神々、君に背き奉る   作:アグナ

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神魔大乱 Ⅴ

 南内の真人 帳殿に悲しみ

 東溟(とうめい)の方士 蓬莱に問う

 

 ──安禄山の反乱によって権力も、愛するものも失った玄宗は、晩年の南内で過ごしていた頃、東海より方士を呼び寄せ「招魂」を訪ねたという。

 古きよりその頂点には仙人が住まうとされてきた蓬莱山、そこに最愛の人たる楊貴妃の魂があるのかどうかを。

 

 果たしてこの句が後にこの時代を一連の詩として記した『長恨歌』ほどの壮大さを持ち合わせていたかは定かではないものの、ともかく晩年の玄宗が道教の教えに則した信仰を以てして亡き妻に再会しようと足掻いていたのは歴史的に残された記録である。

 

 『長恨歌』では再会こそ終ぞ叶わなかったものの、天界に召された楊貴妃が玄宗に別れと死後の再会を言伝に誓い、次は何の身分もなくただ愛し合う二人の夫婦として過ごそうと永遠を伝えて詩は終わる。

 

 ……しかし、この世界(・・・・)においては悲しくも美しい悲恋の歴史に待ったをかける存在がいた。

 玄宗が東海より呼び寄せた方士、李少翁。

 彼が執り行う方術に介入し、『招魂』の儀に自らの言葉を織り交ぜ、玄宗を惑わした魔性がいたのである。

 

『忽聞海上有山仙山 山在虚無縹緲 楼閣玲瓏五雲起 其中大真幽囚』

 

 その魂は天界にあり仙界に非ず──そうなるはずだった結末を捻じ曲げ、仙界に囚われていたそれは自らの現状と、偽りの字を突き付けて玄宗を利用したのである。

 愛するものが仙界に囚われている……その事実(いつわり)を知った玄宗は自らに残された最後の力を振り絞って僅かに残された富も、名声も、権力も全て投げ打ち、帝国中から多くの方術師や風水師などの道士をかき集めた。

 

 そして彼女を助けるための儀式──『まつろわぬ神招来の儀』を発動させたのである。

 

 斯くして、生贄として次々に賢者たちが正気を喰い殺される中、人を惑わす魔性を纏い、傾国の美妃は偽りの名と共に顕れた。

 

「蓬莱獄中 日月長し──嗚呼、この時を待ちわびていましたわ。玄宗様」

 

 その影に九つの尾を隠しながら絶世の美は君臨したのである。

 

 

 

 

 ──か、こん、ち、こん、ちん、こん、こん、おん。

 

「ふむ、動くか」

 

 狂ったリズムで鳴らされる狐囃子の音色を聴いて寝台に微睡む楊貴妃は目を覚ます。耳を澄ませば砂塵を上げながら都に迫る大乱の気配。

 彼女と同じ魔性を持つ神殺し(おんな)の言葉に絆され、突厥の異人たちとその王が都の魔性を払うべく、凄まじい勢いで進軍しているのだ。

 

一尾(くずめ)は墜とされ、残りの獣も動き出した。何やら一群には毛色の変わった者も混じっておるか……ほほ、愉快愉快。相も変わらず現世は賑やかよな」

 

 自らの命が狙われているという現実にしかして楊貴妃は余裕と嗤う。

 何故ならば──彼女こそ、この東方世界に広く伝わる大妖狐。一軍を容易に全滅させ、策謀巡らせた名士名軍の将すら絶命させ、三度と総力を掛けてようやく倒すに値する獣の長。如何な複数の神殺しが手を組もうと容易に倒すに値せぬ服わぬモノである。

 

「ただ快楽を貪る日々もこれはこれで悪くはないが……せっかくこれだけ人が集っておるのだ。やはり祭りは激しく、悲鳴と惨劇に満ちたものでなければ退屈よな」

 

 我が一手で容易に移り変わる喜怒哀楽模様。

 

 昨日まで幸せの絶頂にあった者は絶望に屈する様子。

 昨日まで喜びの内にあった者が、悲哀に狂う様子。

 

 その感情の動態。人々の混沌とした様子こそを彼女は娯楽とし、愉しみとし、かつて人の世を弄んだのだ。封じられ、囚われ、その果てに蘇った今でもその性質は変わらない。再び世に戻ってきたからにはかつてと同じ道楽を、かつてと同じ動乱を。

 掌に人を弄ぶことこそを、その神は至上命題としている。

 

「ゆえ……アイーシャなる獣。アレは良い。是非とも欲しい。この世のみならず人の積み上げる歴史すら司るあの力。人の天命すらも手に取れるアレがこの手にあったらどれほどの動乱を目にすることが叶うか」

 

 ふふと嫣然とした吐息を漏らす楊貴妃。

 神殺しなど鬱陶しい害虫としか思えないが、少し前まで宮中に潜り込んでいたそれは別だった。時の彼方より帝国に紛れ込んだ神殺し、アイーシャ。

 曰く、妖精王から簒奪したという、時の垣根を超えるあの力は、万の富よりも楊貴妃には魅力的に映った。

 

 国に紛れ込んだ害獣たちをすぐさま総力を掛けて潰しに行かなかった理由はそれだ。いつでも潰せる獣などよりも、あの力を持つアイーシャを手に入れることにこそ楊貴妃は執心する。

 

「獣にしては自らの生死に聡いようだからの。面倒だが、勝ち目を見出して虎穴に飛び込んでくる瞬間を待つことしか叶わなんだ。いっそ、あの道姑ほど話が早ければ退屈することもなかったのだが」

 

 真正面から挑んでくるような気概を持つ獣ならば余分に労せずしてすんだと憂うように吐き捨てる。どうもアイーシャなるモノは動乱の相こそ持ち合わせているものの、戦士たる資格は有していないらしい。

 アレは混沌が形となって地上を歩む様、過程には鈍感の癖して天命には聡いという一番面倒な気質の相手だ。

 

 こちらから何かを仕掛ければ、直感的にそれを読み解き、疾く逃げられてしまう。故に自ら勝機を見出して、こちらの懐に飛び込んでくるのを待つしかなかったのだ。

 だが、それも今宵で終わりだ。一軍を率い、それなりの戦士たちをかき集めて迫ってくるようだが、しかし足りない。

 あの女が力を集めたように、こちらも“力”を奪ったのだ。

 

オン(・・)ベイシラマンダヤ(・・・・・・・・)ソワカ(・・・)──」

 

 唱えた瞬間、虚空に巨大な種子の紋様が浮かび上がる。

 刻まれた『ベイ』の文様。

 旧きはスリランカを治める財宝の王として、そして帰依してからは人々に繁栄を約束する軍神として。

 本来であれば彼女が持たざる、かの帝釈天に比肩する東アジア最強の軍神の力を楊貴妃は弄ぶ。

 

「くふふ、全てを奪うことは叶わなんだが、これだけあればやりようもある」

 

 ……元より彼女の成り立ちは複数の信仰が交わった結果創られた混神であり、何よりも『鋼』の後見たる『蛇』の女神だ。

 元来、大地の豊穣と言えば『蛇』の領域である。しかし大陸で培われた霊狐信仰において財物を運ぶ神としての財宝神としての側面を持ち合わせていた仙狐は、渡来人の手によって極東に流れ着く過程で、その変化の特性と財宝神という加護によって農耕文化と結びつき、豊穣を司る稲荷神として『蛇』の特性を得たのである。

 

 農耕文化へと交わった原点には狐の持つ体毛が、当時日本の主食であった稲穂と同色であったことから、その類似性に一種の類感呪術としての効果を見出したからだ。

 稲荷信仰──大陸から渡ってきた霊獣はそうして豊穣神としての神格を獲得した。

 

 さらに時代が流れて仏教が本格的に日本で広がり始める頃にはダキニ天……インドから伝わってきた羅刹女とも合流する。元々ダキニ天といえば、かのインダス文明を発祥人たちとされるドラヴィダ人たちの信仰していた農耕神に原点を求める神格で、一神格ではなく部族ないし複数の存在を一纏めにした呼称とされた存在だが、こと日本におけるダキニ天の在り様は本家のそれとは全く異なる。

 既に遠くインドから中国を経由して伝わってきたダキニ天は日本に持ち込まれる過程で既存の稲荷信仰と結びつき、稲荷権現などと同一視されるようになる。

 加えてその日本においては弁財天とも結びつき、その神格をさら肥大化させている。

 

 十四世紀頃に成立したとみられる『源平盛衰記』においては、平清盛が狐を射る際にその狐が貴狐天王──ダキニ天の異名である──と知ると「荒神を鎮め財宝を得るには弁財妙音に如かず。今の貴狐天王は妙音の一つなり。さては我陀天の法を成就すべきものにこそ」と思惟している。

 この説話においては既にダキニ天は弁財天より派生した存在であると考えられていたのだ。

 

 同じころに成立した『稲荷大明神漂流記』によると稲荷信仰の総本山、伏見稲荷大社の置かれる稲荷山においてはかつて稲荷山には竜頭太と呼ばれる山神が稲荷山を支配していたという。

 この神は農耕と採薪を司る山神だが、名前の如く蛇神である。

 だが、この神は空海に帰依して稲荷山の占有権譲る。さらにこれに続き、船岡山に住んでいたという狐一族も稲荷山に入り、稲荷神の眷属となっている。

 仏門という縁を経由して狐と蛇は合流しているのだ。

 

 弁財天はインドで信仰されていた頃より河川を司る水神であった。その由来は日本にも伝わり、必然的に弁財天は日本においても山中渓流に沿う場所で信仰されるようになる。

 同時に日本では古来から蛇は山神・水神の動物態の姿で信仰されてきた。それ故弁財天が日本で蛇と習合したのは必然的な流れであるといえよう。

 弁財天の頭上に宇賀神の蛇が描かれる宇賀弁財天──これはこの種の習合の一端をあらわす。

 

 古くから水神・農耕神として信仰された『蛇』。

 大陸から渡り、極東で食物神・農耕神としての神格を獲得していった『狐』。

 

 両者は互いに独立した存在として成立していたが、後者の『狐』が中世期に入り仏門の影響を受けて神格を増大、さらには多くの寓話によって齎された霊獣としての霊格や、狐という存在が持つ純粋動物としての人気を受けて、『蛇』の役割をも『狐』が上回ったのである。

 

 そして日本で拡張された狐に対する信仰は多くの物語を通じて大陸へと逆輸入され、結果──狐という存在は東洋圏において絶大な力を誇る神格と化す。

 日本において描かれるダキニ天像の一つに白い狐に跨り、宝珠と剣を携え、頭上に宇賀神の蛇がトグロを巻いた女神としての姿が描かれたものがあるが、これぞ正に狐と蛇との習合を表すもの。

 

 騎狐女神ダキニ天──それこそが『蛇』を喰らった狐の完成形。

 正しく彼女はそうした東洋圏で絶大な勢力を誇る狐の習合神なのである。

 

 ……九尾の狐という呼び名は昨今はもっぱら妖狐の頂点という意味合いで使われる言葉だが、古代から中国において使われてきた九尾の狐の『九』とは数ではなく、日本における『八百万』などと同じ、多くのモノ、沢山のモノという数えきれない数を指す。

 即ち九尾の狐とは数え切れぬほどの尾が広がる情景を指し、その尾の数はそのまま豊穣の象徴ともされてきた。

 

 白面金毛九尾の狐──絵物語として広がった彼女は正しく東洋圏で広まった数え切れぬほどの狐信仰の習合体であることを意味しているのだ。

 

「──来るなら来ぃや、逆徒共。神殺しの愚者だろうと、鋼の巫女だろうと、草原の英雄だろうと……全て、全て。もの皆全て喰らい尽くしてやろうぞ」

 

 ──其は妖狐にして霊獣。霊獣にして仙狐。

 財宝神、豊穣神、水神、山神、蛇神──大地を司る大地母神。

 

 国もを覆い尽くさんとする、巨大な尾の影が敵対者たちを嘲笑う。




つうことで短いですが説明会終わり。
インド→中国→日本→寓話を通じてアジア圏全域。
という流れで馬鹿みたいに勢力拡大した狐の話でした。

狐は可愛いからね、しょうがないね……。
ビジュアル人気で負けた蛇さんに哀しき過去。

所詮奴は敗北者じゃけえ……。


次からはようやっと戦いに入って幕と。
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