『すみません……すみません……すみません……』
「……」
脳裏を過ぎるその姿に、フレイヤは溜息を吐きながら夜空を見る。想定外の連続、こんな小さなことでさえも下界には驚かされる。そしてその"ままならなさ"に頭を抱えたくなる。
神である自分でさえも、心がある以上は傷付くし狂う。ならば子供達が心を壊してしまうのは当然の摂理ではあるのだが、その壊れ方にまで目を向けるには、人の数はあまりに多過ぎる。
神であっても、その人間の全てが分かる訳ではない。一眼見て、その子供の過去の全てを見通すことは出来ない。出来たとしても、その解決策が自分の手の内にあるとも限らない。
……結局のところ、フレイヤは彼女の後盾になることを了承した。しかしそれは取引のうちであり、週に1度はここに来てフレイヤを癒すことを代わりの条件として提示した。それが自分があの魔法に溺れることのない適切な頻度であると判断したからだ。
そうして手渡したフレイヤ・ファミリアの紋章は、彼女の部屋の扉に掛けられる。勿論数日は見張りも継続するつもりであるが、それだけで効果は現れるだろう。
如何なるファミリアであっても、如何なる国家であっても、フレイヤ・ファミリアに手を出すような真似はしない。これで彼女はこれからも自身の役割を継続することが出来る。
……だが果たして、それが正しい取引であったのかどうかは、フレイヤにも分からない。
フレイヤ自身の欲のために取引を持ち掛けたことは事実であり、そのせいで彼女はやめ時を失ったとも捉えられる。しかし役割を果たせなくなってしまえば、彼女はまた自暴自棄になっていたかもしれない。世界にはあらゆる可能性が存在するが故に、確実な選択など存在しない。指先一本分の干渉で、物事は大きく変わってしまう。
「まあ少なくとも、私には解決出来ない問題……ね」
それを確信出来たことだけでも儲け物といったところ、今日の顔合わせはそれを確認する意味合いもあったのだから。
これについては"あの子"はともかく、自分では確実に無理だ。この魅了という力は彼女に対して毒にしかならず、愛に溺れさせてしまえば彼女はきっと自害さえするだろう。若しくは堕ちて溺れて破綻する。そうでなくとも自分は彼女の才能に価値を見出してしまっているし、求めてもいる。その事実がある限り、本当の意味で彼女に寄り添う事は出来ない。
「ある意味、"麻薬"よね。神酒なんかよりずっと甘い」
普通の人間に使う分には、それほど依存性は高くないのだろうが。根の深い部分に病巣があるような者にとっては、あれはあまりにも甘過ぎる。
きっと彼女はそれすら知っていて、理解していて、故に意図的に効果を落としている。相手を見て、相手の反応を見て、治療を加減している。きっとそうして依存してしまった人を見てしまったのだろう。
……あの魔法を一度体感してしまえば、きっと神ではない子供達であれば、彼女よりも魔法の方を見てしまうようになる。だからこそ、ままならない。あの甘さに抗うことの出来る者でなければ、彼女を救うことは出来ないのに、あの甘さは絶望が深い者ほど効いてしまうのだから。
「リュー……貴女は抗えるかしら?あの甘さに。あの子を助けることが出来る?絶望を味わった貴女に」
あれだけ便利な魔法であるのに、自分を治療することだけは出来ないといういやらしさ。最早残酷とすら言ってもいい。実際に手のひらの怪我も回復薬で治していたし、自分で自分の心を治すことは当然に出来ないのだろう。
決して自分は解放されることはないのに、自分の手で癒やされていく人間を見ている。それは一体どんな気持ちなのだろうか。……愛を司るが故に愛に満たされることのない自分と、もしかしたら境遇は似ているのかもしれない。
「……そういえばオッタル?あなた今日は随分とあの子に親切だったわね、気に入っちゃったのかしら?」
「?いえ、そのようなことは。……………………無いと、思うのですが」
「………?」
どうやら彼女を蝕む問題は、それだけではないらしい。
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サラ・アクアメリアという少女がアストレア・ファミリアにやって来たのは、それこそ7年前の大抗争の最中。2人のLv.7に最初の敗北を喫したあの日、偶然にも両親の仕事でオラリオに足を運んでいた彼女は、完全に巻き込まれる形でその戦乱の中を逃げ惑っていた。
大都市と小さな村街を跨ぎ、個人規模の商業を営んでいた両親。多くは求めず、堅実に。少し余裕のあるくらいの暮らしが丁度良い。そんな風に笑う優しい2人の背中を見て彼女は育った。そんな両親の生き方は、彼女の人格形成にとても強い影響を与えた。
元々、彼女はとても人に甘える性格をしていた。大好きだった両親には、公園に居ても走り回るより隣に居ることを選んだような子だった。それほど両親を愛していたとも言えるし、それほど1人で生きていくのが困難な子であったとも言える。けれどだからこそ、愛される子でもあった。
……だから、そんな両親が目の前で惨殺される瞬間を目撃した彼女は。
避難所の中でも誰の声も耳に届かず、ただただ震えているだけとなって、部屋の隅の方で蹲っていた。
保護したガネーシャ・ファミリアの団員達も困り果ててしまい、当然ながら都市外から来た彼女に知り合いなど居るはずもない。父親が懇意にしていた商人も、その時に一緒に殺されてしまったのだから。彼女は9歳にして親を失い、見知らぬ土地で天涯孤独の身となったのだ。
『私が引き取るわ』
その時、彼女がそう名乗り出てくれたのは。今となっては良かったことなのか、悪かったことなのか分からない。
大抗争に終止符が打たれ、一時的な平穏が取り戻されたオラリオで、避難所を訪ねて回っていた正義の女神が目に留めた。そして抱き締めた。隣に立っていた金色の髪をもったエルフもまた、促されるまま、見様見真似で。
『人に甘えるということは、決して相手に寄り掛かることではないわ』
彼女は言った。
『人に甘える、人に甘えられる、人を甘やかす、人に甘やかされる。……お互いにその甘い蜜を共有出来る。それが出来ているのなら、決して悪いことなんかじゃない』
……今思えば確かに、彼女は甘い蜜のような子だった。
甘えられて、甘やかして、そうしている自分の方が幸せだった。ぎゅっと抱き締めると嬉しそうに笑うあの子のことが、私は本当に大好きだった。
人と触れ合う幸福を知った、人の身体の温かさを知った。自分から触れに行った彼女にだけは、躊躇いなくそうすることが出来た。
「『甘園』についてですか……漸く覚悟を決めたのですね、リオン」
「ええ……今更ということは、重々承知しています」
「本当に、今更です。……こればかりは私も擁護することは出来ません」
「……」
本来、もうこの世界には居ないはずの存在であるリュー・リオン。彼女が情報を求めて相談出来る相手など、あまりにも限られる。……というか実際もうヘルメス・ファミリアくらいしかない。もっと絞るのであれば、万能者ことアスフィ・アル・アンドロメダくらいしか。
「私とて、それほど多くを知っている訳ではありません。しかし彼女に関しては、よくない話だけは聞こえて来ます」
「良くない話……?」
「その大半が、彼女が巻き込まれた形のものです」
「……!」
当然、リューはそんな話など聞いたことがない。確かに聞こうとしたこともなかったし、目を逸らしてはいたけれど。しかしそうであったとしても、少しくらい教えてくれても……
「なぜ教えてくれなかったのか、そう思いましたか?」
「っ……ええ、まあ」
「教えられなかったからです。……せめて貴女が自分から覚悟が出来るその時までは、教えても毒にしかならないと、そう思った」
「毒……?」
「……リオン、貴女は間違えた。貴女は彼女を女神アストレアと共に外に送り出すべきだったんです」
「!?」
「彼女は致命的に向いていなかった、治療師という職業に。そしてそんな職業に彼女を縛り付けてしまったのは……他ならぬ貴女です、リオン」
そうして語られる。
もう既に終わった出来事が。
今からでは取り返しの付かない失敗が。
自分が単なる思いつきで押し付けたその道が、彼女を何処へ連れて行ってしまったのかを。アスフィは眉を顰めながら、話し始める。
「そもそもリオン、貴女はどうして彼女をディアンケヒト・ファミリアへ?」
「それ、は……彼女には治療師としての才能があったからだ。事実、私達も彼女にはよく助けられた。彼女の魔法は人を癒すということに関しては他の追随を許さないほどのものだった。彼女ならばあのディアンケヒト・ファミリアであっても、"戦場の聖女"に次ぐ程に成功すると思った」
「……その魔法について、実は1度問題が起きています」
「問題……?」
「あれは彼女がディアンケヒト・ファミリアに入ってから1年ほどが経った頃でしょうか。彼女に使用禁止の薬物を患者に投与している疑惑が生じました」
「なっ!?サラはそんなこと……!!」
「ええ、事実そんなことはしていませんでした。……ただし、問題は彼女の魔法の方です」
「………?」
「彼女の魔法には、依存性があったのです」
「!?」
それが1つ目。
間違いの1つ。
「心を癒す魔法、しかし話はそんな単純なものではありません。癒えない傷を心に負ってしまった者は、一時的なその快楽に強く依存してしまう。その甘みを知ってしまったがために、余計に苦痛を自覚してしまう。……そうして出来上がった患者達は、正しく薬物依存症のようだったと聞きます」
「そん、な……」
「リオン、これが貴女の間違いの1つ目です。彼女の魔法は心も治癒出来るのではなく、嫌でも心を癒してしまうのです。つまり彼女が普通の治療師のように患者の肉体を癒そうと魔法を使用した場合、心にまで影響を与えてしまい、患者によってはそれに強く依存してしまうこととなる。……治療師としては、少々使い勝手の悪い魔法です」
「だ、だが!私達の時はそんな……!」
「"大和竜胆"と"狡鼠"は、彼女の魔法を嫌っていませんでしたか?」
「っ」
「心に傷を持っている人間ほど、依存性が高いと言ったはずです。……現在は幸いにも、出力の強弱を操作出来るようになったそうですが」
「………………だからアストレア様は、あの時」
「話はまだ終わっていません」
それはまだ話の1つ目、彼女に治療師という職業はそれほど向いていなかったという話に過ぎない。確かに当時は彼女も患者達に強く責められ、迫られてしまったが、それはまだ生優しい話だ。
……彼女にとっても、リューにとっても。
だって当時は大変だったかもしれないが、結局は今こうして立派に治療師として働いているのだから。"神秘"のアビリティも持っており、アスフィはこう言ったが、治療師としても才能が無かったという程ではなかった。
だからこれは、その程度の話に過ぎない。彼女がその魔法を使っている限りは、いつかは直面しなければならなかった事実でしかない。
「2つ目……これは先程も言ったように、貴女は彼女を女神アストレアと共に都市外へ逃がすべきだった」
「……私のせいで、何かあったのですか?」
「いえ、貴女のせいで何かがあったということはありません。どちらにしても、貴女のおかげで暗黒期が終わったことは誰もが心の内で知っていることではありますから。……故に言うのであれば、これはアストレア・ファミリアのせいで起きたことです」
「アストレア・ファミリアの……?」
「……2年ほど前に、治療院で暴行事件が起きました」
「!?」
リューは思わず立ち上がる。
事情は分からない、けれどその被害者だけは想像が付いてしまったからだ。
「貴女の想像通り、被害を受けたのは彼女です。拘束されたのは当時彼女に治療を受けていた第三級冒険者の男性。彼女は殴る蹴るの暴行を加えられ、他の治療師が駆け付けた際には血を流して倒れていたそうです」
「なぜ!!どうしてそんなことに!?」
「………加害者の男性は、闇派閥の残党によって恋人を殺害されていました」
「!?」
「男性自身も重傷を負い、運び込まれて来たところだったのです。そして彼等が襲われた場所こそ、かつてアストレア・ファミリアの拠点があった付近の路地裏だったと」
「…………っ」
「……恐らくそれが、唯一表面上に上がって来た事案です」
「唯一?」
「暴力沙汰にならなくとも、同様のことが過去にもあった……そう考えられるのは、私だけでしょうか?」
「っ!!」
リューだって、酒場で働いていて何度も耳に入ったことがある。
『どうしてアストレア・ファミリアは壊滅したのか』
『どうしてあの人達が居なくなってしまったんだ』
『もし居てくれたらきっと助けてくれたのに』
そんな言葉を聞く度に、胸が握り潰されるような痛みに襲われたものだ。
……であるならば、そんな言葉をどうして彼女は聞いていないと思えることが出来る?むしろ自分とは違い居所のはっきりとしている生き残りだ、自分以上にそんな言葉に晒されることは多かった筈なのに。罵倒さえ浴びていてもおかしくないというのに。
どうして自分は今の今までそのことに気付かなかった、どうして今更になってそんなことに気付いているんだ。治療師という立場だからこそ、そういった被害に遭った者達と接する機会が多い筈なのに。
「私が知っているのはこの程度です、結局細かい部分についてはディアンケヒト・ファミリアの団員達に直接聞く以外にありません。……それでも、断言は出来ます。貴女は彼女をこの街に残すべきではなかった」
「…………」
「リオン、確か貴女は彼女を避けていたそうですね。……もしかして彼女は、貴女に、助けを求めに来ていたのではないですか?」
「……………………ああ、間違いない」
もし、そうであるならば。
『はじめまして』だなんて言われるのは、当然だ。
だって自分が一番辛くて困っていた時に、無視して助けてくれなかった人間など。どうして家族だと思うことが出来る。苦しくて、助けて欲しくて、声を掛けに来たのに、顔を背けられてしまった彼女は、一体どれほどの絶望を抱えたのだろうか。
……ようやく分かった。
全ての原因が自分にあったということが。
彼女をあんな風にしてしまったのは、他でもない自分であったということが。
自分はさっき、彼女に暴行を加えたという男性冒険者に怒りを抱いた。しかし実際のところ、自分の方がそれよりよっぽど酷いことをしていたのだ。
それを思い返すと、本当に死にたくなる。自分が何より許せなくなる。顔を向ける資格がないなどと、都合の良いことを言って彼女から逃げていた自分が。それがどれほど彼女にとって辛いことであったのか、少したりとも考えていなかった愚かな自分が。
「……どうするのですか?リオン」
「……あの子に、謝りたい」
「謝って、どうするのですか?」
「………」
「もう既に、謝るだけで何もかもが元に戻る段階ではないんですよ」
きっとアスフィは、自分のために厳しく言ってくれているのだと分かる。それは素直にありがたいと思う。きっと自分1人だったら、また『顔を合わせる資格がない』みたいな何の解決にもならない結論を出してしまっていただろうから。もうその失敗は一度してしまっているから。
そうだ、今必要なのはそんな自分の矜持や自尊心など全てを捨て去り、1から10まで彼女のためだけを思った行動だ。自分の何もかもを費やしてでも、自分は彼女を救わなければならない。それが責任で、それが償い。
「……あの子ともう一度、共に暮らしたい」
「……そんなことが、出来るのですか?」
「出来る出来ないの話ではなく、そうしないといけない。たとえどれだけ方々に頭を下げる必要があろうとも、私はこれ以上あの子を1人にしてはいけない」
「……そうですか」
彼女がそこまで覚悟を決められたことを確認して、アスフィはようやく表情を崩す。
……正直アスフィとて、一連の経緯と事の重大さを理解したのは、こうして彼女がディアンケヒト・ファミリアを抜けた後のことだった。それまでは色々と苦労があっても、団員達と共に上手くやっていると思っていたからである。
だから当然、女神アストレアもそう思っている。これから知らせに行ったところで、彼女が今からこの街に来ることは出来ない。解決出来るのはリューだけなのだ。……せめて生き残った彼等にくらい、幸せになって貰わなければ困る。
「リオン、これは私からの忠告です」
「?」
「きっと貴女が普通に接したところで、彼女の心を開くことは出来ません。なぜならそれは、彼女だって予想して対応出来る範囲のことだからです」
「ええと……?」
「いいですか?いくら心を閉したところで、人の心根はそれほど大きく変わることはありません。……ですから、自尊心を捨てなさい。普段貴女がしないような突拍子もないようなことをしなさい」
「ア、アンドロメダ?突然何を……」
「いいから!!分かりましたね!!」
「は、はいっ」
その後、アスフィはリューに対して色々と仕込んだ。それがうまいこと働くかどうかは分からないけれど、それでも。あの頃のアストレア・ファミリアがほんの一部分でも戻ってくるのなら、それは彼等と関わりのあったアスフィにとっても喜ばしいことだったから。
この件についての協力を惜しむつもりなど、毛頭なかった。
何故か途中から何処からともなく作戦会議に入って来たシルの存在について、まあこの場では省略しておくこととする。