歴史を再現するが如く、雄武城を出立した安禄山率いる対楊貴妃を見据えた連合軍は、凄まじい勢いで楊貴妃の君臨する長安を目指して進軍を開始した。
その総数、実に脅威の三十万。
安禄山の直臣は勿論のこと、彼に力を貸している異民族の兵、彼が統治下に置かれた民草による志願兵、果ては本来は帝都に味方するはずの地方の官軍までもが安禄山に帰順していった。皆、楊貴妃の敷くあまりに身勝手な圧政と各地に現れる傍若無人の羽林軍、さらには狐の化け物とほとほとその治世に嫌気を覚えていたのだ。
結果、出立した三十万の連合軍は街を過ぎるたびにその数を増やしていき、遂には百万を超える歴史上稀に見る規格外の大連合軍となっていった。
無論、数が揃えば行軍速度は落ちる、連携は欠いていく。
本来闇雲に数を増やすことは必ずしも良い結果につながるとは限らない。しかし連合軍は百万という膨大な数にも関わらず一糸乱れぬ連携で、その行軍速度を下げるどころか加速させていく。
安禄山が戦上手だから? それもある。元より平和ボケしていたとはいえ、歴史において官軍を一蹴し、あっという間に都を陥落せしめた反逆者。その軍略は並みのものではないのは明らかである。
だが、それ以上に連合軍の指揮の高さはそれだけではない。
率いる者の優秀さ以前や圧政に対する憤り以前に──彼らには熱狂があった。
「──この戦いは全ての苦しむ人々のため、ひいてはこの国に関わる皆さんのための戦いです」
──うおおおおおおおおおお!!!
──うおおおおおおおおおお!!!
──うおおおおおおおおおお!!!
「戦争は決して良いことではありません。ですが時として世界は残酷なもの。生きていれば言葉だけでは解決できない困難や、障害に遭遇することもありましょう」
──うおおおおおおおおおお!!!
──うおおおおおおおおおお!!!
──うおおおおおおおおおお!!!
「ですがみんなで力を合わせれば、乗り越えられないことなどありません! みんなで頑張って楊貴妃さんの振りをした悪い狐をやっつけましょう!」
──うおおおおおおおおおお!!!
──うおおおおおおおおおお!!!
──うおおおおおおおおおお!!!
「その意気です! 皆さんならやれます! 出来ます! えいえいおー!」
──万歳! 万歳! 聖女様万歳!!
──ウオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!
「うわぁ……」
蒼天を黄色に染め上げる凄まじい高さの砂塵を上げて進軍する連合軍。その最中に在る恵那は安禄山の傍らで拳を上げ、ノリノリで応援するアイーシャとそれに反応して大歓声を上げる連合軍を見ながら、思わず引き攣った顔で声を漏らす。
「これって、アイーシャさんの人を扇動する権能……だよね?」
「うむ。とはいえ百万を超えて尚、その効果が及ぶとはな。聖女の渾名は伊達ではないということかな」
「……ジャンヌ・ダルクでも此処までじゃないと思うけどなァ」
恵那の言葉に反応するのは
二人は連合軍から借り受けた騎馬に騎乗し、共に並走しながら主力よりやや距離を取った位置で行軍に参加している。
元より客将という名の個人戦力。兵士たちでは相手できないであろう神獣や妖狐の相手が彼らの役目である。そのため主力とは異なる独立した戦力、
故に、連合軍からは距離的にも心理的にも一歩離れた位置から連合軍の有様を冷静に観察できた。
「しかし気づいているか? 巫女殿。この行軍速度は異常だ。元々安禄山殿は騎馬民族を率いる猛者であるが、これだけの数だ。歩兵も混じっている以上、数日かけての前進となるはずだが……」
「殆ど一日で帝都の手前まで来ちゃったね……」
既に一同は副都である洛陽の目前にまで迫っていた。数日どころか一日と立たずして長安の喉元にまで肉薄しているのだ。
無論、道中には楊貴妃の差し向ける官軍による妨害が何度か発生していたが、それに止まるどころかあっという間に鎧袖一触し、進軍。
時には本来、恵那や
「あの将軍さんの臣下たちが強いのはまだ分かるとして、志願兵の人たちですら投石や羅で当たり前のように狐たちと戦ってたし……もしかしてアイーシャさんの扇動の力って人を魅了するだけじゃなくて能力まで上昇させるのかな?」
「うん、その可能性が高いだろうな。いまや末端に至るまで羽林軍と同等……いやそれ以上の力を持っているように見える。それが百万。今なら数の暴力だけで神獣さえも飲み込んでしまうだろうな」
「性格はぽわぽわしててそれっぽくないけど、根はやっぱりうちの王様と一緒で神殺しってことかー」
常識破りも甚だしい力の一端を目の当たりにして恵那は諦めるように肩を竦めた。怜志含む神殺したちは誰もが底知れぬ力の持ち主であるが、アイーシャ夫人もその例に洩れぬ人物であるということだろう。
普段は能天気なだけの御仁に見えるが、その力はやはり神々すら弑逆するほどのものなのだ。
「──とはいえ、此処から先は数だけで押し通れる局面ではないようだ」
「!」
連合軍をも飲み込む王器に圧倒されつつあった恵那の耳に、
天干・地干、八門、九星、八神──それらから成る遁甲盤。
間違いない。如何なる術式かまでの詳細は掴めずとも、あの呪術方陣は間違いなく。
「奇門遁甲!」
「ああ、
二人が察した次の瞬間、奇門遁甲の陣を中心として凄まじい呪力が迸る。火山の噴火にも似た呪力風の中、彼方より頭蓋に響く様な特殊な声域による詠唱が連合軍の鼓膜を揺らした。
“謹請東方青帝地狐木神御子。
謹請南方赤帝地狐火神御子。
謹請西方白帝地狐金神御子。
謹請北方黒帝地狐水神御子。
謹請中央黄帝地狐土神御子。
謹請野干博士野干巫女。
謹請長髪美麗辰狐巫女。
──皆来り座に就き所献尚饗、再拝再拝”
来る人々を嘲笑うかのように妖艶と、嫣然と。
艶やかな声に、満遍なく悪意を振りまいたかのような詠唱と共に、それは現れた。
『『『『Kyooooo▆▅▂▂▂──ッッ!!』』』』
「ッ──つぁ……!?」
超音波にも似た高音域のきぃんと頭に響く咆哮に思わず恵那は頭を押さえて片目を瞑る。見れば並走していた
恵那と
「狐の……神獣……?」
頭痛を堪えながら恵那は今の咆哮の元凶を視界に捉える。
洛陽を背に、奇門遁甲の陣より呼び出されたのは四体の狐であった。
まだ直線距離で十キロほどを隔てていながら、見上げるほどに見て取れる巨躯の狐。その尾は洩れなく九つに別れ、蛇のようにして地上に影を落としている。
それぞれ青、赤、白、黒の色の毛皮をしており、細い眼には理性が全く窺えない狂気と狂奔を映している。額には見たこともない紋印が刻まれており、ただあるだけで周囲に尋常ならざる瘴気をまき散らしている。
一歩踏み出す──それだけで草木は枯れ、土壌は乾き、大地は汚染され死に絶える。
「……アレは、大地の搾取? であれば堕ちた『蛇』……邪竜の類か!」
「邪竜!? あの狐が!?」
傍らで叫ぶ
確かにのたうつ尾はそれこそ影だけ見ればギリシャ神話のメドゥーサを思わせる威容であるが姿形自体は図体こそ大きいものの紛れもなく狐のそれ。
邪竜と狐、一見してあまりにも遠い概念が見た目も相まってすぐには結びつかない。だが恵那は先の詠唱を思い出しながらハッとする。
「そうだ、辰狐王菩薩! ダキニ天の別名! ってことはアレは……!」
「大方、例の女媧の眷属であろうな! 気を付けよ巫女! アレなるは半ば従属神に等しいぞ!」
──然り。この五体こそ狂気に堕ちた神の眷属。
本来であれば『吒枳尼法秘』の「三大王子事」に語られるが如く、仏を背に背負うダキニ天の眷属らであるが、九尾の習合神がその身に収めた眷属らはもはや仏心の手先に非ず。
何ものにもまつろわぬ化身の手先として地上に災厄を振りまくのみだ。
「四体か……百万の軍勢とて全てを相手取るには厳しいだろうな──巫女殿! 二体は先行して私が引き受ける! すまないが一体、任せられるか!?」
「ッ……ちょぉっと厳しそうだけどそれしかなさそうだよね! 分かった、一匹ぐらいなら恵那だけで何とかしてみる!」
「済まない……! 任せる……フッ!」
騎乗していた馬から飛び降りるや否や風の如く加速して、あっという間に四体の狐の眷属の下に組付きに行く
単騎、敵の最中に特攻した
「恵那も行かなきゃ……! 向こうは……」
先行する
眷属の咆哮に出鼻を挫かれた様だった連合軍だったが、どうやら何とか怯んだ状態から復帰し、戦意を取り戻しているようだ。
威勢の良かったアイーシャの応援が聞こえなくなったのは少し気になるが、今はそれを気にしている余裕はない。
「叢雲!」
『応!』
呼びかけると同時、独りでに疾風を纏いながら鞘から抜き放たれ、恵那の手に収まる須佐之男命より賜りし神刀・天叢雲劍。
長年の相棒を手にした恵那は
………
………………
…………………………。
「いやああああああァァァァ!!!」
裂帛の気合の下、まずはその注意をこちらに向けるべく恵那は狐の前足に斬りかかった。目指した相手に理由は無い。一番距離が近かったという理由だけで青色の毛を持つ狐──恵那は知らぬが九尾より『天女子』の名を授かった眷属を斬りつける。
前足ごと落とす勢いで斬りつけたものの、想像以上の巨躯と想定以上の肉質という二つの障害に妨害され、恵那の浅傷を刻むに留まった。
とはいえ注意をこちらに向けるという目的だけは達成できた。
ジロリと狂乱の眼が足元をチラつく恵那の方へと向けられる。
『Kyururururu──!』
「うわ……! くぅぅぅぅぅぅ……!!」
鬱陶しい蠅でも払うかの如き足蹴り。殺傷するというよりも追い払うための動作。天女子からすればその程度の攻撃ですらないものだったが、それだけで恵那は数十メートルと風に舞う紙のようにして吹き飛ばされた。
前蹴りこそ回避したものの巨躯が生む風圧と常にまき散らされる瘴気と魔力が小規模の嵐となって恵那を巻き込んで吹き荒れたためである。
両足の踏ん張りもむなしく、呆気なく吹き飛ばされた恵那は空中で態勢を立て直しながら上手く着地し、衝撃を大地に逃がし切って物理的損傷をゼロに止める。
だがしかし、すぐに刀を構えなおそうとした身体は言うことを聞かずに膝を突き、吐き気に嘔吐くようにして口元を抑える。
「うっ……なんて、瘴気……!」
そこいらの妖怪の纏うそれなど生易しい大地そのものを腐らせる常軌を逸した瘴気はそれだけで人間の身体には大きな負担だった。
太刀の巫女として常に苛烈な修行を身体に強い、清廉な気を身体に満たしている筈の恵那ですら今の一瞬だけで悪寒と吐き気と眩暈による体調不良を訴える。
……元より優れた魔術師でさえ、神獣相手は命がけだ。
現代において大騎士と称され、技量だけならば神殺したちをも凌ぐ達人であっても単騎で神獣に挑むのはそう簡単な話ではないのだ。
ましてや恵那の眼前に構える獣は神獣どころか神の眷属、従属神にも等しい存在だという。言うなれば怜志が以前相手取った牛頭天王と同等の存在。
如何な『神がかり』という常人離れした切り札を有する恵那であってもサシで挑むにはあまりにも厳しい相手だ。しかも本命である九尾が後に控えている上、眷属の数も複数とあっては短期決戦が必須の『神がかり』は使えないも同然だ。
「討伐は……無理! 足止めに徹するしかない……!」
だが幸いなことにこの場においては必ずしも恵那が奮戦する必要はない。目を向ければそこには宣言通り、二体の眷属を相手に大立ち回りする少年の姿。
従属神相手に五分……いや優位を築いてすらいる。
人間離れした武技と身体能力がなせる技だろう。恵那の見立てが正しければアレは速度という一面なら怜志をも凌駕している、予想にはなるが怜志と同格のサルバトーレ・ドニですら速度という領域でかの少年には追い付けまい。
あの少年がいる以上、恵那に狐がどうにかできずとも足止めさえしていれば、いずれは二体を下した少年が残る狐も討伐して見せるだろう。
そう言った意味では、これは必死を懸ける戦いではない。
恵那は冷静に自らの戦力と周囲の状況を照らし合わせて、当初の役割に徹することを方針として定める。
己が役目は足止め……であれば、付かず離れず、徹底してあの狐の注意をこちらに向けさせる。
「叢雲、風を……!」
『応ッ!』
相棒に呼びかけると恵那は刀と……自らに疾風を纏う。
自らに纏う風に関しては瘴気に対する申し訳程度の鎧だ。こうしれば多少なりとも近づいても瘴気の効果を緩和できる。その上で、刃に纏わせた風を使い……。
「手の鳴る方へ、ってね!!」
連続して三閃、刃を振るう。
虚空を切る神刀の軌跡に合わせて放たれるのは真空の刃だ。
先の斬撃を考えれば、この程度の攻撃は眷属にとって微風に等しいものあろうが、微風と言えどそれが顔面目掛けて放たれれば無視できるものでもない。
顔を三度と叩く、風の刃に眷属は再び恵那の方へと視線を向ける。眷属が言葉を紡げたとしたらきっと「失せろ」とでも言いたげな視線に対して恵那は敢えて厭らしく笑うとさらに立て続けに五度、同じことを繰り返す。
「ふふん! 恵那の事、無視なんてさせないからね!」
『Kyoooooooooooooooooooooo!!!』
「わわ、ちょっと怒らせ過ぎたかも!?」
言いながらさらにペシリと六度目の風刃を当てたのが不味かったのか、大咆哮を上げながら恵那の方へと突進する狐の眷属。
恵那は慌てて身を翻し、直線状に進む眷属の突進を横っ飛びで躱す。その直後、逃げる恵那を追撃するようにして、逃れる恵那を追うように細長い影が這うようにして伸びてくる。眷属の持つ九つの尾……それがさながら槍のようにして恵那を貫きに来たのだ。
「っは……! よっ……とっ……危ない!!」
恵那は左右に反復横跳びをする要領で尾の槍をやり過ごす。岩をも貫く勢いの尾だったが、それらは恵那を仕留めるには及ばなかった。九度目の尾の一撃を直接神刀で払いのけながら、恵那はお返しとばかりに呪力を練り上げて叩きつける。
「かけまくもゆゆしきかも、言はまくもあやに畏き──」
はぁと吐き出す意志と共に思考を空にする、八双に構えた神刀と己の意識を合致させるかのように研ぎ澄ます。『神がかり』までとはいかずとも神刀が有する神気を一瞬のうちに吐き出すだけならばかかる負担は少なく、消耗も抑えられる。
「
意識が虚ろになった恵那の空隙にすかさず眷属が尾の槍を差し向ける。が、今度は躱すのではなく煌めく刃がその悉くを撃ち落とした。
「
謡うように口ずさむ呪歌。自らの意識ではなく、刃自身に命を託すようにして眷属の猛攻を自動的に迎撃していく。
ぎくしゃくとした人形のような手さばき、足さばき、体さばき……それでいて何よりも的確に自らの命を脅かす攻撃を切り捌いていく。
「
『Kyoooooooooooooo!!』
焦れるようにして狐が渾身の一刺しを恵那に目掛けて解き放つ。
その渾身をそのまま叩き返すようにして──。
「
夷敵を打ち払う呪歌。恵那が振りかぶった天叢雲劍はその刀身に小規模の竜巻を纏い、襲い来る渾身の一撃を会心の一撃でそのまま狐の眷属へと打ち返した。
『Kyuuuaaaaaaaa────ッ!?』
斬──と奔った刃が九つの尾の一つ、その先っぽを切り飛ばす。堪らず悲鳴を上げながら身を引いて暴れる眷属を正気の視界に捉え、恵那は不敵に笑う。
「窮鼠猫を噛むってね。やられっぱなしは性に合わないからさ!」
刀身に付着した血を振り払い、残心しながら眷属に言い返す。
人語を解すかどうかは知らないが、小蠅扱いは心外に過ぎる。
己が身では所詮足止めが精いっぱいだが、その分簡単に抜かせるつもりはない。
「さァて、このまま……」
二体の眷属は
四体の従属神はいずれも簡単には倒しがたい相手だが、それでもこの調子ならばやれる。
そう確信して恵那は刀を構え直した──だが。
『Kyururururu──』
──侮るなかれ。
──油断することなかれ。
彼らは従属神。神獣などとは格が違う。神々をその背に載せる神使として人の子程度の常識で推し量ってはならない。
……脅威に捉えないのは当然だ。
……敵視しないのは当然だ。
何故ならば人間なぞ──所詮は真実、小蠅程度に過ぎないのだから。
『『『『Kyooooo▆▅▂▂▂──ッッ!!』』』』
吼える四体の従属神。
瞬間──大地を殺す災禍の渦が人間たちに牙を剥く。
庇護者ではなく簒奪者とかした『蛇』の尖兵。
その真髄が中華の大地に影を落とした。