──グィネヴィアなる魔女の言葉を信じるわけではないが。
事前に調べた情報、周囲からの評価を聞いた上での結論として。アレクサンドル・ガスコインと自分の相性は最悪だと怜志は判断した。
「此処だな」
故に一撃必殺、二の太刀要らず。
初手で仕留めると決めてピンポイントにその地点を定めた。
敵の油断が最高潮となるであろうその瞬間、獲物を前に舌なめずりをする一瞬の隙に。
「────ッ!!」
神速を纏う黒王子の顔に動揺が浮かぶ。
神経質そうな身なりの良い青年──確かに王子と呼ぶに相応しいだろう美貌が不意打ちに歪んでいる。何やら叫んでいるようだが、言葉が耳に入らないのは速度域の問題だろう。
だが、聞こえずとも問題ない。
刃は完璧に合わせている。
如何に速く動こうともこの場面ではこちらが速い。
(かの軍神の一騎駆けも常識外の速度域だったからな。稲妻程度、捉えられずして軍神を殺せるものか)
つまり、そういうことである。
天国怜志は剣の腕でサルバトーレ・ドニに比肩する剣士だ。
加えて神殺しとなる以前より山岳修行の折、雷切の偉業は既に体得している。
いわゆる神速破り程度、使えない筈もなく。
「縛に付け、コソ泥」
鋭く奔る冷然とした刃。
敵が獲物を手にする瞬間に発生する一瞬の油断を突いた一撃を前に、愕然とする怪盗に成す術はなく──その上で。
「舐めるなよ……!」
──神殺しの戦士の声が響き渡る。
錯覚ではない。明確な発声。
唐突に今まで
「!」
残像に向けられた筈の刃は動きの鈍った相手に対してより早く仕留めに掛かるが、怜志の刃がアレクの腕に触れる寸前、再びアレクの姿が残像と化して加速する。
アレクは飛び退くように後方へと跳躍した。
中空に鮮血が舞う。だが仕留めるどころか、片腕の一本すら落ちていない。軽く肉をそぎ落とすことは出来ても、その刃は骨を断つほどまでには至らなかった。
神速解除による一時的な減速と、再加速。
その速度差を利用して怜志の刃のタイミングを僅かにズラしたのだ。
怜志の初の太刀は初めの加速に向けて合わせられたもの。だからこそ獲物の動く速度が急に変わればそれに対応できない。
ましてや神速破り──人の認識が追い付かない極限域での微細な調整が必要となる技芸であれば特に。
先の発声。それが神速を解除したことによる現象だと怜志が意識が追い付いた頃には一瞬の攻防は終わっていた。
「……薄々分かっていたことだが」
二十メートルほどの間合い。
超速域での嘘のような駆け引きの後に残る沈黙を破る様に、怜志は敵を逃がしたことを惜しむでもなく淡々と呟きながら打刀を脇構えに据える。
「神殺しを不意打ちで仕留める……というのは不可能か」
そもそもをして神を殺すほどの戦士である。死の気配には何者よりも聡く、勝機を掴む術は獣以上に長けている。
強さは勿論のこと、常軌を逸した天運の持ち主が神殺しなのだ。
暗殺や不意打ちに倒れる程度の者が、人々から『魔王』などと呼ばれ畏れられるはずもなく。得てして彼らの殺し合いは泥沼に陥りやすいのである。
「フン、それが分かっているなら態々首を突っ込んでくるな。天国怜志。貴様に異国の呪具など関係ないだろう。それとも騒動に関わらなければ気が済まない性質なのか?」
嘲るように放たれる毒気のある言葉。流暢な日本語は神殺し特有の『千の言霊』の効果ゆえか。
異国の言葉をも我がものとする傲岸不遜な魔王の振る舞い。
「そういう貴方こそ騒動を起こさねば気が済まない性質なのですか。それに態々予告状を送り付けてやることが窃盗とは。それほど
「……正義の味方気取りか? 新たに顕れた新参者はただ暴れたいだけの衝動を取り繕う言い訳だけは上手いらしい。日本の王は無駄に旺盛な闘争心を正義で言い訳する舌の持ち主だと後で賢人議会の連中に教えてやるか」
「正義の味方気取りで大いに結構。偽悪的な振舞いで人々の営みに迷惑をかける怪盗気取りの傍迷惑よりかは断然マシだ。盗品を揃えてご満悦とは、年若き英国の黒王子殿は随分と時代遅れの価値観を持った御仁のようだ」
言葉の応酬──その最中にも両者の呪力は戦闘準備をするように上昇していく。
直感的に両者とも理解しているのだ。
「……チッ、手間を掛けないために根回しを行ったというのに結局
「それを言うなら余計な火種を作るなといいましょう。煙が無ければ態々関わる道理はなし。俺の介入の切っ掛けを作ったのは他ならぬ貴方自身の行いゆえだ。……それに貴方の求める刀は俺にとっても無関係ではない。異国のモノと渡ったとはいえ、我が一族の鍛えた劍、魔王に渡すわけにはいかないのでな──」
「……なに? どういう意味──」
「正当防衛ということ、だッ!」
「く、このっ……傍迷惑な偽善者め……!」
相手の言葉ごと斬り捨てるかのように、再び怜志の刃がアレクを強襲する。
だが、今度は掠ることすらしない。
神速の稲妻が奔る刃を簡単にすり抜ける。
戦闘態勢に移行した以上、先のような失点をそう許すほど英国魔王も甘くない。
「良いだろう……詳細は貴様を破った後で調べ尽くしてやる……!」
「……義は我に在り。年貢の納め時だ、盗人。その罪を贖っていけ!」
斯くして開戦の狼煙は此処に。
東西の極域に誕生した正反対の魔王は激突する──。
☆
怜志が称した相性最悪とは、何も性格のみを表した言葉ではない。
その能力、その権能、その
権能を使用するにあたって、基本的に真正面からの戦闘という状況が必要な怜志にとって、知を活かすことで優位を取ろうとするアレクとの戦闘は極めて咬み合わせが悪い。
神速で翻弄し、環境を整え、盤をひっくり返すようにして相手に致命傷を叩きこむ──それがアレクサンドル・ガスコインの必勝法。
常軌を逸した観察眼から来る後の先を取るのが怜志であるが、アレクが相手では受け続けるだけでは一方的に敗れるだけだろう。
だからこそ怜志が取る選択は単純かつ明確なもの。
向こうの強みはこちらの弱みだが、こちらの強みもまた向こうの弱みである。
「フッ──!」
息つく暇など与えない。落ち着く猶予など与えない。
絶え間ない連続の斬撃。向こうの土俵が不利だというならばこちらの土俵で一方的にすりつぶす……!
「く──野蛮人め……!」
「はぁ……ッ!」
蛮族じみた力押しに嫌悪を浮かべる黒王子。噂の権能『
加えて怜志は名が響き始めたとはいえまだまだ新参魔王。その権能に何らかの条件付けがあるのではないかとまでは露見していても、その詳細や条件そのものの露見にまでは至っていない。
敵が未知の鬼手を隠し札としている以上、アレクも安易に踏み込めずにいるのだ。
とはいえ受け続けるのは不味い。
相手は卓越した剣術の武芸者。
神殺しとなったために人並外れているアレクの身のこなしだが、それでも。
「ぐっ……!」
肩を掠める一刀。
一太刀を囮にアレクの躱す方向を限定させた上での、二刀目が被弾したのだ。
……このように素人護身術程度では人類屈指の剣士を前に見切られて終わるのみ。
「自慢できるのは速度だけか、王子殿。少しは戦士らしい気概を見せるといい」
「貴様ら蛮族と一緒にするな……とはいえ」
挑発するような怜志の物言い。
アレクは毒づき、次いでニヤリと笑う。
「貴様のやりたいことは大体わかった。良いだろう、御望み通り相手をしてやる。貴様らのような猛獣まがいの連中を扱うことには慣れている……!」
「!」
防戦一方だったアレクの気配が変わる。
悪童じみた謀略の気配。
蝶のように舞い、悪魔のように盤面をひっくり返す狡智なる魔王が、その本領を発揮せんと動き出した。
ガキン! と突然、怜志の刃が止まる。
今まで絶え間なく稲妻を追い続けていた達人の太刀。
獲物を切り裂かんとした一撃が、動きを封じられた。
その正体、硬質な手ごたえを受けて怜志は目を見開く。
「ペン……だと……?」
金属造りの洒落たアンティークペン。ペン先にインクを付けて使うタイプの筆記用具としては時代錯誤も甚だしい趣味人の酔狂が、怜志の一太刀を受け止めたのである。
「ペンは剣より強し──確か貴様の国の言葉だったな。貴様らのようなのと違って、荒事にしか使えない下品な道具を持ち歩く趣味はないのでな……!」
言いながらアレクはペンで以て怜志の刀を押し退け、続けざまにダーツの要領でペンを怜志の眉間目掛けて投擲する。
反射的に空手で受け止める怜志だが、その隙にアレクは稲妻と化してインファイトの間合いから神速で離脱した。
「逃がすか……!」
「──貴様の権能に枷があるのは知っている。わざわざ手持ちの武器で馬鹿正直に突っ込んできた辺り、切り札を切る条件は達していないのだろう?」
「……!」
「貴様の性質とその剣を見るに……殴り合いで効果を発揮するタイプか、窮地に陥って発揮するタイプか……或いは受けた傷を返すカウンター型か……」
怜志の言動と性格から考察したのだろう。
怜志がアレクの動きを観察して見切って見せたように、アレクもまた怜志そのものを分析していたのだ。そして──勝ち筋もまた。
「今度はこちらの舞台で相手をしてもらうとしよう──!」
高まる呪力、同時に何事かを囁くアレクサンドル・ガスコイン。
考えるまでもなく彼が有する《神速》に続くかの王が持つ権能。
そのどれかを解き放つつもりだろう。
「させるか……!」
相手のペースに飲み込まれるのは不味い──!
発動させる前に潰すと駆けだそうとした足はしかしガクンと止まる。
万力のような後ろ足を引く気配。
見れば、いつの間にか背後から何者かが怜志の両足を掴み、抑え込んでいる。
「これは……確かまつろわぬメリュジーヌの!」
「ほう、事前に俺の力を調べていたか。存外知恵が回るようだ。その通り、顔を見せたがらぬ恥ずかしがり屋だが、護衛としては優秀だ」
『
悲恋の女神より簒奪したその化身が怜志を拘束する。
「くっ……!」
怜志の足が止まる。その明確な隙に黒王子が動く。
紫電を帯びた神速の移動。但し、向かう先は怜志ではなくその後ろ。
モノ云わぬままに鎮座する、天国の古刀……!
「お前……!」
「取っ組み合いの喧嘩が好きならそちらと勝手にやっていろ」
戦意を嘲笑うかのように悪ぶりながら抑えつけられる怜志を傍目に悠々と獲物に飛び込む怪盗。相手をしてやると嘯きながらもアレクは初めからまともに応じるつもりなどなかったのだ。
そもそもアレクの興味は終始一貫して《カルイキの刀》のみ。ぽっと出の新参魔王の相手を律儀に務める義理などない。さっさと盗って、さっさと帰る。
意地悪くも交戦の意志を見せたことなど、そのためのブラフに過ぎない。
「……拘束を振りほどけないのを見るに、やはり今のままでは権能を使えないようだな。やはり下手にダメージを与えて無効化するより相手をしないのが貴様には有効のようだ」
呆気なく突破できた事実を前に自分の見立ての正しさを確信する。
言動から見受けられる気質に、伝え聞く権能の特性、それから他の魔王に比べて権能が及ぼす効果範囲の低さから見積もったアレクの結論。
日本に生まれた新参魔王は強力な戦士が相手ならば実力を十全に発揮する反面、アレクのように戦場以外での戦いに秀でたものとはかなり相性が悪いと見える。
であれば、このように逃げ回り、翻弄し、傷つけずに枷を嵌める──策略に陥れるのが最も効率よく相手を無力化する最善手となる。
「これは貰っていく。貴様とこの刀の繋がりに関しては、後でゆっくりと──」
だが──アレクのその結論は些か性急である。そも怜志が他の神殺しと比べ、多様性に富んではいても柔軟性は低い権能を有するのは怜志自身が自らを難く律しているから……
その特色が現れた由縁は、その本人の地金──曰く、刀一本あれば十二分という自らの腕に絶対の自信を有するが故。
我が刃の冴えは神をも凌ぐという傲慢があったればこそ。
故に──例え権能が使えずとも、それは何ら恐れる事態ではないのだ。
「玉鋼、収斂──鍛造技法簡略──破魔刃金……」
余裕顔のアレクを傍目に怜志は呪力を練り上げる。その異常に気付いたアレクの
「南無八幡大菩薩!」
願わくば我が矢を届け給え──八幡神に捧げる必中の祈り。
それを受けて投擲された砂利のように小さな玉鋼は飛翔しながら刃へと成っていき、
「練鉄術の類か? だが……!」
予想外の遠距離攻撃に、咄嗟にアレクは真横に跳んで躱す。しかし八幡神への祈りの戦果か、はたまた投擲術においても卓越しているのか、飛翔する三本の苦無の一つがアレクを掠める。
瞬間、身に纏っていた紫電が消え失せ、術ごと呪力が雲散霧消する。
「何……!?」
突然自身に起こった状態変化にアレクは驚きながらつんのめる。
権能を解除した覚えはなく、神速破りが当たったにせよ、術破りの魔術を受けた覚えはない。
だとすれば仕込みは明確だ。反射的に刃を見る、鉄を呪術的に鋳造しただけの刃金──そう判断したがしかし、よくよく見れば刃自体に風変わりな呪いが見受けられる。
「錬鉄術で作り上げた刃に
恐らくは触れた対象の呪力を散らす破魔矢のような苦無なのだろう。とはいえ呪術についての知見もそれなりに富んでいるアレクをしてそんな術式に心当たりはない。いやそもそも鉄を瞬間的に加工する錬鉄術は存在するものの、直接このような魔剣紛いの代物を組み上げる術など聞いたことが……。
学徒の宿痾か、自らに起こった不明に思考を回し立ち止まるアレク。
その隙を当然怜志は見逃さなかった。
「退け!」
『!』
拘束する女怪に突き刺さる肘鉄。戦場とあらば女子供にも容赦のない怜志が放つ手加減なしの暴力が無貌の女王の顔面を強打する。思わず仰け反る女王に、怜志は器用に両足を捻じり、如何なる技法か、靴を置き去りにしながらもすり抜けるようにして自らの縛る枷から脱却する。
「チィ……!」
「……雲耀ッ!」
素足にも関わらず力強い踏み込みで距離を詰める敵手の姿を視界に収め、アレクは舌打ちしつつも再びその身に紫電を纏う。何者をも振り切る神速の脚。
稲妻が如きその疾走目掛けて怜志は刀を大上段に掲げて、襲い掛かる。
極めて隙の大きい、大振りの一撃。
それを見てアレクは最小限の動きで刃をやり過ごし、怜志の背後に回り込もうと足を溜める。
……だが問題はない。
例え見目が隙だらけでも、打ち込んだ直後が隙だらけになろうとも構わない。
要は、この一撃で敵を仕留めてしまえば全ての隙に意味などない。
「────ッエイー!!!」
「なっ!」
鼓膜を突くほどの猿叫。思わずといった様子で瞠目するアレクを傍目に、怜志は勢いよく一撃を振り下ろす。
「チェェェェ────ッ!!!!」
全身全霊を刃に乗せて怜志が刃を振り切る。その速度は迅雷よりも早く、巨人よりも剛力無双。あまりの勢いに大気圧と摩擦を起こして刃が赤熱さえしている。
神殺しとして転生した肉体の
極東で生み出された修羅の理念を帯びた一撃が、英国魔王へと襲い掛かる。
「くっ……おぉ……!!」
最小限の動きで往なす──そんな安易な計略はこの力技を前には無意味である。全力で躱さねばこちらに後はないと瞬時に判断したアレクは全力で後ろに跳ぶ。出力全開で一瞬のうちにトップスピードに乗るアレクの神速。にも拘わらず、その一撃はアレクの脇腹を掠めてスーツの下に着込む白いシャツを紅く濡らした。
「───ッッッィ!!!!」
だが、それも軽症で済まされたと喜ぶべきだろう。
何故ならアレクを掠めて地に落ちた刃は、ズガンッ!ととても日本刀から出されたとは思えない衝撃音と共にコンクリートの床にクレーターを象って見せた。
……仮に、直撃していたならば間違いなくアレクは頭頂から股下に掛けて真っ二つに両断されていたに違いない。
「こ、の……蛮族め! スマートさの欠片もない力業で押し通るなどと……!」
「小賢しく頭を回すそちらと違って単純で分かりやすいだろう。容易には抜かせん」
無茶な神速の使用の影響か、アレクはゼイゼイと呼吸を荒げながら心臓の辺りを押さえながら毒づく。先ほどまでの正気を失ったかの如き気合は何処へやら、怜志の方はと言えば呼吸静かに刀を正眼に構えなおしている。
どうやら大声を出そうが、全力に力もうが、正気を失わぬ性質らしい。
剣を握っている最中であれば正気も狂気も自由自在ということだろう。優れた武術家にはありがちな才能だが、アレクにとっては最悪だ。
これでは多少の足止めは力づくで突破される上、手痛い反撃を受けてしまう。
事実、先の一撃はもう少し脇腹をエグって内臓に届いていたならばそれだけで詰み筋だ。
致命傷を受けた状態でこれと相対するなど正気の沙汰ではない。
「……いいだろう。そういうことなら出し惜しみは無しだ」
手間を惜しんでお宝を盗ったら即時遁走──などと考えていたが、この門番がいる限り目当てのモノには手が届かない。だというならば
内部に残っていた魔術師連中も巻き添えになることだろうが、もはや知ったことではない。
この邪魔者を全力で排除する、アレクの思考はそのように完全に切り替わった。
「迷いを歌え、風よ! 光を隠せ、夜よ! 全ての旅人よ、寄る辺なき茨の旅路を──深き憂いと共にただ進み、希望を捨てよ!」
言霊を謳いあげ、踵を鳴らす。高ぶる呪力と紡ぎあげられる権能。
怜志は警戒しながら、正眼に構える刀をより深くするが、変化は直接的に怜志を狙うのではなく、その周囲にこそ振舞われた。
「景色が……これは……!!」
ホノルル美術館、その内部構造が変化する。
通路は先が見通せないほどの奥行きとなり、博物館の屋根を支える柱たちはギリシャのパルテノン神殿よろしくその数を増やして連なり、見通しを阻む障害と化す。美術館に飾られた幾つもの展示は迷宮路の先に待っている秘法のように隠れ、隠され、何処かに消える。
内部構造をぐちゃぐちゃに搔き乱し、空間を捻じ曲げ、惑い迷う入り組んだ景色。
……目の当たりにするのは初めてであるが、これもまた怜志は知識として耳にしていた。
牛の怪物、ミノタウロスの父、ミノス。
ギリシャに有名なかの異形の父より簒奪せしめたアレクサンドル・ガスコインの権能──。
──『
「ガスコイン……!」
いつの間にかこの迷宮を作り上げた元凶は怜志の前から姿を消している。
恐らくは迷宮主としての力の一端だろう。
迷宮内であれば自由自在に移動できる、といった所か。
仕掛けを警戒しつつ、何処かに逃れた英国魔王の気配を探る。
が、いかんせん広い上、迷宮として作られた故か索敵が通らない。
侵入者が迷うことを目的に作られた宮殿はまるで霧の中であるかのように未明だった。
『《刀》の場所を特定するためだったが……結果として事前に地図を予習しておいて正解だったな』
惑う怜志を嘲笑うように狡知なる魔王の声が響く。
遠方から声のみを届けているのだろう。
発生元を探ろうと感覚を研ぎ澄ますが空間全体に響く様な音はそこいら中に反響し、その出元を探らせない。
『あの男の
「……非道な。宝を盗むに飽き足らず、無辜の人間をも巻き込むか。貴様といい、ヴォバンといい、つくづく人界に迷惑な振舞いをするな」
『
どうやら東欧に君臨する大魔王については向こうも認識しているようだ。同時によほど一緒にされたくないのか強く言い返してくる。
アレクは言い訳してくるが、この状況下にある怜志からすればどちらも五十歩百歩である。
「それを言うなら貴方が盗みを企てなければ起こらなかった事件だろうが。何やら他の魔王より知性派ぶっているようだが、そこまで外面を気にするなら自らの振る舞いを顧みるが良い」
『フン、価値も分からずただ死蔵されるだけのモノだ。ならばその価値を活かせる者の手元にあった方がそのモノも幸せだろう。それに用が済めば返すつもりだ。文句はあるまい』
「大ありだ、英国流め。気まぐれに前言をひっくり返す魔王の舌なぞ信用できるか。お前の実績が何よりそれを物語っているだろうに」
『何とでも言え。どの道、今の貴様ではその状況はどうにもならないだろう』
その指摘は事実である。鉄を扱う術師としての顔も持つ怜志だ。
暗い坑道で活動するための術式や山岳踏破で使用する術などを活用すれば、権能を使えずともこの大迷宮を脱出することも可能だろう。しかしそれはあくまで時間を掛ければの話である。
敵の狙いは最初から《カルイキの刀》であり、それを奪取してしまえば此処に残る道理はない。
迷宮主権限で地上に抜け出た後、忽ち神速でハワイを離脱することだろう。
悠長に構えている暇などない。
しかしアレクが言う様に、今すぐにでもアレクを追うとなれば怜志にその手段はない。
冷静を心がけながらも、しかし内面でどうすると逸る心は押さえられない。
『とはいえ、この上で何とかされても困る。念には念を入れて、お前はそのまま迷宮の奥底に封じさせてもらうとしよう』
明らかに怜志にとって不利な盤面──だが、アレクは手を緩めない。
どのような場面からでも勝ち筋を見出すからこその
僅かな隙でも残せば、そこから食い破られることを悟っているからこそ、アレクは更なる追撃を加える。
美術品が映える白壁の空間。そこに、何の前触れもなく黒い点が顕れる。
空間に出来た風穴のような不可解な点。
それはやがて周囲を飲み込むような吸引力を発揮しながら重圧をまき散らし、さながらブラックホールのようにして怜志ごと周囲の全てを引き寄せ、抑え込む超重力の枷となる……!
「ぐ、お、おお……この魔球……! ベヘモットから奪ったという奴か……!」
『……つくづくその辺りは余念がないな。全く、少しでも考える頭があるならもう少し理性的な振舞いを覚えろという』
「反社会的な理念の持ち主に理性を問われるとはな……!」
手前勝手な批判に皮肉で返しつつも怜志は歯噛みする。
……今の状態ではこうして球体に飲まれぬよう踏ん張ることしか出来ない。
これでは完全に抑え込まれてしまっている。
どうやって追いつくか以前にこのままでは迷宮の脱出すらままならない!
『何とでも言え、では俺は行く──これに懲りたらせいぜい余計なことには関わらないことだな!』
動きを封じられた怜志を鼻で笑うかのように言い捨てた後、声は途切れ、気配もまた遠ざかっていく。
怜志を封印した上で迷宮を脱出したのだろう。
恐らくは間を置かずしてハワイからも離脱するつもりだ。
「……野郎」
──ふつふつと怒りがこみあげてくる。
言い分を通すために殴り合うならまだ分かる。
自らの力で堂々と押し通る征服の所業ならば、こちらも雄々しく応戦するのみだ。
だが周囲に混沌をまき散らすだけまき散らしておいて、自身は後始末も碌になくさっさと逃亡とはどういう了見か。仮にも神を殺した戦士ならば、少しは戦士らしく振舞えばいい。
初めから引き打ちで刃も碌に交えず、無傷無事で事を済ませようなどと言う軟弱な策略。どうにもこうにも度し難い。アレクは違うといったが、確かにアレならばヴォバンの方が百倍マシだ。
「ああ、確かに相性最悪だな。その捻じれた性根、根本的に気に食わん……!」
珍しく明瞭な憤りを燃やす怜志……とはいえ、義憤というには少しズレていた。
──元より怜志は秩序を重んじ、人の良識に理解を示す真面目な人物だが──それはあくまで理解を示すだけである。根本的な価値観が戦場の武士のそれに近い。
なので此処での怜志の逆鱗に触れたポイントは自らに取り合うこともなく、まともに戦おうという素振りすら見せず、呆気なく逃亡を選んだという事実にこそあった。
良識や常識を取り繕わず、明け透けに本音を語るのであれば──せっかく異国くんだりまで未知の魔王との闘争を予感しながら来たというのに、戦の一つも演じないとはどういうことか!
些か見当はずれの怒りを燃やしながら怜志は叫ぶ。
「その性格ごと叩き直してやる……絶対に逃がしてなるものか……!」
義は我に在り、天運よ、天命よ!
この際、何でもよい──世に働く何者かの力よ!
我に逃亡する惰弱な魔王を捉える理を与えたまえ──などと。
珍しく
果たして──その願いが通じたのか。怜志は何か、こみ上げるものを覚える。
本能にも似た直感的な理解。
衝動的な祈りが通じた新たな力の発露。
それを形にするようにして怜志は唱える。
「水よ、恵みよ──命育む聖なる力よ! 天の戸川の樋口開け放ち、地上の穢れを洗い流せ! おん、めい、けしゃにえい、そわか!」
斯くして目覚める第二権能。
地に閉ざされた底より捧げられる天への命令。
ぽちゃり、と。全てを飲み込む雨音の気配が、遠くから響き始めた──。