頑強な怪物たちの跋扈する迷宮。
冒険者たちは常に死と隣り合わせで戦っているが、この日は普段と一線を画していた。
邪悪な闇が、諸悪の黒が――死を呼び込んでいた。
死神が――降る。
歴史的な異常事態。『厄災』が、全てを破壊し尽くす――。
死は正義に近づき、光が堕ちる――はずであった。
「――そこまでだ」
正義を護る最強の正義――悪を滅ぼす救世主にして、今代最高の英雄。
燃えるような赤い髪に、空色の双眸。
曇りなき眼に死が映り、浄化される。
『厄災』が暗雲から降ってきたように、『英雄』も晴天から――降り立った。
***
地上も深黒な世相であった。
闇派閥が蔓延り、一般市民ですら死する。
許してはいけない巨悪が、巨大ファミリアの倒壊により、英雄の都――オラリオを陰から陣取っていた。
だが――そんな暗澹たる時代も終焉を迎えた。
勇者が統べ、正義が闇を討ち――猛者が終止符を打つ。
多大なる犠牲を払いながら、オラリオは命脈を保っていた。
失ったものは少なくないが、それらを帳消しにするための土台は完成しつつある。すなわち――最後の英雄を迎える用意は整った。
闇派閥の残党狩りを行う正義の象徴――【アストレア・ファミリア】の団員たちは、迷宮に逃れることでなんとか食いつないできた悪を殲滅するべく動いている。
暗黒期の終幕により台頭した二代派閥、【ロキ・ファミリア】と【フレイヤ・ファミリア】が競合する中、最期の闇を祓う役回りは、自他ともに認める正義の一団、【アストレア・ファミリア】が担っていた。
最強の二派閥もそれを認め、彼女らの正義に一目を置いている。
しかし、そんな正義の派閥が滅ぼそうとした悪は――朽ち果てるまで、しぶとい。
そのしぶとさは――執念、あるいは過去への妄執ともとれるほどだった。
現在迷宮では、今まで優位に立っていたはずの【アストレア・ファミリア】が、今度は窮地に立たされていた。
闇派閥が一矢を報いたのだ。
当然それを知るものは、当事者たち――闇派閥と【アストレア・ファミリア】の面々だけである。
――それだけのはずだった。
誰に感知されるわけでもなく、彼らは全員――闇の残穢に葬り去られる。
――そのはずだった。
悲劇を歪め――崇高な剣劇へと変貌させる英雄がいた。
迷宮で繰り広げられる死闘を誰よりも早く理解――否。察知し、彼は動いた。
「――突然すみません。アストレア様」
赤髪の英雄は――【アストレア・ファミリア】の主神である女神アストレアの眼前で、跪いていた。
「貴方は――誰?」
当然の疑問だ。
出し抜けに現れた、神々にも負けず劣らずの輝きを放つ美青年――それも、団員ですらないのに自らの敬虔な信徒という異状。
それこそ、誰もが憧れ――敬意を持って接されることの多いアストレアであるが、ここまで深く尊ばれることは、そう多いわけではない。
「僕――いえ、私の名前はラインハルト・ヴァン・アストレア。オラリオからは遥か遠国の、不敬にも貴方様の名を冠したアストレア公国からやってきました」
アストレア公国――アストレアには以前から聞き及んでいた。女神アストレアに関する精霊をその血脈に宿した『アストレア家』が国家を運営し、国としては規模が小さい。
「ラインハルト・ヴァン・アストレア――そうね。知っているわ。貴方が確か『公国の寵児』『赤髪の英雄』そして――『剣聖』ね。オラリオに届くほどの名声だわ」
ラインハルトは、自分の名を知られているとみて顔を上げた。
「実力と知名が見合っていないようにも感じますが――そんなことよりアストレア様、わかっているのですよね?」
何のこと――とは、訊けなかった。
アストレアも、わかっていたから。
彼女の子供らが迷宮に潜った時から――もっと言えば今朝から感じるこの違和感。
子供達の身に迫る危険に、神特有の直感が――警鐘を鳴らしていた。
「――わかってるわ。でも、何もできないの」
高貴なる神は――血に塗れ、汚れた、神に仇なす怪物たちの巣窟には入れない。
正確には――神としては、入ることができない。
アストレアの顔色に、憂慮や悲壮の色が滲んだ。
「ですから僕がいるのです」
「――――」
自信と温もりを含むラインハルトの声音は、アストレアを安心させるには事足りた。
一言で、この安心感。英雄の器とはまさに彼のこと。
「でも――どうやって……」
「アストレア様――僕に、神の恩恵を」
恩恵を今すぐに与えても、Lv.1からである。
レベル4を幾人か有する【アストレア・ファミリア】が追い詰められるほどの相手には、到底及ばない。
現実的に考えれば、そう進む。
しかし、アストレアには違って思えた。
そもそも非現実的な神と、不可能を可能にする稀代の英雄。彼らが交われば、当然神も予期せぬ事態が起こるはずだ。
所謂――奇跡。それが起こることは、必然なのかもしれない。現実など、いとも簡単に覆る。
「私――眷属に男性は入れてないの。でも、例外も必要ね。彼女たちを思って気をつかっていたのだけれど……まあ、貴方は信用に足るようだし――わかったは。背中を見せなさい」
「――感謝します」
焦りからかアストレアの口調は早く、震えてもいた。
しかしラインハルトが信頼できる男だということは、彼の噂からも判断でき、今話してみてもよくわかったようだ。
なぜ私なのか、とアストレアは疑問を持った。
緊急なら他の神でも良いではないか。
だが、考えてみればすぐに今までの彼の行動からおおよその概要を掴むことができた。
「他の神を選ばなかったのは……国民への配慮ね」
「ええ。いくら急を要していても、アストレア公国を統治する一族が、アストレア様以外の神に背を許すというのは――国家の体勢にも影響しますので」
すでに神の血は背中に広がり――一通りの行程を済ませ、恩恵を刻んだ。
光り輝く英雄の背。
本拠地である『星屑の庭』は暗く空虚であったが、ラインハルトの煌めきにより本来の姿を取り戻しているような錯覚をアストレアは感じた。
――なんてこと。
英雄の器の恩恵。あまり期待をしていなかったものの、アストレアは何か特殊なスキルが発現していれば十分だと思っていた。
通常の冒険者ならば最大限の期待だ。
しかしラインハルトは通常ではない。
その期待は、神にすら失礼と言ってしまえるほど、過小だった。
故に――純粋な喫驚。
驚嘆してしまうほどの――能力値だ。
『Lv.5』
本来はあり得ない状態。
最初から第一級冒険者へと至ってしまうのは、まさに神の所業――言い換えれば、イカサマのよう。
「どういう……ことなの……?」
誰に向けたわけでもない問いは星屑と化し、ラインハルトは気にせず立ち上がった。
「それではアストレア様――行ってきます」
アストレアは見下ろす澄んだ青色の双眸を眺めた。
正義に揺れる子供達を導いてくれる――英雄。
どこまでも美しかった。
嘘偽りのない青に、悪を断罪する赤い髪。腰に携える龍剣。
確固たる正義がそこにはあった。
気がつくと、アストレアは彼の背を見つめていた。
下界の子とは違う――天界の神とも違う雰囲気。
美しかった。なにより美しかった。
「英雄にしか――なれない」
世界が彼を英雄にさせようと動いている。
アストレアには、残酷に思える。
正義と秩序の神には、崇高に思える。
若干の乖離による違和感を振り払い――今はただ、子供達の救済と、英雄の健闘を心の底から祈ることにした。
『星屑の庭』は団員達の居た活気のある状況より――少しばかり暗かった。
***
「――そこまでだ」
ラインハルトは全速力で【アストレア・ファミリア】を救うため、地面を突き破って戦いに参入する。
何人もの重症者がいる――死者もいるだろう。
「あとは――任せて、離れたところで回復を」
怪我人を一目し――すぐに『厄災』ジャガーノートの方を向く。
敵意が剥き出しの眼。
凄まじい圧力だが、ラインハルトを怯ませるにはまだ足りない。
「――君はっ!?」
赤髪の少女が――左腕を失いながらも勢いよく訊いた。
団長である――アリーゼ・ローヴェルだ。
ラインハルトは【アストレア・ファミリア】のことはすでに調べ尽くしていたため、彼女が団長であることは既知であった。
「僕の名前は――」
言葉を遮ったのは――ジャガーノートの尾が迫っていたからだ。
一般人では目で追えない速さ。
第一級冒険者であれば避けられるが、それでも余裕があると言われれば頷くことはできない。
刹那の油断が――命取り。
尾を跳んで避けたところで――身体を宙に浮かべるラインハルトに、今度は爪が迫る。
鋭く尖り、強固で巨大な爪を避けるのではなく――迎え撃つ。両手で爪を掴み、地面に叩きつけた。
おおよそ騎士には見えない戦法――勝つためには、そういう地道な努力が必要だと、ラインハルトは幼い頃から父や祖父母から教わってきた。
異相な能力値を活かしきって戦う。
先程まで戦っていたのが影響しているのだろう。
少しばかり戦闘が落ち着いた。
「改めて――僕の名前はラインハルト・ヴァン・アストレア。さっきアストレア様に恩恵をいただいた……新人だ。歓迎してくれると――嬉しいよ」
爽やかに、敬語を使わずに言う。
「そいつはやばい化け物だから!今すぐ逃げて!」
「幸いなことに、怪物狩りは僕の専売特許でもあるんだ」
束の間の休息を終えたジャガーノートが勢いよく、不敵な笑みを浮かべたラインハルトに向けて猛進する。
攻撃を受ければ即死は間違いないが、戦局を動かすために避けることはしなかった。
ラインハルトは左脚を踏み出し、地面を力強く踏みつけた。
地面はめり込み、それに伴い発生した風圧でジャガーノートは動きを止める。
両者の目と目が、今までに無いほど肉薄している。
「――ふっ!」
ラインハルトはジャガーノートの顔面に向かって、恩恵によって強化された膂力を最大限活用し――蹴りを見舞った。
「――――!」
ジャガーノートの巨体は、顔――正確には顎――に受けた衝撃により、遠くへと吹き飛ばされていた。
下顎の崩壊。見るに忍びない様相だ。
「なんって……ことだ」
「おいおいおいおい……嘘だろ」
後方から聞こえた驚愕の音吐は、おそらくゴジョウノ・輝夜とライラだろう――ラインハルトはそう思った。
輝夜には極東の訛り、ライラは――小人族らしく子供らしい声音だったから、推理できたのだ。
「これ以上時間はかけられない――退いてくれるとありがたいのだけれど」
まあ、諦める気は無いが――と、続けてこぼした。
諦める気というより、本能からここでラインハルトを始末しなくてはいけないと考えているのだろう。
ここまで圧倒的な力の差を見せつけていたラインハルトだが、実を言うと焦りを覚えていた。
――決め手に欠ける。
ラインハルトの腰に据えられた華やかな剣――龍剣レイドは、剣が相手を選ぶ異色の一物だ。
残念ながら龍剣レイドはジャガーノートを認めなかった。
何故ここまで強力な相手を認めないかは、おそらくジャガーノートを剣なしでも圧倒できてしまっているからか――。
正直、龍剣レイドがなくてもラインハルトは勝てている。一人なら焦る必要もなかった――そう、一人なら。
後ろには守るべき者がいる。すぐに治療しなくてはいけない。急がねば、さらに被害は甚大となってしまう。
後方では、金髪のエルフ――リュー・リオンが苦悶の表情で仲間を治療している。
真っ赤な顔は、心配と――殆ど無傷の自分の不甲斐なさを、恥じているのだろう。
彼女らを救うには、速度が先決だ。
「……さて」
ラインハルトは踏みつけた地面を睨み、一つ策を講じる。そして――瓦礫の一片を拾い上げた。
そのまま投げつける――石礫を。
一つだけでは無い。いくつも拾い、投擲する。
Lv.5の能力値を使い、瞬く間に大量の石を放っていた。
流石は怪物――下顎が砕けてはいるが、身体は動かせるようだ。
ジャガーノートは跳躍した。投石を避けたのだ。
当然ラインハルトも投げ続ける。
壁を蜘蛛のように這うジャガーノートをねめつける。天井にはラインハルトが突入した穴がある。そこを使って逃げるつもりなのだろう。
「――これ、借りてもいいかな?」
ラインハルトはアリーゼの元へ行き、足元に落ちている剣を指差す。
アリーゼは痛みを堪え、苦しげな表情で、
「……もちろんよ!」
二人は目を合わせ、笑い合う。
少し前まで諦念と死の空気が蔓延していたとは思えない温かさだ。
足元にある剣を掴み、天へと掲げた。
「終わりにしよう。死なないように」
その言葉が自分たちに送られたものだと、団員たちは遅れて気がついた。
天剣が光を発した。
迷宮内を蔓延する魔力が、ラインハルトの身体を巡る精霊が、反応する。
必殺の一撃。
「――ねぇ、何を見せてくれるの?」
水を差すようではない朗々とした問いだった。赤髪の少女は、純粋な気持ちで英雄に聞いた。
「……そうだね」
虚をつかれたように微笑み、
「アストレア家の剣撃を――」
――アストレア家の剣劇を。
「――『剣聖』の家系、ラインハルト・ヴァン・アストレア」
一度龍剣を下げ――空間が揺れる。
もう一度天に振り上げる――力強く、期待に応えるように。
刹那――世界は青く歪む。
【アストレア・ファミリア】の団員たちは、大きなズレを実感した。
冷たく、温かい剣聖の光。
違和感は持っているが、今はただ、奇跡のような一撃に夢中になっているだけだった。
英雄と同じ赤い髪を持つ少女は、笑った。
憧憬の眼差しを向けながら、大きく笑った。
立ち昇る光の摩天楼はバベルを突き破りそうなほど高く、流星のように燦々と光り輝いていた。
星屑たちは夢をみる。
現実を見て、夢を間近で観て――夢現を眺めて。
愛する家族の――未だ青いエルフが生きてくれるように。
仮初の星に、祈った。
正義の神に、祈った。
これは、喜劇でも悲劇でもない。たった一幕の、剣劇である。
――アストレア家の剣劇である。