神の目を売りたい少年の話   作:胡桃の胸ェ…

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 今日も投稿。


生きる理由

 雪はいつものように、絶え間なく降り続けていた。

 白く、静かに、そして容赦なく。

 空は鉛色に沈んでいて、どこまでも低く垂れ込めていて、地面も雪の白一色で染まってる。

 視界を塗り潰す白と灰の天地の世界、それが氷の国スネージナヤ。

 

 その郊外にある、凍りついた世界に相応の冷たい石壁の訓練施設。

 そこでは今日も訓練生たちが武器を振るい、石の地面で靴音を響かせていた。

 

 鈍い金属音と靴音。

 その都度聞こえる怒号のような教官の声。

 石造りの地面の上で、若い訓練生たちが剣を振るい、槍を突き、倒れ、また立ち上がる。

 誰もが呼吸を荒く、吐いた息を白くして、しかしその動きを止める事はなかった。

 

 そんな彼らの光景を、一不は少し離れた場所から眺めていた。

 

 遠くで動いている彼らとは違って、一不が吐く息は白く静かなものだ。

 残留せず、すぐに冷たい空気へ溶けていく落ち着いた呼吸。

 肩の後ろで一つに纏めた白髪が吹きつける風によって揺れる。

 降り注ぐ雪の中で、その髪の白さはほとんど景色に溶け込んでいたが、髪の一房に混じる孔雀を思わせる青緑色のメッシュだけが、微かな色彩として浮かび上がっていた。

 

 剣がぶつかり合う音。

 倒れた者の呻き声。

 それは別に、ここでは特段珍しい光景ではない。

 

 血の匂い。

 痛み。

 次々と人が壊れていく瞬間も。

 この施設へ連れて来られて、それから初めて『血』を作った今では、もう慣れてしまったものだ。

 ここでは、それら全てが『訓練』だった。

 

 紫色の瞳は、しばらく訓練場をぼんやりと映していた。

 しばらくして、一不はその光景から目を逸らし、代わりに視線を自分の手へ落とす。

 

 細く、白い指。

 雪の上に置けば、溶けてしまいそうなほど華奢な手だ。

 まるで少女のような、柔らかい手。

 忌々しい両親から受け継いだそれを、一不はゆっくりと握る。

 

 ――『週に一回、ここで会おう?』。

 

 ふと、胸の中に浮かぶもの。

 それは軽やかな声。

 こちらをからかうようでいて、しかし妙に真っ直ぐで、逃げ場を与えない声。

 赤い瞳。

 悪戯っぽく笑う口元。

 頭の中にはっきりと浮かぶ、あの少女の顔。

 

(約束…………)

 

 一不は再び静かな息を吐く。

 体内にある温かい空気が押し出され、代わりに冷たい空気が肺の奥まで入り込み、胸の中を刺すように冷やしていく。

 

(そうか、あれからもう……)

 

 ここでの日々の中で、あの『約束』を思い出す事はほとんどなかった。

 朝起きてから日が沈むまでの間の過酷な訓練で、意識をそれ以外に向ける余裕がないからだ。

 だが今日は、どれだけ苦しい訓練をしようとも、そして今こうして休憩時間を堪能しても尚、その僅かな休息を貪る事に集中できず。どうしてもそれが消えなかった。

 理由は分かっている。

 

 今日はあの日から。――ちょうど一週間が経った日だ。

 

 一不は視線を上げる。

 訓練場の奥。

 石造りの建物の壁際に、一人の男が立ってこちらを見ている。

 黒い外套に身を包み、訓練生たちを見下す教官のその目は、氷のように冷たい。

 一不は数秒だけ立ち止まる。

 

 言うべきか、言わないべきか。

 

 だが、答えは簡単だった。

 言わなければ何も変わらず、始まらない。

 

「……」

 

 一不はゆっくりと歩き出した。

 訓練生たちの叫び声の合間を縫って、まっすぐ教官の元へ向かう。

 

「何だ?」

 

 教官がちらりとこちらを見た。

 短い声だった。

 

「…………」

 

 一不はその前で立ち止まる。

 変に緊張し、しばらく言葉が出なかった。

 だが、結局口を開いた。

 

「璃月に行きたい」

「…………」

 

 それは、あまりにも単純な言葉だった。

 一瞬、空気が止まる。

 

 遠くで剣がぶつかる音が響く。

 

 その騒音とは反対に、一不たちの周りは冷たい無音で包まれていた。

 教官は何も言わなかった。

 ただ、じっと一不を見ている。

 その沈黙の中で、一不は自分の言葉を思い返していた。

 『璃月に行きたい』と。

 

(……まぁ断られるか…………)

 

 当然だ、ここは訓練施設。

 学校とは訳が違う、訓練生が勝手に外へ出られる場所ではない。

 

 だが、それでも一不は言った。

 

 理由は単純、あの『約束』があるからだ。

 教官はしばらく無言のままだった。

 そして、ふと口を開く。

 

「――あぁ」

 

 その声は、あまりにもあっさりしていた。

 

「いいぞ」

「……は?」

 

 一不の思考が、一瞬止まる。

 教官はその反応を見て、ゆっくりと口元を歪めた。

 

 笑っている。

 

 それは楽しげな笑みではない。

 どこか薄気味が悪い、獣が獲物を弄ぶような笑みだった。

 そして――。

 

「当然だろう?」

 

 わざとらしく声を張る。

 訓練場の向こうまで聞こえるように。

 皆に聞かせるように。

 

「お前は『特別』だからな」

 

 教官は一不の肩に手を置いた。

 雪よりも、氷よりも冷たい手だった。

 

「…………」

 

 そして、教官のその言葉は騒がしい訓練場の中でも大きく響いた。

 訓練場の空気が変わり、周りにいる皆の剣の動きが止まる。

 槍を構える腕が止まる。

 視線が、一斉に一不へ向けられる。

 

 それは教官と同じ、冷たい視線。

 

 疑い。

 嫉妬。

 苛立ち。

 周りの何十もの懐疑の目が、一不の全身に突き刺さる。

 一不はその意味を、すぐに理解した。

 

(…………あぁ、そういう事かよ)

 

 胸の奥が、すっと冷えていく。

 確かに自分は今、自由を許された。

 だが、それは本当の自由ではない。

 見せつけるための特権。

 『特別』という名の分かりやすい孤立。

 つまり――。

 

(――クソみたいな性根だ)

 

 教官はまだ笑っている、こちらの反応を観察するかように。

 一不は、少しだけ目を伏せた。

 そして小さく呟く。

 

「……あぁ」

 

 それだけだった。

 それ以上の言葉は必要なかった。

 何故なら、言っても意味がないからだ。

 

 ここでの自分の立場も。

 ここから、この国の『組織』から逃げられない事も。

 

 全部、理解してしまった。

 一不はゆっくりと踵を返した。

 訓練場の出口へ向かって、その場から逃げるように歩き出す。

 

 背後から、無数の視線が突き刺さる。

 訓練生たちの言葉にはならない感情が、その視線に込められていた。

 

 だが、一不は振り返らない。

 ただ歩く。

 施設の門が近づいてくる。

 その向こうには、変わらず白い荒野が広がっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いくつもの山道を越え、国境を跨ぎ、空気が少しずつ変わっていく。

 スネージナヤの凍るような冷気が薄れ、風の匂いに湿り気が混じり始める。

 

 戦争の国『ナタ』、知恵の国『スメール』を超え。

 遠くから海の匂いが運ばれているのに気づいた時、一不はようやく安堵の息を吐く。

 

 視界の向こうに、岩山が見えた。

 高くそびえる山々と、その麓に広がる町並み。

 一週間前に、少女と結んだ『約束』がある場所。

 契約の国『璃月』を前に、一不は胸の奥に別の感情が浮かんだのを感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――向こうは、覚えているだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 門をくぐると、すぐに音が耳に入ってきた。

 璃月に足を踏み入れたその瞬間に届く、生きているものの音。

 

 一週間ぶりに見る港は賑やかだった。

 

 市場の呼び声。

 商人が客を呼び込む声。

 値段の交渉をする声。

 全てがあまりにも、前に見た時と変わらない『普通』の光景だった。

 

 ――たった一週間。

 

 それなのに、ずいぶん遠くへ来ていたような気がする。

 一不はゆっくりと歩き出し、石畳の通りを進む。

 料理の匂いが鼻腔を擽る。

 湯気の立つ蒸籠、香辛料を使った料理の刺激的な香りや、油で揚げたであろう食べ物の香ばしい匂い。

 どこを見ても、人々は楽しそうに歩いている。

 

 一不は、そんな彼らのいる中へ足を踏み入れる。

 

 人の流れに紛れるように歩く。

 変わった髪色、そして整った容姿ですれ違った人間たちに一瞬目を向けられるも、それ以上は何もない。

 誰も一不を気にしていない。

 それが、少しだけ不思議だった。

 一週間前と何も変わっていない。

 

 市場の声。

 料理の匂い。

 人の笑い声。

 

 全てが同じだった。

 それなのに――。

 

(変わってない)

 

 この国は、町は何も変わっていない。

 

(……いや、変わったのは――)

 

 一不は視線を落とす。

 細く、白い自分の指が見える。

 遠目に見れば、それはただの少女の手だ。

 だが一不は知っている。

 この手が、これまでに何をしてきたのかを。

 

 赤く染まる雪。

 間違いなく、自分の意思で奪った『命』のその末路。

 

 頭の奥にその光景が浮かび上がる。

 心を落ち着かせるように、一不はゆっくりと息を吐いた。

 そうして、頭からすぐにそれを消す。

 そんなものを、この場所で思い出す必要はない。

 

(――クソッ)

 

 通りの人々は明るく笑っている。

 楽しそうに話しながら歩いている。

 そしてその中を、既に汚れてしまった自分が歩いているのだ。

 

 ここにいる人間たちは知らない。

 

 遠い氷の国で、どのような事が行われているのか。

 どんな人間がそこにいて。

 そして現在、自分のような人間が堂々と町中を歩いている事を、彼らは知らない。

 一不は小さく目を細める。

 

(……約束)

 

 その言葉がふと浮かぶ。

 だが次の瞬間、現実的な考えが浮かんだ。

 

 あの『約束』に、細かな時間の指定はない。

 場所も曖昧で、ただ『ここで会おう』だけ。

 

 たったそれだけの約束だ。

 それに、もしかしたら――。

 

(……案外、忘れてるかもな)

 

 そんな可能性だってある。

 いやむしろ、そっちの方が自然かもしれない。

 あの軽い調子。

 あの自由な性格。

 次の日には別のことに夢中になっている、そんな姿が想像できた。

 それでも不思議と、胸の奥は少しだけ静かだった。

 

 忘れているならそれでいい。

 自分が勝手に来ただけだ。

 そう、それだけの話。

 

 一不は通りを曲がり、歩き続ける。

 特に目的地がある訳でもなく、ただ通りを歩く。

 市場の賑わいが少し遠ざかる。

 どこにいるのかもわからない。

 更にスメール程ではないが、この国も相当広い。

 偶然会える可能性は、限りなくゼロに近いだろう。

 

 そう思いながら歩いていた、その時だった。

 

 突然、視界が暗くなる。

 

「み~つけた」

「――ッ」

 

 背後から、一不の両目を誰かの手が覆った。

 それは柔らかな手。

 まぶたの上に優しく触れる細い指。

 そしてふわり、と鼻先を掠める甘い香り。

 

「――――」

 

 突然の出来事に身体が一瞬だけ硬直する。

 だが次の瞬間、鼻先を掠める香りの正体が梅であると一不は気づく。

 

 その香りを感じた瞬間。

 一不の胸の奥で、何かが静かに解けた。

 

 そして耳元で、声。

 

「――さて、だ~れだ?」

 

 楽しそうに弾む声。

 少し悪戯っぽい声。

 くすくすと笑いを含んだ声。

 

 声を聞かなくても、振り返らなくても分かる。

 この温かさを間違えるはずがない。

 

 忘れる筈がない。

 背後にいるのは――。

 

「………………」

「さてさて、誰でしょう~?分かるかな~?」

 

 通りの喧騒は相変わらず賑やかだ。

 だが、その声だけが妙にはっきりと耳に届いた。

 

 一不は、少しだけ目を細める。

 

 覆われているので実際には何も見えない。

 それでも、目を閉じた。

 

「……そうだな」

 

 指先の感触。

 香り。そして声。

 元より分かっていた答えだったが、更に今感じ取れるそれら情報全てが、決定的な答えを示し続けているのだ。

 間違えるはずがない。が、それでも一不は、少しだけ間を置いた。

 

「知らないなぁ」

 

 わざとらしく、そう言う。

 すると、背後の人物が一瞬ぴたりと止まった。

 そして次の瞬間。

 

「……えぇ〜?」

 

 不満そうな声が耳元で弾けた。

 一不に負けない、わざとらしく作った『不満』の声だ。

 

「ひどいなぁ、忘れちゃったの?」

 

 覆っていた手がぱっと離れる。

 一不の視界に光が戻る。

 ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは――やはり彼女だった。

 

 長い黒髪。

 赤い瞳と、そこに咲く美しい梅の花。

 

 口元には、少し拗ねたような笑み。

 彼女――胡桃は腕を組んで、じっと一不を見ていた。

 

「で、ホントはいつ分かってたの?」

「最初から」

「むー……これは強敵」

 

 一不は肩をすくめる。

 胡桃はじっと見つめる。

 数秒程そのまま見つめ合っていたが、やがて胡桃は。

 

「まあいいや」

 

 そう言って、くるりと一不の前に回り込む。

 そして少し身を乗り出し、顔を覗き込んでから。

 

「……うん、ちゃんと来たんだね」

 

 その言葉は、思ったより静かだった。

 一不は一瞬だけ目を逸らす。

 

「……あぁ」

 

 そして目を戻して、言う。

 

「…………『約束』だからな」

 

 短い言葉だった。

 だが、一不が今日ここに立つ全ての理由がそこに詰まっている。

 胡桃はそれを聞くと、ぱちぱちと瞬きをする。

 それから、ふっと笑った。

 

「へぇ〜?律儀だねぇ」

 

 少し驚いたような声だった。

 一不は何も言わない。

 胡桃はそんな一不を見ながら、ふと口を開いた。

 

「でもさぁ、遅いよ」

「……?」

 

 続けて、唇を尖らせて言う。

 

「ずっと探してたんだよ?私」

 

 その言葉に、一不の動きが止まった。

 

「……探してた?」

「うん」

 

 胡桃はあっさり頷く。

 

「いつから」

「朝から」

「……朝?」

「そう」

 

 胡桃は指を折りながら数え始める。

 

「まず港に行って~?まぁそこならよく色んな旅人が来るし?いなかったけど」

 

 でもいなくて。そう付け加え。

 

「それから市場をぐるっと回って~それと万民堂も見て……」

 

 そこで胡桃は少し笑う。

 

「もしかしたらご飯食べてるかな〜って思ってさ」

 

 一不は黙って聞いていた。

 胡桃は更に指を折り、数えながら続ける。

 

「それでもいなかったから、もう一回港に戻って~?それでまた市場に来て……また万民堂に戻って……」

 

 そう言って、胡桃は一不の顔を指さす

 

「そしたら見つけた」

「……なんで、そこまでする」

「え?」

 

 胡桃はきょとんとした顔をする。

 

「『約束』したじゃん」

 

 あまりにも当たり前のような言い方だった。

 一不は言葉を失う。

 通りの音が耳に入る。

 人々の笑い声が響くその中で、胡桃は普通の顔で立っている。

 

「来ないかもって思ったのも確か」

 

 でも、まあ。

 と、胡桃は少しだけ笑った。

 

「来る気もしてたよ?ちゃんと」

 

 胸の奥で、再び何かが静かに動く。

 一不は小さく言った。

 

「……忘れてると思ってた」

「……?」

 

 胡桃は首を傾げる。

 その様子に他意は感じられない。

 彼女は当たり前のように立っている。

 

 ただ『約束』を果たしに来た。

 ただ普通に、当たり前の事を言っただけ。

 

 そんな様子だった。

 

「よし!」

 

 胡桃はくるりと踵を返し、急に元気な声になる。

 

「じゃあご飯行こ!」

「……は?」

「お腹空いた!探し回ってたから!ねぇ一不」

 

 少し頬を膨らませる。

 いたずらな笑み。

 

「責任取ってよ?」

「なんでそうなる」

 

 一不は呆れたように息を吐く。

 

「だって、ちゃんと『約束』守ったでしょ?」

 

 胡桃はにやりと笑う。

 

「なら、ご褒美が必要じゃん」

 

 そう言うと、くるりと背を向け、提灯の揺れる通りの方へ向けて歩き出した。

 

「ほらほら!早く!」

 

 手をひらひら振る。

 一不は少しだけその姿を見つめる。

 まるで風のように自由な姿。

 胸の奥に沈んでいた重たいものが、ほんの少しだけ軽くなる。

 一不は小さく息を吐き、胡桃の後ろ姿を追って歩き出す。

 今度は意味を持ち、自らの意思で人で賑わう通りへ。

 

「もう、遅いよ!」

 

 そう言った次の瞬間だった。

 一不が何か言い返すよりも先に、胡桃の手が伸びる。

 

 細くて、小さな手。

 

 その手が、一不の手首を軽く掴み。

 そしてそのまま引っ張る。

 

「行くよ!」

 

 胡桃は振り返りもせず、楽しそうに早歩きをする。

 石畳の通りを、人混みの中を、軽やかな足取りで進んでいく。

 突然のことに、一不の体が半歩ほどよろめく。

 

「……おい」

「万民堂っ、万民堂っ」

 

 抗議の声を出そうとしたが、胡桃はまったく気にしていない。

 人々が笑いながら料理を受け取り、その場で食べてる光の世界。

 胡桃はその中へ、迷いなく進んでいく。

 一不の手を引いて、連れていく。

 

 抵抗せず、一不は少し視線を落とす。

 自分の手首。

 そこを掴んでいる胡桃の手。

 

 自分と同じかそれ以上に細い指。

 強く握っている訳ではなく、しかし離れる気配もない指。

 そのまま、また視線を上げる。

 

「…………」

 

 目に入るのは、胡桃の後ろ姿だった。

 背中で揺れる長い髪。

 歩くたびに、髪がふわりと揺れる。

 

 陽光がその髪に反射して、わずかに赤く光った。

 

 胡桃は楽しそうだった。

 その横顔は、輝いていた。

 スネージナヤで見たのとは違う、美しい無邪気な笑顔だった。

 

 何の迷いもない、明るい姿。

 

 その笑顔を見た瞬間。

 一不の胸の奥に、『楔』とも呼べる何かが刺さる。

 

(……俺は)

 

 視線を少しだけ逸らす。

 道の端では、笑い声と共に自分よりも小さい子供たちが走っている。

 

 自分だけが異物のように感じる疎外感。

 雪と血の香り。

 

 頭の奥に浮かびかける光景を、一不は強く押し込めた。

 それでも考えてしまう。

 自分はここにいていいのか。

 この国に。

 こんな、温かい人の隣に。

 その時胡桃が不意に振り返り、美しい瞳が一不に向けられる。

 

「ん?どうしたの?」

 

 その顔は、また笑っている。

 心配というより、ただ純粋に気になっただけの顔だ。

 一不は一瞬だけ言葉を探すが、結局何も言わない。

 

「……いや」

 

 と、それだけ答える。

 胡桃は数秒ほどじっと見ていたが、すぐにまた笑った。

 

「変なの」

 

 そう言ってから、また前を向く。

 そして、少しだけ手を強く引いた。

 

「ほらほら、行くよ!」

 

 そのまま歩き出す。

 胡桃の後ろ姿が、また視界に入る。

 その背中を見ながら、一不はゆっくりと息を吐いた。

 

 あの時の約束。

 『約束しよっか』。

 『週に一回、ここで会おう?』。

 

 ただそれだけの言葉。

 最初は、ただの気まぐれだった。

 子供に相応しい軽い口約束。

 その程度のものだと、思っていたのに。

 

 だが、胡桃はちゃんと覚えていた。

 

 朝から探していた。

 来ないかもしれないのに、それでも探していた。

 一不はゆっくりと目を閉じる。

 

(あの約束は――)

 

 胸の奥で、何かが静かに形を作る。

 

 あれは救いじゃない。

 救われる資格なんて、自分にはない。

 

 雪の国での変化。

 そして、近い将来自分がこれからやる事。

 それらを考えれば、そんなものを求める資格は自分にはない。

 だが。

 それでも。

 

(……それでも、俺は)

 

 視線を上げる。

 胡桃の顔が見える。

 笑いながら屋台を指さしている。

 

 人混みの中で、ひときわ明るい存在。

 

 その背中を見ながら、一不は静かに思う。

 そうだ、あの約束は――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あれはもっと単純で、もっと重たいものだ。

 その認識が静かに胸中で落ち着く。

 

 逃げ場ではない。

 赦しでもない。

 

 ただ一つの覚悟。

 『約束』を通じて、彼女の日常を壊さないという、ただそれだけの覚悟。

 

(――あぁそうだ)

 

 自分の手を引いて歩く、小さな背中。

 その光景が、ふっと遠ざかる。

 まるで霧がかかるように、水面に落ちた影が揺らぐように。

 

 胡桃の笑い声も、屋台の匂いも、通りの賑わいも、すべてがゆっくりと薄れていった。

 

 思い出から帰還し、再び現在の璃月を見た一不は、しばらくしてから歩き出す。

 人々のいる通りに背を向けて。

 

(あれは、あの『約束』は)

 

 それから、ほんの僅かに目を細めた。

 

(――俺が、生きていていい理由だ)

 

 迷わずに、一不は歩き続ける。

 遠ざかる景色のことは、もう振り返らなかった。

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