添えを受けただろう水鳥が怜志の近くに落ちる。
「ッ! これはッ!?」
どうやら黒い風に飲み込まれたらしい水鳥。口を開き、苦悶に満ちた様で身を捩りながら朽ち果てるその様は、惨たらしいが、それ以上に外傷無く命を終えている水鳥の死に様を見て怜志の脳裏に閃きが過る。
凶事を願う言霊、そして牛頭天王の真言。
……英雄と言う呼び名、《鋼》を讃える善女龍王の言葉で忘れていた。本邦が誇る大御霊の本質は疫神。ならばこそ彼が呼び込む黒い風の正体など本来であれば考察するまでもなく──。
「くっ、しまっ──ごほっ、かはッ……!」
咄嗟に息を止めようとするが遅い。剣士として完璧に統制されていたはずの怜志の呼吸が大きく乱れる。咳き込み、膝を突き、鼻と口からドロドロとした血が流れ出でてくる。
一度膝付いた身体は鉛のように重く、戦闘で高揚していた身体はそれとは別種の寒気を覚える発熱に震えた。
黒い風の正体、それは病の毒。身体を内から蝕む凶事。
見えず聞こえず、その時まで感じられず。
──気づけば死へと誘う、畏れの具現!
「不味い……!」
視界がブレる。流石に神々が操る疫病の権能とだけあって、その効果は咳病程度では済まされない。常人ならば即座にもがき苦しんで死ぬだろうほどの疫毒に当てられ、流石の神殺しをしても戦闘不能に匹敵するほどの不利を受ける。
その隙を当然、神々が見逃すわけもなく。
「今です! 貴方様……! その手で不遜なる獣を地獄へと叩き落として見せてくださいまし!」
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
雄たけびを上げ、神刀を掲げながら突進してくる牛頭天王。
平時であれば躱すも往なすも自在だが、この体調ではそれも厳しい。
だが──この程度であっさり逝くほど神殺しは潔くない。古の人々が疫神を讃えて払ったように、人々は《鋼》の軍神に対しても病魔という見えぬ敵への討伐を願ったのだ。
故にその手の加持は当然のように宝物殿にも収められている。
「げほっ……ッう、
蝕む病魔を殲滅する毘沙門天の加護。
清き水で押し流すように澄んだ呪力で内に入り込んだ毒を押し流す。
効果は七割ほど。手先の末端への反応は鈍く、身体は重いままだが……。
「この程度、問題ない……!」
『オオオオォォォォォ────ッ!?』
打ち下ろされる剛剣の横腹を全力で叩く。
横合いから軌道を変えられ、目的地を誤って叩き落とされる剛剣。思わぬ獲物からの反撃に驚愕を見せる牛頭天王に、怜志はお返しとばかりにその横腹へと斬り返す。
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
「貴方様ッ!?」
「ふん……」
正しく窮鼠猫を噛む有様に悲鳴を上げる神霊夫婦を一瞥し、怜志は鼻を鳴らしながら距離を取る。
あのまま深入りして仕留めに行くことも出来ただろうが、踏み込みすぎてまだ見ぬ切り札で返されても困るだけだ。あくまで気勢を削ぎつつ、自らを整えることに専心する。
間合いを見計らって、呼吸。刀を握り直して怜志は調子を改めて確かめる。
「やはり七割……同等クラスの使い手と渡り合うには不安だが、あの二体なら問題ない。だが流石にこの黒い風は厄介だな。常に練気を怠らないようにしなければ、すぐにあの様になる」
疫病は一通り祓ったものの、元凶たる黒い風は吹き荒れたまま。
一瞬でも油断して軍神の加護を解除すればすぐさま先ほどのようになるだろう。
既に『瞳』を、そして『治癒』を足せば、常時発動させている宝具は二つ。
当然、必要となる負担は大きくなる。
『剣』の分の呪力を残すことを考えれば、あまり悠長には構えられない。
「だが収穫はある。善女龍王がそうであるように、お前もまた牛頭天王の呼び名の通りであるということだ」
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
忌々しい害虫を踏み潰すように振るわれる牛頭天王の剛剣。だが、既に太刀筋を見切っている怜志は危うげなくそれを躱す。万全でなくともこの程度の使い手ならばこの通り。少なくとも剣術勝負で戦をしたいならば、サルバトーレ・ドニ辺りを連れてこなければ話にならない。
雄たけびに苛立ちを交える牛頭天王を透徹した瞳で射抜きながら怜志は続ける。
「古来より水害と疫病は同じものだ。洪水は人や物を押し流す暴力的な災害であるが、それと同時に毒をも運ぶ。土砂によって汚れた水は流入した土壌を汚染させ、その土地や土地に住まうものたちを苦しませてきた。洪水による飢饉に疫病の流行が伴ったことからも、それは読み取れるだろう」
そういう意味では水神も疫神も同じ流行ものなのだ。
前者は時期によっては恵みと暴力的な災いを齎し、後者は一つをきっかけに爆発的に盛り上がる。
『水神』と『疫神』の間には一種の相互作用が存在している。
「だとするならば……牛頭天王を招来させた由来はそれだな。《蛇》を餌に《鋼》を呼んだのかとも考えたが、少なくともその牛頭天王は疫神としての側面がより強いらしい。思えば恵那を内から支配したんだ。アイツが『神がかり』の術者であることで見落としていたが、内から蝕む神気など正に疫神の本領ではないか」
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
加えて、天叢雲劍を乗っ取ったことにもそれ一つで説明がつく。元より外から来て、祭りの喧噪と共に様々な神格と習合して一体化してきた稀代の疫神。習合した須佐之男命の剣を奪うことなど容易に叶うだろう。
怜志の言葉を打ち払うかのように牛頭天王は剣を振るうが、当然のように怜志は躱す。
「そも櫛名田比売ならいざ知らず、地母神ではなく純然たる水を由来とした蛇神の夫だ。……《鋼》の英雄と見間違ったこと謝罪しよう。この程度の腕で戦神・刀神・英雄神の類であるはずもなし。夫を良く見せようとする妻の気遣い、幼いながらも実に良妻賢母じゃないか、善女龍王」
「貴様ァ!!!」
敢えて挑発するような言い回しで両神から冷静さを奪う様に挑発する怜志。こちらにあまり余裕がない以上、付け入る隙は多ければ多いほどに良い。
そしてその効果は怜志が思い描いた以上に絶大で、幼い美貌に鬼母も斯くやといった様相で善女龍王は怒りを見せる。どうやら見事に竜の逆鱗を踏み抜いたらしい。
「今すぐに、死ね! 薄汚い
憤怒のままに扇子を振るうと怒涛の様に押し寄せる蛟の群れ。
これまでとは比較にならない大洪水は、流石の怜志を以てしても正面から当たるには危険すぎる。
迷わず怜志は手札を切った。
「
──ヒイイイイィィィィヒヒンンンンンン!
怜志が手綱を取ると同時に、光速の駿馬が嘶きを上げて天を駆ける。
飛んで躱す駿馬ごと善女龍王が怜志を叩き落とさんと水の刃を立て続けに振るうが、《神速》にさえも追いつく駿馬である。直線駆けだけで大抵を振り切り、多少シザース軌道を混ぜればそれだけであらゆる攻撃は虚空を切るのみ。
安全圏にまで振り切った怜志は善女龍王を視る。
もはや呪力に余裕を持たせられないというならば、敢えて短期決戦と見切りをつけて使用可能な全ての手札を使い切って攻略し、『剣』を当てる。正しく紙一重の戦いになるだろう予感に、思わず怜志は笑みを浮かべた。一手の過ちが死に繋がるこの
堪らない恐ろしさに怜志の口元が吊り上がる。
「ハッ、良いじゃないか! 歯ごたえは少しばかり不満だが、ようやく面白くなってきた……!」
余分な思考を投げ捨てて、この一時に自らの獣性に身を任せる。
お陰で頭の方も冴えて来た。
この精神状態ならば、『瞳』に何か良いものが見られそうだ。
──怜志に許された手札は九つ。
抜かば必勝を確約する代わりに後に余裕を残さない『剣』。
迅く翔び、鋭く獲物を射止めるが、直線にしか射線が通らない『弓』。
その身に『鋼』の特性を纏い、高い防御性能を得る代わりに
大雑把に早くなる代わりに、細やかな動作や速度の緩急などのコントロールが効かない『馬』。
よく視えるようになる代わりに
自陣を煽り、戦意を巻き起こす代わりに対象の思考能力を減衰させる『戦扇』。
自分自身の身を癒し、うちの
大地や海面、その他無機物など触れた対象を掻きまわし、その性質・構造をも変化させ周辺地形に混沌をまき散らす『宝槍』。
そして──色んな意味で禁じ手の『鍵』。
どれもこれも基本的に戦争にしか役立たない上、使いこなせるかは完全に術者に依存するピーキーなものばかりだが、これだけあれば神々を殺すのには十二分な宝具だろう。
「やりようは色々あるだろうが……折角だ、手始めに
獣の如く牙を剥くようにして怜志は獲物を睨みつける。
あらゆる視界を有する『瞳』でも特に深部を覗く霊視の力。
高位の魔女や媛巫女をして成功率五割を上回ることのない、生と不死の境界にたゆたうアカシャの記憶を読み取る技術。その技術を荒っぽく再現する。
眼力任せの霊視は魔女や巫女のそれよりも見えやすい反面、余計なものまで多く見てしまう上、意識を幽世に移すような感覚で現実側が無防備になりやすい。
そのため短時間かつ端的な情報しかもぎ取れない力だが……調子次第では持ち得る情報と浚ってきた足りない情報を一房にまとめ上げ、
果たして結果は、直感通りにこれ以上ないほどに上手く働いた。
──『密教』、『加持祈祷』、『現世利益』
──『十二単』、『平安時代』、『龍神信仰』
──近くの里山を拝める近隣の村が、どこかしらから聞いてきた話を自分たちの昔話として取り込むとかありそうな話でしょ。『流行神信仰』って言葉もあるぐらいだし。
「見切ったぞ! 水神──いや、
──古来において生死に密接に関わる水は人々にとって死活問題だ。だからこそ仏教伝来以前の神道を奉ずる日本でも様々な水乞いの儀式が行われてきた。それは仏教が関わる様になってからも同じことで、寧ろ外部から入ってきた
海に鎖国されたこの国の人々は怖がりの割には新しいものに飢えている。地方の力ある者たちが悉くハマり、遂には朝廷も認めた最新の
そして仏教到来から暫くたった平安時代──かの弘法大師が持ち込んだ『密教』によって、日本における仏教の意味は大きく変わる。
利もなく神に祈りを捧げる生粋の信仰者ならばいざ知らず、今をただ健やかに生きるために信仰を胸に宿す人々にとって、儀式を行うことで利益を得ようという呪術めいた側面を有する弘法大師の持ち込んだ現世利益の信仰はとても魅力的なものとして映ったはずだ。
事実、時の権力者である嵯峨天皇は従来型の仏教である『顕教』に代わり、弘法大師こと空海の推す『密教』に期待し、国を押して保護できないかと行動を起こしている。その結果、空海は最終的に大内裏に真言院を建てる許可を頂き、密教は更なる発展を得た。
その広がりは芸術にも見て取れ、当時存在していたであろう多くの芸術家たちに仏像・仏画として描かれたであろう今にも残る密教芸術の数々がその浸透具合を表している。
さらに空海といえばかの『雨乞い対決』はあまりにも有名な話だ。
天皇の御前で行われたという空海と守敏の東寺、西寺を巡る代理戦争。それに空海が唐より龍神を連れてきて雨乞いを成功させた逸話は、水に悩んでいた当時の人々にとって、現世利益の実現としてこの上なく魅力的に映ったはずだ。
──我らが下にも龍神の加護を、雨の恵みを。
地方にまで及ぶ密教の広がりの中、そうした信仰は庶民レベルで浸透していったと考えられる。
ましてや祈雨を司る善女龍王は防火の象徴として時に信仰の壁を無視して、その権能にあやかろうと多くの人々に祈られた存在である。火災の被害と紙一重であった木製建築の御堂・寺などでは宗派を問わず、善女龍王は信仰されたと言われている。
元々特定宗派に属する神仏でなかったというのもあるにせよ、実際に現代でも空海の東密、後に最澄亡き後に天台宗に持ち込まれた密教の台密に問わず、善女龍王は火災除けの象徴として存在している。
山岳信仰に端を発する龍神伝説。遠き異国から伝わってきた現世利益に基づく思想の密教。神仏習合の名の下にそれらが合わさる光景は容易に想像がつく。
夜叉ヶ池の伝説が伝わったとされるのはおよそ弘仁8年、嵯峨天皇治世下の817年のこと。正に密教が広がりを見せる全盛期の時代である。空海の雨乞い対決とは時系列がズレるものの、時代はさほど離れてない上、伝説が謳われたとされるその3年前の814年には畿内、丹波国、そして近江国に旱魃が襲っており、伝説当時の817年と言えばかの『摂津大風』が阪神を直撃したその年である。
荒れ狂う天の采配に対し、人々が外国から来た神仏に救済を縋り付く土壌は出来ている。
そしてそうした過程で成立した夜叉ヶ池伝説ならば、捧げられし龍神の嫁の本質は憐れな生贄でもなければ、仏教伝来の守護神ですらない。
「古来より雨乞いの対象とされ、水源地に祀られることから山の神とも結びついた水神にして──その言葉の響きより『
清瀧権現ではなく、まつろわぬ善女龍王として君臨するはその理由があってこそ。
人々に水の現世利益を与える神、それが眼前の女王の正体だ。
「おのれ、乙女の秘密をペラペラと……我が逢瀬を邪魔し、我らが神威に楯突きながら、我が内面にまで土足で踏み込むとは! 何と卑しく、汚らわしい
「戦に卑怯も糞もあるものか。第一、人の営みに迷惑をかけておきながら敬意を望むなど度し難い。仏心を忘れた蛇に捧げる祈りなど無し。魔性外法は我が獲物──倶利伽羅剣にて荒ぶる神魔、鎮めて進ぜようぞ!」
怜志は手綱を叩いて『馬』に命ずる、狙うは一点。
敵の首級ただそれのみ。まつろわぬ神々を調伏するべく神殺しが進軍する。
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
それをさせじと見上げるままだった牛頭天王が吼える。
疫神としての本質を看破され、隠す意義はもはや無いと判断したか、己の身体を黒い風に解かして、迫る神殺しを迎撃せんと飛び出した。まさに牛頭天王の島渡り。
悪風に乗って、敵対者に疫病を齎す──異形の疫神としての力。
その後方に控える善女龍王は正に鬼母の様相で牛頭天王を援護する様に水の刃を構える。一糸乱れぬ夫婦仲。付け入る隙の無い見事な連携姿勢であるが。
「要は──それが無ければどうとでもなる。搔き乱せ! 天地創造を成した創世の撹拌の如くに!
怜志はその手に《宝槍》を取り出して、眼下の神々の足元。夜叉ヶ池目掛けて投擲する。
投げ入れられた槍はそれを中心として渦を巻き、流れを生み出し、善女龍王や牛頭天王、果ては使い魔たる蛟に至るまでその波濤で以て飲み込み、搔き乱し、見るも無残な大波乱を呼び起こす。
「きゃああああああああああ!」
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
平時であれば波も起らぬ内地の池に巻き起こされる水の反乱は水域を支配していた善女龍王を巻き込み、悪風に転じようとした牛頭天王を水の中に飲み干す。
蛟はその形を保つことが出来ずに崩壊し、夜叉ヶ池を彩っていた景観にまで波濤は押し寄せ、美しい景色を瞬く間に災禍の渦へと取り込んでいった。
もはや完璧な連携など不可能。親知らず子知らずの沿岸部よろしく、他者を慮る暇など無し。自分の安全のみにしか気の回らない状況では迫る神殺しに息を合わせて立ち向かうことなど出来はしない。
「神殺し────ッッ!!」
その上で、未だ反撃を選ぶ度胸は流石のまつろわぬ神だった。
幾重にも伸びる水の鞭。隙間無く壁のように切り込む水流の斬撃は迎え入れた敵を細切れにする水の檻。怜志の打刀を容易に寸断する斬撃だ。
光速の勢いそのまま衝突すれば、善女龍王に刃が届くより先にミンチになるだろう。
「よし逝け『馬』。仇はキッチリ取っておく!」
──ヒイイイイィィィィヒヒンンンンンン!
『馬』を足蹴に怜志は飛び降り、騎手を失った『馬』だけが水の檻に突貫する。相棒を先駆けに水の檻に風穴を開ける非情の策だが、怜志に躊躇いはなく『馬』にも死ぬことに何ら恐れはなかった。
回復すればまた召喚可能な使い魔に過ぎないというのもあるが、使い魔の性格は術者に似るとでもいうように『馬』は死なば諸共、最終的に勝てばいいという性格の持ち主であった。
“勝つ”保証さえあるならば、半ばで朽ち果てることに戸惑いはない。
覚悟を帯びた自滅覚悟の
あっぱれな死に様は狙い通り見事、水の檻に隙を作った。
「のうまくあらたんのうたらたやや・あたきゃろぼたらやちしゃや・ばいしらまんだや・まからじゃや・やきゃしゃちばたば・そとたそそしつらばらそわか・だやきまたたたびはらしゃやめいばたやたほせいじくしゃ・ばいしらばいしらまだや・まからしゃやきばだかぢたらまじゃうとばば・なばしゃたやしゃなほば・ぎゃばていしつでんとばたらはたぢ・そわか──」
刃が白耀を帯びる。怜志が有する最強の『剣』。
あらゆる魔性を滅ぼし勝利する隋軍護法の加護が宿る。
この太刀に斬れぬものなし。
「ひっ──!」
初めて幼女神の貌に恐怖が宿る。
もはや彼女を守る障害はない、この一刀の下に斬り捨てるのみ──。
『オオオオォォォォォ────ッ!!』
その時である、波間に沈んだと思われた牛頭天王が吼える。
僅かに残光を残す天叢雲劍──恐らくは刃が由来する治水の力を行使したか。恐怖に青ざめる幼妻を庇うようにして偉丈夫は白刃の前に立って、刃を振るう。
数多のまつろわぬ者たちを討伐してきた天叢雲劍。降りかかる倶利伽羅剣を払わんと神刀は軍神の剣に抗おうとする。
「大した夫婦愛だな。その一点には敬意を捧げるが──」
僅かに残った理性で内心、恵那にすまんと頭を下げながら。
「諸共死ねぃ! まつろわぬ神々! その首、天国怜志が討ち取ったり──ッ!!」
思慕を踏み躙る魔王の大笑。
躊躇なく振り下ろされた『剣』は天叢雲劍を半ばに切り伏せ、庇う牛頭天王ごとその背後に隠れる善女龍王の頸を斬り捨てた。
明けの明星が如く、天高く奔る白耀の閃光。
長雨を呼び込む曇天を切り裂く太陽のように、輝きは全ての異変を消し飛ばした。
是にて終──龍殺しは此処に成り、夜叉ヶ池を覆う伝説は再び神話の中へと還っていった。