神々、君に背き奉る   作:アグナ

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後宮佳麗、妖艶堕后 Ⅰ

 (おも)う昔 開元全盛の日

 小邑(しょうゆう) ()(ぞう)す万家の室

 稲米(とうべい)は油を流し、栗米(ぞくべい)は白く

 公私の倉廩(そうりん) 倶に豊実

 九州の道路に豺虎(さいこ)なく

 遠行にも労せず吉日に出るを

 斉紈魯縞(せいがんろこう) 車班班(くるまはんばん)

 男耕女桑(だんこうじょそう) 相失わず

 宮中には聖人雲門(せいじんうんもん)を奏し

 天下の朋友は皆膠漆(みなほうしつ)

 

 

 

 百万の民が住まう世界最大の都、長安。在来の民に限らず、東西南北各地から様々な外国人をも受け入れるこの街は正に世界最大の国際都市である。

 『大唐の都』は伊達ではなく、東西に九・七キロ、南北に八・六キロと広がる街並みは来るものを圧倒させる並ぶもの無き大都市で、街の中央北よりに太極宮を中心とした宮城があり、その南には政庁を司る皇城が設けられている。

 天子南面──中華思想において古来より北を背に南を向いて君臨するという伝統に基づいた思想を正確に都市へと繁栄した結果であった。

 

 計画的な設計は皇城に限らず、太極宮よりさらに北側の玄武門、太極宮より南側にある出口を承天門、そこから直下して皇城の南側の出口を朱雀門と呼び、門外より朱雀大街が広がっている。

 皇族から臣民の住屋に至るまで全てが中華思想に基づいた計画的に配置されており、さながらそれは上空から見れば碁盤の目のような街の広がりである。

 

 日本においては平安京の時代より、街の造りに大陸からの思想を受け継いでいると言われるが、まさにその源流ともいえる街並みが広がっていた。

 

 そんな華の都の宮中、天子が住まう奥御殿。いわゆる『後宮』と呼ばれる館の通路を一人の壮年の男が颯爽と歩いている。

 

「────」

 

 年季を経た白髪の頭髪。経験と刻んだ厳めしい顔。

 その身に纏うは紫袍──即ちは唐代の官僚の最高位。

 字は子寿。諱は九齢。史上における呼び名を張九齢という。

 

 寒門の出でありながら若き日に青雲の抱いて上を目指し、自らの才覚と努力によって宰相の座にまで上り詰めた天子の信任厚き頭脳。不正を認めず、不義を認めず、如何なる時も正論を以て威風堂々と相対し、天子に正しき道を説き続けた賢人である。

 そんな男が、元来は宮に仕える女人と宦官を除けば天子以外立ち入る事勿れと定められる後宮の路を歩いている。人過ぎるたび、女人は悲鳴と驚嘆の声を漏らし、宦官は唖然と困惑の顔色を浮かべる。

 

 だが、その歩みを咎める者も、止める者も嫌しない。

 それは何故か──言うまでもない。皆、圧倒されているのだ。

 

 張九齢の堂々たる覇気に、重厚なるその歩みに。

 ──憤激する、その感情(かお)に。

 

「──無礼千万を承知でお取次ぎ願うッ! 天子様──唐明皇様は何処におられるかッ!」

 

「……何じゃ騒がしい九齢」

 

 張九齢の追及に胡乱に濡れた声が響く。

 宮の奥。咽るような甘ったるい桃の香りに囲まれて、その男は言葉を返した。

 

「天子様」

 

「然り。朕のことである。しかし──これは如何なる仕儀じゃ、宰相の貴様と言えど無断で後宮に立ち入るなどと言う非礼。解職に比する無礼であるぞ」

 

「無礼であることは承知しております。この場には我が身、我が地位、我が人生。その全てを賭す覚悟で踏み入ったのだとご承知くだされ」

 

 そういって張九齢は自らの主にして、この国の君主に鋭い眼光を向けた。

 

 ……身体は贅肉に埋もれ、覇気はなく、皇帝たる威もない。

 無数の美妃に囲われ、食を貪り、酒を浴び、媚の香で悦に浸る。

 かつて──陰惨たる謀殺劇が蔓延っていた武則天より数多の改革を成し、開元の治を実現させ、唐王朝の絶頂期を造り出して見せたその才覚も手腕ももはや見る影もない。

 

 怠惰と快楽に堕落するその姿、それが玄宗──唐の皇帝であると誰が信じられようか。

 

 女に囲われ、褥に座したまま玄宗は言う。

 

「随分と物々しいな。して、何があった。貴様ともあろうものが理由無くして不届きを成すまい。事によってはその言を以てこの無礼を見なかったことにようではないか」

 

 張九齢の行動を咎めながらも、安易に勘気に我を忘れることもなく、胡乱ながらも玄宗は寛容さを示して見せた。忠臣としてその信頼からなる行動は確かに光栄なことではあるが、この時、この場においては寧ろ張九齢の怒りにより深く触れた。

 張九齢は一族郎党処される覚悟で気炎を吐く。

 

「何があった、ではありませぬ! 政庁に君臨されなくして既に半年! 国家の主として政を回すこともせず、民の安寧を願うこともせず、後宮と華清宮を行き来するばかり! これでは国が成り立ちませぬ!」

 

 そう──ここ最近の皇帝の振る舞いはあまりにも堕落が過ぎた。

 腹が空けば食を貪り、喉が渇けば酒で潤し、媚を欲すれば女を抱く。

 ……皇帝たる義務を果たしていたならば、その遊興はまだ許せた。

 

 だが、皇帝はもはや皇帝たる義務の全てを放棄し、政務を投げ捨て堕落に耽るばかり。

 張九齢の我慢も此処に来て限界に達したのだ。

 

「それだけではありませぬ! 酒宴のたびに美姫を娶り、后妃も女官も際限なく増やし続けておられる。その身に後宮三千の寵愛ありといえど限度がございましょう! 既に後宮の白粉だけでも百万両を越えておられる! もはや後宮を回す莫大な経費だけでこの国の金が湯水のように溶けている! そのたびに民に重税を課していれば貧より臣民の不信を買うは明らかでございましょう!」

 

 積み重なった怒りをこれでもかと吐き捨てる張九齢。

 元々、一言に後宮といっても、単に皇帝の后が住んでいるというわけではなく、そこは明確な身分や役目が定められた組織(・・)である。皇帝の妻として最高位にある『皇后』、皇后に次ぐ身分の『嬪』、その下を『世婦』、『御妻』と続く。それぞれの妃には化粧や洗髪を務める女官が付き、傍付きの女官の下にも雑務を執り行う女官が付く。さらには事務や労務を担う宦官も付き──人員は比喩抜きで三千を超える。

 

 加えて此処、長安の他に洛陽という副都を抱えるため后妃を含め、勤め人は四万を超える。

 にも拘らずなおも人員を際限なく増やし続けているのだ。

 金食い虫どころか、これでは国が破綻してしまう。

 

「近頃は既に世情には乱の気配が漂っていまする! 臣民の危急を背景に幽州では安碌山めが雄武城なる拠点に金と軍備を入れて野心を仄めかし、市井では『白蓮王』なる胡乱な輩が人心を集め王権の強奪を目論んでいるとも聞く! このままでは唐の平和は破綻し、再び血と策謀が渦巻く乱世の時代になってしまう!」

 

 重税に、搾取──天子の享楽がため、この国の平和は傾きつつあるのだ。

 個人の愚行によって血と命が流れるなぞ絶対にあってはならぬ。

 後世、稀代の暗君として主の名を残さぬためにも張九齢は己が命運を賭けて諌言するのだ。

 

「どうか……どうか、今すぐにでも威儀を正し、臣民の心をお考えいただきたい!」

 

 決死の言葉はしかし。

 

「……五月蠅い」

 

「────ッ!」

 

 皇帝の、何一つをも動かすことは無かった。

 

「朕はもう疲れたのだ。飽きもせず権益を求めんとす官僚どもの世辞の相手をするのも、懲りもせず挑みかかってくる愚か者どもの相手をするのも……臣民とやらの我儘を聞くのも。朕は則天大聖皇帝より帝位を受け継ぎ、確かに今に長安の隆盛を築いて見せた。ならばもう良いではないか。朕の仕事は終わったのだ。疲れに渇いた心を癒すべく快に耽ることの何が悪い、のう?」

 

「なっ──!」

 

 ……確かに天下泰平の世にあって、玄宗は政を厭い、放棄する傾向があった。

 というのも武則天の時代にあっては兄弟家族で血みどろの策謀劇を演じ、玄宗も幾度となくその命を危険に晒しながら改革を成してきた。皇帝という地位を手に入れてからも宮中に残る不穏分子との政争に明け暮れ、その過程で時に自ら兵を率いて宮中に攻め込み、敵対派閥を壊滅させるなども行った。

 暗殺に次ぐ暗殺、暗闘に次ぐ暗闘、陰謀策謀が張り巡らされる権力闘争を経てようやく玄宗は確固たる地位と、栄華を誇る帝国を手中に収めたのである。

 だが……それを経ても尚、玄宗を襲ったのは寵愛していた皇妃、武恵妃の死。

 

 もはやその身を動かす気力は尽き果て、若き日の志も枯れ果てた。

 栄枯盛衰──我が全盛期は過ぎたのである。

 だからこそ、義務も責務も玄宗動かすに足らず。

 

 この身に残された最後は──喪失の果てに出会った新たな“愛”のみであった。

 

「──夜の帳も下りたというのに随分と騒々しい。戯れの嬌声ならばいざ知らず、閨で怒声を響かせるなど無粋にも程がありましょうや」

 

「!」

 

 剣呑な口論に水を差す女人の声。それを聞いて面倒くさそうに張九齢の相手をしていた玄宗は初めて喜の表情で身を乗り出す。もはや手慰みに抱いていた側女たちなど目に入らぬかのようにそちらの方へと顔を向ける。

 一方の張九齢はその声を聞いて身を固くする。

 ──思えば聡明なる玄宗が堕落を始めたのは彼女と出会ってからであった。

 

「そうではなくって? 宰相殿?」

 

「……これはこれは、起こしてしまい申し訳ない。娘子(じょうし)様」

 

 その女性は絶世の美であった。

 

 歩みのたびに風に靡く黒髪は雲の如く、肌は初雪が如くに白い。

 身に纏う天生の麗質はおのずから捨てがたく。眸を巡らし一笑する姿は百媚に勝る。

 六宮の粉黛顔色なし──如何なる美女も並ぶもの無き寵愛者。

 

「おお……玉環!」

 

 退屈そうな顔を忘れ、喜色を帯びた歓声を上げる玄宗。

 ──彼女こそ、武恵妃亡き天子の空白を埋めてみせた当代の皇后。

 姓は楊、名は玉環。

 史上に残るその名前を──楊貴妃という。

 

「はい、貴方様の玉環にございます。天子様」

 

 言いながら玉環はゆるりとした歩みのままに玄宗に近づくと、しな垂れかかるようにしてその頬にキスを落として抱き着く。我飾るもの我が美のみと言わんばかりに、身に纏うのは薄い白衣(シルク)(ドレス)一つのみ。胸も局部も隠す役目を果たさぬ裸身に等しいその身なりのまま、彼女は女性として豊満を誇る肢体を蛇のように天子へと巻き付ける。

 これ以上ない媚態でありながらも一切の下品さを受けない、その妖艶さ。

 天性の美しさだけで天子の心の全てを奪って見せた傾国の美后は一瞬にして、辛うじて張九齢に向けられていた玄宗の全てを奪い尽くした。

 

「それで、いかがしたかえ。宰相殿?」

 

 もはや玉環を抱きしめるのに夢中になる玄宗を置いて、玉環が流し目を張九齢に送る。俗な男であれば、その視線を受けるだけで心奪われ、妖艶さに固唾を飲み込むところだろうが、張九齢の背に奔ったのは恐怖にも似た悪寒であった。

 玉環は武恵妃を無くして哀惜の日々に浸る玄宗を案じて、臣の一人が何処かから連れて来た娘であった。

 道教の女道士、楊太真と名乗っていた彼女は程なくして玄宗の妃となり、後宮に上がると僅かな期間をしてその全てを掌握してみせた。

 純粋に『女』として秀でているに留まらず、閨を取り仕切る后としての才覚にも恵まれているのか。三千の寵愛を押し退けて天子の愛を一身に受けるに至った。

 

 その美と聡明さからなる手腕は知恵者である張九齢は見事と思うが、同時に酷く恐ろしくも感じていた。

 人心を過剰なまでに引き付ける美人──果たしてそれは善いものなのか、と。

 

 恐れにも似た心を政で培った鉄の面に隠しながら張九齢は玉環に応じた。

 

「……近頃の淫蕩ぶりは目に余る、と苦言を申しに。出来れば娘子(じょうし)様からも天子様に申していただければ」

 

「うふふふ、良いではありませんか。天子様は長年に続く心労に疲れ、傷ついておられるのです。今や長安に及ぶ族の影などなく、天下は万事太平。ならばこうして睦事に心を癒されるは責を全うした殿方に許される安寧でしょう」

 

「しかし……!」

 

良いではありませんか(・・・・・・・・・・)

 

「ァ─────」

 

 意識を酩酊させるような桃の香りがする。

 一瞬、張九齢は漂う色香を煙る霧の如くと錯覚した。

 

 精神(正気)を蝕む、蕩ける様な笑み。

 それが張九齢を酩酊するように揺らす。

 ……掌に爪を立てる、舌を噛んで痛みに頼る。

 

 酔い(こわれ)そうになる意識を張九齢は渾身の理性で耐えた。

 

「……それよりも例の娘は見つかりましたか?」

 

「……──例の娘…………と……申しますと…………?」

 

「巷間にやれ至上の名花だの、聖女だのと噂される西方の身なりをした娘です。回教を信ずる異民族共に似た身なりの」

 

「……ああ、娘子(じょうし)様が以前申されていた……確か、あいーしゃ(・・・・・)なる女でしたか」

 

 玉環は後宮より外に興味を殆ど興味を持たないのだが、何処から仕入れた話なのか、珍しく宮中の者たちに命じていた。曰く、近頃の都に姿を見せているという「あいーしゃ」なる女を探せと。

 

「それです。ふふ、我が身に並ぶと称される娘。巷間の目がどれ程のものか我が目手ずから図ろうと、楽しみにしていたのですが、まだ見つからないのですか?」

 

 内心を読ませない妖艶な笑みを浮かべながら首を傾げる玉環。

 それに張九齢は何とか平静さを守りつつ解答する。

 

「羽林軍が探っていますが、未だ噂の影を捉える程度しか。……ただ或る商人からの話では、幽州の──安碌山の下に噂に似た女の影を見た、と」

 

「あの子の下に?」

 

 張九齢に玉環はすっと目を細める。

 不穏な企てを目論んでいると噂の安碌山だが、彼は武人として玄宗に気に入られており、宮中に参内していた頃は戦場での武勇伝のみならず、その弁舌で宮中を湧かせていた。

 玉環に対しても自らを子供のいない玉環の養子にと売り込み、玉環の関心を買ったりもしていた。

 だからこそだろうか、巷間の一部が玉環に匹敵すると騒ぐ美女が安碌山の下にいるという事実に、苛立ちを覚えたのかもしれない。

 

「……まあ、いいでしょう。あいーしゃなる娘を見つけたら妾に報告するように」

 

娘子(じょうし)様の命とあらばご随意に───ですが天子様の件については……!」

 

 だが意味深な態度も一瞬の事。聞くべきことは済んだと言わんばかりに張九齢から視線を切る玉環。

 興味が尽きた、どころか存在すら気にも留めぬような無関心になる。

 妖艶な顔で自らに抱き着く玄宗を見下ろしながら艶めかしく唇を舌で濡らす。

 

 諌言を嗤うような有様に、張九齢は叫んだ。

 

娘子(じょうし)様……!」

 

「宰相、これ以上は無粋と知りなさい。元より如何に天子の知恵者といえど女の宮に無断で立ち入る権利は貴方にはありません。日頃の勤勉さとその報告を以て非礼を免責するだけであって、許可までは与えておりません。早々に立ち去りなさい」

 

「くっ、しかし……!」

 

「それに……んぁ……ふふ、天子様もそろそろ耐えかねると仰られています。これより先は閨に篭る夫婦の営み。禁制を覗かんとするならば流石の妾も宦官らに荒事を命じなければならなくなります。いかがしますか?」

 

 媚態を演じつつ、艶やかに笑う玉環だが、その瞳はゾッとするほど冷えている。

 これ以上は許さない──金色に輝いているように錯覚する瞳が語っている。

 

「──! 失礼……いたしました……」

 

「はい、よくできました」

 

 本能に任せて身を引く張九齢。

 大人しく引き下がる宰相を見て、玉環は子をあやす母のように告げた。

 

 後宮から去っていく張九齢。

 その背中を見送りつつ、不意に玉環がぽつりと呟く。

 

「……宮に身を置きながら未だ清廉極めるとは、些か面倒な手合いです。李林甫辺りを唆して追い出してしまいましょうか。ああ、でも──」

 

 華のような笑みに毒を含む玉環。

 彼女は肉食獣にも似た、鋭い犬歯を覗かせながら、

 

 

「──考えなしの輩ばかりでは神殺し(・・・)を探すのに不便ではありますか。ふふ、ふふふふふふふふ……」

 

 

 部屋を照らす篝火が揺れる。

 玉環を映す壁の黒影。

 

 その人影の背中には──あるはずのない九つに分かれた尻尾のような影が、蛇のように揺らいでいた。

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