はじめまして、生前は宮崎の某病院産婦人科勤務医だった男です。
前世思い出したのはだいぶ前のことです。
それは姉や母親と一緒に風呂入ってたときのこと。
出産のとき母体に事前にする会陰切開って処置がありまして、母さんがバスタブ跨いだときに処置の痕跡見て思い出しました。
あ、いまクソ野郎って思った?
舐めんな。
こっちは女の股なんて仕事でもプライベートでも何百って見てきてんだ。
いまさらどうってことねーよ。
違うんだよ。この会陰切開の処置はな、俺がしたやつなんだよ。
39週目の終わり、もうすぐ40週目直前ってところで受け持っていた患者が産気付いてな。
まあ、それがウチの母親だったんだが。
普通の出産でもだいたい10時間くらいかかる長丁場なんだ。
おまけに16歳で初産だし双子だしの難しい出産だった。
先に生まれた女の子のほうは比較的楽に出てきたんだが、下の子、つまり俺の場合ちょっとやっかいでな。
息してなかった。
必死に蘇生処置繰り返したけど、まあもうダメかなってあきらめたとき息を吹き返して声をあげてくれたんだ。
うれしかった。ああ、ほんとうに嬉しかったよ。
まあ後にしてみれば俺が俺取り上げて俺が俺蘇生させてるって意味わからん光景なんだけどな。
それで大体の処置も終わって一度家に帰って休もうとしたら、声をかけられた。
俺のことも、俺が受け持っていた患者のこと知ってるやつだったよ。極秘入院しているのにな。
そいつを追いかけて見失って岸から突き落とされた。
位置的にもう一人いたんだろうな。
まあ、いいよ。
そっちはもう終わったことだし、どうしようもない。
よってそんなわけで気が付いたら俺はおっぱい飲んでねんねしてな、優雅な赤ちゃんライフ送っていたわけだ。
いや前世思い出したときは、もうおっぱい飲んでなかったぞ。とっくに授乳期終わってたし。
それにこの転生というのもそう悪いもんじゃない。
俺に母親と呼べる人をくれたんだから。
最初っから俺としてリスタートしてたら、こんなに甘えることもできなかったと思うし。
まあその母親が前世で最後に担当してた推しのアイドルだったというオチなんだが、それはそれ、これはこれだ。
その辺に関することは生前のうちにいろいろ和解しているから。
紹介が遅れたけど俺の名前はアクアという。
充て漢字はない。フルネームでアクア。カタカナでアクアと書く。
斎藤社長か誰か知らないが、ありがとう。ほんとうにありがとう。まさか自分がこの名前になるとは思わなかったのでマジ感謝しかない。
これでも十分キラキラネームだがどうってことはない。他の候補はもっとこう凄い名前だったんだよ。
正直どうやっても一発で読めんくらいにな。それに比べれば十分許容範囲な名前だ。
先に生まれたお姉ちゃんの名前はルビィちゃん。
このルビィちゃんは、どうも俺と同じ前世持ちらしい。
周囲の状況から察するに俺と違って、生まれた時からしっかり前世持ちであることを自覚して行動してたようだ。
それはもう手のかからない完熟済みベイビーだったらしい。
しかもウチのお姉ちゃんアマテラスの化身なんだぜ。
でもルビィちゃんのほうは俺が同じような存在であることは知らないはずだ。
そもそも俺は大人しくまっとうな赤ちゃんライフを送っていたんだからな、
おっと、赤ちゃんプレイとかいうなよ。
そんなチャチなもんじゃねえ。
俺は本気でオギャバブしてたんだぜ。
まあ実際前世思い出したからってどうにもなるもんじゃなかった。
つまり俺には優先権がなかったんだ。
あの時は大人の理性を赤ちゃんの体に乗せてる状態だったのかな。
いやいや期に癇癪、夜泣きなどなるべく我慢しようとはしたが全部ダメ。
基本赤ちゃんの本能のほうが優先されるみたいだ。
夜中に泣いて母さんを起こしてしまい、目の下にクマを作らせてあやしてもらったことには正直感謝しかない。
それでもいっぺん殺されかけたことがある。
こう、首に指をかけられて、ギリッと力が入ってさ。
そんときの母さんの顔には日頃の人好きさせる笑顔はなかった。
唇は固く結ばれて、氷のように冷たかった。
前世の俺は母親の命を犠牲にして生まれてきた。
それはあくまで前世の話だと思っていたけど、今世では逆に母親に殺される。
なんというか俺はいないほうがいい存在なんじゃないかと思ってしまう。
いるだけで誰かを悲しませる存在なんじゃないかと。
だからどこかで受け入れてしまっていた。
あのとき生まれたばかりのこの子を必死で助けた。
だけど結果が同じなら、それは早いか今かの違いでしかなかったのかもしれないから。
でもルビィちゃんが助けてくれた。
普段はママ大好きなルビィちゃんだけど、そんときばかりは母さんの手を必死になって叩いて止めてくれてね。
はっとして俺の首から手を離した母さんは自分の手を握りしめてた。
そのときの母さんの顔は悲しそうで悔しそうだった。
俺たちが生まれてから母さんは育児日記を書いている。
けどルビィちゃんは基本手を煩わせなかったので、俺のことが多い。
ただその内容は全般的にすごく育児ノイローゼ気味でな。
まあワンオペ育児なんだし、そうなるのも当然なんだが。
ペラっ
もう離乳食。早いな。
ルビィは好き嫌いしないしきれいに食べてくれるけどアクアがちょっとお残しが多いかな。
ペラっ
頑張って離乳食作ってもアクアは市販品のほうがよく食べる。
けっこう寂しい。
ペラっ
ルビィが立った。
アクアはまだ。少し遅いのかな。
ルビィと比べちゃう。
ペラっ
夜中にルビィが熱を出す。
苦しそう。翌日ミヤコさんに病院に連れて行ってもらう。
私はいっしょに行けない。お母さんなのに。
ペラっ
ペラっ
ペラっ
アクアの夜泣きがひどい。
ちょっと前はおっぱい含ませると泣き止んでくれたけどだめ。
なんだよまるで俺がおっぱいが好きみたいじゃん。
まあ好きですがなにか?
ルビィちゃんと一緒になって母さんのおっぱい、乳輪広くて乳首長い歴戦のおっぱいしたくらい好きですが?
ペラっ
アクア、夜泣き。
ペラっ
うるさい。何で泣くの?わかんないよ。
ペラっ
うるさいうるさいうるさいうるさい。
静かにして。
ペラっ
アクアが寝てくれた。洗面所の鏡の中にあの人がいた。
口の中がじゃりじゃりする。砕けたガラスの味がする。あの人の怒鳴り声。痛い。ごめんなさい。吐いた。
たすけて。
日付からして俺の首に手をかけた直後がここだ。
こうならないためのサポートは色々ある。
でも問題は我々兄弟は色々アンタッチャブルすぎたことだ。
なにしろ未成年の出産というだけでなく現役アイドルの極秘出産だったし、状況と環境から斎藤社長はそういうサポートを拒んでしまったようだ。
たしかに秘密は秘密を知る人間が多いほど漏れやすくなるから斎藤さんの行動も理解はできる。
ただ母さんには虐待された人間特有の特徴が色濃く出ていた。
日記に出てくる”あの人”というのが母さんの抱える問題の根幹となった人間なんだろう。
別に洗面所の鏡は割れてなかった。
そちらも含めてカウンセリングを受けてほしかったんだが、そうしたことの相談を俺は産後に回してしまっていた。
産婦人科は患者の出産が終わったらそれでお終いということはない。
むしろその後のケアも同じくらい大切なことなんだが、転院してしまうとどうしてもな。
ましてや担当医が申し送りもしないで行方不明になってしまったから。
前世の俺が生きていたらもう少しだけ母さんの苦しみを和らげてあげられたのかもしれない。
傲慢かもしれないけどそう思ってしまう。
ペラっ
アクアの夜泣きが落ち着いてきた。
ごめんね。アクアは何も悪くないのに。
ペラっ
ペラっ
ルビィがしゃべってくれた、ママって言ってくれた。かわいい。
うん、ママだよ。あなたのママだよ。
アクアはまだだけど大丈夫だよ。
アクアはアクアのペースでいこうね。
ペラっ
ペラっ
ペラっ
ペラっ
しゃべった。アクアがしゃべった。ちっちゃな手伸ばしてママって。
涙が止まらない。どうしょう。
ペラっ
ペラっ
好きだよ。
嫌いになんかなれないよ。
愛してる。
アクア、ルビィ
二人がお母さんのこと嫌いになっても、それでも私は二人のこと愛してるよ。
ペラっ
ペラっ
嘘はとびきりの愛なんだと、いつか昔の俺に母さん、いやアイは言った。
つまり母さんにとって言葉もまたうそをつくツールでしかない。
だから本当は怖がりで臆病な母さんは俺たちに愛しているといったことはない。
でもそれは本当に愛してくれていることの裏返しでもある。
そして誰かに伝えるための言葉じゃなくて、ただ思いを書き綴った文章になら嘘はない。
うん、わかってるよ。
俺もルビィちゃんも母さんのこと大好きで、愛している。
だから怖いんだ。
母親にやばいストーカーがいることが。
こんな毎日があのストーカーに壊されるんじゃないかって。
でも伝えられないでいることがもどかしい。
そもそもそれをどう説明するんだ。
母さんと俺は前世からの知り合いでさあ、なんていってみるのか?
いやそこは何となく受け入れてくれそうだけど。
ただまあ、結局、過去があちらから来てくれたんだが。
結構前から母さんはアイドル以外の仕事にも手を出しはじめていた。
理由は給料が少ないことでの俺たちの将来の選択肢を減らしてしまうと考えたからだ。
通帳の残高見てはため息ついてたことを何となく覚えている。
子どもが成人するまでにかかる金額は平均2000万。
双子なのでその倍。
ここに塾やら習い事が加わるとシングルマザーにはなかなかの負担だ。
俺の前世は年収だいたい約1000万だったが、でもこれ責任の付いて回る仕事内容に対しては安いくらいだ。
月に100時間くらい残業つくこともほとんど毎月あるし、おまけにいつ訴訟起こされるかもしれない不安付きだしな。
で、母さんは俺達の将来のためにとアイドル以外の仕事にもいろいろ手を広げていた。
仕事があれば積極的に受けていた。
ドラマやら映画やらへの出演もしていた。
そこで母さんは俺のお姉ちゃんであるルビィちゃんと何度も共演しているんだ。
俺?ああ無理。そのころ年相応の並の子だったし。
で、そんなルビィちゃんに仕事場で友達が出来た。
名前は有馬かなちゃん、
年は俺たちより一つ上の子役さん。
いろいろあってかなちゃんもアイ推しになった。
けどルビィちゃんはアイドルとしてのアイを、かなちゃんは演者としてのアイを推している。
そこから喧々諤々し合ってお互い妥協点を模索して和解したらしい。
いいよね和解。
昔の俺もしたよ。
そんなかなちゃんは我が家にはじめて来た友達でもある。
いらいっしゃいませ、かなちゃん。ようこそ星野家へ。
母さんがいろいろお菓子用意してお待ちしてました。
しかしあくまでルビィちゃんの友達であって俺の友達ではない。
よって俺は中に入ることなく母さんお膝に乗ってリビングでそろって音ゲーしてる二人を眺めてる。
まあ遊んでいる二人を見てる母さんは楽しそうだしいいけどね。
なお最初にルビィちゃんがB小町のライブDVDも持ち出してきてアイドルのアイを布教しようとしたことは見なかったことにする。
和解どこいった。
あと、かなちゃん割と口悪い子だね。
しかしさすがはルビィちゃんだ。お客さんの前では一度も母さんのことをママと呼ぶことなくアイお姉ちゃんと呼んで対応している。
女優だな。
俺は出来そうもないのでお口閉じておとなしくしてるぞ。
なんか揺れた。
寝てたみたいだ
抱っこされたまま部屋を出てた。
寝室に行くみたい。
起きたし降りようとしたらそのまま抱き直されたので母さんに引っ付いて、あくびしながら首筋に押し付けて顔をこする。
チャイムが鳴った。
お客さんかな?
ごめんねと母さんに謝られて抱っこされたまま引き返して玄関のほうに連れていかれた。
かつての俺はこの玄関を使い脱走したことがある。
ルビイちゃんはまだお昼寝中で疲れてたのか母さんも一緒に寝てた。
先に目が覚めた俺は玄関のカギを開けてチェーンを外して一人外に出てしまった。
仕方なかった。
好奇心には勝てなかったのだ。
いやあ、あのわくわく感はすごかった。
見かけと情緒と理性が見事にコラボしちゃったよ。
一人で外出って大人だよな。
一気に世界が広がった感じがした。
表の道路に出た辺りで裸足で追いかけてきた母さんに捕まって冒険は終わりを告げてしまったけど。
うん、無茶苦茶叱られた。
だが俺はあきらめない。
虎視眈々と次の機会を狙っていたらチャイルドロックを付けされてしまったのだ。
チャイルドロックにチェーンロックと堅牢かつ鉄壁の防御力を誇るようになったドアを突破することは叶わなかったのだった。
そうこうするうちに早いもので俺ももう4歳。
無断でお外に冒険?
しないよ。だってもう俺もう分別付くお年頃なんだし。
無茶苦茶叱られたくない。
かつては手が届かなかったドアノブよりもずっと上にあったそれ。
だがいまはもう体を伸ばせば手が届いく。
当然解除だってできる。
それでも星野アクアくんが勝手にお外に出ようとするのを防ぐための専用対策装備チャイルドロックはいまだ現役。
まだしっかりと使われていたりする。
おいおい、もっと俺をトラストミー。
母さんがドアカギを開錠してドアを開ける。
その向こうにアイツがいた。
例の宮崎の病院まで探り当てたストーカー男の姿が。
寝ぼけていた頭が途端に覚めた。
その日、過去が追いついてきた。
このとき俺がわかっていたことはドアの向こうにいるストーカー男が宮崎にいたヤツの一人だということ。
聞きとれないけど、なにかわめていて逆上していたこと。
それとわずかなドアの隙間からナイフを握った手を突っ込んできたことだ。
といってもナイフが届くことはなかった。
元々小さな子どもを表に出さないためのチャイルドロックが掛かっていたからだ。
そこには大人なら手をこじ入れるくらいの隙間しかない。
だから一歩でも下がれば十分避けられる遅さになる。
そもそも俺を抱っこした母さんはライブで見せるみたいなステップですぐドアの影に隠れてくれてた。
隙間から突き出されているナイフ握った手も、そこでドアに体重をかければ当然挟まれて動けなくなる。
母さんの手の中を抜け出した俺は、そのまま抑えといてと言って部屋の中に戻る。
リビングのテーブルの上に置いておいたケータイを取ってポケットに。
奥にいる二人には来ないように言って、それからキッチンに上って壁に掛けてある一番大きいフライパンを手に取ると玄関に戻った。
必死にドアを抑えてくれてる母さんがいた。
ドアを強く叩く音。ドアの隙間から出ているナイフを持った手。
理不尽な光景だ。それを見て心底頭に来た。
そのまま横からナイフを持つ男の手首に向かって縦にしたフライパンを大きく振りかぶってぶち叩く。
一発でグリップに骨のイク感触が伝わってきた。
遠くで床にナイフが落ちる音が聞こえる。
心臓の音がうるさい。聴音器使ってない鮮明に聞こえてくる。吐く息も荒いままだ。
母さんにケータイを渡すとフライパンで床に落ちたナイフを遠くに滑らす。
ドアの隙間の前に立ち、何かわめいているストーカー男を睨みつける。
はじめまして?それとも久しぶり?
いろいろ言いたいこと聞きたいことはあるけど、まあいいや。
まずはテメエを潰してからするよ。
突き出されるように挟まれたままのその手に向けて俺、は大きく振りかぶったフライパンを力いっぱい振り下ろした。
どこかで何かが砕ける音がした。
騒ぎを聞きつけた近隣の人か、それとも母さんが通報した結果か、外が騒がしくなった。
サイレンの音も高々に消防、救急車、警察の順に到着したみたいだ。
遅くない警察?
それでも時間はそれなりにあったから、ストーカー男の手は箸も持てない手になった。
私怨の成果だ。
ドアの向こうからすすり泣く声が聞こえてくるが知るか。
死んでないだけマシだろ。
ちょっと変になってるけど指だって全部残ってんだ。文句があんならいっぺん死んでから来い。
表から警官だって名乗る男の声がした。
遠くから母さんと警官を名乗った男が話す声が聞こえる。
変だな。こんなに近くにいるのに。
母さんがドアから体を離して俺を後ろかばうとチャイルドロックだけを外した。
開かれるドア、途端に男の手が外に向かって引かれていった。
母さんの向こうに警官の制服がたくさん見えて、ストーカー男が拘束されていた。
それを見たとき握力がなくなってフチがベッコべコになったフライパンが指から離れて落ちる。
やたらと音が響いた。
音が戻って来た。
急に緊張が解けて座り込みそうになる。
その前に母さんが抱きしめてくていた。
あったかいぬくもりにほっとする匂い。
ただそれだけなのに胸の奥がいっぱいになる。
生きていると、そう実感させてくれる。
鼻の奥がツンとして、とたんにたくさん涙があふれてきた。
母親の命を犠牲にして生まれた俺が今世では母を守れた。
そのことに気が付いて、その事実をかみしめたとき泣いた。大泣きした。
様子を見に、そっと顔をのぞかせていたルビィちゃんやかなちゃんがいた。
母さんは二人を呼び寄せると、両手を精いっぱい広げて、みんなをいっぺんに抱きしめてくれた。
ありがたいことに、ここから俺の抱えていた問題は芋づる式に解決していった。
俺にとっての問題は母さんにはヤバいストーカーがいるということを知っていること。
これは前世から持ち越している問題だ。
そして、そいつ、あるいはそいつらの複数であること。
あのとき帰宅しようとした俺に話しかけてきたのは間違いなくコイツだ。
だからコイツには余罪がある。
あるのだが、その余罪、4年前に宮崎でのことを証明することは難しい。
ただ、ここから白昼アイドル宅に押し入って殺害を企てようとしたストーカー男の事件は意外な広がりを見せていくことになる。
捕まったときに聞こえてきた子どもの泣き声が自分が何をしようとしたのかという罪悪感を芽生えさせたらしい。
時間が経過するにつれその罪悪感に心を折られ、4年前の宮崎での事件のことも自供してくれた。
そしてやはりあの場にはもう一人いた。
宮崎の病院まで探り当て、俺が産婦人科医なことを知っていて、おそらく俺の殺害を実行したヤツ。
ただ残念ながら今回は、そいつの姿はかけらもなかった。
完全にコイツ個人での単独の犯行だった。
コイツがウチの自宅にたどり着けたのも街中で母さんを偶然見かけたことから始まった偶然を頼った結果でしかない。る。
殺人に関与していない。認めたのは死体を運んだことと隠匿に協力したことだけだ。
ただ当時の協力者とはそれ以来会ってはいないとのこと。
当然名前も偽名だったし、当時連絡を取り合っていた手段からもその後の足取りを追うことができない。
出来たことといえば記憶を頼りに作成された当時の似顔絵くらいだ。
宮崎の高千穂にいったん護送され立ち合いの元で遺棄した場所を捜索。
そしてほどなく俺は白骨化した姿で見つかった。
それを知らされたとき母さんは呆然としていた。
ルビィちゃんはたくさん泣いていた。
やさしい子だな。会ったこともない知らない人のためにそんなに泣けるなんて。
でもそれから母さんは少し塞ぎこんでしまっていた。
しかたないか。
そこまで完璧に情報を流出できた人間は、あのとき院内には一人しかいないんだから。
でも自惚れだったらすまない。
もしも君がそのことで気に病んでいるのなら、どうか気にしないでほしい。
アイ、僕は君を責めはしない。
あれは完全な僕のミスだ。
だいたい僕があの男を追う必要なんてなかった。
浮かれてたんだ。
助からないと思った命を救えたことに。
なら最後の運命を決定付けたのは僕自身の下した選択の結果だ。
だから君が気に病むことなんて何もないんだ。
もし僕のことで思い悩むのならその時間をルビィちゃんのことを思ってほしい。
君が悲しんでいたら、誰が悲しむかを思いだしてほしい。
この4年、ずっと君のそばにいた。
だから知っているつもりだ。
きみはもう立派な母親なんだということを。
うん。
やっぱりカウンセリング必要だよなあ。
ただうれしい誤算もあった。
隠そうとした結果、同時に当時の物的な証拠も残してしまってくれていたからだ。
DNAの採取は俺の腐肉のせいで難しかったようだが、引きずるとき手にした白衣の部分は汚染が少なく部分指紋だが採取できた。
供述したように二人分のだ。
それはかつての俺からの無言の告発だったのかもしれない。
なあ、最初はどんな気持ちだった?
1週間目は?ひと月目は?そこまでいけば上手くやったと思ってたかな?1年目にはもう安心しきっていただろうな。
そうやってうまくいっていた。少なくともこの4年の間はな。
でも綻びが生まれた。
届いたぞ。
今はかすかにしか見えない隠れたままのお前の存在にな。
表向き事件はアイの自宅にルビィちゃんとかなちゃんが遊びにきているときに起こったことになっている。
よって仕事の面で見ると、共演した3人が一緒にいたときに被害にあったことで、この事件の効果は大きいものがあった。
いい番宣になったのか、一緒に出演するドラマだか映画だかは公開前なのに注目を浴びることになった。
母さんが以前主演したのに出番がカットされまくって落胆したドラマがあったがこちらも再評価されていた。
流れに乗れとばかりにこの一件で名の売れた母さんのカットされた部分を追加して再編集したものがウェブ限定で配信されることになった。
こちらの評判が思いのほか良く母さんの演じたモブキャラを主役にしたスピンオフが製作されるとのことだ。
経済的なことから見れば、ウチの冷凍庫の冷凍庫にはお高いダッツのアイスが常時各種フルセットで鎮座している状態になった。
お金のあるバロメーターの基準がアイスなのは世帯主の意向だ。
どうあれ通帳を見てため息つく母さんはもういない。そのことが嬉しい。
テレビに自分の死亡報道が流れるという稀有な経験もした。
紹介されるイェーイな遺影という、いたたまれない経験もした……。
でも自分の遺影用の写真なんて用意してないからなあ。
生前の雨宮さんをインタビューで語っていたのは久しぶりに見た勤務先の病院の同僚たちだった。
どいつもこいつの事実を語るな。そこは故人をしのぶことを言うべきだろう。
まあ葬儀にはわりと元患者さんたちの姿も見えた。
別れを惜しんでくれる人たちがいるなら、意味のないと思っていたあの人生にも意味はあったんだろうな。
そしてカウンセリングだ。
あのストーカー事件のあとで俺はカウンセリングを勧められた。
自分としては特に必要性も感じなかったのだが、いい機会だった。
それが必要なのは俺ではなく母さんだ。
よって、ここで子どもらしくお母さんと一緒じゃ嫌と振舞った。
見くびるなよ。
見かけは子ども、情緒も子ども。でも理性は大人なんだぜ
俺にとって演じることは戦いだ。
ようやくだ。
こうして俺はようやく母さんをカウンセリングの場に連れ出すことに成功した。
やはり母さんにはカウンセリングがよく似合う。
ほら、さっそく問題がざくざく出てきたぞ。
本当は4年前にしないといけなかったことだけど。
少しと遠回りになったけど、これが君の心の救いになるといいな。
月日は巡る。
人のうわさも七十五日という。
ではその10倍の月日が流れたらどうだろう。
当時現役だったアイドル宅に刃物を持ったストーカーが襲撃したなんて事件は、もう忘却したも同然だろうな。
あれから我が家は日々平穏だ。
小さな問題?そんなのいつものことだ。
中くらいの問題もたまにあるが、ナイフ持ったストーカーが家にやってくるとか、そんなおっきな問題はない。
そんな問題もういらない。
あんなの稀有なことだ。
そう何度もあってたまるか。
問題なんて、たとえばほら、ピーマン嫌い、食べたくないとかそんなんでいいんだよ。
いまの俺みたいにな。
お皿の上には中に詰まった肉だけ先に食べてしまったピーマンの肉詰めの残骸。
悪手な食べ方だったかもしれない。
綺麗に完食してるルビィちゃんのほうにさりげなく皿押し付けたんだが。ルビイちゃんは母さんにダメって言われたら押し返してきた。
あいかわらずママのこと大好きだなあ。
頭なでられてがんばれって言い残してテレビ見にいっちゃったよ。
でも前に代わりにニンジン食べてあげたじゃん。
バーターどこいった。
裏切られたわ。
食べれずお見合いを続けていると母さんが残されてるピーマンの気持ちをアテレコしてきた。
食育か?
こんなときに食育か?
いやこんなときだからこその食育だよな。
だが流石女優。
無駄にうまいのが腹立つ。
ほら、罪悪感覚えちゃった。
まるで俺が悪いみたいじゃん。
ついにピーマン体操まで歌ってきた。
わー、かなちゃんよりうまーいってほめたらフルで聞かされた。
テレビ見てたルビィちゃんが戻ってきたが歌が終わると拍手をしてまたテレビの元に戻っていった。
ヘイ彼女、戻る前にピーマン食べてかない?
ここまでされて、この皿の上に残しているピーマンをどうするべきか。
食べるべきか、食べざるべきか。
それが問題だ。
まあ結局食べる以外の選択肢はないんだけどね。
俺は箸でピーマンを摘まみ上げる。
泣きそうになりながらそれを口の中に放り込んでモグモグと口を動かす。
よくできましたーと手を叩いて母さんがほめてくれた。
ふふん。