また唐代……
「……に、しては少々雰囲気が暗いような」
「はい? どうかいたしましたか?」
「いや、何でもない」
羽林軍の破落戸共から救ってもらった礼をしたいとのことで、娘を先頭に嵩山の麓にある街まで案内された怜志だが知識との差に違和感を覚える。
確かに見渡せば仏教由来と思われる寺院や少林寺、道教のものと思われる建物など立派な建造物が立ち並んでいる。
だが、信仰の地という面を考慮しても些か建物の数に対して人が静かすぎた。道行く人々は何処か暗い顔をしており、全体的に憂鬱としている。
よくよく見れば立派な建物たちも、その大きさに対して人気が伴っておらず、柱や壁が風化している様子が見て取れる。
おかしな話だ。唐明皇の時代と言えば唐の最盛の時期。戦乱の足跡は遠く、築き上げられた太平の世を皆我が世の春と過ごした時代だ。
多くの文化、多くの信仰がこの時代に花開き、太平の世に咲き誇った。
その盛世を謳歌する詩としてこの時代の宮廷詩人にして、後の世に詩仙と謳われることとなる李白は「宮中行楽詞」にその繁栄ぶりを残している。
つまり、異国の
霞たなびく暮れつかた、春風に乗って流れてくる楽の音に人々は酔いしれ、天子は天下万民と共に喜びを同じくし、御代の栄えを祈っているという意味の詩だ。
まさに得意の絶頂、『長安の春』である。
「…………」
そもそも思い返せばおかしな点は他にもあった。
例の破落戸、羽林軍を名乗る男たちである。
そもそも羽林軍といえば天子を守る都の近衛部隊だ。
如何に副都洛陽が近いと言っても、そんなものたちがこんな場所にいること自体おかしいのだ。或いはあの低俗な質から考えて偽物かとも思うが、助けた少女は彼らの羽林軍の名乗りには特に反応していなかった。
だとすればアレらは本物ということになり、そうすると猶の事おかしい。都を守護するはずの兵たちが、なぜこのような辺境の地に赴き、あわや少女を食い物にするという行為に及ぶのか。
「……タイムスリップだけでも既に頭が痛いが、どうやら史実の唐代と何らかのズレが生じていると思った方が良さそうだな」
これすらも神祖グィネヴィアの手腕なら、下手な神殺しやまつろわぬ神を凌駕する権能だが、如何に神祖とて流石にそこまでの無法にまで至っていない筈だ。
だとするとあの女の仕掛けは此処に繋がる『穴』を用意することであり、そこから先は関与していないと見るべきだろう。
或いはこういう場所だからこそ『穴』で繋げて送り込んだのかもしれない。
「そういえば、送り込んだと言えば──なあ、君」
「
「あま──いや……多々良という。適当に呼んでくれ」
本名を名乗ろうとして、怜志は言い切る前に偽名を語る。
日本の響きがこちらに馴染みないだろうという判断と、まだ事態の把握がし切れていない現状で安易に本名を晒すのは危険かもしれないという警戒心からであった。
「多々良? あ、鍛冶職と仰られてましたものね。では多々良様と」
「別に畏まる必要はないのだが……まあ、良い。玲さんに聞きたいのだが、ここらで狐を見ることはなかったか?」
「狐、というと最近ここらに出没する妖狐のことでしょうか? それならば、はい、と」
「やはり……」
日本において富士山周辺に出没していた妙な見目をした妖狐。元々怜志はその元凶を断つために森へ踏み入ったが、そこにあったのが例の『穴』と妖狐の群れだ。
『穴』に関しては神祖グィネヴィアの仕込みだとして、では妖狐が何処から来たのかと疑問であったが、推測通り『穴』を通じてこちら側からやってきたのだ。
「ここではあの手の妖魔が出没するのが当たり前なのか?」
「いえ、まさか。確かに霊地である嵩山には時折化外の者どもが出没することはありましたが、奇怪な見た目をした妖狐などを見かけるようになったのはここ最近の出来事です」
「……最近、か。何かきっかけや原因に心当たりは? 例えば白い
「きっかけ……原因ですか……うーん、ちょっと分かりません。お父さんもお母さんもお寺の老師も最近の妖狐に関しては困っていますから」
「そうか」
騒動の原因となった妖狐について何か聞けるかと思ったが、現地の人々もあの妖狐については知ることは少ないらしい。
そう簡単にはいかないかと怜志が嘆息しかけたその時。ふと、玲がポンと手を叩いてそういえばと口を開く。
「そうだ。関係しているかどうかは分かりませんが……最近、都の天子様から勅命で唐全土に変わった命令が出されたんです。思えば妖狐を見かけるようになったのもその辺りからだったような」
「おかしな命令?」
「はい、何でも『西域風の装いをした妖術を扱う女道士を見つけ出せ』と。最初はみんな天子様がまた新たに妻を娶るため女性を探しているんだと思っていたんですが、どうも探しているのは天子様ご本人ではなく娘子様だとか」
「娘子様──唐明皇の后か。今の天使の后といえば」
「はい、楊氏の家の玉環様です」
楊氏の玉環──即ち、楊貴妃。
日本においては世界三大美女の一人などと言われ、また唐明皇の寵愛を一身に受けたことから傾国の美女としても名が通っている。また楊貴妃に関する一説では、後の反乱により国が誠に傾いた際、中国から日本に落ち延びたなどという伝承から、日本の一部温泉地域では楊貴妃ゆかりの美白の湯があるなど、まことしやかな俗説も有名だろう。
結果的に唐代の繁栄に終止符を打つこととなったため、男を堕落させる妖艶な存在や国を貪る悪女として勘違いされることも多いが、実際の所、その性格は良く、女官に対しても人当たりの良い愛嬌のある女性で、権力を振りかざすこともなければ、みだりに政治に口を出すこともしなかった良き妻であったとされている。
唐明皇とも真実、純愛の関係であり、彼女の死に際しては唐明皇はその死を相当に嘆いたという。
そんな歴史上における悲劇の人である楊貴妃だが、彼女にはそういった確かな史実以外にも幾つか神秘的な側面があったとされる。
例えば先に挙げた日本渡来説もその一つであり、その他に天子の后に上げられる過程で人間関係を整理するために利用した女道士という身分が、そのまま楊貴妃を
時の天子をその美の虜にして見せた悲劇の女性──そういった史上の存在は何かと後世の創作意欲を掻き立てるのだということだろう。
「──と、だいぶ思考が逸れたな。それでその玉環様は何故、その妖術使いとやらを探しているんだ?」
「すいません、娘子様のお考えまでは分かりかねます……」
「そうか。すまない、深く聞きすぎたな」
「いいえ、大丈夫です」
例え明確な目的があったとしても高貴な身分の者たちが、下々の者たちにまで一々その全てを明かすことは無いだろう。
ある意味で当たり前の返答に怜志は愚問であったことを詫びる。
「でも……此処だけの話、最近の娘子様の振る舞いは目に余るところがあるんです」
と、そこで話題は尽きたかと思った矢先、玲は声のボリュームを下げてそんなことを口にする。怜志が黙して聞く姿勢を取ると、積みあがった不満を吐き出すようにして、玲は愚痴とも取れる批判の意見を吐き出した。
「やれ宝飾が欲しい、やれ美食が欲しいと、最近はその放蕩振りが酷く……娘子様らの豊かな生活のために民には重税が掛かるばかり。風の噂では足りなくなった食料を集めるため、羽林軍が地方の村から食料を略奪しているなんて話も聞きます」
「なに……?」
その不穏極まる話に思わず怜志は眉を顰める。
勝手気ままに振舞う楊貴妃への悪感情からではない。歴史に伝え聞く楊貴妃の姿と、今に語られる楊貴妃の姿があまりにも乖離しているためであった。
怪訝そうな顔をする怜志を置いて、尚も玲は怒りに等しい非難を続ける。
「唐明皇の覚えが良い事を利用して華清宮ではまるで自らが天子であるかの如くに振舞っていると聞きます。本当かどうかは知りませんけど、自分より美しい娘の顔を傷つけたり、女官をまるで奴隷のように扱ったり……或いは勝手に妃たちに命じて官僚たちを垂らし込み、我がものにしているなんて話も……」
「宮内の話だろうに随分と詳しいんだな」
「私が姉と慕っていた方が華清宮に勤めていたんです。その人も、娘子様に下女や卑女などと罵倒されて……心を病んで……」
「……踏み込みすぎた、すまない」
「いいえ……そのすいません、暗い話ばかり」
「聞いたのは俺だ。気にしていない」
落ち込む玲を慰めつつ、怜志の思考は別の方面に回っていた。
考えることは他でもない楊貴妃の為人である。
歴史と現実が得てして乖離するのは当然と言えるが、それにしても違いすぎる。これではまるで悪女として高名な妲己の如き振る舞いである。
歴史と齟齬の大きすぎる唐代。
或いはあの妖狐もそれが原因で発生したものではないか。
だとすればこれ程の混沌を作れる相手はやはり──。
「一度、長安に顔を出してみるべきだろうな」
玲に気取られぬよう、小声でそっと呟く怜志。
少しだけ、己が成さねばならぬ義を知った気がする。
第一目標は変わらず、何とかして元の時代に戻ることだが、それ以前に受けた任務は溢れ出てくる妖狐たちの元凶退治だ。
帰ることも大事だが、帰る前にやるべきことも忘れてはならない。
「ああ、やるべきことと言えばそうだ。玲さん、聞いてばかりですまないがもう一つだけいいか?」
「構いません、多々良さんは私の命の恩人ですからね。私が力になれることでしたら何だってお答えしますよ」
「ありがたい。では最後に一つだけ。この辺りで俺と似た出で立ちの少女を見なかっただろうか。俺と歳は同じぐらい、長い黒髪と学生ふ──見慣れない服装をした異国風の少女なんだが」
「多々良さんと似た女性、ですか?」
「ああ、俺の連れでね。逸れてしまって探しているんだ」
「同じ旅の方、ということですね。そうですね……多々良さんに似た出で立ちの少女というのは見覚えも聞いたこともないですね」
「そうか……」
あわよくば恵那に関しても何か得られればと思ったが、そちらに関してはからっきしらしい。この分だと地道に探していくしかなさそうだが、なにせ広大な唐である。如何な神殺しと言えど全土を探るのは無茶に過ぎる。
手がかりとは言わずとも何かきっかけが欲しい所ではあったが。
「ああでも、多々良さんに似た出で立ちというわけじゃないですけれど旅の方には一人心当たりがあります」
「ほう、俺以外にもこの地を訪れた旅の者が?」
「はい。丁度半年前ぐらいに、ここの少林寺を訪ねてきた女性の方がいたそうです」
そういって玲は麓から見上げられる嵩山を眺めながらその天上を指さす。
「何でも半年前に『白蓮王』を名乗る方がお弟子さんだという拳士の皆さんを引き連れて嵩山の山頂を目指して登ったそうです」
「山登り? 修行か何かだろうか?」
「いえ、何でもその方は道姑でもあらせられるらしく。聞いた話では同郷の存在を探すために天上で宿星を占うために登頂したのだとかなんとか」
「道姑……占い……そうか、その手があったか」
思わぬところで拾った助言に怜志は道が開けるのを感じた。
古代中国といえば風水を始め、土地や星から先を読む占いに長けた道士の存在がある。彼らの協力を仰ぐことが出来ればこの広大な唐からでも恵那の居場所を探ることが出来るだろう。幸いここは信仰地として高名な嵩山。腕に覚えのある道士の一人や二人見繕うことは簡単だろう。
早速怜志は玲に問いただしてみる。
「玲さん、道姑とやらまだ街に?」
「いえ、少し前に拳士さんたちを引き連れて何処かに」
「……まあ旅の者だから当然か。では、この街に占いごとに長けた道士の心当たりはないだろうか。連れを探すのにぜひ力を借りたい」
怜志がそう尋ねると玲は暫し無言になり、楊貴妃の話題を語った時と同じぐらいに、いいやそれ以上に沈んだ表情を浮かべる。
間を置いて、玲が口を開く。
「……確かに少し前までは此処、嵩山には占いに長けた道士や風水師の方がいらっしゃいましたけれど──」
沈痛な面持ちで玲は怜志の疑問に──この街の雰囲気が暗い
「皆、殺されてしまったんです。この街に……この唐の国に突如として現れた、あの妖狐たちに」
────か、こん、ち、こん、ちん、こん、こん、おん。
何処からか、祭囃子の音が聞こえた。