神の目を売りたい少年の話   作:胡桃の胸ェ…

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 初めての曇らせものです。


「セレベンツの章」
『最初の契約』


 夜の潮騒が、静かに丘の上の草を揺らしている。

 港から発せられる灯りが海面に沈み、金色の光が波と波の狭間で細かく砕けていた。

 

 ここは、契約の国『璃月(リーユエ)』。

 

 あらゆる経済の、金と人の営みがまるで川のせせらぎのように揺れ動く地。

 陽もとっくに沈んでいるのにも関わらず、未だ衰えの予兆すら見せない港の華やぎとは裏腹に、その場所は薄暗かった。

 丘の斜面にしがみつくように建っているそのボロ小屋は、まるで璃月という国、テイワットという世界から忘れ去られた影のようでもあった。

 人の気配など皆無の、朽ちかけた辺境。

 どんなもの好きであろうと、こんな場所で大量のモラを使用し、『家を建てる』という愚かな行為はしないだろう。

 だが。

 

「ただいま」

 

 ――だが、狂った人間とやらは意外と存在するものだ。

 潮風に晒され、壁板は痛み、屋根は波音に合わせて軋んでいる。

 突貫工事を貫き、雨風もろくに凌げない欠陥をそのままにしたこの場所は、それでも少年にとっての『我が家』であった。

 扉を開き、部屋へ向かうまでの、返答のない沈黙の帰路。

 本来『少年』の傍にいる筈の者は、もう既にそこにはいない。

 

 床には二人。

 もう動く気配のない父と母が横たわっていた。

 

 父の髪はとうに全てが抜け落ちていて、乱れた服の内側には不健康そうなあばら骨が浮かび上がっている。

 今はこうだが、これでも父は自分の容姿の遺伝の元でもあり、加えてあの母が選んだ男なのだ、かつてはそれなりの美男子だったのだろう。どこにもその面影はないが。

 

 だが父とは真逆に、母はとても美しかった。

 

 藍色に染められた高級な服は死人に不相応な高貴さであり。

 既に死後の状態であるというのに、母の髪は今も光沢を放ち続けていて、まるで絹のような存在感を発している。

 

 潮の匂いに混じって漂う、かすかな鉄の匂いが鼻腔を不快に刺激する。

 

 梁からつるされたままの()()()()()()と、倒れたままの椅子。

 両親が垂れ流された汚物が床に染みていく。

 

「……ふざけんなよ」

 

 命を終わらせる前から既に、『父』として終わっていた人間と、同じく『母』ではなかった人間。

 とっくに子としての義務も、最低限の『愛情』も冷めきっていた少年にとっては、全てがどうでもいい終わった話。

 横で声をあげようと、こうして愛する男のために作った食事を横取りされても。

 

 生まれてから約八年。

 小さな地獄の世界は、依然としてそこにあるがまま。

 

 少年は瞬きもしない。

 泣きもしない。

 親の死に悲しむ事もせず、ただ無機質な瞳を注ぎ続けるのみ。

 

 そうして一室の異臭から逃げるように寝室へ足を運び。

 少年は目を閉じて、一日を終わらせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝。

 眠っている間、勝手に事態が急変する筈などなく。

 時間が経った影響か、両親が垂れ流した汚物の匂いがより活性化していて、少年は前よりも濃く顔を不快で染めた。

 

 生まれてこの方、自分に親としての最低限の愛情も何もくれなかったというのに、死んでからもこうして『迷惑』を与えてくるとは。

 もはや親でも何でもなく、邪魔そのものでしかない肉の塊。

 二つのそれを見下ろしながら、少年はずっと考えていた。

 

(さて、どうしようか……)

 

 まず一つ目の選択は、素直にこの死体を『埋める』事だ。

 だがこの決断は後回しでもいいだろう。自分には無駄に時間があるし、何より八歳の身体能力ではかなりの苦労を予測できる。 

 

 そして二つ目の選択、それは『誰かを呼んで解決してもらう』。

 すぐそこにある港に行って、道行く誰かに両親が死んだ、処理を手伝って欲しいと告げればそれでいい。

 当然、話せば相応の事情を聞かれるだろう。

 これまでの人生、父と母が死ぬ前のひと悶着も含めて、詳しく。

 

(だけど…………)

 

 『静かにしなさい、夜は特に』。

 母が毎日、自分に向かって言っていた言葉。

 それが妙に、胸の中で燻っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だが結局、母は最期まで少年に何も残さなかった。

 母の『警告』。その対象がやって来たのは、それから数分後の話。

 

 一つ目と二つ目の選択には、どれも先の未来などはなく。

 

 それが意味する事とはつまり、少年には最初から、逃げ道などどこになかったという現実そのものだ。

 

「ほう、これは予想外の光景だな?」

 

 海風と共に、重たげな軋みを立てて扉が開く。

 冷たい外気が室内に入り、同じく壁に影が這い、その揺らぎの原因が現れる。

 それは、純白の外套を纏った男だった。

 まるで雪国を想起させるその生地は、外の闇を拒むように重厚な加工を施されている。

 だがその足取りは、雪とは程遠い濁り方をしていた。

 毎日聞かされた母の『警告』、その正体。

 

「ふん、随分とつまらん死に方をしたものだ」

 

 革靴の底が痛んだ床を叩き、悲鳴のように小さな乾いた音を響かせる。

 男は丁寧に整えられた髭を手で弄りながら、目の前にある二つの死体を一瞥した後、すぐ興味を無くした。

 

「お前はあれの子供か」

 

 男は少年に問う。

 少年は小さく頷き、そしてなんて事ないように。

 

「最近死んだ」

「そうか」

 

 気味の悪いガキだと、男は少年を見下しながら言う。

 だが男の目に、少年に対して恐怖の色はない。

 何故なら男にとって、目の前にある『死』は既に慣れ親しんだもの。

 加えて死因は『窒息』と来た、この程度の『死』は、男が見てきた『実験体』の末路に比べれば、救いそのものとも言える甘さ故に。

 

「ならお前が返さないとな?」

「…………」

 

 男はしゃがみ込み、少年と目を合わせる。

 その品定めをするかのような視線を前にしても、少年は微塵も動きを見せなかった。

 

「借金。それも七億モラだ」

 

 例え子供であろうと、璃月に生きる者なら、人間ならば『モラ』という重い概念を理解しているものだ。

 男の考えは正しく、実際その途轍もない額を聞いた瞬間、少年の目に新しい形の光が浮かんだ。

 初めて見せる人間味、動揺の色だ。

 

「死んだ両親の代わりに、お前が全てを返せ」

「……――――分かった」

 

 しかし、それは一瞬で凪のように消えた。

 

「返せばいいんだろ」

 

 あまりにも冷たい言葉だった。

 普通なら、泣き崩れてもおかしくない年頃だ。

 現実を許容したくなくて、癇癪を起こしてもおかしくない。

 自分が今どんな立ち位置にいるのか分かっていない?いいや、違う。

 

 この少年は分かっているのだ。

 自分を取り巻く環境が変化した事。

 そしてそれは、決して常人の想像する『幸せ』ではない事。

 

 全てを理解した上で、少年は『こう』なのだ。

 

「泣かず、逃げず、状況を飲み込むのが早く、その上で壊れていない」

「……」

「よし、決めた」

 

 男の言葉は冷たく、視線は価値を測る粘ついたもの。

 だがそれは間違いなく、少年に示す新たな『道』だった。

 

「お前には『愚人衆(ファデュイ)』に入ってもらう」

 

 少年の目は変わらない。

 血のように赤く、黒い残酷な輝きは、動揺による変化をもう見せなかった。

 

「少年、お前の名前は」

「……一不(イーノォ)

「一不か。――フン、()()()()()()

 

 男は『逃げるなよ』という言葉と同時に背を向ける。

 

「詳しい話は明日ここで。その時改めてお前を迎えよう」

「なぁおっさん、あんたの名前は?」

「……ハッ、私か?」

 

 男は振り返りもせずに言う。

 

「――クローバーだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……結局、持って行ってくれなかったな」

 

 男、クローバーが去って暫く経った頃、一不は誰にともなく呟く。

 

 借金。

 ファデュイ。

 

 それ自体は自分で選んだ訳ではない。

 だがその先は、縛られる生き方そのものは、間違いなく自分の意思で決めたものだ。

 血の匂いはまだ薄く、変化の本格化はまだ来ていない。

 それでも、はっきりと分かった事がある。

 

 それは、もう戻れない事。

 

 自分の人生が、静かに方向を変えてしまった事だ。

 

「…………はぁ」

 

 親の死体以外、何もない部屋の中央。

 膝を抱えるでも、横になるでもなく、一不はただ座っていた。

 

 その時、とん。と小さな音。

 

 気のせいかと思う程の控えめな音が、確かに聞こえた。

 誰だ。

 一不は立ち上がり、足音を殺して扉へ近づく。

 

 クローバーが戻って来た?

 

 いや、そもそも彼は明日にまた来ると言っていたし、何より彼がわざわざ今になって扉を叩くような人間とは思えない。

 軋む板戸に手をかけ、扉を開ける。

 目の前にいたのは、一人の老人であった。

 

「………」

「……あんた、誰」

 

 黒衣に身を包む、顔に深い皴を刻んだ老人。

 彼はクローバーの粘ついたものとは違う目を一不に向けていた。

 その瞳には、梅の花が咲いている。

 

「『往生堂(おうじょうどう)』、七十五代目元堂主だ」

 

 老人はそうぶっきらぼうにそう言った後、一不の隣を通った。

 クローバーとは違い、靴音も立てずに中へ入っていく。

 室内の中央に置かれた二人の死体を見た老人は、状況を一瞬で理解し、問うた。

 

「葬儀か?」

 

 老人は続いて『スネージナヤの人間にここに来るようにと言われた』と言った。

 恐らく、この往生堂の元堂主を呼んだのはクローバーなのだろう。

 いくら『普通』ではない人間とはいえ、死んだ人間の身体を野ざらしにする趣味はなかったらしい。

 しかし、一不は首を横に振った。

 

「モラがない。だから葬儀はいい」

 

 即答だった。

 もうこれから、自分には少しの『贅沢』も『無駄』も許されない。

 だというのにだ。もう既にこの世を去った忌々しい両親の死体を処理するのに、モラを支払う理由はないだろう。

 どうせ何も感じない。何より意味がない。

 一不の言葉を聞き、老人は一瞬だけ目を細めた。

 

「ならばモラはいらん」

 

 そう言うと、手慣れた動きで床に置かれた死体を丁寧に整えていく。

 無駄のない動きだった。

 

「人間は、生き物とは生きている間だけがそうではない」

 

 淡々としているが、決して乱暴ではない。

 顔を不快で顰める訳でも、憐憫で眉を下げる訳でもなく、厳粛な顔つきのまま。

 

「――『陰陽は整然、運命は無常』」

 

 老人のその言葉は、妙に室内に響いたような気がした。

 

「……?」

「死は予測できないものだ。突然のものもあれば、予測して対応できるものだってある」

 

 老人は、一度も少年に『理由』を問わなかった。

 何故彼らは死んだのか。

 どうして自分は泣かないのか。

 それは子として最低ではないのか。

 老人は一度も一不を責めなかった。

 黙々と仕事を続けながら、まるで諳んじるかのように。

 

「だが、そこには例外なく『規則』がある」

「……どんな」

「『死を軽く扱わない』事だ」

「変なの」

「孫に比べればマシだ」

 

 そして、本格的な準備が開始される。

 上げた線香の香りが、部屋に充満していた汚臭と外からの潮臭さを少しだけ和らげる。

 老人は立ち上がり、一不を見てから。

 

「もうしばらく時間がかかる、外で待っていなさい」

 

 それは命令でもなく、そして提案でもなかった。

 老人は死体を後目に言う。

 

「まだ、子供が見るものじゃない」

「…………分かった」

 

 一不はそう言って、すぐに小屋を出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 港の方を見れば、やはりそこには明るい『光』で満ちていた。

 海を跨いで聞こえてくる、商人たちの活発な声。

 魚や野菜を売る大人と、荷物を運ぶ大人。そしてその傍を走る子供たちの笑い声。

 

 全てが生きている。

 

 海岸近くの静寂とは正反対の、美しく華やかな世界。

 ボロ小屋に閉じ込められた、孤独な自分の世界とは違う、どこまでも幸せで染まった場所。

 

 妬ましいとさえ思う。

 さっきまで自分は、腐敗を開始した死体のすぐ傍にいたというのに。

 お前たちはどうして、皆そのような顔をして歩ける。

 

 同じ国だ、同じ大陸の『世界』の筈だ。

 なのに何故、こちらとあちらでこうも違う?

 誰も、何も失っていないような顔で笑っている?

 それはもう、幸せそうに。

 

「……馬鹿馬鹿しい」

 

 胸の奥が一気に冷える。

 一不は振り返り、背後の小屋を見る。

 そして、まだ老人の葬儀の準備が終わっていない事を確認すると、次の行動を決心した。

 

 さっさとどこかへ行こう。

 葬儀も、何もかもどうでもいい。

 

 どうせ終われば、そこには骨すらも残らないのだ。

 『モラはいらない』と言っていたのだ、だったら勝手にいなくなればいい。

 もうどうでもいい。

 どうでもいいから、自分には関係がない。

 だから逃げようと、小屋を背に振り返ったその瞬間。

 

「ばあっ!」

 

 目の前に、赤。

 そこに立っていたのは、自分とそう変わらない年頃の少女だった。

 

 老人に似た装飾の黒衣と、二つに分けられた髪。

 そして何より、赤い梅の瞳。

 

 あの老人と同じ形。だがあれよりも赤く煌々と輝く瞳が、真っすぐにこちらに向けられている。

 まるで、心の奥底まで覗き見るかのように。

 

「えへへー、驚いた?」

「……」

「ねぇ、どこ行くの?」

 

 少女は首を傾げた。

 芸術品のように美しい、梅の花の形をした瞳孔。

 声は軽いが、瞳孔に光は宿っておらず、目が笑っていない。

 思わず後ずさる。

 逃げようとした心を、この少女は見透かしているというのか。

 

「おじいちゃんに外で待ってろって言われてたでしょ?」

 

 ふっと笑って。

 

「私、外で見てたんだよ」

「……別に、関係ないだろ」

「ねぇ」

 

 棘のある言い方をした一不に対し、胡桃は一切の悪感情を見せず。

 笑ったまま、首を右から左へと傾けて言った。

 

「逃げちゃうの?」

 

 問いは軽い。

 だが、その言葉の束縛の力は凄まじく、一不は逃げ場がもうない事を確信してしまう。

 梅の瞳から目を逸らす。

 妬みや怒り、そして無関心に近い冷たさも。

 この少女の前では、上手く形作る事ができなかった。

 

「暇ならさ」

 

 少女はくすりと笑って、右手をこちらに向けて差し出した。

 それは、本当に小さな手。

 

「一緒にお喋りしようよ」

 

 あまりにも普通。

 軽く、裏のない提案。

 一不は眉を顰めた。

 

「なんで俺と」

「だって」

 

 近くの岩に腰かけ、足をぷらんぷらんと揺らしながら。

 

「一人でいるのって、すっごく退屈でしょ?」

 

 海風が二人の髪を揺らす。

 遠くから聞こえる港の騒ぎを後目に、無意識の内に二人は互いの目を見つめ合う。

 

「ねぇ、君の名前は?」

「……一不」

「いい名前!私はねぇ、胡桃(フータオ)!」

 

 差し出した右手をひらひらと揺らしながら。

 

「ぼーっと突っ立ってるだけじゃ楽しくないよ?」

 

 一不は、その手を見つめるだけ。

 だが胡桃は気にしない。

 

「よしっ決まりぃ!」

 

 そう勝手に決めた途端、一不の腕を優しく掴む。

 細い手首だが、妙に力強い。

 

「っ、おい……」

「時間は有限でしょ?」

 

 言うが早いか、胡桃はそのまま一不の腕を引っ張り、その場でくるくると回り始める。

 困惑。

 

「おい、何して……」

「回ってる!」

 

 楽しそうに胡桃は笑う。

 風に、宙に髪が舞い、笑みに比例して梅の瞳もきらきらと光る。

 まるで小さな旋風のように、二人はくるくると回り続けた。

 

「ほらほら!一不も回る!」

「もう回ってるだろ……っ!」

 

 腕を掴まれているせいで、一不も強制的に回転を続ける羽目となっていた。

 三半規管が狂い、頭に浮遊感を覚える程に遠慮なく、くるくると。

 一不の力なら、今すぐにでも胡桃の手を振り払う事はできる。

 なのに、何故か今はそれができなかった。

 

 何度も、何度も回る。

 くるくると。

 手を繋ぎ、輪を作り。

 

 そして――。

 

「っとと!?」

「ぅっ…………」

 

 全く同じタイミングで二人は静止し、次に襲い掛かって来るのは凄まじい不快感。

 まっすぐ立っている筈なのに、地面が勝手に揺れているようにも感じる。

 どうやらそれは胡桃も同じようで。

 彼女はどうにか倒れる事だけは根性で堪え、ふらふらと近くの岩に腰かけた。

 

「うぅ~……回り過ぎた……」

 

 一不もふらつきながら、その場にゆっくりと座る。

 

「……馬鹿」

「うぷ……気持ち悪ぃ~…………これじゃお喋りできないぃ…………」

「……本当に馬鹿」

「でも」

 

 胡桃は笑う。

 

「楽しかったでしょ?」

「…………」

 

 一不は答えない。

 だが少しだけ、その口元が緩んでいた事を、胡桃は見逃さなかった。

 

「あっ、笑った!」

 

 胡桃は嬉しそうに笑う。

 その真っ直ぐな笑顔が妙に照れ臭くて、一不は顔を背けた。

 

「……笑ってない」

「笑った!」

 

 胡桃が指摘し、一不は認めず。

 

「笑ってない」

「笑ったよ!」

「笑ってない!」

「笑ったってば!」

 

 笑った、笑ってないの繰り返し。

 二人はしばらく、そんな微笑ましいやり取りを続けていた。

 

 海風が吹く。

 港の声が遠くから聞こえる。

 

 羨ましい、妬ましいとさえ感じた向こうの『世界』を、この瞬間一不は完全に忘れる事ができていた。

 まるでゆっくりと時間が流れているような。

 子供同士の、他愛のない一瞬。

 そして。

 

小桃(シャオタオ)

 

 ぎぃ、と木の軋む音。

 小屋の扉が開くと共に、落ち着いた声がこちらに向けられる。

 

「葬儀の準備ができた、もう入って大丈夫だ」

「はーい」

 

 胡桃は元気よく立ち上がる。

 そして、一不を見て。

 

「行こ、一不」

 

 先ほどとは違って手は差し出さない。

 ただ、胡桃は待っていた。

 

「…………」

 

 数秒、視線を合わせてから。

 一不はゆっくりと立ち上がった。

 

「ちゃんと見ててね、一不」

 

 胡桃が横を歩き、言う。

 それは一不が初めて聞く、彼女の真面目な声。

 

「葬儀は終わりじゃなくて区切り、ただ送り出すだけじゃないんだよ」

「…………」

 

 その意味を、一不はまだ完全には分からない。

 だが、その言葉がただの屁理屈ではない事を、穢れ一つない梅の瞳が証明していた。

 それはまだ小さなものだったが、確かに一不の心に『何か』を残した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 室内は見違える程に整っていた。

 汚臭や潮の匂いは薄れ、代わりに香の煙がゆるやかに漂っている。

 簡素ながらも、丁寧に設えられた簡易の祭壇。

 並べられた白布と、二つの棺桶。

 

 老人は静かに袖を正し、中央に立つ。

 

 胡桃はその少し後ろで、一不はその隣。

 三人だけの葬儀だった。

 港の喧騒は遠く、波の音さえ控えめに感じられた。

 

「始めよう」

 

 老人の声は一段と低く、そして澄んでいる。

 言葉は多くない。調べた死者の名を告げ、生者の営みを簡潔に述べ、後は祈る。

 

 それは悲嘆を煽る言葉ではなかった。

 死を責めるでもない。

 同時に美化する訳でもない。

 ただ、『死』という事実を事実として捉え、この空間に置く。

 

 生きて、悩み、時に誤り、そして終える。

 それだけで充分だと、悪くないとでも言うように。

 

「…………」

 

 一不は棺桶を見つめる。

 箱の中に眠る父と母、それは今でも好きではないし、むしろ嫌いだった。

 こうした葬儀の最中でも、彼らが死んだ事実に憐れみすら抱けない程。

 守られた覚えもない。幸福を与えられた記憶もない。

 だから本当は、見送りなどしたくなかった。

 

 終わったのならそれでいい。

 人間は死ねば骨だけ。死んだ人間を見送るのだって、生前に彼らと仲が良かった者か、見ず知らずの他人の死に悲しめる程のお人好しがやればいい。

 そう思っていた。

 

 老人が黙祷を捧げ、胡桃がそれを静かに倣う。

 一不も咄嗟に、遅れて頭を垂れる。

 ――沈黙。

 棺桶の中にある『死』に負けない無音が部屋を満たす。

 時折、香がぱちりと小さく鳴る。

 その静寂の中で一不は気づく。老人、そして胡桃の姿勢が揺らがないことに。

 

 『陰陽は整然、運命は無常』。

 

 そこにあるのは、陳腐な『情』等ではない。

 ましてや義務でもない。

 もっと厳格な何かであり、それは『死を軽く扱わない』姿勢。

 どんな人生であれ、どんな終わり方であれ、そしてどんな人間であれ。『終わった』という事実に対し、まっすぐに向き合う。

 先代の堂主とはいえ、その背中には数多の『死』を見送って来た貫録があった。

 

 それは、胡桃もまた同じだった。

 

 いつもの軽さは消え、赤い梅の瞳は静かに伏せられている。

 その横顔に、子供らしさはない。

 ただ、未来の堂主としての覚悟がある。

 

「…………」

 

 一不の胸に、奇妙な感覚が生まれる。

 

 嫌悪が浮かばない。

 怒りも湧かない。

 

 ただ、終わったのだと受け入れられる。

 あの両親を、一不は好きではなかった。

 この感情自体、仮に何が起ころうと、この先永遠に変わる事はないだろう。

 だがこの時確かに、胸中にある憎しみが静かに薄れていくのを、一不は実感した。

 

 棺桶は動かない。

 責めず、弁明もしない。

 ただ、そこにあるだけだ。

 

 それは『区切り』。

 葬儀は命の終わりではなく、命に線を引く行為。

 これまでとこれからを分け、生と死の境界を守る重要な儀式。

 香が燃え尽き、老人が顔を上げる。

 胡桃も、そして遅れる形で一不も、ゆっくりと顔を上げる。

 

 やはり涙は出ず、悲しみも湧かない。

 でも、それでいい。

 

 ただ、静かに葬儀を終えたという事実が、すとんと胸に落ちる。

 一不は今日初めて、嫌悪や憎悪を抱かずに両親を見る事ができたという事実。

 

「――――」

 

 人の死を受け止め、そして手放す。

 穏やかに締められた葬儀を肯定するかのように、波の音が遠くで鳴っている。

 それも、今度は不思議と穏やかに捉える事ができた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 全てを終えたのち、老人は子供である一不相手にも深く丁寧な一礼を見せ、棺と共に去っていく。

 胡桃は何かを言おうとこちらを見て、しかし老人の『帰るぞ』の一声ですぐにこちらに背を向け、何も言わずに去る。

 

 葬儀が終わっても、一不の世界は止まらない。

 線香の香りが消え、小屋の中が空になっても、一不にこれからの安堵は存在しない。

 葬儀で引かれた区切りは、ただ自分の『過去』を終わらせただけで、これからの『未来』は待ってくれない。

 

 明日の朝、クローバーが迎えに来ると同時に、一不は借金という名の数字に縛られる。

 葬儀が終わっても、一不に行く宛など存在しない。

 帰る理由もない、あの小屋はもう、ただのがらんどうの空き家だ。

 自分にはもう、何もない。

 

 足は自然と、あの岩のあった場所へ向かう。

 それは葬儀が始まる前、胡桃と出会った場所。

 無意識の内に、一不はそこへ辿り着いていた。

 

 風が冷たい。

 港の音が、幸せそうな人々の声が聞こえる。

 妬みや僻みは、不思議と薄れていた。

 

「…………クソ」

 

 ファデュイ、借金。

 どう考えてもそれは茨の道であり、健全や普通という言葉から遠くかけ離れた生き方だ。

 縛られることは既に理解しているが、それは後々来る事が確定している多くの理不尽に対してを除く。

 どう足掻いても逃げられない現実。

 こうしている間にも、空白の時間は進んで行く。

 

 港を見る。

 夕暮れが近い。

 

 変化は終ぞ起こらない。

 そもそもあの家に、あの両親の下に生まれ落ちた時点で、既に自分は――。

 

「…………今更か」

 

 そう呟いた瞬間だった。

 

「何が?」

 

 背後から、可愛らしい少女の声。

 振り向かなくても分かる。

 だが一不は、自然な動きでそこに立っているその少女の顔を見る。

 赤く、美しい梅の瞳の持ち主――胡桃を。

 

「なんで……」

 

 帰ったんじゃ、その言葉は最後まで続かなかった。

 

「おじいちゃんに内緒で出てきちゃった♪」

「…………」

「聞いたよ」

 

 両手を後ろで組み、こちらを覗き込む。

 葬儀の最中にも見た、あのまっすぐな目を向けられ、一不は思わずたじろぐ。

 

「何を」

「君が大変そうなこと」

 

 一不は目を細める。

 

「何の事だ。それに関係ない」

「あるよ」

 

 即答だった。

 胡桃は一不の隣に座り、続ける。

 

「小屋の前に、変な人がいたから」

「…………」

「『モラがいるならここに請求しろ、中にいる子供の借金が少し増えるだけだ』って笑ってた」

 

 十中八九、それはクローバーの事だろう。

 彼について喋っている胡桃は足をぷらぷらと揺らしてはいるが、視線も声色も真面目そのもの。

 

「連れて行かれちゃうの?」

「………………」

 

 沈黙。

 それが答えだった。

 

「…………親が残した借金を、働いて返さないといけない」

「どれくらい?」

「たくさん。そして『全部』を返さないと」

 

 沈黙が気まずくて、絞り出すようにして一不は言った。

 胡桃は少しだけ唇を尖らせる。

 

「……そっかぁ」

 

 軽い声だ。

 しかし、その奥には微かな悔しさがある。

 赤の他人である自分に対し、切実にそう思ってくれる心の清らかさに、一不は言葉を失った。

 胡桃はしばらく黙る。

 風が吹き、港の灯りが揺れている。

 そうして暫くの沈黙を破り、胡桃は小さく笑った。

 

「じゃあさ」

 

 一不を見る目は真っ直ぐで、逃げ場のない視線が交差する。

 

「約束しよっか」

 

 約束。その言葉で一不の心が揺れる。

 そんなもの、生まれてから一度も守った事も、結んだ事だってない。

 それは唐突で。

 

「週に一回、ここで会おう?」

 

 あまりに簡単な、子供らしい矮小な『約束』。

 

「……なんでだよ」

 

 素直な疑問。

 胡桃は肩をすくめて、笑い続ける。

 

「だって。一人でいるのって、すっごく退屈でしょ?」

 

 それは葬儀の前のと同じ言葉。

 明日、自分はこことは違う新しい場所へ行く。

 凍った国へ、借金の鎖の中へ。一人で。

 

ここ(璃月)は消えない」

 

 胡桃は立ち上がり、一歩近づく。

 

「港も、海も、私もそう」

 

 笑って、言う。

 その言葉は、かつてクローバーが一不に向けた『命令』ではなく。

 そして、形式だけの『救い』でもない。

 

「だからさ、戻ってきていいんだよ」

 

 小さな子供が出す、ただの口先だけの提案だ。

 だから。

 だからこそ、その言葉は一不の胸に、確かな重みを残す。

 

 これから先、縛られ続ける未来の中で、唯一自分で選べるもの。

 それが、この『約束』。

 

 長い沈黙。

 一不は小さく笑ってから。

 

「……分かった、必ず」

「――!」

 

 胡桃の顔がぱっと明るくなる。

 そうして、勢いよく手を差し出た。

 

「決~まりぃ!」

 

 今度は躊躇しない。

 差し出された胡桃の小さな手を、一不は優しく握る。

 予想通り、その手は自分よりも温かい。

 冷えた指先が溶けるようだった。

 

「約束だよ、絶対!」

「……あぁ。絶対だ」

 

 璃月の夜。

 借金が人生を縛り、ファデュイがその『未来』を握る事が確定しても尚。少年はその『約束』をした。

 赤く美しい、梅の瞳の持ち主と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 山道には焦げた匂いが漂っていた。

 バリバリッと鼓膜を叩く激音と共に、草原上に紫電が迸る。

 

 倒れ伏すヒルチャールの群れ。

 砕けた棍棒。

 赤黒く染まる草。

 そしてその中央に、一人の少年が立っていた。

 

 かつて、璃月の海岸付近のボロ小屋で立ち尽くしていた幼子の面影は、どこにもない。

 背は伸びて、視線は細く鋭く変化。

 剣に付着した血を振り払う無駄のない動き。

 血と臓物の扱いに慣れた足取り。

 否が応でも、経験した『死地』を感じさせる哀愁ある立ち姿。

 

「とりあえずここが中間点だ。あとは山を下りながら……途中にある門を通ってすぐに璃月に着く」

 

 消失反応により、肉片一つ残らず消えるヒルチャールの死体を背に、一不が声をかける。

 すると商人は震える手で帽子を押さえ、そして次の瞬間、破顔した。

 

「素晴らしい! 実に素晴らしい腕前ですぞ!一不殿!」

 

 商人はわざとらしく拍手までしてみせる。

 一不はその態度をフン、と鼻で笑って済ませた。

 

「にしても、こんなに大量の荷物……何が入ってるんだ?」

「ははは……商売とは秘密が大前提……お客様のためにも『秘密』は絶対でございます」

「ふぅん」

「しかし本当に素晴らしい護衛っぷり!君がいれば百人力だ!まさか()()()()()にここまで……」

 

 歯を見せて笑う商人の男を見て、一不の胸の奥に冷たいものが広がる。

 その笑みは薄く、何より肝心の目は笑っていない。自分の命が助かった安堵に濁っているのみ。

 

 ――醜い。

 その姿は、自分と同じ程に醜いものだ。

 

 一不は思い出す、胡桃が無邪気に笑った顔を。

 あの笑顔には温度があった。目の奥まで明るく、目を合わせるだけで心が温まった。

 だが、今目の前にあるものは違う。

 

 打算と保身と恐怖を塗り固めた笑み。

 早々に出てくる上辺だけの世辞。

 

 同じ『笑顔』や『言語』という形をしていても、まるで別物だった。

 あの笑顔とは、比べる価値もない。

 ――あの、花のように可憐な笑顔とは。

 

「あぁそうだった!ほら、これが報酬の五万モラです。これで次も頼みますぞ」

「…………」

 

 一不は袋を受け取らない。

 不審がる商人。だが彼の言葉の代わりに、静かに一不が口を開く。

 

「……本題だ」

 

 気配の変質を感じ取り、商人の笑みがわずかに固まる。

 

「な、何かな?」

 

 一不は目を細める。

 声は低く、感情はない。

 

()()に払う予定のモラをくすねるのがお前の『秘密』か?」

「ッ!?」

 

 商人の喉が鳴る。

 

「な、何を言って……」

「前からだったな、お前は失敗が多かった」

 

 一不は男に向かって、剣の切っ先を向ける。

 商人が驚き、後退するも、互いの差は広げまいと一不は前に出続ける。

 一不は全てを知っている。

 

 この商人は密輸の経路を誤り。

 情報を漏らし、回収金額も減らした。

 そして、その失敗を『隠蔽』する為にモラを使った事。

 

 加えて、そのモラは本来『組織』に献上するものの一部であった事も。

 冷酷無慈悲な、裏の世界を生きる者の顔に変わった一不は、同情交じりに。

 

「お前も運が悪かったよな。よりによってお前のやらかしを調べたのは、あの()()()()()()()』様だ」

 

 組織とは冷静だ。

 有象無象の駒は全て、データ上の『数字』で判断する。

 

「ま、待ってくれ!次は成功させる!使った分も返す!私はまだ――」

 

 一不は遮る。

 

「まだわかんねぇのか?お前は…」

 

 商人は後退る。

 足がもつれ、石に躓く。

 

 次の瞬間。

 どんっ、と男の背に何かがぶつかり、商人の胸から刃が突き出る。

 

 一不ではない、別の誰かによる害意――。

 次に商人が聞いたのは、穏やかで、どこか愉悦を含んだ声。

 

「――もう必要ないのだよ、モルモット君」

 

 金属が肉を裂く鈍い音。

 商人の口から、ひゅ、という空気と、粘性の高い赤が漏れる。

 一不は動いていない。

 だが、その目だけは僅かに細まっていた。

 

「ぁ、が――ッ……!」

 

 商人は、震える手で背後にある胸元を掴み、ゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは、白衣の男。

 

 整えられた身なりと穏やかな微笑。

 だが目だけは、冷たい硝子そのものだ。

 

 商人の声は、泡立つ血と共に震える。

 

「博、士――!」

 

 刃が引き抜かれ、商人は呆気なく崩れ落ちる。

 地面に広がる赤。

 それに不釣り合いな、白衣――。

 

「失敗作は廃棄する。当然だろう?」

 

 『博士』は、血のついた刃を軽く振る。

 その呼び名に相応しい、実験器具を扱うかのように無造作な動きだった。

 

「ご苦労だったな、一不」

 

 博士は穏やかにそう言う。

 

博士(Ⅱ Dotorre)か」

「あぁ、()()()()()。見事な仕事ぶりだったぞ?」

「…………」

 

 その視線が、ゆっくりと一不に向けられる。

 

 観察する瞳。

 評価する眼差し。

 

 だが、それは人を見る目ではない。

 彼にとっては――『素材』を見る目だ。

 

「お前は実に効率的で、まだ使える」

 

 一不は何も言わず、ただ立って視線を交わす。

 胸の奥で、何かが軋む。

 

 ――『用済み』。

 

 その言葉は、刃より鋭く一不を抉る。

 今死んだ商人だけではない。他ならぬ一不自身もまた、彼ら『ファデュイ』に数字で測られている。

 価値を失えば、同じだ。

 使えず、意味を生みだせないのなら、ちり紙のように捨てられる。

 

 だが。

 脳裏に浮かぶのは、あの赤い瞳。

 ――『週に一回、ここで会おう?』、あの約束。

 

 一不は視線を逸らさず、博士の目をまっすぐに見る。

 自分はまだ用済みではないと、まだ使えると、そう訴えるように。

 

 少なくとも、あの場所までは――。

 

 博士はくすりと笑う。

 

「にしても……つくづく思うが、お前は本当に人間か?」

「……その言葉、そっくりそのままあんたに返してやるよ」

「何、ファトゥスには文字通りの『人形』が一体いるのでな、俺の知らぬ世界で、再び類似したものが誕生していてもおかしくないだろう?」

 

 一不の眉が僅かに歪む。

 『人形』の呼び名に、一種の悪意を感じたからだ。

 

「…………あっそォ」

「ふむ、しかし本当に――」

 

 その言葉を最後に、『博士』は暫く何も言葉を発さなかった。

 そうして十数秒が経過して、小さく彼は息を零す。

 

「見事なものだ」

 

 最初に投げかけたものとは意味が違う。

 感嘆とも、研究者の独白ともつかない声だった。

 

「実に興味深い造形だ。髪色の対比、瞳の発色から骨格の均整に至るまでが、人体の黄金比とも言えるだろう」

「…………」

「人間をバラバラにして一から組み上げたとしても、これを再現するのは骨が折れるだろうな。……あぁ何、勘違いするなよ?これは生物としてというよりも――」

 

 『博士』は目を細め。

 

「――『芸術品』としての視点だ。凡人の言葉で飾るならそう、美し――」

「やめろ」

 

 『博士』の細い指が、ゆっくりと一不の顎を這う。

 そこに人並みの感情はない。あるのは純粋な知識欲、そして実験欲を綯い交ぜにした醜いものだ。

 それが向けられているのは――少女としか呼べない造形の人間。

 

 後ろで低く一つに結び、肩甲骨の辺りまで伸びる白髪。

 その髪の奥に混じる、孔雀の羽を思わせる程に深く、美しい青緑のメッシュ。

 そして、中央を黒く嫌悪で染める、紫色の宝石のような瞳。

 

 ――一不は、その見た目に似合わぬ低い声で、はっきりと。

 

「黙れ。もう」

「ほう、何故だ?」

 

 明確な怒気が混じる一不に対し、『博士』は指を這わせたまま、少しだけ首を傾げた。

 

「これでも褒めているのだが」

 

 その声には純粋な疑問しか宿っていない。

 心の底から、理由が分かっていない様子だった。

 それが余計、一不の怒りに薪をくべる。

 

「……ハッ、褒めてるだァ?」

 

 数秒の空白が終わり、一不が小さく笑う。

 それは、ただ感情が削り落ちたように、乾き切った笑み。

 一不は自分の前髪を掴み、そして持ち上げる。

 掴んだ髪、露わとなる額を含めた顔の形、そして光に晒されてよりはっきりと見えるようになった紫の瞳を、お望み通り見せつけるように。

 

「『これ』は俺のじゃねぇんだよ」

 

 静かに、そして壮大な恨みを込めた声だった。

 

「親の顔だ、全部」

「ほう?」

 

 白髪と顔は母のもの。

 青緑、孔雀色のメッシュと紫の目は、父のもの。

 この肉体に、一不自身の要素はどこにもない。

 『博士』の目が僅かに細くなる。

 

「借金だけじゃない、俺にこんな顔まで残しやがった」

 

 吐き捨てるように一不は言う。

 

「……鏡を見る度に、さっきみたいに褒められる度、実感する」

 

 紫の瞳が、鋭く『博士』を睨む。

 

「俺はあいつらの現し身なんだよ」

「…………」

 

 沈黙。

 だがその静寂は決して、一不の呪詛に対して『博士』が心境の変化を見せたからでは決してない。

 事実。

 

「なるほど?」

 

 数秒の沈黙の後に、ふっと小さく笑う『博士』。

 その声に同情はなかった。

 

「お前が自分の遺伝子をどう捉えようと、その容姿に対する客観的事実は変わらないだろう?」

 

 あるのは、純粋な興味のみ。

 

「実に興味深い。お前自身『仕事』でも有効活用するその美しい容姿を、ここまで自分で嫌悪するとは」

 

 ようやく顎から指を離して、それから。

 

「職人の手で作られた作品が、自らを破壊したがるようなものだ」

「お前……」

 

 一不の目が更に鋭くなる。

 だが『博士』は存ぜぬとばかりに肩をすくめた。

 

「嫌いだよ、やっぱ」

「それは残念だ」

 

 そう言うが、その声は残念そうな響きではなかった。

 むしろ、一不の嫌悪の反応を楽しんでいるようでもあった。

 

「だが安心しろ。一不、俺はお前の容姿を賞賛しているが、それ以上に――」

 

 仮面の奥の目と、露わになっているもう片方の目、両方が一不を観察する。

 

「お前のその『歪み』の方がよっぽど面白い」

 

 今まで以上に口角を上げ。

 一不を上から覗き込み、『博士』は嗤った(笑った)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 石畳の道を、一不は無言で歩いていた。

 時間は夕暮れ。

 次第に夜へ傾いていくテイワットの周期に適応し、璃月は華やかな光を次第に放っていく。

 潮の匂いと人々のざわめきが混じり合い、最後に訪れた時とそう変わらない、活気ある光景を見せていた。

 

 一週間。

 

 あの日からずっと、継続し続けた『約束』の時。

 いつもとは違い、今日の待ち合わせ場所はあのボロ小屋があった海岸近くではない。

 青い暖簾が揺れる、璃月でも屈指の知名度を誇る食堂である『万民堂』。

 今日の『約束』はここで、一緒に夕食を食べる事だった。

 

 だがその間、自分はずっと何をしてきた?

 

 脳裏に浮かぶのは血と臓物の腐臭。

 夜の闇に紛れた仕事、名前も過去も知らない人間の悲鳴。

 汚れた仕事で汚れた金を貰い、汚れた借金を返していく。

 既に自分は、許されざる者だ。

 いや、むしろ既に――()()()()()()()()()()()()()

 

「…………」

 

 一不は歩きながら自分の手を見る。

 細く、白い女子のような指だ。

 歩く振動に合わせて、白い髪が肩の後ろで揺れる。

 青緑のメッシュが夕暮れの光を反射して、僅かに光り輝く。

 すれ違う人間の視線が、時折自分の顔へ熱を込めて注がれる。

 

 その理由は、やはりこの顔だ。

 美しい、可憐だ、芸術品のようだ。……そんな言葉を、数え切れない程に聞いてきた。

 

 だがそれは、薄汚い罪人の親の顔だ。

 借金を作り、人生を壊し、そして無理やり受け継がせた容姿。

 そして、それを嫌いながらも利用し、汚く生きるそれ未満のクズが自分だ。

 小さく呟く。

 

「……呪いだよ」

 

 だがその小さな嘆きは、雑踏に紛れて消える。

 自分も、親も、ファデュイも含めて全てが嫌いだ。

 

 許さない、許されるべきではない。

 だが、それでも――胸の奥で別の感情が確かに、強く呼吸をしているのも事実だった。

 

 それが、余計に嫌だった。

 一不は内心で嘲笑する。

 

(どこまで中途半端なんだよ、俺)

 

 自分は既に汚れている。

 こうして表の世界を堂々と歩く資格だってない。

 

 それなのに、嬉しい。

 

 今日、彼女に会える事が。

 一週間の『約束』を果たせる事が。

 

(馬鹿が…………)

 

 自己嫌悪が胸に広がる。

 なのに、彼女の事を考えるだけで、胸の痛みが少しだけ軽くなる。

 許されない人間が、こんな感情を持って生きていい筈がないというのに。

 それでも、一不の歩みは止まらない。

 やがて『万民堂』の赤い暖簾を見つけ、店の裏へ進もうとする。

 一瞬、本当に一瞬だけ、一不は立ち止まった。

 

(――帰るか?)

 

 そんな考えが脳裏を過ぎる。

 自分がここにいていいのか?まだ間に合うんじゃないか?そんな遅すぎる葛藤が溢れ出す。

 だがこういう時は決まって――一不は次の衝動に抗えない。

 『万民堂』の奥にある席、そこに彼女はいた。

 

 黒い帽子。

 柔らかな黒髪。

 そして、美しい梅の瞳。

 

 あの時から、一層綺麗になった『約束』の彼女、胡桃がそこにいた。

 

「……あっ!」

 

 頬杖をつきながら、どこか退屈そうに虚空を見つめていた彼女は、すぐこちらに気づき、嬉しそうに手を振った。

 

「おーい!一不~!」

 

 まるで、ずっと待っていたかのように。

 その姿を見た瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなる。

 

(……いた)

 

 それだけで充分だった。

 一不は小さく息を吐き、そして歩き出した。

 石の床を、ゆっくりと。

 彼女の席へ向かって、その距離は確実に縮まっていく。

 そう、一週間ぶりに――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「すまん遅れた」

「はい遅刻~!」

「悪い、次は早めに来る」

 

 箸をくるくる回しながら、胡桃は笑う。

 

「もぉ~それ何回目?」

「悪かったって」

「今日もお仕事?」

「まぁな。商人の護衛を」

 

 短い返答。

 言っていない汚れは多いが、そこに嘘はない。

 

「通りで顔が険しかった訳だ」

「それは元からだ」

「次からは遅刻しないでよ~?」

「分かった分かった」

 

 一不は肩をすくめる。

 そして、ふと口元を歪めて、冗談めかした声音で言う。

 

「まぁでも……」

 

 一不は、自分の頬を指さして。

 

「俺は顔がいいから許してくれるだろ?」

 

 両親から受け継いだ呪い。

 大嫌いなはずなのに、仕事でもこの場でも、こうして扱う自分の行動に反吐が出そうになる。

 悟られない程度の自虐の感情を込め、一不はそう笑い。

 

「うん、確かに」

 

 胡桃は一瞬きょとんとし、だが次に、一不と同じかそれ以上の笑みを浮かべた。

 それは、俗に言う悪戯な笑み。

 

「だから……」

 

 勿論、この顔になった胡桃があっさりと相手の顔を肯定するだけで終わる筈がない。

 胡桃は懐から筆を取り出し、にこりと笑ってから。

 

「落書きさせてくれたら許してあげる」

 

 『芸術品』とも称される一不の顔へ、筆を向けながらそう言った。

 

「…………はぁ」

 

 一不は、観念したように目を閉じた。

 

「一文字だけならな」

「やったっ!動かないでよ~?」

 

 『万民堂』の笑い声が響く中。

 自分に残された唯一の光の世界で。

 ほんの一瞬だけ、一不は借金も任務も忘れていた。




 クローバー
原神セレベンツのキャラ。


 一不
楓原万葉とエウルアを足してコレイで割った見た目にイメージCV岡本信彦な感じを妄想してください。
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