神の目を売りたい少年の話   作:胡桃の胸ェ…

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饗宴の酒・前編

 風神バルバトスが居する国、モンド。

 自由を尊ぶこの国は、皆が風と共に生きている。

 

 そんなモンド城の南西に位置する場所にある荘園の名は『アカツキワイナリー』。

 そこにある別邸では現在、昼間とはまるで別の顔を見せていた。

 

 高い天井から吊るされたシャンデリアが、黄金色の光を静かに落とす。

 磨き上げられた床はその光を柔らかく反射し、広間全体を暖かな空気で包んでいた。

 一定の間隔で配置されている丸テーブルの上には、いくつものグラスと料理。

 そして『アカツキワイナリー』を代表する熟成されたワインの果実の甘い香り、そして深い芳香が空気に溶けている。

 

「今年の出来はどう思う?」

「……悪くない。いや、かなりいい。流石はモンドだな」

 

 アカツキワイナリー別邸陽気な声が響く。

 赤ら顔の男がグラスを掲げ、隣の友人の肩を叩き、それを皮切りに更に笑い声が広がっていく。

 だが一方で、窓際では静かにグラスを傾けるような者もいる。

 深紅の液体を光に透かし、その色合いを楽しむ。

 それぞれが蓄えた酒の知恵を出し合い、見識を広め合う。

 

「このお酒、ボトルで買えばおそらく私の屋敷よりも高いでしょう」

「えぇ、坊ちゃんは気前が良いですものね」

 

 低く落ち着いた会話だ。

 彼らがワインを語る声には、どこか誇りを含んでいる。

 使用人たちは忙しなく動いていて、空いた皿を下げ、新たな料理を並べ、グラスが空けばすぐに満たす。

 その動きは静かで無駄がない。 

 この場所の品格を決して乱さないための、洗練された所作だった。

 

 誰かが笑い、誰かが語り。

 誰かがただ、その時間を味わう。

 

 シャンデリアの光がワインの赤を宝石のように輝かせる。

 そんな時、ふと空気が変わる。

 

 現れたのは一人の若い男だった。

 

 深紅の髪を背に流した、黒を基調とした装い。

 その姿には『華美さ』ではなく、ワイナリーの主としての『品格』が備わっている。

 

 『アカツキワイナリー』のオーナー、ディルック・ラグウィンド。

 

 彼が一歩踏み出すごとに、ざわめきは自然と静まっていく。

 ディルックは広間の中央で足を止めた。

 一瞬の静寂。

 彼はゆっくりと客たちを見渡す。

 その視線は冷静でありながら、決して無機質ではない。

 確かな歓迎の意志が宿っていた。

 

「皆様、当家のパーティーへようこそいらっしゃいました」

 

 そして口を開く

 低く、よく通る声だ。

 

「本日は、父の代より二十九年間秘蔵してきた美酒を用意いたしました」

 

 彼は続ける。

 それだけで、この場の空気が引き締まる。

 ざわめきが戻る。

 驚きと期待の入り混じった声が広間に満ちる。

 だが、それも無理はない。

 二十九年という歳月。

 それは彼の『過去』を知る者であれば、ヴィンテージだけの意味に収まらない事を皆が知っている。

 ディルックは微かに視線を動かす。

 

「高貴な商会の皆様や見目麗しいご婦人方は勿論のこと、勤勉で敬虔な西風(セピュロス)騎士団の皆様にも楽しい一夜を約束しましょう」

 

 商人たちへ。

 貴婦人たちへ。

 そして騎士たちへ

 その言葉は平等で、立場も身分も関係ない。

 今この場にいるすべての者へ向けられた、同じ重みの歓迎。

 ほんの僅かに、彼の口元が緩む。

 それは笑みと呼ぶにはあまりにも控えめだったが、確かに存在した。

 次の瞬間――。

 

『おお――!!』

 

 拍手が、完成が沸き起こる。

 広間は再び熱を帯び、グラスが掲げられ、笑顔が広がる。

 本格的に宴が始まった。

 そんな楽しげな広間に、ひときわ異質な声が落ちた。

 

「――これはこれは、お久しぶりですディルック坊ちゃん」

 

 その一言だけで、空気の温度が僅かに下がる。

 ディルックは、静かにその声がする方向に視線を向けた。

 人の波が自然と割れる。

 そこに立っていたのは、見覚えのある男だった。

 整えられた口髭に、芝居がかった笑み。

 軽薄にも見えるが、その奥にあるものは決して軽くない。

 

「素晴らしいパーティーですね」

 

 そう言って肩をすくめるのは、クローバー。

 そして、その隣――。

 一歩引いた位置に立つ男が、ゆっくりと顔を上げた。

 

 顔の大部分を隠す仮面。

 その奥から覗く赤い瞳が静かにこちらを射抜いている。

 

 仮面越しに口元を歪めて、彼は言う。

 

「あなた達の主教に用がある、案内していただけないかな?」

 

 その声音は穏やかだった。

 だが、温度はない。

 クローバーと同じように『笑って』はいる。

 しかし、その笑みは決して同質のものではなかった。

 場の空気が、確かに変わる。

 

「…………」

 

 ディルックは目の前の来訪者たちを見据える。

 

 謎の仮面の男。

 芝居がかった笑みを浮かべるクローバー。

 そして、そんな彼らの背後に控える()()()()()

 

 一瞬の間。

 ディルックは静かに口を開いた。

 

「こちらは?」

 

 視線は仮面の男へ向けられる。

 

「以前お会いした事がありましたか?」

 

 その言葉は礼儀を保っている。

 だが、その奥にあるのは警戒と観察。

 クローバーは、まるでそれを待っていたかのように手を打った。

 

「おっと、ご紹介が遅れました。若き当主よ」

 

 大げさな仕草で一歩引き、仮面の男を示す。

 その声には、どこか誇示する響きがあった。

 

「ご紹介いたします、こちらは我が主様。『博士(Ⅱ Dotorre)』」

 

 仮面の奥で、『博士』の赤い瞳が細められる。

 クローバーはさらに言葉を重ねる。

 

「全大陸を守護する『愚人衆(ファデュイ)』十一席のうちの一人で――あの『魔龍ウルサ』を討伐したお方でございます」

 

 その名が出た瞬間、周囲の空気が動揺で震える。

 魔龍ウルサ。

 かつてモンドを脅かした存在。

 その討伐者――という肩書き。

 

「……当然ご存じでしょう?」

 

 クローバーは口元を歪める。

 その問いは確認ではない。

 『知っていて当然だ』という圧。

 ディルックは、ほんのわずかに目を細めた。

 

 ――ファデュイ。

 

 その名を軽く扱うつもりはない。

 目の前の男。『博士』の仮面の奥に潜むものを測るように、じっと見つめる。

 沈黙。

 数秒にも満たないその時間が、妙に長く感じられる。

 やがて、ディルックは静かに言った。

 

「……これは光栄です」

 

 言葉だけを聞けば、丁寧な歓迎。

 だがその声に、温度はない。

 一切の感情を乗せず、ただ『そう返した』だけだ。

 

 『博士』もまた、その反応を受けて静かに笑った。

 

 だが、両者の間にあるのは、同じく『測る視線』。

 二人の間に、見えない火花が散る。

 言葉ではなく、存在そのものがぶつかり合うような緊張。

 その横でクローバーは、愉快そうに目を細めていた。

 そして――。

 

「…………」

 

 そんな彼らの背後に立つ白髪の()()は、ただ静かにそのやり取りを見ている。

 紫の瞳は微動だにしない。

 だがその奥で、何かが揺れているのは分かる。

 

 値踏みか。

 警戒か、それとも――。

 

 それは、誰にも分からない。

 ディルックの一言が落ちてから、両者の間に沈黙が満ちるまさにその瞬間だった。

 

「家元のお手を煩わせる必要はございません」

 

 背後から、穏やかでよく通る声が響いた。

 ディルックが振り向く。

 

「主教殿」

 

 そこに立っていたのは長い金髪を背に流し、穏やかな笑みを湛えた人物。

 その装いには清廉さと威厳が宿っていて、ワイナリーの主であるディルックと同じか、それ以上の『品格』が備わっていた。

 

 彼の名はサイモン。

 西風騎士団の主教である。

 

 彼は静かに歩み寄り、場の中心へと立った。

 その動作一つで、空気が柔らかく整えられる。

 

「本日はお会いできて光栄です」

 

 柔らかな声音で、仮面の男『博士』へ語り掛ける。

 『博士』は静かに首を傾け、その言葉を受け止めた。

 サイモンは続ける。

 

「『博士』自らが足を運ばれるとは」

 

 一拍。

 その微笑みは崩れない。

 サイモンは視線を軽く巡らせる。

 

「しかしここは宴席の場」

 

 笑い声、グラスの音。

 それら全てを一瞥してから、穏やかに提案する。

 

「客人の興を削ぐ恐れもあります、部屋を家元からお借りするのはどうでしょう?」

 

 その言葉は柔らかい。

 だが、確かな『線引き』だった。

 ディルックはそれを受け、すぐに応じる。

 

「主教殿がそう仰るのであれば、こちらで一室ご用意しましょう」

 

 視線は『博士』へ。

 そして続ける。

 

「ただ」

 

 一瞬の間。

 

「一つだけお願いがあります、僕も同席させていただけませんか?」

 

 その赤い瞳が、真っ直ぐに相手を射抜く。

 その言葉に、クローバーが即座に反応した。

 

「それはそれは、構いませんとも」

 

 それは軽やかな笑みだった。

 まるで何の問題もないと言わんばかりに。

 

「坊ちゃんの懐の深さに感謝します」

 

 その声音には、あからさまな皮肉が混じっている。

 そしてふと、クローバーは背後を振り返る。

 そこに立つのは、影のように控えていた白髪の――。

 クローバーは、それの紫の視線を受け止め、軽く顎で指示した。

 

「お前はここで『待機』だ、いいな?」

 

 命令は短い。

 当然拒否の余地はない。

 ()()は、何も言わなかった。

 ただ、一瞬静かに目を伏せ、戻す。

 それが了承の意だった。

 

「…………あぁ」

 

 少女にしては珍しい、ざらついた(ハスキー)声が零れる。

 再び視線を上げたとき、その紫の瞳には何の感情も浮かんでいない。

 ディルックはそのやり取りを一瞥する。

 何も言わず、ただ記憶に刻むように。

 そして踵を返した。

 

「……こちらへどうぞ」

 

 低く告げる。

 向かう先は議事室。

 『博士』が歩き出し、クローバーが続く。

 サイモンもまた、静かにその後ろへ。

 

 三者の背中を見送りながら、一不はその場に残る。

 

 賑やかな広間の中で、ただ一人。

 動かず、語らず。

 まるで、そこだけ時間が止まっているかのようだった。

 

(……あの子供)

 

 子供。

 それが一員である事は、ファデュイならば珍しくも何ともない。

 歪んでいるのは確かだが、それはあちらからすれば一つの『常識』の形に過ぎないのだから。

 

 ――紫の瞳。

 しかしあの子供が持つ目は、どこか彼ら(ファデュイ)らしくない輝きを持っていた。

 

 それがただの勘違いか、それともそれが本来の『ファデュイ』であるのかは分からない。

 ディルックはそんな考えを胸に、議事室へ足を運ぶ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アカツキワイナリーの夜はまだ終わっていなかった。

 別邸の広間は依然として黄金色の灯りに満たされていて、まるで別世界のような華やぎを湛えている。

 高く吊るされたシャンデリアは無数の光を滴らせ。

 その一つ一つが磨き上げられた床や銀器に反射して、空間そのものを煌びやかに、夜を忘れるように彩られていた。

 

 人々の笑い声。

 グラスが触れ合う、澄んだ音。

 絹と革が擦れる衣擦れ。

 

 広間に満ちる人々の喜び、それらが幾重にも重なり、絶え間なく流れていく。

 だが、その流れの中にあって、しかし。  

 ただ一人だけ、明確に『異物』として存在している者がいた。

 

「…………」

 

 一不は広間の一角、長机の傍で静かに立っていた。

 彼はクローバーの『待機』命令に従い、立って静かにする以外の何も行っていない。

 背筋を伸ばし、微動だにせず、まるで置物のようにそこに在るだけだ。

 しかし、その静止は周囲の喧騒とあまりにも対照的で、かえって人の目を引き寄せてしまう。

 

 白く、光を孕んだ髪。

 一つに結われた髪が揺れる度に、青緑のメッシュが覗く。

 整いすぎた輪郭、彫刻のように滑らかで柔らかい肌。

 

 そして、感情の色をほとんど宿さない紫の瞳。

 『絶世の』という枕詞が付く事は確実な、あまりにも整い過ぎた容姿。

 その視線はどこにも定まらず、しかし確かに『何か』を見据えているようでもあった。

 ひそひそ、と。

 周囲の人々は、そんな彼を見ない振りをしつつも、しかし確実に見ていて。

 同時に、騒音に紛れる囁きを互いに交換し合っていた。

 

「あの子もファデュイ……?」

「ファデュイ……でも……だってじゃあ」

「しかし、あんな……」

 

 囁きは抑えられているが、完全には消せない。

 一不の優れた聴覚が、本来は紛れ、騒音によって殺されるであろうその囁きを一つも零さずに捉え続ける。

 好奇心と警戒が混ざり合った視線と声が、遠慮なく、絶えず注がれ続けていた。

 

 逃げ場はない。

 

 誰かが常に見ている。

 横から、斜めから、背後から。

 視線という見えない網が、彼を取り囲んでいる。

 

「…………」

 

 一不は目を細め。そして、視線を落とす。

 目の前のテーブル。

 そこには、一つのワイングラスが置かれていた。

 

 中に注がれているのは、本日の主役である二十九年間秘蔵したワイン。

 

 ゆるやかに揺れる液面が、シャンデリアの光を受けて淡く輝く。

 その色はまるで、凝固しかけた血のようにも見えた。

 一不の思考は淡々としていた。

 

(…………飲めねぇな、これじゃ)

 

 それは躊躇ではなく、ただの判断。

 自分は確かに未成年であり、それはこの場において『建前』として機能するもの。

 だが、実際には意味を持たない。

 一不の身体は常人とは異なるものだ。

 

 酒は彼の神経を鈍らせない。

 意識を曇らせることも、酔わせる事もできない。

 

 むしろ、味覚だけを純粋に拾い上げるその体質は、酒の『本質』を誰よりも理解できる。

 その辺の大人よりも、よほど深く酒を楽しめる存在と言っても過言ではない。

 だが――。

 

(生憎、見られながら飲む趣味はねェんだよ)

 

 再び、視線。

 密やかだが、確実に感じる無数の目。

 観察されている。

 値踏みされている。

 理解されていないまま、理解しようとされている。

 ……それが、何よりも煩わしい。

 

「チッ!」

 

 小さな舌打ち。

 抑えたつもりでも、その音は完全には消えなかった。

 近くにいた数人が僅かに肩を揺らすが、しかし誰も声をかけない。

 

 踏み込まない。

 踏み込めない。

 何より、踏み込ませはしない。

 

 それが彼と周囲との距離だった。

 そんな退屈な時間が、ゆっくりと流れる。

 周りでは絶えずグラスが空き、また満たされ続けていく。

 笑い声の波が、何度も寄せては引いていく。

 しかし一不の周囲だけは、どこか温度が低いままだった。

 そうして、十分ほどが経過した頃――

 

「あ、主様!」

 

 その均衡が崩れる。

 奥の廊下から、鋭い足音と声が響いた。

 規則的ではなく、苛立ちを含んだ乱れた歩調だ。

 

「ご安心ください!彼らは断れません!どうかお時間を!圧さえかければ――」

 

 次の瞬間。

 

「奴らの都合になど合わせてられん!」

 

 怒声が、広間を裂いた。

 空気が一瞬で凍りつき、視線が一斉にそちらへ向く。

 怒声の発生源は『博士』、その声音には、隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。

 理性で覆い隠すことすら面倒だと言わんばかりの、剥き出しの感情。

 

「俺の邪魔をするなッ!!」

「ッ、は、はい――っ」

 

 彼は人々の間を強引に抜けていく。

 客たちは慌てて道を開ける。

 誰一人として、彼の進路を妨げようとはしない。

 そして、『博士』は一度も振り返る事なく、広間を横切り、外へと消えた。

 

 残されたのは、わずかな沈黙。

 

 周りの会話が一瞬だけ止まる。

 

(おー、あんなにキレてるあいつは久しぶりに見たな)

 

 沈黙の中、一不だけが呑気にそんな事を考えていた。

 やがて、誰かが気まずい沈黙を破ろうと、無理に作った笑い声を上げた。

 それをきっかけに、空気は再び動き出す。

 だが、その揺らぎは完全には元に戻らない。

 一不は、小さく呟く。

 

「なんだ、失敗したのか」

 

 それは皮肉でも嘲りでもない。

 ただの観測結果だ。

 皮肉にも、普段の『博士』が見せるのと同じ、感情を伴わない乾いた評価。

 その視線が、もう既に去った『博士』のいた方向からゆっくりと戻る。

 そしてクローバーの方を見ると、そこには――別の人物がいた。

 

 青い髪。

 片目を覆う眼帯。

 そして、どこか人を食ったような笑みを浮かべた男。

 

 一不はそれの名を知っていた。

 

(あれは確か……西風騎士団のガイアか)

 

 ガイアはクローバーの傍に寄り、顔を近づけて何かを囁いている。

 その声は、普通なら届かない。

 だが、小細工は必要はなかった。

 

 周りとの距離。 

 身体の角度や視線の動き。

 ――そして、一不の優れた聴覚。

 

 それだけで、彼らの会話の内容を全て把握する事ができた。

 

『勿論タダでとは言わないさ、あの方も早く決着をつけたいらしい。充分なお礼を渡すと』

『ほ、ほぉ……お礼?』

 

 それはただの雑談ではない。

 れっきとした情報のやり取りであり。それに見せかけた――『誘導』。

 

 クローバーの表情が、変わる。

 だがそれより早く、そして一瞬。ガイアの表情が変わったのが見えた。

 

 それを一不は見逃さなかった。

 故に、理解する。

 

(…………これは面倒な事になる)

 

 胸の奥で僅かに沈む感覚。

 それは恐怖ではない、ただの嫌悪だ。

 『これから起きる事』への予測が、あまりにも鮮明だったからだ。

 

(クローバーもクローバーだ。あんな分かりやすい罠に引っかかるかよ、普通)

 

 だが、それだけ彼も追い詰められている証拠なのだろう。

 確かに彼は『優秀』とは程遠い男だが、それでも今日この日まで、あの『博士』の駒として働き続けていられたのだ。

 最低限の働き、そして技能があるからこそ、彼は他の駒のように『実験』で使い潰されるような事がなかった。

 だが、恐らく今日で――。

 

「……全く」

 

 静かなため息が漏れる。

 その直後、一不は目前のグラスへと手を伸ばした。

 

 今も尚視線はある。

 だが、もう気にしない。

 どうせ、何をしても見られる。

 

 ならば、もう意味は同じだ。

 

 指先がグラスに触れる。

 ひんやりとしたワインの感触がグラス越しに伝わる。

 一息。

 喉を通る感覚は希薄だ。

 だが、確かに『味』だけは存在する。

 

 深み。

 渋み。

 熟成された時間の重み。

 

 それら全てが、瞬間的に舌の上を通り過ぎていく。

 そして、一不は完全にそれを飲み干した。

 

「――美味い」

 

 空になったグラスを、静かにテーブルへ戻す。

 音は、ほとんど鳴らない。

 

 その所作はあまりにも自然で。

 そして――どこか、冷たい。

 

 一不は顔を上げる。

 紫の瞳は、もうこの広間を見ていない。

 これから始まる『裏』の動き。

 宴の光の届かないそこに意識を向けていた。

 

「……仕事の時間だ」

 

 華やかな夜は続いている。

 だが同時に。別の夜もまた、静かに幕を開けようとしていた。




 主人公は身体が頑丈なので酒で酔わない。
 だけど酒自体は好き。未成年飲酒?ハハッ
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