『『『『Kyooooo▆▅▂▂▂──ッッ!!』』』』
「ひゃあああああああああああ!?」
──時は数分前に巻き戻る。
四獣狐が突如として出現したその瞬間、プレッシャーに怯みながらも果敢に挑んでいった恵那や
「きゅう……」
ヴォバン侯爵、羅濠教主に並び現代においては最古参に数えられるアイーシャ夫人であるが、実のところその性格も相まって神殺しでありながらあまり戦闘向きの御仁ではないのだ。常在戦場という言葉はその身からは遠く。
その脇の甘さはそのまま付け入る隙になる。
だからこそ脳を揺さぶるような大咆哮の直撃を受けた彼女は数瞬とはいえ、呆気なく気を失ってしまったのだ。
「聖女様!? 聖女様が!」
「お気を確かに聖女様!」
「そんな聖女様が……!」
彼女の近衛を務めていた兵士たちが動揺する。
その動揺は忽ち百万の軍勢全体に伝わっていき、最前列で狐の相対していた兵士たちなどは狼狽え、怖気づいて動きを強張らせていった。
軍における精神的主柱が倒れる。
それは全体の士気を崩壊させるに足る十分な条件であり、それは従属神たる妖狐を相手取る上では致命的であった。
アイーシャを柱とした士気の高さは反面、その倒壊はそのまま軍勢に跳ね返ってくる。
兵士たちは聖女の気絶に動揺し、仰天し、怖気づいていく。
──尤も、それで容易に倒れないからこそ。
神殺しは何処までも性質が悪いのだが。
「よくも……」
誰ともなく、発言は末端の兵士から。
「よくも我らの聖女様を」
その言葉を発端として感情は波のように広がっていく。
「そうだ許せない」「許してはならない」「許せるものか」「よくも我らの聖女様を」「聖女様の敵」「汚らわしい獣め」「退治してやる」「殺してやる」「逃がすものか」
──それは集団心理と一言切って捨てるには異様であった。
憎悪にも似た狂信者たちの行動は感情的にありながらも一糸乱れぬ動作で戦陣を立て直していく。戦に最適な方陣を最速で組み上げ、兵士たちは隙なく構えと呼吸を合わせていき、指揮官は妖狐を確実に抹殺する戦略を組み立てていく。
アイーシャ夫人の魔性は人を魅了するだけではなく強化するのではないか──。
百万の軍勢を見ながら
かの権能は平時にはあくまで人々から高い好感度を稼ぐ程度に過ぎない力であるが、接触によるコミュニケーションを重ねることで、その呪縛の強度は増していく上、このように何らかの要因でアイーシャ夫人が制御を手放した場合には……群衆は暴走を始めていき、遂には権能を有するアイーシャ夫人の制御からも離れてしまう。
その上、生来の身体機能の強化のみならず戦術技術にも格段の強化が入るため、あっという間に狂信的な精鋭集団が組みあがるのである。
ましてやここに集うは素人も混じっているとはいえ国に謀反を企てんとする安禄山率いる精鋭たちだ。
……百万に迫る戦闘の心へを持つ集団が、神殺しのバックアップを受けた場合どうなるか。
その結果は次の瞬間に示される。
「「「「あの害獣を──殺せええええええええええッッッ!!」」」」
憎悪と嚇怒。刹那、爆発のような怒声と共に暴徒と化した精鋭集団は黒い毛皮の狐へとと組みつき、あらん限りの暴力を叩きつけた。
『Kyuooooooooooooooooo!?』
「おおおおおおおおおお!!」
前足で前衛を払おうとすれば
それは正しく数による圧倒的な暴力。あろうことか従属神たる狐はただの人間相手に力任せに封殺されたのである。
「……うう、頭の中がキンキンします……ってあら?」
ぱちりと軽い脳震盪から当の本人であるアイーシャ夫人が復帰する。
彼女は周囲をきょろきょろと見渡し、次いで喉が張り裂けんばかりに鬨の声を上げる兵士たちを認め、驚きながらも彼らに語り掛ける。
「あ、あの……皆さん?」
「うおおおおおおおおおおおおおお!!!」
「一体何が……」
「奴を殺せえええええええええええ!!!」
「わたくしの話を……」
「聖女様の仇ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!」
「わたくしは死んでいませんよ! ……えっと、これって、もしかして──」
自分の言葉が一向に届く様子のない集団を見渡しながら、アイーシャはわたわたと右往左往しながら冷静に状況を理解していき、現状を把握する。
「わたくし、またやってしまったのかしら……?」
どうしましょう? ──なんて呑気に呟く神殺し。
曰く、イタリア随一の騎士である聖ラファエロが怖れ、羅濠の側近たる陸鷹化が疎み、そして戦闘向きの神殺しで無いにも関わらず、あのヴォバン侯爵と羅濠教主が明確に警戒を示す唯一無二の神殺し。
ただそこに在るだけで周囲に混沌と動乱を巻き起こす時渡りの魔女、アイーシャ夫人。
神殺しとしては異質な性格をしながらも、その根底は神殺しらしさに満ちているのだ。
──故に当然、その変化にいち早く感づいたのも彼女であった。
『Kuruuuuuuuuuuuuu……』
「──あら?」
封ぜられた黒い九尾が低く唸り声を上げる。一見してそれは活力を損ない、弱っていくような様にも映るだろう。だが、神殺しとして培われてきたアイーシャの直感はそこに嫌な気配を見て取る。
アレは力を無くしていくというより、力を溜めているというような、そんな気配。
さながら次の勝負どころで全身全霊を発揮せんとする助走のような、或いは予備動作のようなものであり──。
「み、皆さん! 気を付けてください! あの狐さん、何か仕掛ける気で──」
「うおおおおおおおおおおおおおお!」
警鐘は正気を失った暴徒たちの波に攫われていく。
そして次の瞬間──。
『『『『Kyooooo▆▅▂▂▂──ッッ!!』』』』
──大地が荒廃した。
………
………………
…………………………。
変化の種類に差は在れど、その災害は全てに等しく降り注いだ。
「む……!?」
圧倒的俊敏性を以てして二体の従属神を圧倒していた勇者の攻撃の手が止む。直感任せに後方に飛び退いた瞬間、
「ぐ、暑い……! これは……!?」
熱波の源泉は赤い狐。咆哮と共に解き放たれた膨大な呪力は刹那の間に大地を乾かしていく。水気を失い、砂と化していく大地。互いの接着力を失った土は共に離れていき、それは罅となってやがて地割れと変わっていった。
緑の草木は忽ち枯れ果て、燦々と日照る太陽の日差しはまるで虫眼鏡を通した光線のように地上を焼いていった。
常軌を逸した気温状況は乾いた草木を自然発火させ、世界は一瞬にして渇きに渇いた炎の大地に変貌していった。
だというのに──
視界を塞ぐほどの吹雪染みた積雪は乾いた大地を白く染め上げていき、積みあがる雪は僅か数瞬にして二メートル近い雪の層を作り上げ、人一人が埋まるには十分な深雪の魔境を作り上げてしまう。
罅割れた地面へと雪が流れ込むのに伴い、積雪の一部は川の流れのようにして流動を起こし、それはやがて雪崩のようにして進路上の全てを大地に出来た底なしの
息が苦しいほどの焦熱と末端が壊死するかと思うほどの極寒。
本来ならば永遠に顔を合わせることが無いだろう災害が同時に起こる異常な状況。考えるまでもなく、その元凶は目の前の狐に由来するものだろう。
「豊穣の大地を侵す災禍の具現──実りを暴力的に搾取する地母神の御業か!」
『『Kyooooooooooooooo!!』』
然り。これぞ四体の狐が担う大地に対する略奪行為。
地母神とは大地を育み、支配する神権の持ち主。然らば豊穣とは地母神の財産であり、それをどのように扱うかは地母神の手の内にある。
本来であれば旱魃も豪雪も空の領域にある力であるが、四獣の主こそは千年を生きる妖魔の王。アジアに広く名を知らしめる最強の妖狐である。
仙境を目指すここ中華において年代を重ねた狐はそれだけで強大な力を持つものだ。
五十年を数えれば妖力は増し、百を越えれば人を魅了する魔性を覚え、千年を数えるともなれば狐は千里先を見通し、陰陽に洞達する。
これ即ち天・地・人を窮めた天仙である。
九尾狐狸──つまりは
それこそが白面金毛九尾の狐という神格の根幹を担うもの。
四獣の主たるまつろわぬ神の本性である。
そしてそんな仙境に達した狐が呼びたしたる四体の狐こそは神力の代行者たち。龍神の性質を有する神獣だ。
……大地の財は等しく彼らに帰るもの。
搾取も献上も──彼らにとっては同義語だ。
“侵略者が大地の財を奪わんと欲するならば、その財に目を眩ましたまま天意の齎す災害に飲まれ死ぬが良い。それが、略奪者に相応しい末路である──”。
人よ。偉大なりし九つの尾を恐れよと。
大災害が愚かなる挑戦者たちへと降り注いだ。
「っな……!?」
手痛い一撃を噛まして、一杯食わせた。
直前までの得意げな余裕は次の瞬間に完膚なきまでに消し飛ぶ。
咆哮と同時、恵那の前に現れたのは目の前の狐を起点とした鉄砲水。間欠泉よろしく突如として狐の足下から吹き上がった強い水圧に押し出されたと思わしき濁流は大地の土砂を巻き込みながら恵那の眼前を壁のように覆い尽くしながら迫りくる。
「くっ……南八幡大菩薩! 我らの道行に幸いあれと思し召せ!」
天叢雲剣が持つ霊験を高めながら、咄嗟に恵那は式を展開しながら武家の守護神に水難除けの加護を願う。
手持ちで用意できる手札を使い切った全力が功を奏したか、憐れ飲み込まれんとした恵那は全身を濁流で濡らしながらも何とか水流から抜け出した。
「けほ……危ない所だった、そのまま流されるかと……うわ!」
『Kyooooooooooooooo!!』
……だが青い狐は災害から逃れた巫女の生存を認めない。
水の本流を上手く躱し切ることで濁流の外側に難を逃れた恵那が目の当たりにしたものは蛇のように、或いは竜巻のように渦巻く土砂交じりに屹立する十を超える水の柱。
一度飲まれれば溺死より先に巻き込まれた土砂によってミキサーよろしく撹拌され、ミンクにされる未来である。
そんな水の柱が、まるで鞭のようにしなりながら恵那目掛けて叩きつけられる。
「流石に恵那じゃどうにもできない奴だ!」
泣き言めいた叫びを上げつつ、恵那は野生の勘に任せて横っ飛びで躱す。その早きに自前の能力での対応を諦めた判断が良かったのか、間一髪のところで恵那は水の柱から逃れ出て命を拾う。
しかし、攻撃は終わらない。
水の柱は尚も数を増やしていく上、水害はその効果範囲を広げていく。
既に恵那の太腿が水に浸かる程度には水深は上がってきている。
これでは機動力に多大な悪影響を及ぼす。
今の一撃は避けられたが、次のは確実に避けられない。
そして
「駄目だ、温存なんて考えてる場合じゃない……! 天叢雲の御劔よ、我に力を取らせ給え!」
眼前へと迫る濁流の渦を睨みながら恵那は温存していた切り札を遂に発動させる。恵那の身体に神刀の御霊がみなぎり、神がかりは完了する。
「いやああああああ!!」
裂帛の気合と共に濁流目掛けて一閃。
八岐大蛇を寸断する須佐之男が如くに、蛇のような濁流を輪切りにする。
『Kyooooooooooooooo!!』
ならばと青い狐は追撃の手を辞めない。
一つ防がれたならば、二つ。
二つ防がれたならば、三つと、攻撃の手を緩めない。
轟! 轟! 轟! 轟! 轟!
重ねること都合五度。濁流は絶えず恵那へと襲い掛かり、それを恵那は勇猛果敢に切り捨てていく。元より水害の暗喩であるとされる八岐大蛇を討伐した須佐之男命が有するという日本屈指の霊刀、天叢雲劔はこの種の力に強い効果を有する。
水を起点とするこの手の災害に対しては、恵那の一太刀ほど効果覿面に機能するものは無い。
「このまま……!」
神がかりは身体に掛かる負荷の都合、そう長時間に維持していられるものではない。現状は有効だが、この手札を切った以上は決戦は急ぐことになる。
恵那は水の柱を払いのけながら狐の命脈を断たんと駆け出した。
その道行を阻もうとさらに三つの水の柱が聳え立つがしかし。
「一つ……!」
一閃。
「二つ……!」
二閃。
「三つ……!」
三閃。大気を引き裂きながら閃く霊験。
だが三つ目の霊験を払いのけた直後に恵那の視界に影がかかる。
更なる追撃かと咄嗟に刃を構える恵那。
四つ目の刃を構えるがしかし──。
「四つ──しまッ!?」
『Kyururururu──!』
目のあたりにしたのは水の柱ではなく巨大な獣の腕。
前掻きのようにして振りかざされた狐の前足が恵那の眼前に迫っていた。
妖狐が顕した水の災害に目を取られていたが、水攻めだけが狐の持つ武器ではない。寧ろ、巨獣としての対格差を活かした物理的攻撃の方が恵那のような人間には有効手であるといえよう。
ましてや神がかりという常人離れした力を有する彼女でも、身体機能は通常の人間と基本的に同じである。
これが怜志やサルバトーレのような神懸った武人ならば技で、ヴォバンのような人間離れした剛力の持ち主ならば力任せに払いのけられるだろうが、恵那はそのどちらでもない。神殺しではない恵那に真正面から暴力に抗う術は無く。
「ぐううううううううううう!?」
小柄な少女の肉体は、獣の前掻きにあっさりと吹き飛ばされる。
川辺で幼子が行う水切り遊びの石のように水面を三度と跳ねながら、恵那は大地に叩きつけられる。不幸中の幸いか、青い狐の力によって大地が水辺と化していたお陰で叩きつけられた衝撃は致死には至らず、瀬戸際で生を拾う。
「っく、かは……!」
咄嗟に刃で受けたお陰で、身体に狐の爪による裂傷はない。しかし真正面から剛力を受け止めた代償として腕は肩までが痺れ、震えでまともに霊刀は握れない。
加えて致死には至らなかったとはいえ全身を打ちのめした衝撃が苛み、立ち上がることすらままならない。
『Kyooooooooooooooo!!』
大地に平伏した巫女の眼前で狐が勝鬨のような咆哮を上げる。
愚かなりし反逆者に止めを与えんと濁流の水の柱は合わさり、大渦と化して恵那の眼前に差し迫る。もはやハリケーンのような勢いの大災害。
その絶望的な光景を前に、いよいよ恵那は打開する術を見失い、死する絶望を受け入れる。
「──ごめん、怜志ここまでかも」
「分かった、ここから先はこちらで請け負う」
「え?」
──タンと、恵那の傍で響いた足音。
応える者は無いと思われた末期の言葉に、応える言葉。
絶望に瀕する恵那を守るようにして、人影は躍り出た。
「おん、めい、けしゃにえい、そわか! 魔性に穢れた水流に正しき循環の理を!」
迫る大災害を恐れることなく、その渦中に真っ向から飛び込む人影。そのまま大瀑布の如き濁流の中に影は消え去り、次の瞬間──土砂に汚れた濁流をその内から弾け飛ばす蒼光の輝き。
茶色く濁った水は忽ち色鮮やかな青に変じて霧散し、大気に溶ける。
水害を諫める水の権能。龍神より簒奪せしめた破邪聖水の権能は狐の支配下にあったそれを容易く奪い取り、正しき在り方へと返していく。
その力は──混じれもなく恵那の知る神殺しの権能であった。
「すまん──遅れた。無事か、恵那?」
「……なんとかね。それと、数日振り。また会えてよかったよ怜志」
申し訳そうな少年の顔を見て、恵那は花のような笑みを浮かべた。