太平洋に浮かぶ楽園、ハワイ諸島といえば南国の楽園として世界でも屈指の知名度を誇るリゾート観光地である。年間を通して温暖な気候と快晴が続くため、照り付ける太陽と澄み渡る空、そして彼方まで広がる雄大な海は、バカンスにはうってつけである。
実際、年間を通して多くの人々がこの地を訪れ、サンゴ礁を眺めるダイビングや白波に乗って水上を滑るサーフィンなどの娯楽を楽しみに来ている。
また太平洋に浮かぶ島国ゆえに島の歴史と共に独自に発達してきた文化も魅力的だ。中でも日本においては女性の踊り子が躍る『フラダンス』として知られる、ハワイ諸島の宗教的な儀式に端を発する『フラ』は、その人気故にそれ自体が一つのジャンルとして国外においても習い事として人々の関心を集めている。
髪飾りにハイビスカスを差し、甘い香りが特徴的なプルメリアなどの
しかし──南の島の紺碧の空を曇天が覆い尽くしている。
生憎と本日の天気は快晴とはいかなかったようだ。
雨こそ降っていないもの、空と海の青を覆う黒い雲は島全域に広がる絶景に暗い影を落とし、本来見られるはずの景色に灰色の陰りを作ってしまっている。
例えば此処、オアフ島の浜辺から見るチャイナマンズ・ハットもその一角である。中国人が被る帽子によく似た形状をしていることからそう名付けられたクアロア沖に浮かぶ無人島は、ハワイに伝わる大トカゲの伝説に関わる島だとされている。
ハワイ神話では大トカゲのことを「モオ」と呼び、時に人々に幸運を齎すものとして、時に人々に災いを齎すものとして、多くの伝承に姿を見せる。
ドラゴンや蛇、水の精霊、或いは豊穣を司る女神など様々なモオが伝説には残っているが、この島に伝わるのはモコリイと呼ばれた獰猛なモオである。
その昔──クアロアの浜辺には獰猛なモオのモコリイが住み着き、度々通りかかる旅人を襲っては人々を困らせていた。
そんなある時に、この地をヒイアカという女神が通りかかる。
可憐な容姿を持つヒイアカだが、その正体は数多のモオ退治を果たしてきた百戦錬磨の女神にして、火山の女神ペレの妹である。
そうとも知らずに通りかかったヒイアカに襲い掛かったモコリイは敢え無く返り討ちに遭い、一瞬で片付けられてしまったのだ。
その際に、斬り飛ばされたモコリイの尻尾が海に突き刺さって島になったのだという。
そのためチャイナマンズ・ハットと呼ばれるこの島の名は現地の正式名称でモコリイ島と呼ばれている。由来は勿論、前述した伝説である。
そんな無人島から見上げる曇天に、光が瞬く。
曇天の狭間に垣間見る雷。
一見して自然現象にも見えるそれはしかして自然現象ではなかった。
指向性を持った、意志持つ稲妻。
遥かは太平洋の向こうから曇天を伝って、稲妻はハワイ諸島に向かっている。
──古来より、
であれば空を過ぎるそれは雷神の影であるのか──否、否、否である。
其は神の雷霆、慈悲の意。神々の言葉を伝える天から遣う
だが扱う奏者は堕天使に非ず、かの存在よりその力を簒奪せしめた覇者であった。
稲妻が落雷と化してモコリイ島の天頂に落ちる。
一瞬の閃光。気づけば、一人の男がそこに立っていた。
長身痩躯の美男子である。
丁寧に切り整えられた黒髪、白皙の肌の上から黒いスーツを身に纏ったその姿はどこぞの貴族を思わせる。事実、彼は天性の気品と生まれ持った美貌が霞むほどの態度の大きな振る舞いゆえ『王子』と渾名され、欧州全域から畏れられている。
『
神殺しにして『王立工廠』を従える魔術王。
その興味が赴くままに世界を股に掛け、混沌と動乱を齎す稀代のトリックスターである。
「既に予告状は送ってあるが、果たして素直に差し出すかどうか──」
女神に弑られた魔の遺跡。その天頂からハワイ諸島を睥睨し、アレクは呟き、次いでニヤリと笑った。
「まあ、隠したところで暴くだけだ。この島の学者諸兄らには申し訳ないが、その実物と共に例の研究は俺が引き継ぐとしよう」
勝手気ままな王の決定。
だが、アレクにはそれが許される。
何故ならその身は探究者にして
何者にも縛られぬ
「この島に伝わる
直後、アレクは再び稲妻と化して姿を消した。
ハワイ諸島に差し迫る、動乱の気配。
──南国の島で次なる騒動の幕が上がろうとしていた。
☆
夏休みが明ければ当然のように学校が始まる。
怜志は神殺しという裏の顔があれど、その表向きの格好は単なる中学二年生。
それも来年には受験が控えた身分である。
そういった意味では純粋な休みという意味での最後の夏休みを終えた怜志は、来る受験を目標に学徒としての本分に努めるべく、自身が通う中学へと足を運ぶ。
「おはよう」
と、端的に挨拶しつつ教室のドアを開けてみれば。
「はよー、あ……委員長だ」
「委員長おはよー」
「うぇーい」
「お、我らが風紀委員長殿。おはようございます」
「今年はちゃんと髪染め直してきたぜぃ!番長!」
など、パラパラと適当な挨拶が返ってくる。
……家系の事情もあって、怜志は特定の部活には所属していないものの、代わりに学級委員の職務を務めている。一年生の頃は無難に図書委員をやっていたのだが、二年に上がる際、
こういうのは最上級生の役職では?と思ったのだが、何故か最上級生含む進級時点での生徒会と生徒たち全員から推薦されたため、断るのも申し訳ないのでそのまま引き受け、今に至る。
なのでクラスメイト達からはこうして委員長だとか、番長だとかと呼ばれているわけだ。
「……いや、やっぱ番長はおかしくないか?」
誰に言うでもなく机に荷物を降ろしながら、ふと冷静に返って言う。一部の男子生徒が自分のことをそう呼ぶことに特に何も言及してこなかったが、そもそも仮にも風紀委員を務める人間にとって、それは対極に等しい呼び名ではなかろうか。
「──夏も終わっていよいよこの時期がやってきたな」
と、腑に落ちない思いで怜志が首を傾げていると挨拶もなくいきなり怜志に話しかけてくる声。視線をやれば机に向き合って何かを書いていた前の席の生徒がくるりとこちらに向き直って話しかけてくる。
「南? どうした急に」
怜志は着席しつつ応じる。
彼の名は
椅子の背もたれに両肘を付きながら、重ねた手の上に顎を乗せ、眼鏡に光を反射させながら何故か低い声で怜志の反応に言葉を返す。
「おいおい怜志忘れたのか? 夏が終わり、季節は秋。となれば一つしかないだろう?」
「そうか? 文化祭に修学旅行とめぼしいイベントは幾つかあると思うが……」
「フッ、分かってないな。そんなものは大したイベントじゃあないだろう。少なくとも学生やってればいつでも体験できるイベントだろう?」
「いやクラス替えや進学もあるから見知ったクラスメイトのままいつでも体験できるわけでは」
「シャラップ。今はそういうのは良いから」
「……ふむ」
内心で面倒くせぇなと思いつつ、優等生として振舞う怜志は真面目に考える。相手は変人だが、こんなんでもクラスメイトで友達である。
何の用事かは知らないが、重要なことなのだろう。
文化祭や修学旅行、怜志たちの身分でそれよりも優先される重要なイベントと言えばやはりアレか。
「そうか、受験べん──」
「そう! 秋の短距離路線! スプリンターズステークスの開幕時期だろうがッ!!!」
「…………………………そうか」
怜志は一限目の授業の準備をすることにした。
「やはり秋G1といえば天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念が注目されるのだろうが、今年は違う!!今最も
だが南は聞いてもいないのに勝手に話を続けている。
「今年のスプリンターズステークスには当然去年の短距離覇者デュランダルも出走してくる!ついに完成した新潟千直の王が聖剣の輝きをも抜き去るのか、はたまた今年も聖剣が全てを切り裂いてその強さを証明するのか!まさに注目の舞台だ!!世間は地方の星コスモバルクがクラシック最終レース菊花賞を取って悲願を達成するのか、或いはNHKマイルカップと日本ダービーの変則二冠を達成し、三歳ながら天皇賞(秋)を目指すキングカメハメハに注目しているようだが俺は違う!短距離故の位置取り、仕掛けのタイミング、一瞬の判断が勝敗を分ける競馬においても尚激しい緊張感!電撃の短距離路線にこそ競馬の真の面白さが──!」
「……うるさい。第一お前同い年だろう。公営の
聞いてもいないことをペラペラと宣う南に、怜志はため息交じりに問いかける。このまま無視してても永遠喋ってそうな勢いだったので、取りあえず湧いた疑問を振って話を逸らしにかかる。
果たして怜志の狙いに気づかぬまま、南は何処からともなくサッと一枚の紙──というか馬券を取り出してドヤ顔する。
「フッ、法律なんぞ笑止千万。そんな障壁、中山で(その辺の知らない)親父に頼めば容易く越えられる。怜志、競馬はな。心なんだよ」
「仮にも風紀委員長の前でいい度胸だな貴様」
神殺しとして法をも恐れぬ熱意だけは認めるものの、校内に限って言うなら怜志は風紀を守る側である。然るに、怜志はとっとと
その足をガシッと掴んで抵抗する
「やめ、ヤメロォー!! 俺の記念馬券!! カルストンライトオの新潟千直レコード馬券を返せぇ!!」
「学校に関係ない私物を持ち込むんじゃあない、てことで罰だ」
「カルストンライトオオオオオオオッッ!!?」
無慈悲に燃えるゴミに叩きこまれる馬券、南は悲鳴を上げながら一直線にゴミ箱に突っ込んで沈黙する。悪は滅びた。
「うぃーす、全員揃って……おい、なんで南がゴミ箱に顔突っ込んでんだ?」
丁度その時、教室の扉が開いて担任の教師が教室へ入ってくる。教壇に生徒名簿を置きながら視線は窓際のゴミ箱に突っ込んだ南へと向いている。
訝し気にする教師に向けて怜志が着席しながら応えた。
「私物を持ち込んでいたため、注意しました。暫くしたら動き出すと思います」
「おう、そうか……んじゃ、ホームルーム始めるぞー、お前ら席につけー?」
怜志の一言を聞いて何事も無かったかのように話を進める教師。雑な号令を受けて、思い思いに朝の気だるい雰囲気を過ごしていた学友たちがだらだらと自分の席に解散していく。
「うぇーい」
「休みも終わりかー」
「安西先生……宿題が終わらなかったです……」
「はー、つっかぇ」
「ぬるぽ」
「ガッ」
そうして南以外の生徒たちがきっちり自分の席に戻ったのを確認してから、教師は首元を手で適当に揉みほぐしながらあくび交じりに開始する。
「うーし、夏休み明けだから出席取るぞー」
当たり前のように進むホームルーム。
休み明けの学校は今日も今日とていつも通り平和であった。