『疾風』は妹の責任を取りたい。   作:ねをんゆう

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05.甘い血

 バベルの塔の最上階。

 フレイヤ・ファミリアの本拠地ではなくそこに招待されるまで、サラはそこがフレイヤ・ファミリアの領地であることを知らなかった。けれど考えてみれば、それはとても納得できるもの。

 女神ロキが城を構えているのであれば、女神フレイヤが塔に立つのは確かに相応しいとも思える。都市最大の派閥を率いる2神は各々に立つべき場所に立っているとも言える。これが逆であれば、なんとなく違和感を感じてしまうくらいには。

 

 

「……来たか」

 

「その、はじめまして。サラ・アクアメリアです」

 

 

 立っているだけで、その雰囲気だけで、押し潰されそうになる。そんな存在感を持っているのが、都市最強の冒険者というもの。

 Lv.7、遥かな高み。あまりに遠いその世界は、Lv.2のサラからしてみれば、遠い遠い空の上の話。

 

 

「女神は中でお前を待っている」

 

「……あの、持ち物検査とかあるんでしょうか。一応手土産のような物も持って来たのですが」

 

「……何を持って来た」

 

「お香です、手作りの。……でもよくよく考えたら、毒が仕込んであると思われても仕方ないですし。土産物としては不適切だったかもしれません。学が無く申し訳ありません」

 

「……女神に直接聞くと良い」

 

「よろしいのですか……?」

 

「俺にも学はない、判断が出来ん。そうでなくともフレイヤ様には、その程度の仕込みは通用しない」

 

「……分かりました」

 

「事情は俺から説明しよう、着いてこい」

 

 

 意外にも柔軟な対応をしてくれた彼に頭を下げながら、その後ろをついて行く。自分よりもずっと大きい身体、その指一本にさえ全身を使っても敵わない。そんな彼がここまで気を遣ってくれるのも、きっと自分の才能があるからこそだと理解している。故に自惚れることはないし、ただ只管に頭を下げる。

 

 そうして彼に導かれながら入った部屋は、なんだか妙に薄暗くて。部屋を照らしているのは外の光だけという影と光の入り混じった異様な世界。置いてある家具やら何やら、その全てが高級な物であると分かるけれど、凡人の自分に分かるのはそれまで。

 

 

「その、失礼します……」

 

 

「こっちよ」

 

 

「……っ」

 

 

 美の女神、という存在。同じ神すらも魅了するような魅力を持ち、その前では神ならぬ人では当然に逆らうことなど許されない。ただそこに居るというだけで、子供達は目を惹かれ、心を惹かれてしまう。性別は関係なく、種族も関係なく、ある意味では理不尽なまでの権能を持った存在。

 ……そういう女神が居るということは、知っていた。

 

  しかし実際にこうして目に映してしまえば、自分はその言葉をほんの一部分も理解出来ていなかったということを思い知らされる。

 

 

 

「っ……!」

 

 

 

「!……自分で唇を切るなんて、そんなに私の姿を見るのが嫌だったかしら?」

 

 

「いえ、不躾な目を向けてしまったことをお許し下さい……」

 

 

「そんなの気にしないわ、慣れているもの。……むしろ、そんな過剰な反応の方に慣れていないくらい」

 

 

「……」

 

 

 促されるままに目の前の椅子に座る。唇から走る痛みがなんとか普段通りの自分を保たせているのを自覚する。ただ平然としているだけでこれなのだから、きっと彼女が本気になってしまえば自分の意思など容易く剥奪されてしまうのだろう。

 けれど、だからと言って恐怖はしない。吹いてしまえば容易く消える存在、元より自分はそんなものだ。このオラリオにおいて、そんなことは珍しいことではない。いつものように自分を捨ててしまえば、目の前の神は決して恐ろしい存在ではない。

 

 

「……諦観?いえ、逃避かしら?それと卑下」

 

「?」

 

「なるほど。こうして私自身の眼で見て、ようやく貴女のことが理解出来た気がするわ。……ううん、本当の意味で理解なんて出来ていないんでしょうけど」

 

「あの……?」

 

「気にしないで、独り言よ」

 

 

 神の瞳、そこに映るものはきっと人間である自分達のものとは違っているのだろう。こうして晒されているだけでも、深く深くまで覗かれている気がする。

 しかしまあ、そうして見られたとしても自分の中に面白いものなど存在しないだろう。むしろ不快なものを見せてしまったことが申し訳なくなるくらい。本来ならばこうして目の前に立つことも許されないような小さな存在だ、才能以外に興味を惹けるものなどない。

 

 

「フレイヤ様、どうやら手土産があるとのことなのですが……」

 

「へぇ?……それがどうかしたの?貴方が忠告しに来るほどのこと?」

 

「いえ、その……実はお香を持って来てしまって」

 

「???」

 

「あまり手土産には、適さなかったかなと……毒が仕込んである可能性とかもあるじゃないですか。それを相談させて貰ったのですが、フレイヤ様に直接聞けばいいと助言を頂きまして」

 

「………は?」

 

 

 フレイヤは思わず、普通に素っ頓狂な声を出してしまった。一瞬本当に自分の従者と目の前の少女が何を言っているのか分からなかったからだ。

 ……いや、本当に何を言っているのだと。2人揃ってクソ真面目で愚かしいにも程がある。けれどそれはもう、なんだか、普通に面白くなってしまうもので。

 

 

「くっ、ふっ……うふふっ……」

 

「あ、あの……?」

 

「フレイヤ様……?」

 

「……ああ、もう。本当に」

 

 

 本当に毒を仕込んでいたとして、それを口に出す人間が何処にいる。あまつさえ、自分が持って来たものを"毒が入ってるかもしれないじゃないですか"などと。

 いや、そういう意味で言っている訳ではないのは分かるのだが。だとしても、正直面白くて仕方がない。そして同時に、なんだかもう可愛らしくすら思えてしまう。

 

 

「ねえ貴女、これ毒が入っているの?」

 

「いえ、入っていません」

 

「そう、ならいいじゃない。オッタル、これを焚いて」

 

「承知しました」

 

「……あの、よろしいのですか?」

 

「良いも何も、貴女は嘘をついていないでしょう?神の前で嘘をつけないのを忘れたの?」

 

「あ……そういえば」

 

 

 この子はこうして自分の表面に仮面を貼り付けているけれど、実のところ、中身は相当にポンコツであるということに気付く。故に偶に溢れ出るポンコツから、仮面が簡単に剥がれ落ちてしまうということにも。

 

 ……正直、魂の色は相当に濁っていた。

 

 一朝一夕のものではないだろう。しかしそれでも素直に愛らしいと思ってしまうのは、そういうところだ。だからこそ、逆に悲しくも思えてしまうのだが。

 

 

 

 

「っ」

 

 

 

「………ん?」

 

 

「どうかされましたか……?」

 

 

「……貴女、これ何処のお香?」

 

 

「その、私が作ったものです。普段治療中にも使っているような物なのですが、評判が良かったので。……申し訳ありません、お気に召さなかったでしょうか」

 

 

「いえ、そんなことはないけれど……」

 

 

 オッタルと目を合わせ、彼もまたその感覚を感じていることを確認する。香りは甘め、嗅いでいるだけでも落ち着き暖まるようなもの。そこまではまあ、一般的なものと変わらないだろう。

 

 ……しかし、何より違うのはこの明らかなリラックス効果だ。

 商人達が『このお香には身体を癒す効果がありまして』などと売り文句を付けて売っていることはよくあり、実際に試してみて『まあ、確かに?』くらいの若干の効能を感じる事は普通によくある。

 

 けれどこのお香は、明らかにその効果を実感することが出来る。

 つまり、『え?こんなに変わるの?』と言ってしまうくらいの効能があるのだ。それこそ身体から多少力が抜けてしまって、身体が温まる感覚が実感出来る。違いを判別出来る。一瞬オッタルが本気で警戒してしまうくらいに、それほどに大きな変化がこれにはある。

 

 

「……これ、どうやって作っているのかしら?」

 

 

「その、私には神秘のアビリティがありまして」

 

 

「!……なるほど、つまりこれは魔道具なのね」

 

 

「はい。あまり公に出来ることではありませんので、一部の方しか知りませんが」

 

 

「………」

 

 

 正直、それだけでいくらでも使い道があるというもの。"神秘"のアビリティを持っている人間というのは、それだけで貴重な存在だ。

 ヘルメス・ファミリアの"万能者"が自作の魔道具で暗黒期にも多くの貢献をしたように、そうして生まれるアイテムはあまりに有用であり、なんなら"神秘"持ちというだけでファミリア間で取り合いが発生するほど。

 

 彼女の古巣であるディアンケヒト・ファミリアの団長であるアミッド・テアサナーレもまた、そのアビリティで多くの医療魔道具を作り出していた。……もしかすればあの量産体制には、この少女の存在も影にあったのかもしれないと。今更ながらにそう思う。

 

 

「……もしよければ、また作って来て貰えないかしら?気に入ったわ、これ」

 

 

「はい、お望みであれば」

 

 

「……ちなみに、値段はいくらくらいになるのかしら?」

 

 

「基本的には非売品ですが、仮に値を付けるとしたら10,000ヴァリス程度でしょうか……」

 

 

「……冗談でしょう?」

 

 

「え、あ、高過ぎましたでしょうか?……その、もちろん金銭は求めないと言いますか、本当に建前だけで頂いているので、もう少し安くても私は全然……」

 

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい。……いい?仮に私がこれを売り出すとしたら、その50倍の価格で売り出すわよ?これはそれでも売れるくらいの価値があるの」

 

 

「…………………あの。冗談、ですよね?」

 

 

「冗談じゃないわ。これに遠く及ばないような代物が高級品なんて言われて、そこらで300,000ヴァリスくらいで売られている世界なのよ?これにはそれくらいの価値は間違いなくあるの」

 

 

「……………………………………???」

 

 

 ああ、これは駄目だと。

 

 フレイヤは苦笑う。

 

 仕方のないことではあるかもしれないが、そもそも儲けることなど最初から考えていないので興味もなかったのかもしれないが。この子は本当に物の価値というものを知らなさ過ぎる。

 確かに原価で言えば……いや、この子のことだから原価はこれの3〜4倍くらいであるかもしれないが。ぶっちゃけ女神フレイヤの名前で売り出せば50万どころか100万超まで価格を引き上げたところで、これは馬鹿売れするだろう。金持ちの世界というのはそういうものだ。そうまでしても、馬鹿な商人や貴族達がリピーターになるくらいの光景がフレイヤには容易く想像出来る。商売抜きのフレイヤ個人の趣味としても、30万くらいまでなら余裕で出してもいいだろう。

 

 

「……ちなみに、1つ作るのにどれくらいかかるのかしら?」

 

 

「えっと、8時間程度でしょうか。最近は慣れて来たのでかなり短縮出来るようになりました」

 

 

「貴女ねぇ……」

 

 

 普通の労働者の1日当たりの平均的な労働時間を費やして、ようやく1つ。そこまでの時間を費やして作ったものを、彼女は原価の1/3で売ろうとしていたのだ。思わずフレイヤは普通に頭を抱えるし、さしものオッタルでさえも目を閉じて汗を流す。

 何故あの金に貪欲な男神ディアンケヒトの元にいてこんな風に育ってしまったのかと不思議に思ってしまうくらい、この子は本当にまだまだ知らないことだらけの子供なのだと思い知らされる。この子はまだ1人で世に出して良い子ではないだろうと、普通に良心でそう思ってしまうくらいに。

 

 

「はぁ……まあいいわ、とにかく本題に入りましょう。このお香に関しては、また後で相談することにして」

 

 

「は、はい」

 

 

「一先ず、今日貴女をここに呼んだ理由は2つあるの」

 

 

「2つ……?」

 

 

「1つ目は、噂に聞く貴女の魔法というものを1度体験してみたかったから」

 

 

「なるほど……」

 

 

「精神まで癒すという貴女の魔法、どんな物なのか素直に気になったの。神でも癒せるって聞いたけど、それは本当?」

 

 

「はい、一応は。あまり試す機会もありませんでしたし、一部の神様からは『もうやらないで欲しい』と言われてしまいましたが」

 

 

「……どうしてそんなことに?」

 

 

「子供達に心にまで干渉されるのが不快だと言われました」

 

 

「それはまた……」

 

 

 相当に面倒な神に当たってしまったのだろうと、少し同情する。どうせ最初は興味本位だった癖に、いざされてみると勝手なことを宣ったのだろう。そういう小さなことの積み重ねが、今の彼女を作り上げてしまったのかもしれない。

 しかしまあ、フレイヤとて興味本位なのは本当だ。本当に子供達の魔法で神である自分たちの心を癒すことが出来るのか、興味があった。

 

 ……この心の内に存在する感情を、彼女は癒すことが出来るのか。それが気になったのだ。

 だってそれを癒すことが出来るのなら、それこそ彼女は自分の求めていた存在であるかもしれないのだし。だとしたら本当に、どんな手を使ってでも手に入れなければならない存在でもあって。

 

 

「お願いしてもいいかしら?」

 

 

「はい、勿論です」

 

 

 一切断ることもなく、彼女はフレイヤの側に跪き、まだ魅了への抵抗が出来ていないのか、なるべく顔を見ないようにしながら掌をこちらに向ける。

 まあ今更この子のことを警戒するようなことは、オッタルでさえもしない。フレイヤもそれを受け入れるために、なるべく身体から力を抜いて彼女に向き合う。

 

 

「『愛しき、優しき、貴方を見る。光の泡、虹の癒し、祝福を貴方に』」

 

 

「……」

 

 

「【アクア・リーフ】」

 

 

 生み出される黄金の泡、しかし光に照らされたそれは虹色をその中に内包している。

 治療魔法にも様々な種類がある。そしてその表現にも。例えば凄まじい光で強引に全てを治療するような苛烈なものもあれば、光の草木を生み出し範囲内のものを全治癒させるような華々しいものもある。

 

 ……けれど彼女のそれはなんとも優しく、なんとも健気で、なんとも規模の小さなものであった。

 複数人を相手に使えるものではない、対象は必ず1人。即座に修復する訳でもなく、人によっては焦ったいと感じるかもしれない。

 

 

 

 それでも。

 

 

 

「………………………嘘」

 

 

 満たされる。

 

 

「貴女、本当に………」

 

 

 癒される。

 

 

「……………どうして、こんな」

 

 

 

 

 この苦痛が、この空虚が。

 

 

 

 

 和らいでいく。

 

 

 

 

 数百年、数千年と自分を蝕み続けていたこの情動が、そして絶望が……満たされる。

 

 

 

 

「……一時的なものに、過ぎません」

 

 

「っ」

 

 

「私に出来るのは、その苦痛を一時的に和らげること。治療魔法なんて嘘っぱちだと、私は思っています。……心の傷は、そう簡単には癒せません」

 

 

「……魔法が途切れれば、この感覚は失われてしまうの?」

 

 

「……はい。深い病巣がある限りは、苦痛はまた少しずつ」

 

 

「そう…………それは少し、残念ね」

 

 

 既に解決した問題で疲弊した心であれば、その魔法は癒すことが出来る。単なる疲労によるものであれば、その魔法で回復することが出来る。

 ……けれど、そこに深い病巣が残っているのなら。一時的に晴らすことは出来ても、再び心は蝕まれていくことになる。痛み止め、その表現が一番近い。

 

 

「……まるで、一時の甘い夢のようね」

 

 

「……」

 

 

 彼女の二つ名を付けたのは、一体誰だったろうか。少なくともフレイヤの記憶の中にそれはないが、しかし本当に適切な二つ名を付けたものだと感心すらする。

 

 【甘園】、彼女は正にそれだ。

 

 甘い園、一生ここに浸っていたいと思ってしまうような場所。こんなにも満たされた心で居られるのなら、どれほど幸福だろうか。彼女は良くも悪くも、そんな夢心地を一時的に齎してくれる。いっそ依存してしまいそうになるような、甘い甘い夢心地。

 

 ……きっと、"神秘"のアビリティなんかよりも、この魔法の方がよっぽど価値のあるものだ。神の心すら満たすことの出来るこれは、それこそ神によっては、どんな手段を持ってしても手に入れたいと考えるだろう。少なくともフレイヤが今そう感じているように。

 だからこそ、彼女は都市外も含めた多くの組織に狙われていたのかもしれない。再びこの甘園に浸りたいと、そう思ってしまった者達が他にも居たから。

 

 

「……ふぅ」

 

 

「?……貴女、もしかして」

 

 

「え?あ、いえ、なんでもありません」

 

 

「……貴女の魔法、精神力の消耗が激しいのね」

 

 

「……申し訳ありません」

 

 

「いいえ、むしろ当然よ。……解いてくれてもいいわ、もう満足したから」

 

 

「ですが……」

 

 

「この後も依頼があるのでしょう?解きなさい」

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 泡が途切れると同時に、再び冷え込んで行く自分の心を感じる。

 ぎゅうっと締め付けられるようなこの感覚、先程までの暖かさがもう既に恋しく感じてしまう。あの甘さを知ってしまったからこそ辛くも感じるが、決して依存して良いものではないということも分かっている。

 

 あれは根本的な治療にはなり得ない、あくまで一時凌ぎなだけ。それに、そうでなくとも精神的なストレスのようなものは解消されている。心の持ちようが治療前と比べてかなり楽になった事は間違いない。少なくとも、求める物が見つからない焦りのようなものは、かなりマシになった。今はそれだけでも十分。

 

 

「……サラ」

 

 

「は、はい」

 

 

「……私、貴女が欲しいわ」

 

 

「……」

 

 

「貴女を手元に置きたい、改めてそう感じたの。それが2つ目の本題」

 

 

「……とても光栄です」

 

 

「そう、嬉しい?」

 

 

「……嬉しいです」

 

 

「ふふ、それは嘘なのね。難儀な子」

 

 

「……すみません」

 

 

 分かるとも、彼女は自分の才能を自分という個人と切り離して考えているということくらい。彼女にとって才能というのは自分ではなくて、才能を褒められたところで嬉しくはない。光栄であると思ってはいても、それが自分の手柄であるとは思っていない。

 彼女にとって自分とは、その才能を活かすための装置であり、その才能こそが何よりの重要なものであると。その才能を活かすことが出来なければ罪であると、そう思い込んでしまっている。

 

 

 本当に、本当に難儀な子だ。

 

 

 もういっそのこと。

 

 

『魅了』してしまった方が、この子は幸福なのではないかと。

 

 

 ……そう、思ってしまうくらいに。

 

 

 

 

「っ!!!!」

 

 

 

「!?やめなさい!!」

 

 

 

 それはきっと、ただの暴発だった。

 

 あまりにリラックスし過ぎていて、フレイヤ自身その感動に心が平静ではなくて。だからそう『思ってしまった』だけで、無意識に、放ってしまったのだ。

 

 

『魅了』してしまったのだ。

 

 

 それに対して彼女が行ったものは、あまりにも過激で過剰なもので。けれどそうまでしなければ、凡人である彼女には対抗出来るものでもなくて。

 

 ……即座に取り出した医療用ナイフを、自分の手のひらに突き刺した。

 

 迷うこともなく、躊躇う事もなく。何を考えるより先に、まるで予めそうすることを自分の中で決めていたかのように。魅了に抗うためだけに、彼女はそこまでの自傷を良しとしていたのだ。

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 

 

 

「……貴女」

 

 

「お見苦しい、ところを……ごめん、なさい……」

 

 

 歯を食い縛り、顔を青くし、大量の汗を流しながら、今もグリグリと刃物で手のひらを抉りながら、彼女は魅了に対抗する。そんな光景を見せ付けられて、刃物を取り出した瞬間に割り込もうとしたオッタルでさえも、困惑せずにはいられない。

 ……敵対している訳でもない、恨みを抱いている訳でもない、それなのにここまで魅了に対して抵抗する人間を他に見たことがなかったからだ。少なくともこんな方法で、ここまで迷うことなく自傷を行う人間は、そうそう居るものではない。

 

 

「……私は、そんなものをいただける人間ではないんです」

 

 

「どうして……」

 

 

「私は、この才能を運ぶための道具でしかない……」

 

 

「………」

 

 

「それ以外に、何も出来ない、私には……愛をいただけるような、価値など、無いのです……」

 

 

 やはり、フレイヤは理解できていなかったのだ。この少女がどれほど自分自身のことを貶めているのかということを。そして自分自身をどれほど低い位置においているのかということを。

 彼女の寵愛を受けるべきなのは、自分ではなく自分の才能であると、そこだけは譲れなかったのだ。だってフレイヤが今の今まで褒め続けていたのは、彼女ではなく、彼女の才能の方であったのだから。そのアビリティと魔法について、価値を認めていたのだから。

 

 才能と自分を分けて考えてしまっている彼女にとって、今日の顔合わせというのは……ただ只管に、そして改めて、自分の才能の価値を上げるためのものでしか無かった。

 魔道具の価値を低く見積もっていたことでさえも、自己の価値を少しでも保つための保身であったのに。フレイヤがそれを壊してしまったから。それの価値を上げてしまったから。もう彼女には、言い訳する余地すらも残されていなくて。

 

 

 

 

「……床を、汚して、しまいました」

 

 

 

 

 昨日も、今日も。

 

 これまでも、これからも。

 

 ずっと、ずっとずっと……

 

 

 

 彼女自身の価値が認められたことなど、一度もない。

 

 

 

 彼女自身の努力が報われたことなど、一度もない。

 

 

 

 誰も彼もが、彼女の才能しか見てくれなかった。

 

 

 

 仮面を被った今、もう誰も本当の彼女のことなど見ることも出来ない。

 

 

 

 ……滴り落ちるその赤い血は、甘園から流れ落ちる涙でもあったのだ。

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