神の目を売りたい少年の話   作:胡桃の胸ェ…

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 ある意味で原作開始?


セレベンツに至る

 幼少期の頃に見たあの光景と変わらない。

 スネージナヤの雪は止む気配がなく、ここはずっと冷たい国のままだった。

 灰色の石と鉄で作られた重厚な施設。

 高い外壁には霜がびっしりと張り付き、尖塔の先には氷柱がいくつも垂れ下がっている。

 

 あれから何年経とうとも、この『訓練場』はそこにあった。

 

 だが、巨大な門と分厚い鉄板を幾重にも重ねた扉。

 そこには重ねた年代相応の、無数の傷跡が刻まれていた。

 風雪によるものもあるが、それだけではない。

 

 刃物の痕、鈍器の痕。

 そして『何か』が、強く己の身体を叩きつけたような跡。

 

 この場所がどのような施設なのかを、そこにある傷が全てを語っていた。

 スネージナヤの奥地。

 人の往来など当然ほとんどない、雪原の中に建てられた研究施設。

 その門の前には、一人分の影が立っていて、その門を見上げていた。

 

「…………」

 

 一不は黒い外套を羽織っていた。

 外套の裾には雪が積もっていて、彼がここまで歩いてきた距離の長さを示すように、靴にも白い粉がびっしりと付着している。

 何かを思うような様子はなく、ただ静かに立っているだけ。

 その瞳に映るのは、巨大な扉と、吹き荒れる雪のみだった。

 

 やがて、ギィ……と重い音が鳴る。

 門がゆっくりと動き始めたのだ。

 鉄が擦れる鈍い音が吹雪の中に響く。

 内側から扉が押し開かれ、暗い通路が姿を見せる。

 その奥から聞こえる足音。

 

 それは雪を踏む音ではない。

 整った、規則的な靴音だ。

 

 コツ、コツ、という乾いた響き。

 やがて、その足音の主が姿を現した。

 

「ほう?」

 

 クローバーだった。

 雪の中に立っているにもかかわらず、彼の衣服にはほとんど雪が付いていない。

 まるでこの寒さが存在しないかのように、穏やかな足取りで歩いてくる。

 クローバーの顔には笑みが浮かんでいた。

 

 柔らかく、礼儀正しい笑み。

 

 だが、その瞳の奥には温度がない。

 まるで雪のように。

 

「帰ってきたか、一不」

 

 クローバーは一不の前で足を止める。

 数秒、少年の顔を観察し、そして口を開く。

 それはまるで、久しぶりに帰宅した家族を迎えるような、穏やかな声と口調。

 だが、その言葉の中に、感情はほとんど含まれていない。

 ただの確認。……それだけだった。

 

「予想外に早い、それに何より……」

 

 小さく息を漏らす。

 

「特に損傷もないようだな」

 

 言葉は軽い。

 しかしそれは『無事でよかった』という意味ではない。

 単なる機能確認。

 壊れているか、壊れていないかの確認だけだった。

 

「……」

 

 一不は何も答えない。

 ただ、静かに立っている。

 

 風が吹きつける数秒の沈黙。

 

 その沈黙を破ったのは、クローバーだった。

 彼はほんの少し首を傾げ。

 

「それで?『素材』は?」

 

 と、まるで日常会話でも続けるように言った。

 その言葉は、あまりにも自然だった。

 だがこの場所で言う『素材』は、決して優しいものではない。

 薬草でも、鉱石でも、ましてや食料でもない。

 この施設で扱われる『素材』とは――。

 

「……あぁ」

 

 一不は視線を僅かに下げる。

 だが、表情は変わらない。

 ゆっくりと手を上げる。

 冷たい空気の中で、その指が小さく動いた。

 

「今()()

 

 ――パチン。

 乾いた音が鳴ったその瞬間だった。

 

 空間が歪み、何もないはずの虚空に黒い渦が滲み出る。

 まるで空気が溶け出したかのように、暗い異変が広がっていく。

 渦は次第に一点へ集まり、やがてそれは円形の裂け目を作り出した。

 

 暗い穴。

 光を吸い込む黒。

 

 その奥は何も見えない。

 深い空洞だけが広がっている。

 それを見たクローバーの目が細くなる。

 

「……ほう」

 

 感心したような声。

 その次の瞬間だった。

 

 ――ドサッ、と重い音が落ちた。

 

 黒い穴の中から何かが落ち、雪の上に転がった。

 それは、一不が璃月から持ち出した『素材』。

 それは――間違いなく『人間』だった。

 

 だがそれは動かない。

 瞼は閉じられ、身体はぐったりと力を失っている。

 

 意識も、命もない完全な骸。

 『素材』以外の意味を持たない消耗品。

 クローバーは静かにそれを眺めていた。

 

 ――ドサッ、ドサッ。と、次々と落ちてくる『素材』たち。

 

 黒い穴から雪の上に。

 ほんの数日前まで命あったものが、まるで荷物のように吐き出されていく。

 雪が舞う中に身体が転がる。

 肩がぶつかる、腕が重なる。

 白い雪の上に、人影が次々と増えていく。

 

 落下が止まるまで、数分かかった。

 

 やがて黒い渦は十人近くの『素材』を吐き出してから、役割を終えてゆっくりと消える。

 クローバーの表情は変わらない。

 ただ観察を続ける、研究者の目だった。

 

「………………」

 

 クローバーは、雪の上に散らばる『素材』に向かって歩き出す。

 ゆっくりと、近くの『素材』一体の前でしゃがんだ。

 白い手袋をはめた手で顎を持ち上げ、顔を観察する。

 そして頬を軽く叩いた。

 

「……ふむ」

 

 当然反応はない。

 

「年齢は相応」

 

 小さく呟く。

 

「だが筋肉量は多い、腐っても()()()だな」

 

 今度は手首を持ち上げる。

 そして、もう既にない脈を確認する。

 

「しっかりと死んでるし、何より状態もいい」

 

 クローバーは立ち上がり、満足そうに頷いた。

 

「あぁ、上出来だ」

 

 その笑みは最初と変わらない。

 穏やかで、礼儀正しく。

 だが、どこまでも冷たいもの。

 

「やはりお前は優秀だ」

 

 開けられた訓練場の扉の奥から、ファデュイの研究者たちが駆けてくる。

 彼らは迷いなく倒れているそれらを持ち上げ、担架のように『素材』を抱え、訓練場の中へ運び込む。

 一体ずつ、まるで荷物のように。

 クローバーはその光景を眺めながら、静かに言った。

 

「さて」

 

 その声は、僅かに楽しげだった。

 

「今回はどんな結果が出るかな?」

 

 それは命を扱う声ではない。

 一研究者の、無機質で残酷な声。

 実験の結果を期待する以外、意味を含まない冷たい意思。

 

「……フン」

 

 一不は何も言わない。

 ただ、絶えず降り続ける雪の下、その場に立ち続けているだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 『訓練場』の『裏』の顔とも呼べるその奥。

 秘匿された場所へと続く通路は、地上とはまるで別の世界のようだった。

 地上では、今も降り続ける雪と吹きつける風が常に音を立てている。

 だが、地下ではその全てが完璧に遮断されていた。

 

 代わりにあるのは、低い機械音。

 そして時折響く、金属の軋みと『何か』の呻き声だけ。

 

 『訓練場』の『表』にある廊下以上に、ここの廊下は酷く冷たい空気に満ちていた。

 何故ね羅、ここには暖炉も暖房も、一つも設けられていないのだ。

 その理由は、この『訓練場』の地下は研究員たちが長く滞在するような場所ではないからだ。

 

 ここは、観察と管理の為だけの場所。

 即ち。――実験の結果を眺めるだけの場所。

 

 ランプの淡い光が、壁に長い影を作っている。

 その中を、クローバーと一不による二つの影がゆっくりと進んでいた。

 クローバーの歩みは相変わらず落ち着いていて、まるで散歩でもしているかのようだ。

 白い手袋をはめた手を背に回し、軽い足取りで歩いている。

 その奥にあるものを知っている者からすれば、クローバーのその姿は異様だった。

 

「前回使用した『素材』はあまりにも若すぎたからな、だから今回は歳をとった『素材』を使う事にしたんだ」

「……あっそォ」

 

 クローバーの言葉に雑な返答で応える一不。

 それ以上の会話はなく。コツ、コツ、と両者の靴音のみが廊下に響く。

 

 そうして二人は、大きな扉の前で足を止めた。

 

 それは明らかに普通の扉ではない。

 厚い鉄板が幾重にも重ねられていて、外側には巨大なボルトが並んでいる。

 加えて横には、複雑な錠機構とレバーが取り付けられていた。

 まるでまるで、中のものを閉じ込める『檻』のようだ。

 クローバーは軽く肩を回し、扉の横の装置へ手を伸ばす。

 

「全く、安全の為とはいえセキュリティが多すぎる」

 

 彼は言う。

 

「まぁ研究者の『万が一』への過剰な怯えは優秀さの表れでもあるしな」

「ハッ、手前(テメェ)のビビりを自分(テメェ)で肯定するのはやめろ。見苦しい」

「……相変わらずだな、お前は」

 

 レバーを引く。

 ガチン、と重い金属音が鳴る。

 その瞬間、扉の奥から鈍い振動が伝わってきた。

 ゴォォォォ……と、低く唸るような音と共に、巨大な鉄扉がゆっくりと横へ滑り始める。

 冷たい空気が流れ出て、扉が完全に開いた時、目の前に広がったのは巨大な地下空間だった。

 壁は地上と同じように石で作られている。

 だが所々に鉄の補強が入っており、長年の使用でその個所は黒ずんでいる。

 そしてその壁は、何層もの段差仕様になっていた。

 

 階段状に並ぶ通路。

 観覧席のような構造。

 

 ここは、地表から下へ広がる円形の闘技場。

 スネージナヤの地下、そこに隠された実験施設であり、ファデュイの『訓練場』という『表』が秘匿する、スネージナヤの『裏』の顔。

 ――ヘレス・地下闘技場。

 

「どうだ?一不」

 

 クローバーはゆっくりと歩き、手すりのある観覧通路まで進む。

 そして身を乗り出すようにして、その下にある光景を見下ろした。

 

「今回は期待が持てそうだろう?」

 

 軽く振り返る。

 一不は何も言わずにその隣へ歩み寄る。

 鉄の手すりに手を置き、下を見る。

 闘技場の中央には、すでに二つの影があった。

 そして一不はそれを見て、一気に視線を冷たくする。

 

 二つの影、その内の一つは――()()の少年だった。

 

 短く切り揃えられた髪、痩せた身体。

 年齢は恐らく、一不とそう変わらない十代前半くらいだろう。

 

「以前よりも耐久力、持久力も上がっている筈。今度こそ……」

「…………」

 

 彼は粗末な衣服を着せられていて、冷たい石造りの闘技場にいながら、両足は裸足のまま。

 その姿は、まるで実験台の動物のように無防備だった。

 少年は闘技場の中央で、警戒するように周囲をせわしなく観察していて、見ているだけでこっちが落ち着かなくなる程だ。

 

 そして闘技場の上で、もう一つの影が動いた。

 それは、巨大で歪な影。

 異形のシルエットからして、一見すると、それが少年と同じ『人間』であると誰もが思いつかない程に、その影は歪んでいた。

 

 黒く湿った皮膚。

 丸く広がる胴体。

 そこから伸びる何本もの触手。

 

 それは蛸のような形をしていた『何か』。

 だが本物の蛸とは大きく違うのは、規格外のそのサイズ。

 触手の一本一本が人の腕より太く、その先端には鋭い棘が生えている容姿は、人によっては『悪魔』を連想するだろう。

 ズルリと音を立て、触手が動く。

 一不は静かに、その哀れな『()()()()()()()』の末路を見つめていた。

 

「……――」

 

 そして、もう一度闘技場に立つ少年を見る。

 

 白髪。

 少年。

 

 あまりにも分かりやすい共通点。

 勿論、それは偶然等ではない。

 この施設で、この国で、そんな甘い『偶然』は存在しない。

 

 全てが意図的で、計算され尽くしている。

 

 一不の目が細くなる。

 そして、心の奥で吐き捨てた。

 

(……本ッ当に趣味が悪い)

()()()()()()()()()()()()、人間の身体はよく出来ていてな」

 

 クローバーは、そんな一不の内心など知る由もなく、楽しそうに話し続けている。

 手すりに肘を置きながら、彼は言った。

 

「ある意味今回の実験は『接ぎ木』のようなものだ、ガキの身体の脆さを大人の『素材』でカバーする、そうする事で肉体強度の増加を……」

 

 その言葉の直後だった。

 

『縺ゅ?ゅ♀縲√♀縺翫♂縺翫°縺ゅ&繧――!』

 

 言葉にならぬ慟哭と共に怪物が動く。

 ズルリ、と触手が地面を滑る。

 その動きは意外にも速く、一不ですらなんとか知覚できた程。

 一本の触手が、鞭のようにしなり、力を溜める。

 

 そして次の瞬間。

 空気を裂く音と、少年の胴が両断される音が同時に響いた。

 

 少年は反応すらできていない。

 触手が少年の身体を直撃し、その小さな身体を宙へ跳ね上げる。

 その衝撃は、観覧通路まで伝わってきた。

 

 一不は瞬きもしない。

 ただ静かに見ている。

 

 闘技場の中央。

 少年はもう動かない。

 血と同じく、両断された胴から内臓を静かに垂れ流しにしていて、それは誰がどう見ても手遅れそのもの。

 戦いは――クローバーの『期待』がもったのは、たったの数秒だった。

 

「……え?」

 

 クローバーの顔から笑みが消えた。

 それと呆然とした声。

 

「そ……そんな?こんなにも呆気なくやられるなんて……」

 

 額に汗が浮かぶ。

 つい先ほどまであった余裕は完全に消えた。

 ――その時だった。

 

「今回使用した素材も役立たずだったようだな、クローバー」

 

 背後から声がした。

 低く、落ち着いた声。

 しかしその響きには、どこか愉快そうな色が混じっている。

 

「ッ!?ぁ――」

 

 クローバーの体が硬直する。

 背筋に冷たい汗が走る。

 ゆっくりと振り返るその動きは、明らかにぎこちない。

 

「どうしようもない奴だ、お前は」

 

 そこに立っていたのは一人の男。

 クローバーと同じ白衣を纏った長身の男だった。

 演劇を思わせる仮面で顔の大半を隠すその男は、クローバーがこの世で最も崇拝し、そしてそれ以上に恐れる存在。

 ――ファデュイ執行官・第二位『博士(Ⅱ Dotorre)』。

 

「あぁそうだ、次の実験では」

 

 『博士』は腕を組んだまま、まるで雑談の続きをするような口調でそう問う。

 だが発せられた言葉に込められた熱は、氷のように冷たい。

 

「お前が被検体になったらどうだ?」

「――ッ!!??」

 

 低く、静かな声。

 その瞬間、クローバーの身体が硬直する。

 顔の血の気が引く。

 一瞬、呼吸すら止まったように見えた。

 

「……っ、ごッ――」

 

 喉が鳴る。

 そして次の瞬間、彼は両手を動かし、身振り手振りで意思を証明する。

 

「ご、ご勘弁を主様!」

 

 声が裏返る。

 先ほどまでの、一不に見せていた冷酷な研究者の態度は完全に消えていた。

 それは、ただの怯えた男以外の何物でもなかった。

 

「今回の結果は……そのっ……私も予想外の出来事でして!」

 

 言葉を急いで並べる。

 額から汗が絶えず流れる。

 

「ですが、次は必ず成功させます!現在も新たな素材の選別を進めておりまして、加えて今回の失敗によるデータを合わせれば、次こそは――」

 

 必死だった。

 言葉の一つ一つに焦りが滲んでいて、そこに論理的な根拠はどこにもない。

 

「フン」

 

 『博士』はその様子を見て、小さく鼻を鳴らした。

 短い音。

 それだけで、クローバーの肩がびくりと震えた。

 『博士』は腕を解き、ゆっくりと歩き始めた。

 コツ、コツ、と静かな靴音が通路に響く。

 彼は、クローバーの前を通り過ぎながら言った。

 

「お前の選んだ『素材』も、そして『加工』も」

 

 少し間を置く。

 それから、はっきりと言う。

 

「どれもこれも話にならん」

「…………」

 

 その言葉は刃のようだった。

 クローバーは反論できない。

 ただ頭を下げたまま、歯を食いしばって耐えている。

 『博士』はそのまま歩き続けた。

 そして――。

 

「…………」

 

 一不の前で足を止める。

 一不もまた、背筋を伸ばして静かに立っている。

 『博士』はゆっくりと顔を近づける。

 その視線は鋭い。

 だが、そこに敵意はない。

 

 あるのは純粋な観察、科学者の目だ。

 

 骨格を見ている。

 顔の造形を見ている。

 筋肉の動き、呼吸のリズム、瞳の光。

 人体の全てを測るように見ているだけだ。

 

「……何だよ」

 

 一不は目を逸らさない。

 その視線を受け止めて、そして強気に聞く。

 『博士』はしばらく彼を観察した後に、小さく呟いた。

 

「……やはり」

 

 口元を歪めて、ハッキリと。

 

「美しいものだな」

 

 それは、一見すると賞賛の言葉のようだった。

 だが、それに込められた意味は違う。

 ありふれた『容姿』に対しての言葉ではない。

 彼に、そんな普通の人間としての機微はなく、その『美しい』は、人に向ける言葉ではない。

 

 研究成果として。

 実験体として。

 完成度が高く、素晴らしい。

 

 たったそれだけの、そういう意味だった。

 

「クローバー」

 

 『博士』は視線を横へ向け、まだ頭を下げているクローバーのその姿を見て、静かに言った。

 

「は、はい……!」

 

 名前を呼ばれ、クローバーが慌てて顔を上げる。

 その声はまだ震えている。

 『博士』は一不の肩の横に立ったまま、言った。

 

「お前はいつになったら二人目のこいつを連れてくる?」

 

 空気が止まる。

 クローバーの顔が強く引きつった。

 

「そ……それは……!」

 

 言葉が詰まるのは一瞬。

 クローバーは慌てて弁明を続ける。

 

「げ、現在も彼に似た適性のある素材を選別しておりまして!た、ただ……ただ!同じ条件を満たす個体は極めて少なく……!」

「……」

「ですが必ず見つけます!」

 

 必死だった。

 声は震え、呼吸も荒い。

 その姿を、一不は静かに、冷たい目で見ていた。

 

「………………」

 

 クローバー。

 この男が、最初に自分をここへ連れてきた。

 親を除いた、この世で初めて自分の人生を縛った男。

 

 最初に自分が見たファデュイ。

 あの日、借金取りとして家へ入ってきた時から変わらない容姿。

 だが、その顔に宿るものは違う。

 

 あの日の事を、一不は今でも覚えている。

 自分を縛り付けたあの時のクローバーは、絶対的な立場だった。

 余裕があった。

 支配する側だった。

 

 だが、今は違う。

 今のクローバーは、ただの怯えた男だ。

 

 主の前で言い訳を並べる男でしかない。

 自分という名の『成功例』に縋りながら、上に媚びへつらっている。

 一不の目が、侮蔑の色を纏う。

 

(滑稽なもんだな……いや)

 

 そう、心の奥で呟く。

 その姿はあまりにも見苦しかった。

 だが、その思考は途中で止まり、一不は別の感情が浮かぶ。

 

 確かにクローバーは見苦しい。

 だが、それ以上に自分はどうだ?

 

 この施設にいる。

 この国にいる。

 ファデュイの命令で動き、ファデュイの為に人を殺す。

 クローバーを見下している自分もまた、それ以上の重い鎖に繋がれている。

 

(……俺はそれ未満か)

 

 それが、酷く皮肉だった。

 

「あ、あぁそういえば!モンドのバドルドーの前夜祭に招かれまして!」

 

 一不の自虐を後目に、クローバーの必死な声は続く。

 

「何でしたら、そちらで『素材』を調()()すれば……!」

「――ほう」

 

 静かな声。

 そして、穏やかに問いかける。

 

「モンドだと?ならばもう一度チャンスをやる、俺もついて行こう。『例のアレ』の準備を確認したいのでな」

 

 その笑みは、楽しそうだった。

 だが、その場の空気は依然として凍りついたように重いまま。

 

「しょ、承知いたしました、我が主様――!」

「分かっていると思うが、いい加減満足のゆく結果を出してもらうぞクローバー?さもなくば……」

「か、必ずや!」

「あぁそれと」

 

 『博士』はゆっくりと顔を動かし、言う。

 

「一不、お前にも来てもらうぞ。()()()は移動するのに便利だからな」

 

 一不は吐き捨てるように答える。

 

「……あぁ」

 

 ファデュイの新たな標的は、自由の風が吹く国モンド。

 名が挙がったその場所とは逆に、ここ地下闘技場の空気は、重く、冷たく沈んだままだった。

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