霜が降りた草が青々とし、冬風に虫の鳴き声がぢりぢりと混じる。
深山幽谷に行き交う人の影があるはずもなし。
廬山に日々は今日も今日とて俗世の柵とは縁のない悠然とした立ち居振る舞いであった。
故にこそ、そんな自然に溶け込むように音もなく象られた『穴』は違和感なく、そこにあった。空間にポッカリと開いた『穴』。
先の景色は見通せず、そもそもそれが何なのかも定かならず。
およそ自然現象にはあり得ないだろうその『穴』は周囲の空間をも蜃気楼のように歪ませながら当たり前のようにそこに在った。
「近頃は森が妙に騒がしいと思えば──あの魔女の仕儀でしたか」
紗欄──と『穴』を目前に気づけば女人が立っていた。
まるで今まさに天から舞い降りたかのように宙に浮いていた足は、着地に際しても足音は疎か砂埃一つ立てず、爪先からピタリと重さすら感じさせないままに大地に張り付く。
──それは漢服を身に纏う絶世の佳人であった。
端正な玉のかんばせ、寒蘭の如きすらりとした佇まい。絹のような黒髪は三つ編みにしてまとめ、結い上げている。歳は恐らく十代後半。
正しく何処かの貴人令嬢といった見目であるが、単に嫋やかなる少女と言い切るにはその美声には獅子や虎の唸り声にも似た禽獣の王の威が備わっていた。
事実、見る者が武人であるならば彼女がただ蝶よ花よを愛でられるだけの存在でないことは一瞬で看破するだろう。
手足爪先にまで至る恐るべき身体制御。如何なる不意打ちにさえ対応して見せるだろう泰然とした構え。眼光は常に景色の全体像を俯瞰するように茫洋と揺らめき、踏み込む隙など一切に伺わせない。
可憐な野花はその美しさに頭を下げ、野獣は自然体に滲み出る強者の威に足を下げる。彼女こそ中華大陸に君臨する至上の美にして武の至極。
天上天下に並ぶもの無き至高の王。
姓は羅、名は翠蓮、字は濠。
人呼んで羅濠教主。それこそが彼女である。
神々より最初に権能を簒奪してから二百年。
欧州のサーシャ・デヤンスタール・ヴォバンに並び、未だ闘争の日々に不死を誇る不敗の覇者。現存する神殺しにおいて最古参の一角を占める佳人であった。
「あの魔女が何処で何をしようともわたくしには関係のない話ですが──斯様なモノを森に作るに飽き足らず、外来の畜生を招くなど宣戦布告に等しい真似。いずれ時が来れば長年の縁を切るべく決戦の構えでしたが……ふふ、今宵がその時なのかもしれませんね」
華が咲き誇るような可憐な微笑を浮かべる羅濠教主。が、もしもこの場に内弟子である少年が居合わせたなら引き攣った顔をするだろう。
何故なら平時は端正な顔立ちに勿体ない憮然とした表情を浮かべる羅濠教主である。そんな彼女がこのような笑みを浮かべる時は決まっているのだ。
闘争に際しての歓喜。それを置いて他にない。
ましてや今回に至っては往年の腐れ縁ごと薙ぎ払う機会である。
闘争と清算を兼ねた一石二鳥。
故に笑みを浮かべながら、かの魔女があるだろう騒動の地へと足を踏み出す。
「それに──」
直前、微笑に別の色を付け加えながら風に紛れるような声で。
「別の、面白き縁にも恵まれそうです」
瞼の裏にその風景を幻視する。
……羅濠より見て未熟なれども峻烈なる闘志。
……獣の衝動を鋼の理性で統制してみせる強き心。
……構える武林の至極を前に、怖れを見せぬ生粋の剣士。
出会いの覚えのない若武者が、羅濠の前に立ちふさがる。
そんな光景を。
「ふ──」
果たして『それ』は如何なるものか。
久方ぶりに心の弾みを自覚しながら羅濠は魔境に踏み入った。
☆
──その日、怜志はとある用事で荒川沿いを歩いていた。
待ち合わせの時間よりも早く着きそうだったので公共交通機関の移動から徒歩へと切り替えた結果である。
普段は神奈川で過ごしているため、怜志が東京に頻繁に来ることは無い。
せいぜいが休日辺りに、友人らに誘いに呼び出されるかぐらいである。それも大抵は新宿や池袋近辺、或いは神保町か稀に秋葉原といった具合で、この辺りを散策した経験はないに等しい。
故に散歩がてら、軽く歩いてみようと川沿いを北千住駅から隅田稲荷の方へと向かって歩いていく。川沿いには球戯場が点々としており、土曜日ということもあって暇を持て余した野球少年たちが川辺で草野球を行っていた。
「東京でもまだこういう風景は残っているんだな」
ボールを追いかけて駆けまわる少年たちを傍目に見ながら感想を漏らす怜志。昨今は洪水対策や都市計画の影響で川辺に至るまで押し込められるよう建物が密集するようになった都会である。
自然公園と隣接する形で管理される場所ならばともかく、あのようにすぐ近所の川辺に出て野球を楽しむ、などという環境は都会では減少傾向。
さらにはその辺の公園ですら最近は周囲への影響を考え、球技の開催を禁止するような傾向が広がっているとも聞く。
あのように無邪気に子供が遊べる環境というものは都会では少なくなりつつあるのだ。尤も、それはそれでゲームやら何やらに娯楽のメジャーは移行しているので、悲観的な大人とは違い、子供は実に逞しい。
余計な心配など必要ないだろう──などと。世間的には自分もまだまだ子供であるという事実を棚に上げながら、まるで大人のように頷く怜志。
「まあ──五月蠅い、迷惑という自己都合はともかく、狭い公用地で遊ばれると単純に危ない、という大人の言い分には少しだけ同調するが」
例えば野球などは住宅の密集する地域ではやって欲しくないだろう。迷惑以前に危険である。まだ身体が未熟な下級生ならばともかく、少し身体が出来上がってきた怜志と同級生ぐらいの身体能力でボールを打った場合──。
「このように、窓や人に当たりかねん」
カキーンと響き渡る快音。
それと少し騒めく野手を務める怜志と同級生ぐらいの少年たち。
同時に怜志に向って勢いよく飛んでくる一個のボール。
……素晴らしいクリーンヒットは素人ながら見事と称賛するが、人の歩く河川敷沿いでの場外ホームランは些か認め難い。
「悪いがアウトだ」
言いながら怜志は直撃コースで飛んでくるボールをグローブも使わずあっさりとキャッチする。射角低く場外へと飛び出した分、飛んでくる弾はそれこそ弾丸のようなスピードであったが、人外と渡り合う裏の顔を持つ怜志にとっては止まって見える速度だったし、ボールの衝撃も神々の一撃に比べればデコピン以下に過ぎない。
だが、それは怜志から見ての感じ方、目線である。
案の定、あわや直撃すると思われた球をノールックで受け止めて見せた怜志を見て、惨事を予想した野球少年たちが唖然としている。
固まった少年たちを睥睨しながら怜志は二、三、手元でポンポンとボールを弾ませ投げ返すタイミングを見計らうが、投げ返すより先にハッと正気をいち早く戻しただろう少年の一人が駆け寄ってきたので、直接渡す選択に切り替える。
「──すいません! 大丈夫でしたか!?」
そう言いながらボールを取った怜志の手元を伺う少年。場外ホームランを打ち込んだ当事者のバッターであった。
「問題ない。が、危ないぞ。野球をするな、とは言わないが周囲の状況にはもう少し配慮すると良い」
「……はい、そうですね。すいませんでした」
怜志の注意に改めて深々と頭を下げる少年。
謝罪にただ野球という遊びを楽しんでいたというより、スポーツマンとして叩きこまれた礼儀の気風を感じる辺り恐らくは本職なのだろう。
怜志と同年代ながら場外ホームランを打ってみせた肩の持ち主の辺り、それなりに有望な選手なのかもしれない。
「草薙ー! 大丈夫そうかー!?」
「飛ばしすぎなんだよお前ー!」
遠間でチームメイトらしき人物たちが声を掛けてくる。
それに草薙、と呼ばれた少年は叫び返す様に大声で言い返した。
「三浦が良いコースに馬鹿正直なストレートを投げるからだろッー!? ……っと、その……」
「特に怪我はないから戻ると良い。次は気をつけろよ?」
「はい、気をつけます」
と、そのやり取りで解散かと怜志は思っていたのだが。少年は何故かすぐには戻らず、こちらを観察するようにしていた。
ややあって、口を開く。
「ところでその、随分と手慣れてましたけどもしかして経験者ですか?」
「剣道と弓道は嗜んでいるが野球は特に。それが?」
「いえ、同じぐらいの年代……ですよね? その見事なキャッチだったんで、何処かの強豪校の野手だったら気をつけなくちゃって思って……」
「……ほう」
そういう少年の目には勝負師の色が滲んでいた。
それを見て怜志は評価を訂正する。有望な選手なのかも、ではなく有望な選手だろう。門外漢ではあるが、この手の目をする競技者は大成する。
その道を極める者の経験として怜志はそれを知っていた。
「すいません、また不躾に」
「いや、構わない。……君、名前は?」
「えっと……草薙護堂です」
「ん──そう警戒しなくても野球は特に嗜んでいないし、特に興味も持っていない。だが、そうだな。勝負に真剣な奴は嫌いじゃない。気をつけながら頑張ると良い。何処かの大会でその名前を聞いた時は素人だが俺も応援しよう」
「──ありがとうございます。俺の活躍が貴方の耳にまで入るよう、俺なりに頑張ります」
それが怜志なりの同じ競技者としての純粋な激励だと気づいたらしい少年はボールを受け取りながらもう一度深々と、気合が入った顔で仲間の下へと戻っていく。
その背中を見送って怜志は歩みを再開する。
「スポーツ漫画も斯くやという少年だったな、さて──」
怜志はポケットに手を伸ばし、切り替えるように携帯電話を開く。そこに表示された時間を確認したのち、ボタンを操作して写真に写した地図を呼び出す。
約束の時間は近い、寄り道は終わりだ。
目指す場所は千代田区三番町──沙耶宮別邸。
『官』と『民』、『四家』と『魔王』。長らく棚上げしていた、この国における怜志という
正史編纂委員会と神殺しが正式に対面するための会場。
待ち人に至るルートを脳裏に描きながら怜志は目的地へと足を進める。