その気持ち、タブーにつき 作:くちばし
世界は広い、果てしなく。
ちっぽけな心の声を叫んでも、広すぎて反響すらしてくれない。
人の心も同じ、幾ら叫んでも届かない人には届かない。
ただ叫ぶ、ひたすらに叫ぶ。
叫びたがってる心の
山の樹海の奥深くへと。
海の境界線の向こう側へと。
果てしない空の天井へと。
夜の海に浮かぶ満月に向かって。
青空に照り輝く太陽に向かって。
そうすれば、きっと世界は応えてくれる。
自由で、そよ風で、青空で、太陽で。
小さなこの想いを、いろんな形で祝福してくれるんだ。
けれど、人は違う。
どれだけ叫んでも、どれだけ訴えても。
届かない人には届かないし、届いて欲しい人ほど届くことはないんだ。
でも、それでも。
叫ぶ、何度も、何度も叫ぶ。
喉が破れそうなほどに、叫んでみせる。
けれど、心は無情だ。
声は透き通って、どこかに消えてしまうんだから。
声が手の届かないところまで、走って行く。
世界の果てへと、心の果てへと、見えないところまで。
永く待とうと、声の答えは返ってこない。
飽きるほど待っても、ずっと。
遂に、声は返ってこなかった。
♢♢♢♢♢♢
「────あ、れ」
重い瞼が、ゆったりと開く。
視界に入ってきた世界は、数秒前の晴天とは打って変わっていた。
満天の星空と、きれいな三日月。先程までそこにあったはずの世界が変わって混乱して、頭が掻き乱される。
『もう起きて』って、夜風が頬を撫でる。
ぱっと思考が止まった。ぐるぐるしていた頭が覚めて、覚めて……詰まっていたものが、すっきり流れてしまう。
詰め物が取れた今、ようやく現状を理解できた。
河川敷の草が瑞々しくて、気持ちよくて。ついそのまま寝転がって、眠ってしまったのかな。
いいや、それしかない。
だって、ブランケットが湿っちゃってるから。
冷たい風に晒されて、それでも草の水気を吸って、アタシの体を守ってくれたんだろう。
世間では春が咲き始めたと言っても、まだ冬から移り始めたばかり。
草は瑞々しくても、風は冬の冷たさを纏っているんだ。
それに風も水を乗せてきている、ブランケットが微妙に湿ったのはそれも原因だろう。
頭の中の悩み、それが全て解けた。
むくりと体を起こして、立つ。そしてもう一度空を見る。
綺麗になった視界が、鮮明に星を映してくれた。
西に傾いたオリオン座。
まだ見えないけれど、あのオリオンの向こう側には、オリオンを追いかけるサソリもいるのかな。
一転して変わる星の夜空、その夜空は何度も廻って姿を見せる。
今見える星空が見えなかった星空に変わる瞬間、その景色を想うと胸が躍った。
とくん、とくんって。
優しく、逞しく脈打つ。
心地良い脈動が体を突き動かそうとした、アタシに『次はこれがしたい』って必死に訴えかけてくれるんだ。
どうしようかな、何をしようかな。
今時間は何時なんだろう、このぐらいの暗さなら6時ぐらいなのかな?
ならすぐそこにある川で水遊びをしよう、寝起きの体を冷たい水で起こすのにはうってつけだ。
あぁでも、お腹が空いたなぁ、何食べようかな。
この前エースと話してたラーメン屋にでも行こうかな、でもラーメンって気分じゃないし、麺なら蕎麦がいいかも。
でもやっぱり楽しいことがしたい、今すぐ走って、全力で走って、この空気を味わいたい!
「よし、走ろう!」
体と心が、そう叫んだ。
刹那、体が跳ねる。
心が高鳴り、空を切る。
意識が気付いた頃、アタシは走っていた。
脚を上げて、下げて、蹴って、飛ぶ。
それを何度も繰り返して、心臓が早く脈打つ。
体の隅々に渡る血と、肺に沁み渡る冷たい空気。
肌に感じる、空気の瑞々しさを体で切る感覚。
「はっ、はっ……はは、あははっ!」
楽しい、楽しくて堪らない!
もっと、もっとこの時間が長く続いて欲しい。
どく、どく、どくって、もっと心臓も高鳴って欲しい。
もっと速く、もっと強く!
今の景色よりも、もっと先に!
だんっ、と。
体が思いっきり、羽ばたいた。
空を割いて、裂いて、切り裂いて。
景色が歪んで、風がアタシを抱き締めてくれた。
「────あぁ」
────気持ちいいなぁ。
心の奥底まで響く、幸福の衝撃。
その衝撃に全てを満たされて、脚が止まった。
また空を見る、空を仰いで、空に触れる。
『この星空の下で走れて、本当に良かった』って。声に出すことすら叶わない、歓喜の声が心で叫んだ。
きっと今、アタシは笑っている。
昂る体を落ち着かせながら、精一杯笑ってみせている。
楽しくて、嬉しくて仕方がないから。
この気持ちを抑える必要もなく、全てを叫んでいるから!
「はぁ、はぁ……あー、疲れた!」
肩で息をして、健気に叫ぶ。
頬に垂れた汗が、今は心地が良かった。
疲れたなぁ、でもまだ遊び足りない。
これ以上変に走ったら爪にも響くだろうし、爪を犠牲にしてまで楽しい思いをする気はない。
走れなくなるのは、イヤだから。
じゃあ走る以外の楽しいことってなんだろう。
今からご飯を食べに行くのもいいけど……なんでかなぁ、走ったせいでお腹が空いてないや。
他にできること……歌うとか?
でも市街地で歌うのはちょっと違う、声が建物に隔たれて通らないし、何より他の人にも迷惑だ。
また
風邪を引いたら皆に迷惑しちゃう。エースはきっと看病しに来るだろうし、ルドルフには軽く怒られちゃうかも。
けれど……一番迷惑しちゃうのは、トレーナーだよね。
アタシの一番特別で、一番
今日も明日のトレーニングについて話したし、折角考えてくれたメニューを無駄にするのは、アタシの心が許さない。
トレーナーの同意があってなら、それはもう意気揚々と破ってみせるけど。
アタシのせいで爪を痛めた、だから秘密にした。
爪を痛めたせいで練習出来なかったら、トレーナーに迷惑が掛かってしまうから。
一緒に楽しくなれないし、一緒に自由になれないのが、アタシにとっては心苦しい。
でも、トレーナーは優しいんだ。
アタシのために、アタシの頑固な気持ちすら納得させてくれて、アタシの体を労ってくれる。
一緒に楽しくなれなくても、一緒に自由になれなくても、きっと先にある楽しさと自由を見て歩みを進める。
そんなトレーナーが、アタシは
お互いとっても気が合うし、価値観もそこそこ合ってるし、何より一緒に居て楽しい。
トレーナーと一緒に居ると、欠けた心が不思議と満たされて、胸が高鳴って仕方がない。
ほら、今も。
どくん、どくんって、胸が痛くなるぐらい鳴っている。
トレーナーのことを考えると、いつもこの痛みが来る。
だけどこの痛みが心地良い、優しいナイフでゆっくりと刺されるかのようなこの痛み。
決して息苦しさとかはない、緊張とかでくる胸の痛みよりも優しい痛み。
痛いのに心地良いって、ちょっとヘンだよね。
ある意味、この気持ちは叙情の果てなのかもしれない。
……あーあ、トレーナーの話してると、トレーナーに会いたくなってきちゃったな。
今会いに行っちゃっても大丈夫かな?いや、大丈夫だね、絶対に。
絶対なんて保証はないけれど!
「何してるのかな」
ぽつりと、木の葉から零れた水滴みたいに言う。
無意識の中で言った本音、落ちた言の葉の音は、すぐ夜の闇に消えて行ってしまった。
不思議と笑みが溢れた。
今、彼は何をしているんだろうって妄想。
今から彼に会いに行くんだってわくわく。
これからどんな楽しいことが待ち受けてるんだろうって、未知に対する歓喜が顔に出ている。
そう考えてる最中、体は歩を進めていた。
通学路から外れていたところなのに、自然とトレセンまでの道が分かる。
いわゆる勘、かな?なんで分かるのかが分かんないや。
こつ、こつ、こつ。
ざあ、ざあ、ざあ。
ローファーの足音と、風に揺られる木の葉の音。
耳をピンと立てて、僅かな音すら堪能する。
トレセンに近づく度に増える、微かな人の声。
車のエンジン音も聴こえる、これはちょっと耳に突き刺さって不快かも。
でも、それを掻き消してくれるような、いろんな足音がちょっと心地良いんだ。
こつ、こつ、こつ。
こつ、こつ、こつ。
足音が沢山。
ブーツの足音、スニーカーの足音。
大きな音もある、この音はハイヒールかな?
少しずつ、少しずつ人が増えてきてる。
「……わっ」
静寂の中の足音を堪能していた最中、急に大きな音が飛び込んできた。
不意に耳を覆い被さって、きゅっと目を瞑る。
大きな音に刺激されたせいか、尻尾はばさばさと音を鳴らして左右に揺れる。
「……」
静かに、空を見上げて聴く。
ぼやけて聴こえる、がたんごとんと鈍く鳴る音。
電車だ、電車が通り過ぎたんだ。
ビックリしちゃう訳だ、普段聴かないような小さい音を拾ってたら、急に大きな音が飛び込んでくるんだから。
でも、でもそうだな。
気付いたら、もう目の前にはトレセンの校門がある。
電車は遠くの方にあるけど、まるですぐ隣を素通りするかのような大きな音が聞こえたってことは、ある意味アタシの『音を聴こうとする』頑固な意志に、幕を下ろしてくれたのかもしれない。
「ま、どうでもいっか!」
こんな風に想像を膨らませるのも楽しいけど、細かいことを気にし過ぎたら頭が疲れちゃう。
だからどうでもいいってことにする、そっちの方が楽に済むから。
今はトレーナーと会うことが、私の求めている楽しみ。
普段は生徒で溢れてる、本校までの一本道をたった一人で歩く。
並木はまだ実ってなくて殺風景。それでいて本校には電気が付いている一室もあって不気味。
肝試しみたいで楽しいかも。いつもは人でいっぱいな場所がすっからかんなんて、不思議で仕方ないんだから。
「……また違うこと考えちゃってる」
……いつもそうだなぁ、少しでも他の考え事が浮かぶと、すぐそっちに移っちゃう。
昔からずっとそうだった。
大多数の人には、どうしてそんなに落ち着きがないのって。真面目な子からは、少しは集中してよって怒られたりもした。
毎日毎日、堅苦しい内容で怒られて、つまらない話を繰り返し聞かされる。
他人は
自分は自分、他人は他人なのに、どうして強制されなきゃいけないのか、今になっても理解できない。
自分でも頑固だし、ワガママなのは分かっている。
けど、どうしても……納得ができないんだ。
だから、トレーナーのことはすごく信頼している。
アタシのことを納得させてくれるし、何より自由の価値を知っている。
だからこそ一緒に楽しめるし、トレーナーの考えてることも手に取るように分かる。
三年間も一緒に走ってきたからかな、まるで体の一部とすら思うんだ。
アタシはアタシ、トレーナーはトレーナー。
けれど、アタシはトレーナーで、トレーナーはアタシ。
ことわざに表せば、一心同体、天衣無縫ってやつかな?
ルドルフの四字熟語を聞きすぎて覚えた言葉だけど、きっとこんな感じだよね。
ねぇ、そうだよね?トレーナー。
アタシたちは、一心同体でしょ?
(なーんてね、縛られすぎだ)
縛られるのは嫌いだ、縛るのも嫌い。
思うのは少しだけにして、さっさと忘れよう。
道中、校舎に目を見遣ると、燈の灯った教室が幾つかあった。
その内の一つ、いつもアタシとトレーナーがいる狭い世界。
ネオンの光が静かに佇んでいた。
「ふふっ、まだいるね」
どうしようかな、このままちゃんとした道を通ってみるのもいいけど……。
今は夜だ、ならサプライズみたいなこともしたい。
サプライズと言えば、これしかないよね。
引き込まれるように光が漏れ出す窓へと向かう。
虫が火に寄っていくように、光に寄せられて。
こん、こん、こん。
三回ほど、窓を軽く叩いた。
「やっほ、トレーナー!」
「うわ、え!?シービー!?どうしたの、こんな時間に!」
「ん〜……暇だったから!」
驚きながら窓を開けるキミ。
アタシがそう答えれば『えぇ〜??』と、素っ頓狂で困惑に満ちた声をトレーナーは漏らした。
ふふ、ヘンな声!やっぱりキミをからかうのは面白いや!
それに困ってはいるけど、苦笑いとは取れない笑顔。心から嬉しそうな柔らかい笑顔。
そういう優しいところが好きなんだ〜。
な〜んて、笑いながら思ってたら、
「とりあえずそこのソファに座っといて」
って、トレーナーは言った。
まだ仕事が残っているんだろう、何かと急いでパソコンのキーボードを打ち始めた。
邪魔するのは申し訳ないよね、今は我慢だ。
『は〜い』と軽く返事をして窓を飛び越える。
そして黒いソファにくつろげば、ちょっと古びてるせいか、柔らかさはありながらもほんのりと硬さを感じた。
使い込まれてるのか、或いは使い回されてるのか。
ちょっと古臭い匂いが、落ち着きをくれる。
ずっと高鳴っていた鼓動が落ち着いてくのが分かる。
体を突き動かしていた刺激が治って、徐々に動きを止め始める体の感覚も。
ソファに絆されてしまったアタシのできることは、トレーナーを見つめること、それしかやることがなかった。
じーっと、ただ見つめる。
もう出てきそうな声を抑えて、ただただ見つめる。
(……ちょっとだけ眠いのかな?)
トレーナーの目は、いつもより淀んでる気がした。
隈は作ってないけど、アタシの知らないところで仕事をしているし、現に今もしているんだ。
疲れが溜まっているのだろうか、そんな疑問が生まれていた。
「トレーナー、眠いの?」
「はは、少しだけね。最近疲れが取れないんだ、肩の凝りも結構酷くてさ〜」
聞けば、トレーナーは肩を回しながら優しい笑みで答えてくれた。
嘘をついたり誤魔化している雰囲気はない、本当に疲れてるだけって感じ。
何かできることはないかと、らしくもなく考えた。
ぱっと出た答えは、これ。
「肩、揉んであげよっか?」
躊躇いもなく、思ったことを口にするように言う。
「え?それは申し訳ないから遠慮するよ……って言いたいところだけど、お願いしちゃおうかな!」
でも、トレーナーはすぐ断りを入れてくる。
かと思えば、嬉しそうに乗り気でお願いしてくれた。
そう来なくちゃと、アタシも嬉しくなってウサギみたいにソファから跳ねる。
「それじゃあ揉むね〜?」
椅子に座るトレーナーの後ろまで移動してそう言えば、トレーナーの肩に触れた。
手に力を込めて、ぎゅっと押し込んであげて。
ゆっくりとほぐしてあげるように力を込めた。
「うわ、結構硬いね?整体とか行かないの?」
「う″あ″〜〜……行く暇がないんだよね〜、休みは疲れでだらだらしちゃうから……」
「ふふっ、キミらしいや!」
そうやって他愛もなく話して、互いに笑う。
心底気持ち良さそうなトレーナーの声が、普段は聞けないような声でちょっと面白かった。
時折笑ったせいで力を込め過ぎてトレーナーは痛そうにしたりと、意外にも力加減が難しい。
小さい頃はお父さんとお母さんにも、気分が乗った時はこんなふうに肩揉みをしてあげてたっけ。
ウマ娘と人間じゃ力が違うから、お父さんの肩を揉むと毎回痛がってたなぁ、今でもしっかりと覚えてる。
昔のことで思い耽ってる途中に何を思い立ったか、ふとパソコンの画面を見た。
パソコンには日程やら何かのまとめ図やら、アタシには分からないものが表示されていて。
必然的に生まれた単純な疑問を、トレーナーにぶつけた。
「トレーナー、これ何?」
「これか?これはエクセルって言ってね、授業で習わなかったか?」
「いや全然、まだやってないだけかも」
どうやらトレーナーはこのエクセルというアプリを使って、選抜レースのウマ娘たちについて調べていたらしい。
距離別の走破タイムやら、脚質やら、上がりタイムやら。
そんなデータの集合体には、今まで無縁だった。
小学生の時だったっけ、パソコンの操作を学ぶ授業みたいなのがあったけど、あれ全部サボってたし。
ぎゅうぎゅう詰めのディスクが窮屈で仕方なかったし、何より先生に画面を監視されてるって知った時は本当に嫌だったんだもん。
でも椅子の座り心地と普段より涼しかったのは良かったな、あの教室だとよく寝れた。
パソコン、パソコンかぁ。
すごく堅苦しいイメージだし、見てて操作も難しいなって思うけど……ちょっと触ってみたいかも。
「ねぇ、もう仕事は終わりそう?」
「もうすぐ終わるけど……どうして?」
「パソコン触ってみたいなって、触ったことないんだ」
「え、そうなの!?」
『本当に言っている!?』と言い出しそうな雰囲気だったけど、アタシが説明するとすぐに納得した。
アタシがサボったこと、あの狭い空間が嫌なこと、全部嘘偽りなく話したら、『シービーらしいな』って。
本当にアタシのことをよく分かってるよ、キミは!
「もう終わらせたから触っていいよ」
「お〜、待ってました!手始めにさ、ウマチューブで何か見ようよ!」
「いいね!じゃあこのアプリを開いて、ウマチューブってタイピングしてね」
そう言いながらトレーナーは席を譲ってくれたから、早速さと席に座り込む。
トレーナーが指差してくれたアプリを見て、マウスを手に取って画面の矢印みたいなのを運んだ。
これってカーソルって言うんだっけ?どうしよう、全く分かんないや!
一回だけ押しても全然反応しないし、軽く連打しても画面がちょっと青くなっちゃう!
けど、このカチカチって音と押し込む感触が気持ちいいなぁ、もっと連打しようかな?
なんて悪巧みをしてたら、トレーナーがアタシの手の上に更に手を被せてきた。
「まぁまぁ、落ち着いてシービー。これはこうやるんだ」
「わっ」
トレーナーはアタシの上擦った声に気を留めず、手馴れた様子でマウスを素早く2回押した。
するとどうだろう、アタシの時は言うことを聞かなかったのに、アプリが開いたんだ。
でも、でもそうだな……今は、手の方が気になるかも。
手のひらがごつごつしてるのが分かるし、体温もアタシより少し暖かい。
さっきまで外にいたから、手が冷えちゃってる。
アタシの手のことは気にならないの?キミは気にしていないのに、アタシだけ意識してるのがバカみたいじゃん。
────まずいな、胸が痛い。
「よし、次は入力してみようか。今やったみたいに、この入力欄を2回クリックしてみて」
「は〜い」
軽々しく声を出す、それがアタシの限界。
飄々と顔は作っているけど、どうしてかな、少しでも気を抜いたら不満な顔が出ちゃう。
それを掻き消すように、トレーナーの言われた通りに素早くマウスを押した。
入力欄には青いバーが出ている。
英字がプリントされたキーボードを、不慣れな手つきで人差し指で押し込む。
ローマ字ぐらいはアタシでも分かるけど……何故か入力欄は英字のままだ。
『あれ〜?』って細い声をつい漏らすと、トレーナーがまた丁寧に説明をしてくれた。
「はは、最初はよく分かんないよね。これは一番左上のキーボードを一回押してから、日本語が入力できるようになるんだよ」
今度はさっきよりも距離が近い。
……ダメだな、前まではこの距離感でも普通だったのに。
自覚すると、何故か胸がすごく痛むんだ。
錆びたナイフで刺されるかのような不快感。
それでいて刺されたまま動かされるような感覚。
気持ち悪い、気持ち悪いよ。
甘い珈琲の香りがする。
「……シービー?大丈夫?」
「あ、ごめんごめん、ぼーっとしてたよ。これをこうするんだよね?」
トレーナーが言った通りに、キーボードを打った。
キーボードの音はぼやけて聴こえるのに、トレーナーの声は一言一句、鮮明に聴こえてくる。
うん、答えは分かり切っている。
ウマチューブを開く、黒い画面にアタシたちの顔が軽く反射して見える。
キミはすごく楽しそうだけど、アタシの顔はどうも楽しそうには見えない。
外面だけ取り繕ってるけど、内面は何かが物足りないってアタシに訴えかけている。
さっき目が濁ってるって言ったけど、濁ってるのはトレーナーじゃなくて、アタシの方だった。
「……何見ようかな」
「そうだなぁ、この前の取材の動画でも見ようよ!」
「いいね、それ」
提案された通りの道を選んで、その動画を調べる。
動画はあっさりと出てきて、サムネイルのアタシたちはとても明るくて、楽しそうだった。
動画を開く、一緒に見る。
動画のキミは、まるでこの世で一番幸せだって言わんばかりの笑顔で。
動画のアタシも、同じくこの世で一番幸せそうな顔をしていた、目も澄んでいた。
……今のアタシはどうなんだろうな。
『トレーナーさんにとって、シービーさんはどんな存在ですか?』
取材者はそうキミに問う。
キミは眩しい笑顔で、
『一番特別で自由な担当です』
と、自信を持って答えてみせた。
アタシはどこか小恥ずかしそうで、けれど嬉しさが滲み出てて。
取材者の問いは、トレーナーからアタシに移った。
さっきと同じ問い、画面の奥のアタシは、
『同じく、かな』
『一番特別で、一緒に楽しくなってくれるヒトだよ』
って、同じく自信を持って答えた。
その顔がとてもキラキラしていて、眩しくて。
あまりにも澄んだ目が、胸に突き刺さる。
(……素直にならなきゃ、そうなっちゃうよね)
そう、
アタシは自分の心に嘘をついている。
嘘は嫌いなのに、嘘をついてしまっている。
「な〜んか疲れちゃった、もう帰るね」
「こんな時間だからね、危ないから送り迎えしようか?」
「いや、今日はいいや。一人で帰りたい気分」
ほら、また嘘をついた。
本当は一緒に帰りたいのにな、こんな情け無い自分を見られたくないからって嘘をつく。
素直になっちゃえばいいのに。
けど素直になってこの気持ちを知られたら、きっと楽しい時間は終わってしまう。
この気持ちも想い出も、きっとアタシの中から泡のように消えてしまう。
そうなってしまうと思うと、堪らなく怖いんだ。
「それじゃあまた明日、トレーナー」
「気を付けてね、また明日」
また明日なんて言葉、いつまで続くんだろう。
キミがアタシを見送ってくれる日々も、一体いつまで続くんだろうね。
トレーナー室を出て、校舎を出て、トレセンを出て。
またアタシは孤独になってしまった。
「……寒いな」
三年以上、もう三年以上も一緒だよ。
そのぐらい一緒に過ごせば、優しいキミはこの気持ちを受け止めてくれるかな?
いいや、否だ。
優し過ぎてしまうから、キミは否定する。
否定されたとき、アタシはどうなってしまうんだろう。
きっとキミのことを全部忘れて、放浪の旅に出る。
嫌なことは全て蹴っ飛ばして、自由に生きる。
……でも、キミのことを忘れるのは、とても嫌だな。
「……」
音は聴こえない、何も。
けど、彼の声は頭で反響している。
世界は広い、果てしなく。
生まれた音は反響すらせず、空に消えてしまう。
アタシの声も想いも、すうっと空に溶けてしまう。
人の心もそうなんだ。
どれだけ叫んでも、どれだけ訴えても。
届かない人には届かない。
だって自分は自分、他人は他人だから。
心が違う以上、完全に届くことはない。
そしてキミには届かないのをよく知っている。
アタシに他人の想いが届かないのと同じで、アタシの想いもキミには届かない。
なんたって、アタシたちは一心同体なんだから。
アタシの一番特別で、一番
アタシさ、キミのせいで縛られてるんだよ?
ねぇ、キミはアタシのこと、どう思ってるの?
「────錘には、なりたくないよ」
縛るのは嫌いなんだ、大っ嫌い。
アタシの気持ちでキミの錘になるのは、絶対に嫌だ。
でもやっぱり、教えて欲しいよ。
キミの気持ちが知りたい、じゃなきゃアタシ……。
「……知らない方が、いいよね」
けど、キミにも錘になって欲しくないんだ。
だからまた、自分の気持ちに嘘をついた。
嘘を、ついてしまった。