【ロキ・ファミリア】の精鋭たちは、死を見た。
先が途絶えていくという恐怖。ここまでの絶望は、今まで感じたこともなかった。
前方に在るは『死体の王花』――さらに強化種を超えた異形。
恍惚とした表情は緑色の肌を紅くそ染める。
全身を染める緑の中に目立つ、金色の眼球。
「『精霊』……?」
アイズの呟きは団員を驚愕させ、疑問を泡沫のように大きくした。
こんな邪悪なものが『精霊』だと、神々の残滓というべき神聖なそれが、こうも黒々とした怪異であって良いのか――と。
『【火ヨ、来タレ――】』
再び【ロキ・ファミリア】に衝撃が走る。
怪物による『超長文詠唱』。
そこで彼らは再認識する。この化物は埒外に存在する異能である――と。
迷宮内に轟く『精霊』の詠唱――それより遥か上層で響く何らかの大音を悟ることができた者は、誰一人として居なかった。
だんだんと大きくなる上からの何か。
気づくも者はいなかったが、【ロキ・ファミリア】団長であるフィン・ディムナの親指は、これ以上ないほどに震えていた。あまりの揺れのため親指を抑えるフィンだが、相対する敵に反応しているのだと誤認してしまっている。
強者達の必死の抵抗も虚しく、『精霊』の詠唱は収束の一途を辿っている。
この面子の中で新参に近いレフィーヤ・ウィリディスとラウル・ノールドにできることといえば、無駄な攻撃である。それもそのはず、第一級冒険者の面々ですら有象無象の怪物達を倒すことしかできないからだ。
唯一の手である『九魔姫』の魔法も、何とか、何とか――
「【ヴィア・シルヘイム】――」
『――【ファイアーストーム】』
『精霊』とほぼ同時に展開した。
世界は緋く染まり、炎炎が立ち昇る。
防御に全霊を注ぐ、オラリオきっての冒険者であるリヴェリアですら苦悶の表情を浮かべ、歯を食いしばって相手の攻勢に耐えている。
結界が震え、死と炎の行軍が結界内以外を支配した。
リヴェリア一人には荷が重すぎる火力。
神にも勝る美しい顔を醜く歪める。
『精霊』は醜く、美しく微笑んでいる。
圧倒的火力。
どちらが先に揺らぐのか――分かり切っていた。
フィンもアイズも、レフィーヤですら。
ピキッと音を立て、結界に罅が入る。
段々と――否、早々と罅の侵食は進み、パキパキと耳が痛くなる音を谺させながら結界は――
「リヴェリッ――!」
誰かが叫ぶ。
最早声など届きはせず、劫火は轟々とリヴェリアを飲み込んだ。
紅蓮の巨濤はリヴェリアの影すら掻き消し――アイズの悲鳴も踏み潰した。
血涙すら蒸発する異様な状態。
じりじりと全身が焼けこげていく。
そこで前へと出たのは老夫――ガレス・ランドロック。巨大な盾を構え、ドワーフの意地と言わんばかりの覚悟で轟火に立ち向かう。
火に負けまいと腹から声を出す。
盾を避けた熱波は、背後で尻をつくレフィーヤの涙すら蒸発させ、じわじわ――盾が小さくなっていく。
リヴェリアとは比べ物にはならい護り。
ほんの小さな時間稼ぎ。
「おい、ジジイ――ッ!」
束の間の防御――二枚の大盾は溶解し、消滅した。
リヴェリアの二の舞の如く――ガレスの背中も見えなくなった。
ベートの金切り声も虚しく、
「――ッ!」
大爆発――それは迫る炎の終わりを告げ、視界を緋くし、彼らを後方へと吹き飛ばした。
一旦猛攻は落ち着き、死屍累々のような有様と化した地を『精霊』は見下ろしている。
アイズ以外の平々凡々な者たちは眼中になかった。
「ぐぁっ……ぅ」
レフィーヤとラウルはフィンにを庇われたが、地にのたうちまわっていた。
――未だ、誰も気づいていない。爆音に気付き直進してくる英雄を。
ラウル達は見た――自らの尊敬する冒険者達が、見るに耐えない様相で地に臥し、生気すら感じられない状況を。
絶望を視る、アイズ、ティオナ、ティオネ、ベート、レフィーヤ、ラウル。
そして――フィン。
最大戦力を二人失いながら、焼き焦げた腕を押さえ、思考を巡らす――が、すでに諦念が脳裏を支配しきっていた。
『【地ヨ、唸レ――】』
「嘘ッ、だろッ?」
漆黒の魔法円。先とは違う何か――、
「早すぎる――ッ!!」
『精霊』が始めたのは淀みのない、滔滔と溢れ出る再詠唱――神にも思しき技量。
ものの数秒――詠唱は完成しつつある。
【ロキ・ファミリア】の頭を覆い尽くす諦観による桎梏。
フィンは焦燥に駆られ、後進を守るべく動き――アイズ達も身を守るために身構える。
遂に其の時は来た。
『【メテオ・スウォーム】』
魔法円の黒が上へと打ち上がり、収束した魔力は――隕石群を誘った。
まるで、天誅だ。
唾を飲み、噴き出す汗すら気に留めず、上を見る。
天の怒りを思わせるそれらの中に――フィンは、人影を見た。
「何だ――!?」
闇の中に、何よりも澱んだ赤を身に纏う――男。
「あれは――!」
そこで、アイズは気づいた。
ベートはいち早く察知し、目を見張っている。
ティオネ、ティオナも遅れて隕石群を見る。
「――想像以上に酷いな。これは――!」
赤黒い全身の中に二筋の輝く、青白い光の眼と――刀身。
「ラインハルト――!」
血に染まった英雄――ラインハルトは、満身創痍の【ロキ・ファミリア】を一瞥し、
「全員屈むんだ!」
上空から降りる英雄は腰に携えてある龍剣を勢いよく引き抜き、天へと掲げた。
言われた通り地面にいる面々は腰を下げ、期待と不安。初めて見るラインハルトの本気を『精霊』など気に求めず、ただ真っ直ぐに見つめていた。
「久しぶりにやろう――レイド」
龍剣レイドを横に一閃――揮った。
先程の魔法円とは対照的な色を持つ、膨大な魔力を帯びた極大な白光の光線が無数に降る隕石群にぶつかり、滅していく。
先の【ファイアーストーム】すら超越するラインハルト――稀代の英雄の名もなき一撃。
閃光に触れると隕石は爆発し、迷宮そのものに影響を及ぼした。
一安心――否、油断。
ラインハルトに集中していたことで、彼らは『精霊』に隙を与えていた。
英雄が来たところで、一度体制を立て直すべきだったのだ。
背後から聞こえる――聞き覚えのある詠唱。それも二つ。
何が起きているのだ――と、フィンたちは『精霊』を見るが――、
「――嘘、口が二つ……?」
ラインハルトの登場により危機感を覚えた『精霊』はその生存本能と執念から、身体を変え口を創造する異例の強化種へと進化を遂げていた。
当然魔法円は二つ。
おそらく先と同じ『【ファイアーストーム】』と『【メテオ・スウォーム】』である。
怒っているのか、緑色の全身を髪まで赤くし、超長文詠唱――超高速詠唱で魔法を組み立てていく。
流石のラインハルトもこれには焦る。
参戦の目印となった爆音は今唱えている魔法に影響していたのだ、とあたりをつけ急いで地上へと向かった。
肩で息をしているが、気にしてはいられない。
「ラインハルト――大丈夫か!」
「僕の心配は無用です。それより反撃の策を講じてください。あの二撃は僕がどうにかします」
「あれを――止められるの……?」
アイズが問う。
返り血かどうか、身体を滑る血と疲れた表情は不安を誘う。
ラインハルトは震えるアイズに視線を合わせ、
「あれを止めないと――全滅だからね」
「――――」
今できる限りの笑顔をアイズへと向け、眦を決した。
「それでは行きます。フィンさん――頼みます」
アイズは父を見た――笑顔と、怪物に向かって進むその背中に、父の影を見た。
そしてその影は――再度、龍剣を抜く。
前に出てきた盤外の英雄に眉を吊り上げて威嚇する『精霊』だが、ラインハルトは微風が吹いたかのように余裕を見せる。虚勢といえるだろう。
ラインハルトが龍剣を振り上げたと同時に――詠唱は再び完成された。
上からは隕石群、正面からは最大火力の炎炎の光線。
天へと掲げた重い龍剣はその刀身全てから光を発し、隕石を散らしていく。
いくつか零れたものもあるが、そんなことは気にしていられない。
熱波はすでに眼前にまで到達している。
重すぎるレイドを振り下ろすのか、敵の光線が着弾するのか――どちらが、先か。
「――――」
これもまた――殆ど同時。否、若干――ラインハルトが先を越した。
肉体は回復するが疲労自体は取れない。
ラインハルトは疲れた体に鞭を打ち、鯨波の如き火焔に一刀を持って立ち向かった――、
「ラインハルト――」
フィンの呟き。
ぶつかる両者の全力。
「――あぁぁぁ!!」
何とか耐えようと声を張り上げるラインハルトだが、全力疾走の維持、無数の怪物の討伐、深層の地面を何度も蹴り破り、強者と戦ったことによる疲労は、相手との決定的な差になった。
段々と、ラインハルトが押し負け始めている。
アイズたちには初めて見る光景だ。ラインハルトが苦しそうに顔を歪めているところなど。
もしかしたら――側で倒れるリヴェリアやガレスのようになってしまうかともしれない。
酷い不安で、全員が震える。
「……ラインハルト」
心配の感を含んだアイズの声音は、ラインハルトに届いたかのように――、
「――ふっ!!」
応えたかと思えた。
防戦一方だった英雄が、気持ちばかり押し返す。
火花が散り、火傷も増えていく。
ラインハルトを治すための精霊が近づくことすらできない火力。回復が遅すぎる。
身が焦げ、両者が放つ光がぶつかり、黒煙が天井に溜まっている。
芋虫の大群も残ってはいるが、ラインハルトの止め損ねた隕石により多くが魔石へと姿を変えていた。
未だうじゃうじゃと残ってはいるが。
拮抗した攻防。
どちらが先に敗北するか――この保たれた均衡は、いつ決壊するのか。
終わりはすぐに訪れる。
「ラインハルトが、拙い――!!」
焼けた腕を抑えるフィンが、声量と気迫が比肩しないながらも叫ぶ。
他の者も、察してしまった――否、目にした。
龍剣が――宙を舞う。
焼け爛れた手指では剣を握ることが叶わず、遂にはレイドを離してしまう。
光を失ったレイドはアイズの頬を掠り、地に突き刺さることもなく鈍い音を立てて転がった。
「――ぐあァァァァァ」
今までにないラインハルトの咆哮。
騎士としての気品を全て失った泥くさい足掻き。
矛を失った英雄は両の手を前へと向け、幾許か威力の落ちた敵の猛襲をその身で受ける。
――ここで止めなければ【ロキ・ファミリア】が失墜し、この先現れるであろう冒険者も『精霊』の餌食となる。
その考えをもとに、ラインハルトは決死の覚悟で、万死を恐れず――耐え続ける。
両手から両肘、腕全体へと火傷が進み――骨が熱風に曝される。
「駄目……死んじゃう――!」
子供のような金髪の『剣姫』は弱音をこぼす。
英雄に託された『勇者』数ある策を講じては捨てた。
狼人は、アマゾネスは、エルフは、凡夫は、何もできず渇く喉を潤すために――驚異の光景を見て、唾と息をのむだけだった。
「まだ――だッ!」
もう少し――限界までラインハルトは耐える。
腕だけではない。右眼を失い、露出する眼窩。
その奥の脳にまで――熱は届きそうだった。
一歩、二歩と後ずさる。
その度【ロキ・ファミリア】は傷を増やし、ラインハルトは死に近づく。
「あと……少し――!」
死に直接影響する器官が傷つかないよう微妙に火炎を受ける位置を変え、粘り続ける。
腕は消滅し、身体の前半分は全て骨が見えている。
腑が溢れ、最早立つことすら不可能となっている。
「――ッ!!」
暗くなった視界だが気配でわかる。
『精霊』がしぶとい相手にとどめを刺そうとしている――と。
このまま最後の最後に底力を振り絞った一撃を見舞われるのはまずい。と、英雄は思う。
吐く血すら枯渇し、音も聴こえず、ただ気配のみで相手を理解する。ラインハルトには容易とはいかぬまでも可能だった。
そして――わかった。
異形で異端の怪物は、常識を覆す一撃を――、
「――がああああああああああッ!!」
心の底――腹の裡からだす気合いの叫び。
決して悲鳴ではなく、決意の証、決着の狼煙。
ラインハルトは威力が上がるであろう炎を、跪きながらも右足を振り上げて――二又に裂いた。
まさしく火事場の馬鹿力。僅かだが、近づけずにいた精霊も命懸けで力を貸してくれたようだった。
二本に分かれた炎の光線は勢いを増し、天井へと突き進んでいった。
同時にラインハルトも後方へと吹き飛ばされ、堅硬な壁にぶつかった。砂塵が両腕、右足を失った瀕死の英雄の姿を隠すが、【ロキ・ファミリア】にゆっくり眺めて心配できる暇はない。
しかし――、
「ライン……ハルト――嘘」
アイズの顔は蒼白に『精霊』の炎だけが色を取り戻してくれるという皮肉。
【ロキ・ファミリア】は英雄の敗北により、これ以上ない程の絶望を覚えていた。
――たった一人、小人以外は。
『勇者』は槍を地面に突き立て、
「あの怪物を討つ」
確かにそう宣った。
力なく腰を落としている彼らは何も言えず、肩を震わせながら自らの団長を眺めている。
アイズには、フィンの碧眼がラインハルトのものと重なって見えた。
「――君たちに『勇気』を問おう。その目には、何が見えている?」
静寂の中に響く声、応えるものはいない。
取り澄ましたフィンは冷静に、諭すように続ける。
「恐怖か、絶望か、破滅か、後悔か?僕の目には倒すべき敵、彼が繋いでくれた勝機しか見えていない」
一同に走る、先とは違う震え。
思い出す――リヴェリア、ガレス、ラインハルトの背を。
フィンは怪物を睨み、アイズ達に背を向けた。
背に集中する視線。この中で誰よりも小さかった。
「君たちにはラインハルト、そして――ベル・クラネルの真似事は難しいのか?」
団長として団員を焚き付ける。
煽り、羞恥心、後悔の念を駆使した天才的な鼓舞。
「僕は宣言しよう。女神の名に誓って君たちに勝利を約束する、と」
ティオナの髪が揺れ、ティオネの懊悩が散り、ベートの心底に燻る獣が――蠢いた。
レフィーヤの陰りが晴れ、ラウルの瞳の奥が燃える。
アイズは――金色の長髪を靡かせて剣を握り、ラインハルトと同じように覚悟を決めた。
『英雄』がいた。
人工だったはずの、役者だったはずの『勇者』が。
後方で臥すラインハルトとはまた異なる――群衆の英雄。
彼らの脳裏に甦るは赤髪の英雄――白髪の新人。
皆の憧憬であり、自分達の命を救うために奮闘したラインハルト。
命を賭し、冒険者としての意義を果たしたベル・クラネル。
どちらも間違いなく英雄であり、目の前にいるフィン・ディムナも――。
「それともどうだ――ガレス、リヴェリア。年下のラインハルトにここまでやらせて、小人の僕にここまで言われて、ただ倒れているだけなのかい?」
フィンの煽り。
名を呼ばれた両名は、小さく動く。
「【ロキ・ファミリア】の幹部諸君――ベル・クラネルの真似事は、君たちの手に余るのかい?」
彼らの中で、何かが吹っ切れた――強制的に、切って落とされた。
剣の神子は柄を握りしめ、月下の狼が小さく唸る。
倒れ、震えていた面々がおもむろに動き出した。
何より――
「――よく言うわい、生意気な小人が」
「不満だが右に同じだ――野蛮なドワーフ。アイツには負けていられん」
杖を握り、両斧を高々と持ち上げる両者。
【ロキ・ファミリア】最高戦力――再起。
――戦闘前よりも遥かに鋭い表情で、彼らは『精霊』を睨みつけた。