「あー、ちょっとこれは不味いかも」
相棒たる天叢雲劍を正眼に構えながら恵那は困ったようにぼやいた。
まあ実際の所、困ったというよりも
──神祖グィネヴィアの謀略に巻き込まれ、取り込まれる怜志を庇いに追っていったはいいものの、結果的には共に謀略の渦に取り込まれ、目を覚ませば見知らぬ土地の見知らぬ風景。恐らくは国外の何処かに飛ばされただろう事実をすぐに悟って、恵那は『遭難』という現状を理解した。
いい、そこまでは問題ない。
ほんのちょっぴり怜志の心配はしたが相方は神殺しだ。謀略に巻き込まれたとはいえ早々に命を落とす手合いでは無いし、あちらに関してはその内で合流すればいいと割り切った。
遭難に関しても、窮地ではあるが見知らぬ土地の放り出されるであれば野生児である恵那は山岳修行の過程で似たような場面には幾ばくか遭遇している。
故にこのような状況においても図太く生き残る術はそれなりに思いつく。
結果、恵那は比較的冷静に状況を受け入れた。
取りあえずは此処がどういう場所なのかを把握しようと散策し出すこと三時間前。そして偶然通りかかった
そして道中、順調に人里には出られそうだと欠伸をしながら商隊の荷台で伸びをしていたのだが──本当の問題が起きたのはそこからであった。
街を目指して進む商隊の前に立ちふさがったのは人の丈を何十倍も上回る巨大な狐であった。その尾は四つに分かれ、金色の毛皮は鋼より硬く、口元に覗く牙は剣よりもなお鋭い。一目見て神獣クラスの化け物だと悟った。
慌てる商人たちを促して恵那は単騎矢面に立ち、自らを囮に商人たちを先に行かせることを選んだ。人の好い彼らは少女の決死に渋っていたが、促す恵那の声に負け、必ず援軍を要請すると急ぎ街へと逃げ去った──というのがつい十分前ほどの出来事。
そして現在、恵那は退治する神獣を前に屈しかけていた。
──Kyuooooooooooooo!!
咆哮と同時、巨大な四尾の狐が恵那へと飛び掛かる。敵を自らの図体で押しつぶそうとする狐の攻撃に恵那は飛び退いてやり過ごすが、狐の本命はそれではない。
着地に際して轟音と共に舞い上がる砂埃。本命はそれを目くらましにした前足での蹴撃!
「くっ……ああ!」
正面から受け止めることなど出来ない恵那は天叢雲劍の力で風を呼び込み、大ジャンプでそれを躱すが、それを見て巨大な狐はその尾を鞭のように扱い、空中の恵那を叩き襲いにかかる。太刀を盾に直撃こそ避けたものの逃げ場のない空中での攻撃は避けようがなく、恵那は大地に叩きつけられ、一度二度と跳ねながら倒れ込む。
とはいえ苦悶に寝ているわけにはいかない。追撃を避けるため、激痛が響く身体に鞭を打って立ち上がり、恵那は再び間合いを取った。
……そもそも神殺しレベルならばともかく、神獣といえば熟練の魔術師が束になって命を張り、ようやく倒せるかどうかの相手だ。
単騎掛けなど西洋で言うところの聖騎士クラスの偉業。仮にも恵那一人で持ちこたえられている現状が奇跡であるのだ。
討伐など無理筋で持ちこたえるのがやっとというのが現実だ。
尤も、恵那にはその無理筋を打破する『神がかり』という切り札がある。例え見ず知らずの異界であろうとも此処に天叢雲劍がある限り、須佐之男命の加護は届く。そうすれば瞬間的にとはいえ神獣に匹敵、上回る力を得ることは出来るだろう。
ただし『神がかり』は別のリスクとも隣り合わせだ。身体に多大な負荷をかける『神がかり』は一度使えば呪力も体力も相当に消費する。
現状は狐一匹とはいえ、何の前触れもなく唐突始まった遭遇戦だ、後発がいないとも考えられない。加えて見知らぬ土地での単騎掛け、切り札を切って死闘を制したとしてもその後に体力切れで名も知れぬ肉食動物の餌食になっては本末転倒だ。
神獣相手になんとか切り抜け、動ける体力を温存する──そんな無理難題が恵那の勝利条件である。無論、如何に才能溢れる少女とはいえ、神殺しならざる彼女にそこまでの無帽を押し通す力はなく、順調に袋小路に追い詰められていた。
「……やっぱり使うしかないか」
チラリ、と恵那は背に背負う
『神がかり』とは違う恵那が思いつくもう一つの切り札。
神殺しならざる恵那が持ちうる無理難題を押し通す勇者の力。
これを使えば状況は何とか打開できるだろう。
……但し、使いこなせればの話だが。
「この刀思ったよりじゃじゃ馬なんだよねェ。天叢雲劍以上に気難しいっていうか。前に甘粕さんが『選ばれし者しか使えない勇者の剣なんてぶっちゃけ兵器として欠陥品ですよねー』とかなんとか言ってたけど、その気持ちちょっと分かるかも」
忍者の戯言はともかく、「太刀の巫女」たる恵那をして二本目の刀は難物だった。抜いた瞬間、刀自身が勝手に役目を果たそうと暴れ、人が刀を振るうのではなく刀が人に振るわせる状態になるのだ。
怜志曰く、無理に支配し、使いこなそうとするのではなく乗りこなすことがコツなどと言っていたが今のところ振り回されるのが関の山。
それでも強力な武器であるため大抵の敵は薙ぎ払えるだろうが、使用者の事を考えない気まぐれな刀に命を託せるかと言えば……恵那が握っているのが未だ天叢雲劍である事実が信用の度合いを示している。
「でも、このままじゃ千日手だし……」
やはり使うか、と緊張に舌で唇を濡らしながら恵那が二本目の刀に手を掛けようとしたその時であった。
「──そこな巫女、伏せよ!」
「えっ?」
──戦場に、一陣の風が吹く。
声に弾かれ、反射的に身を伏せた恵那の頭上を何かが通り過ぎる。それはそのまま恵那を嚙み砕かんと大口を開けていた狐の下顎辺りに直撃し、そのまま巨大な狐を後転させるようにして押し倒す。
恵那ほどの使い手をして膠着がやっとの難敵を鎧袖一触するかのような光景に、恵那は思わず呆然とした。
そんな彼女の元に、狐を払った使い手は風を纏うようにしてふわりと舞い降りた。
「窮地とみて助けに入ったが……君、大丈夫だったか?」
「……うん、取りあえずは」
「そうか。うん、それは良かった」
……それは一見して少女と見紛う人物だった。
背丈は恵那よりやや低く、全体的に細く華奢な印象だ。ただその両足は見た目に反して筋密度が高いのか、大地を踏みしめる足取りには第一印象に見合わない力強さを感じる。
両側に分けた前髪と馬の尾のように風に靡く、三つ編み。胸周りと腰回りを隠す民族衣装に、健康的に太陽に焼かれた小麦色の肌。
春風のように気持ちの良い笑顔を浮かべて風を纏う姿は草原に君臨する御子のようだ。
「……えっと、貴方は?」
「この先にある雄武城で客将として安碌山殿に雇われている者だ。旅の行商から君のことを聞いてな、すっ飛んできた」
「あ、あの人たちほんとに援軍呼んでくれたんだ」
「ああ。君のことを随分と心配していた。後で安心させてやると良い」
本音を言うなら商隊の人たちの呼ぶ援軍とやらに期待していなかったのだが、恵那の予想に反して彼らはとんでもない援軍に声を掛けてくれていたらしい。
何者かは知らないが、神獣クラスの狐を一蹴するその強さは恵那のそれを遥かに上回っている。
「もしかして……神殺し?」
少なくとも恵那の知る七人の神殺しのいずれにも該当しない相手だが、八人目という可能性もある。念のため、少年にそう問いてみるが答えは否であった。
「神殺し? ああ、それは私ではなくアイーシャ殿のことであろうな。最近の記憶しかないため私は自分が何者であるかは不明だが、少なくとも神殺しではないと思う。私の直感がそう言っている」
「へ? アイーシャ?」
解答の中に提示された予期せぬ名前に恵那は間抜けた表情を浮かべる。神殺しのアイーシャといえば、現在の呪術世界に君臨する七人の神殺しのうち、詳細不明とされる三番目の王。妖しき洞穴の女王と謳われるアイーシャ夫人のことであろう。
遭難先で聞いた思わぬ名前に恵那は困惑する。
「っと、すまない。君の疑問を晴らしたいのは山々だが、まだ終わっていないようだ」
そう言って少年が自らの得物を──黒鉄の武骨な剣を構える。
眼前には身を捩って立ち上がる巨大な四つ尾の狐の姿。
顎下に強烈な
「無用な殺生をするつもりはない。去るなら追わないが、どうする?」
高潔な少年の言葉。言語として通じなくとも意志は通じると信じているのか、少年は誠実な眼を以て獣を射抜く。
だが、それに対する解答は──。
──Kyuooooooooooooo!!
血と肉を求める殺意の咆哮であった。
「──そうか」
一度だけ不倶戴天を嘆くように少年は瞑目する。
しかし感傷は一瞬の事。次に目を見開いたその瞬間にはもはや瞳に情は非ず、眼下に敵を収める非情さだけが映っていた。
「ならば斬る!」
剣を構え、少年が地を蹴る。
──刹那、少年は風と化した。
比喩ではない。少なくとも恵那には、そうとしか見えないほどに……。
「ッ、──速い!」
一閃、すれ違い越しに狐の前足を裂いた少年は、恵那からしてまるで突風か何かにしか見えなかった。その認識は狐も同じようで足を裂かれた前足から遅れて血が流れだしたことでようやく狐はそれが攻撃だったと認識する。
──Kyuooooooooooooo!!
再度の怒りの
狐は背後に回り切った不届き者を蹴り飛ばそうと後ろ足を振るが、少年はそれに全く動じることなく逆にカウンターを放って肉球を傷つける。
反撃するはずが反撃で返された狐は短く悲鳴を上げるが、痛みに怯んでいる猶予などない。少年は差し出された後ろ足を足場に跳ぶと今度は狐の四尾を切り裂き、さらにそれを足場に胴を、背中を、後頭部をと縦横無尽に飛び回り、滅多切りにしていく。
その動きはまるで竜巻か颶風のようだ。一方的に喰らわされる斬撃の嵐は瞬く間に狐に無数の斬痕を刻んでいき、その命を死へと近づけていく。
無論、狐もやられるままでいるわけではない。四つの尾を鞭のようにしならせ、中空を飛び回る少年を撃墜しようと反撃を試みている。
が、当たらない。何一つとして当たらない。
どの攻撃も少年の過ぎる影を捉えるのみで風と化した少年を掠めることなどありはしなかった。
奥の手とばかりに狐は火の玉──恵那には見せなかったいわゆる『狐火』をも発動させて反撃するが、その攻撃は少年の起こす斬風ともいうべき連撃に圧され、あっさりと霧散してしまった。
正に目を覆いたくなるほどの蹂躙劇。
恵那の苦戦が何だったのかというぐらいの圧倒的な光景だ。
彼我の差に恵那は敗北感を覚えるより先に戦慄する。
剣の腕にあの動き、それ自体が優秀なのは分かるがそういった武芸の強さよりも一番に目につくのはあの風と見紛う速さである。
軽やかでありながら鋭く、重く、激しい。
敵対者を一方的に抑え込む“暴風”は傍目に見ても恐ろしい。
「……もしかして、速さだけなら怜志よりも上なんじゃ」
神殺しをも上回る地力。
それを確認すると同時、恵那の意識に眩暈のように霞む。
酩酊する意識、神託のように降って湧く知識。
この感覚を恵那は知っている──これは霊視。
恵那の持つ巫女としての資質が今の風景をアストラル界に眠る知識に結び付け、浮かび上がらせようとしているのだ。
自我と忘我の境界で、恵那はその言葉を霊視する。
「『昔に邪竜あり。竜は即ち風雲を興して以て天日を擁し、電輝は大地に光れり。王は乃ち箭を放ち、まさに竜の胸を破る──』」
口にして後、はっとして恵那は正気に戻る。
……其は神殺しならざるを名乗り、神殺しに及ぶ者。
だとすれば答えは一つだ。
圧倒的武勲を誇る少年の正体、もはや疑うべくもなく──。
「やっぱり、
恵那が確信を呟くと同時に、斬と狐の首が落ちる。
噴き出す返り血を浴びることもなく、無傷のまま悠然と降り立つ少年。
その貌に消耗の色は何一つとしてなかった。
「ふう──私の勝ちだな。さて、商人たちに代わり私が街まで
「恵那、清秋院恵那だよ。そういう貴方は?」
「ああ……そういえば私の方も名乗っていなかったな。私の名は
相変わらず気持ちいほどの爽やかな笑みを浮かべながら右手を差し出す少年に応じて恵那は握手をする。
──客将を名乗る正体不明のまつろわぬ神。
その振舞いは人々に災厄を齎す宿命にある者とは思えないほどに勇猛にして穏やかであった。