日本語警察警察 作:無資格校正士
「ねえ、せんせー」
「はい」
「二人っきりだね♡」
表情を見ずとも
◇ ◇ ◇
「な、何でって、その……アレで……。そう! 毎日やってないと
ふと生じた疑問を聞くとそんな答えが返ってきた。
確かに
「流石ですね。こんなに勉強しているのは江波戸さんくらいなものでしょう」
「は、はぁ? 急に
いや全然。
むしろ放っておいてほしい。さらに言えば部室を失礼して職員室に戻りたいまである。
1対1の状況で無言というのもどうかと思って少し雑談しようとしただけで、私は暇では無いのだ。毎日の部活顧問業の影響で他の仕事が遅れている。目の前でノートパソコンをカタカタいわせてるの分かってるでしょ。
「煽てたわけでは無く、単純に他のお二人はいらしてないので」
忙しい中でも今日の部活用に文章問題を準備していたのだが、遺憾ながらそれはまだ使われていない。部員が揃っていないのである。折角作ったのに……。
「オーハは授業終わってすぐ帰っちゃったでしょ? カナはどうしてるか知んない。こんだけ来ないなら帰ってるんじゃない?」
「?
危ない、ぼんやりしていた。危うく江波戸さんにスマホを確認させるところだった。校内ではスマホ禁止の校則なのに、教員が使わせようとしてどうする。
スマホが脳内に浮かんだついでとばかりに自分のスマホを確認する。江波戸さんから隠すように机の下でスマホカバーを開いた。禁止されている人の前で堂々と使うのも申し訳無いので……。
おや、何か通知が。
若菜佳那
『とーくんへ
今日は用事があるから先に帰るね
とーくんもあんまり遅くまでお仕事しすぎないように』
いつの間にか若菜さんからロインが来ていたようだ。『本日は部活を休まれるのですね。了解しました』──返信完了っと。
「へぇーロインやってんだ。生徒には禁止してるのに自分はいいんだ? 不公平♡ 人として恥ずかしくないの?」
迂闊! 江波戸さんが横へ回り込んできている! さっきまでテーブルの向かいに座って自主勉強されていたはずなのに、何という早業。
「えっそれカナじゃん」
江波戸さんは既に画面をじっくり読み終えたらしい。まあ見られて困るものでもない。ただの生徒との連絡だ────何で生徒とロインしてるんだ? まるで何でもないかのように普通にロインが来たから特に疑問を覚えず返信していたが、そもそもID教えた記憶が無いのだが? え、怖すぎる。
「は……? 生徒と個人ロインとかキモすぎ……淫行教師じゃん。マジキモいんだけど」
はい、キモい! その通りでございます! ヤバいヤバいどうしてこうなった?
「いえ、ロイン交換した記憶は無いのですが、知らないうちに友だちになっているようでして……」
「……ふーん」
ロインなんてあまり使わないから何が何やら……。実は私の記憶が失われているだけで昔から若菜さんとロインのやりとりをする仲だったのかと一瞬考えたが今回より前のトークは存在しなかった。そりゃそうだ。流石にな。
ポコン。おろおろしていると新たなロインが。
ナオ✨
『いんこーきょーし』
これは……江波戸さんか。……何で江波戸さんからも来るのでしょうか。それとその文言は洒落にならないのでおやめいただけませんでしょうか。
「最初の頃さあ、部活の連絡用って4人の電話番号の一覧表作ったじゃん? それのせんせーの番号で行けた」
成程です! ご教示ありがとうございます!
私は早速ロインの設定を変えて電話番号から見つけられないようにする。自分側も自動で生徒を友だち認定していたようなのでその機能もオフだ。これで多分大丈夫だろう。残る問題は既に連絡が来てしまった二人だ。
「江波戸さん、お教えくださりありがとうございました。
それで申し訳無いのですが、このアカウントはブロックしますね」
「はぁ!? 何それ? カナはいいのに何で
「いえ、勿論若菜さんもブロックしますよ。生徒とのロインは禁止されていまして、すみません」
私はすぐに若菜さん宛の文言を打ち込んだ。『心苦しいのですが教育委員会の方針で生徒とのロイン交換は禁止されていまして、申し訳ございませんがブロックさせてください。お急ぎのご連絡がありましたらお電話でお願いします』送信!
「カナもなら、分かった……。あーあ、女子とロインできなくてせんせーかわいそー。社会的弱者♡ 立場よわよわ♡」
江波戸さんは機嫌を直してくれたようだ。良かった。二度と『淫行』呼びはしないでね。何卒ご勘弁ください。
若菜さんに送った文言にはすぐに既読がついてスタンプが飛んできた。よく知らないが丸顔の可愛いキャラクターがうるうると涙目になっている。生徒を悲しませるなど教員の風上にも置けぬ所業、しかしこのままロインのやりとりを続けるようではそれこそ教員としてやっていけないので、心を鬼にしてブロック!
これで取り敢えず一段落。後で学年主任に顛末を報告しないとなあ。当県はSNSでやらかした先輩教員が多すぎて色々厳しく、こういった時は即座に
「せんせー自分の写真アイコンにする派なんだ。ウケる♡ ふへ♡」
江波戸さんは席に戻ってスマホを眺めていた。心に余裕ができてきて気づいたけど、さっきから彼女思いっきりスマホ使ってるな。助けてもらったから今回は見逃すけど……。
「江波戸さん、そろそろスマホはしまってくださいね。勉強されていたんでしょう?」
「はーい♡」
素直にスマホをしまう江波戸さん。なんだかんだで結構聞き分けが良いんだよな。初心者教員の私にはこのくらいの生徒が楽で良い────いや別に楽では無いな。若菜さんの扱いが難しすぎてその分他の生徒が楽に見える錯覚を起こしている気がする。『とーくん』呼びをやめる気配が全く無いんだよなあ彼女。
江波戸さんは今日取り組んでいた問題集を再開した。学年全体に配られているオーソドックスな国語のワークブックだ。高校受験を見据えた中学3年間の
「品詞ってちょーめんどくさい。国語で暗記物があるとか聞いてないんですけど」
いや漢字とかも完全に暗記物だろ。まあ言いたいことは
「品詞の理解は国語力を上げるには重要ですよ。ネイティブはなまじ何となくで国語を理解できてしまいますが、理論的に深く把握するにはそう言った知識が欠かせません」
日本語のセンスだけで国語を乗り切ろうとする奴は例えば大学入試なんかだとセンター試験*1はクリアできても2次でボコボコにされるんだよな。ソースは私。
「そーだけど。暗記だとせんせーに聞くことも無いし……。せんせー今日は問題作ってきてる? それやらせてよ」
「あるにはありますが、やはりこういうものはライバルと切磋琢磨してこそですので、3人揃っている時にしませんか?」
私の作成した問題を求めてくださるのは嬉しいが、解いてもらうのはまたの機会にしたい。ぶっちゃけ問題作るのって結構大変だからたった一人に消化されてしまうのは勿体無いという気持ちもある。
「……あーね」
理解していただけたのかな。
ところで『あーね』ってこの辺りの地域でも使うんだ。福岡の方言かと思ってた*2けど、何か普通に使ってんね*3。
そんなたわいないことを頭の片隅で考えながらPC作業を続けていると、江波戸さんの雰囲気がふと変わった気がした。
「ねえ、せんせー」
「はい」
「二人っきりだね♡」
あからさまに悪戯心が込められた声音。ある種の妖艶さすら感じさせるほどだ。これは目を合わせると面倒なことになるな……。私は顔を上げてしまわないよう意識的にモニターを凝視しながら声を絞り出した。
「そうですね」
──あ、駄目だ。見ずとも解る、獲物に掴みかからんとする殺気を感じる!
「せんせーの作った問題やるのは皆揃ってる時ってことはさぁ、二人っきりの時は別の事したいってこと? 女子中学生と密室で二人でどんなコトしたいの?♡ いんこーきょーし♡」
3度目が来やがった! 『淫行』呼びはマジで
「……普段は皆さんいらっしゃいますから、二人だけの部室は見慣れなくて違和感を感じますね」
苦し紛れに話の向きを少し変えてみる。ここから徐々に軌道修正してセンシティブな物言いから逃れるのだ。大丈夫、私ならできる。自分を信じろ。
「『違和感を感じる』って、
一瞬で食いついたわ。ちょっとでも煽れると思ったらすぐ突撃してくるのね。私を煽ることへの歯止めゼロかよ。
ところでそう言えば、
「言い間違いではありませんよ。そもそも、重言が直ちに間違いというわけでも無いですし」
よし、これを話題にしていこう。『淫行』呼びから逃れつつ、国語部の活動としても
「えー? でも、『頭痛が痛い』とか駄目って言わない?」
まあそういう反応になるよな。さて、どこから話すか…………いやこれ難しいぞ。
そもそも何を『重言』と
しかしながら、色々言ってもこれは結局のところ認容度の問題だ。同じ意味の語を重ねる文言など世の中には数多あるが、それらが一様に排斥されているわけではない。個々の表現ごとに、許容する人の多いもの、少ないものがある。許容しない人でも、許容のレベル──他人が使っても気にならないが自分は使わないとか、あるいは他人にも使ってほしくないとか──に違いがあったり、使わない理由──聞き慣れない言い方だから使わないとか、逆によく聞く言い方だけど他人に「重言だから使うな」と指摘されたから使わないとか──に違いがあったりする。認容度に幅があるのは、自然言語として当たり前のことだ。
一般論として言えそうなのは、
・重言は統語論や意味論的な誤りというよりは、文章が
・意味上の誤りどころか、むしろ重言を無理に避けようとするとニュアンスが変わってしまい意味がズレる場合もあること、
・話し言葉と書き言葉では冗長性に対する認容度が異なり、それを踏まえていない考察は無理があること、
・日常的に重言が用いられている事物を無理に冗長性を無くして伝えようとすると、予測的符号化を
くらいかな……。
江波戸さんに上手く伝わるかこれ? まずは簡単な話から……字が重複しているのに認容度が高い例でも出すか。
「江波戸さんは『歌を歌う』って使いませんか?」
「えっ? ……あっ」
どうだ? 同族目的語な上に結果目的語で、しかも日常的な用法だ。認容度はかなり高いはずだ。
「じゃあ『違和感を感じる』とか『頭痛が痛い』もOKってこと……?」
取り敢えず『歌を歌う』は江波戸さんも認容するようだ。初手は通ったが、問題はここから……。
「少なくとも私は気にしません。ただ、試験では別の形に言い換えられるなら換えてしまった方が良いかもしれませんね」
「……? 何それ、結局OKなの? ダメなの? どっちか分かんないんだけど」
ですよねー。あ〜、うぁ〜滅茶苦茶語りてぇ〜! 微に入り細を穿って説明しまくりてぇ〜! だってもう完全に私の趣味ど真ん中だもん。一を聞かれて十を返したくなりますよそりゃあ。でも駄目だ。あまり色々言っても逆に理解を妨げてしまうから……。早口でべらべら
「何と言いますか、重言を使うかどうかは好みの問題なんです。文章が
「漢字?」
「はい。文章を全部平仮名で書くと明らかに熟れていないように見えますが、かといって何もかも漢字で書くというのも読みにくいですよね。そこの
「『たとえ』……『
あっ。昨日のトラウマを思い切り踏み付けてしまった。江波戸さんの表情が見る見る暗くなっていく!
「江波戸さん大丈夫! 大丈夫ですよ! 昨日の件は試験でも無ければ私は気にしませんし、重言に至っては試験でも気にしませんから、大丈夫!」
「さっき試験じゃダメって言ったじゃん……」
「それはほら、採点者が私とは限りませんので。先生方の中には重言を嫌がる人もいるかもしれませんから、その人に当たった場合に備えてという意味です。重言をどこまで許容するかは人それぞれ──」
「よっ、お待たせ〜」
引戸をガラリと開けて現れたるは
「あれ?
「代議員会に出るっつったろ」
代議員会。ここ
「ったく
「ごめん……」
「二人きりは楽しかったかよって聞くつもりだったが……どうなってんだ? さっきからお通夜みてーなムードじゃねーか」
ギクリ。
「おいおいたずセン、何露骨に目ぇ逸らしてんだよ」
流石にまずいかな。実は今までずっとPC作業を続けていたのだが、キーボードをカタカタ鳴らせる雰囲気ではどう考えても無さそうだ。そっと手を離す。
「てめえが
ひぇっ、とんでもない眼力。マジで怖い。背に冷や汗が吹き出す。
「いえ、単に重言について話していただけで……」
「ナ、
江波戸さんが行木さんに取り成してくださる。ありがとう、
「……それならいーけどよ。落ち込んでるみてーだったからさぁ」
どうやら矛を収めてくれるらしい。怒気の緩みつつある行木さんは、江波戸さんへ歩み寄った。
「チッ、レア表情を一人で堪能しやがって。あたしが居る時にやれってんだ……」
はい?
「あぁ、やっぱ近くで見てもそうだ。哀しむ顔も可愛いよ、
……何だろう、聞いてていい話なのかなこれ。
「??? ……ありがとう……?」
あ、江波戸さんを
行木さんが江波戸さんの顎を指で優しく持ち上げその表情を堪能していたところで部活終了のチャイムが鳴る。救いの鐘である。
「もう終わりかよ。代議員会が長すぎんだよな〜」
軽く文句を口にしながら江波戸さんに手を貸し立ち上がらせる。行木さんは一挙一動がスマートですね。
「部活結局何もできねーで悪かった。今日は帰ろーぜ」
「う、うん……」
わたわたと荷物を片付ける江波戸さん。先程まで見て良いか微妙な光景だったためチラ見に留めていたが、そろそろ
「あ、せんせー」
はい何でしょう。
「重言の話が途中だけど……」
「そうですね……続きは明日……いえ、残りはマニアックな話題ですので、部活の必修要素という感じでも無いですね」
私個人の見解に
「後で共有に資料を上げておきますので、気になる方はそれを読んでいただくという形にしましょう。勿論、疑問点があれば私に聞いていただいて構いませんよ」
クラウドの1フォルダを国語部の面々で共有しており、いつも部活で出している問題・解答のPDFを復習用にそこへ上げている。重言の資料もここに置いておけば良いだろう。
「うん、分かった……。じゃあせんせー、さようなら」
「たずセン、そんじゃ〜」
行木さん、完全に機嫌が直ってるな。江波戸さんの
「はい、さようなら」
帰る二人に会釈してPCに向き直る。今日やり切るつもりだった作業は家に持ち帰って……取り敢えず重言の資料だけ用意して帰るか……。
家での無給労働を思い溜め息を
帰宅後、趣味で集めた資料の詰まったUSBメモリから何とか論文が2編見つかった。ここに無ければ Google Scholar とか国語研のデータベースとかで一から探す羽目になるところだったから見つかって良かった。…………いや論文ってどうなんだ? ちゃんとした専門家の重言に関する見解が書かれた文章ではあるが、しかし中学生に読ませるには難しすぎるよな……。
もっと取っ付き
さて、これで部活顧問としての本日の業務は完了だ。でもまだ他の仕事(無給)が残ってるんだよなあ……。
二階堂整, 「福岡の方言から 「あーね」 ――福岡から広がった若者ことば」, WEB国語教室, 2023年8月20日確認.
NTTレゾナント株式会社, 「無料音声通話アプリ「Telop by goo」、「10 代女性がリアルに使うトレンドワードランキング」を発表!」, PR Wire, 2023年8月20日確認.
参考文献
・高田大介, 「無駄な冗語を重ねて重複使用する重言用法について」, 『言語学の余白に』, 〈https://marginaliae.wordpress.com/2015/10/31/%E7%84%A1%E9%A7%84%E3%81%AA%E5%86%97%E8%AA%9E%E3%82%92%E9%87%8D%E3%81%AD%E3%81%A6%E9%87%8D%E8%A4%87%E4%BD%BF%E7%94%A8%E3%81%99%E3%82%8B%E9%87%8D%E8%A8%80%E7%94%A8%E6%B3%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84/〉, 2023年9月9日確認.
・中川秀太, 「動作性複合名詞と動詞との連合における重複表現について」, 『国文学研究』 147, 80-70, 早稲田大学国文学会, 2005.
・兪暁明, 「重言とコロケーション ─その関連性と認め方─」, 『北陸大学 紀要』 33, 125, 北陸大学, 2009.