明星ヒマリにまつわるエトセトラ 作:アラベスク@arabesuque_38
気が付けば夏も盛りを迎えていた。身体を焦がすような強烈な日射しと、むわっと纏わりつくような熱気。
日が落ちてしまえば暑さも少しは和らぐものの、アスファルトに残った昼の残滓がジリジリと身体に負荷を掛けた。
汗で張り付いたシャツをパタパタと扇ぎながら、疲れた身体を引きずるようにして帰路につく。ピークの時はそれこそ立っているだけで体力が消耗するような暑さで、それが幾分かマシになったとはいえ、汗ばむことに変わりはなかった。
シャーレのビルからさほど離れていない、D.U.地区の少し外れにあるマンション。エントランスを潜るとひんやりとした冷気が私を出迎えてくれる。
さぁ、あと一息だ。エレベーターに乗り込み、目的の階数のボタンを押した。軽い電子音がして、僅かな慣性が身体を少々軽くする。
開きかけの扉に待ちきれないとばかりに身体を滑り込ませる。家で私を待っている三人の宝物に早く会いたい──そんな気持ちが疲れた私の身体を突き動かしていた。
「ただいま」
「おかえりなさい、あなた」
見慣れた我が家のドアを開く。いつ見ても変わることなく美しい愛しの妻の笑顔が私を出迎えてくれた。
「ただいま、ヒマリ。今日も一番乗りだね」
「ええ、それは当然です。このミレニアムが誇る超天才清楚系『良妻賢母』病弱美女ハッカーであり、あなたのことを最も愛していてあなたに愛される唯一無二の最愛の妻であり、そしてあなたと私の愛の結晶たる二児の母であるこの私────『旧姓』明星ヒマリですから。これくらい造作もないことですので……うふふ」
まるで私がこのタイミングで帰ってくることがわかっていたかのように、玄関先で待ち構えていた彼女。かつての教え子であり、そして現在私の妻であるヒマリが──頬に手を当てながら美しく微笑んでいた。
彼女と出会ってから早十三年。出会った当時からほぼ変わらぬ姿……いや、さらに美しさを重ねた彼女との結婚生活も、もう十年になる。
「パパ、おかえりなさい」
「まま、おねえちゃん、待って~……あーっ! ぱぱっ! おかえりなさいっ!」
身体の弱い彼女ではあるけれど、幸いにも子宝に恵まれていた。目に入れても痛くない程に可愛い、大切な愛娘たち。上の子は八歳で、下の子はもう六歳になる。
ヒマリの後ろから顔を見せた彼女たちが私に笑顔を向けてくれるだけで、今日一日の疲れがどこかに吹き飛んでしまうかのようだった。
「ママ。パパが帰ってくるからってお料理の途中で迎えに行かないでください」
「あら。こちらで遠隔操作できるから大丈夫ですよ。それにいくら私の愛娘たちとはいえ、愛するパパを一番に迎える役目を譲るわけにはいきませんから」
「ままずるい~! ひまもぱぱのこと、おでむかえする~」
「はいはい、ヒマちゃん。パパのおカバンを持ってあげてくださいな」
「わーい! ぱぱかばんー!」
どうも娘が生まれてからというもの、ヒマリが妙に対抗心を燃やしている。最初はその嫉妬心が嬉しくて、ついついハメを外してしまうこともあったのだけれども。
その結果すぐに下の子の妊娠が発覚してユウカとチヒロに凄い顔で睨まれたことを今でも覚えている。
『おおきくなったらぱぱとけっこんする!』
『あらあら……こほん。いいですか? ヒマちゃん。確かにヒマちゃんはこの超天才良妻賢母美女ハッカーの愛娘です。でも流石にパパは渡せませんよ? ええ、パパとママは今でもずっとラブラブなのですから』
『でもママ。ヒマにそう言われた時のパパ、すっごくうれしそうでしたよ?』
『いーやーでーすー! パパはママとずうぅっとラブラブなんです~!!!』
『──ヒマリ。ヒマはまだ六歳なんだから、そこまで張り合わなくても』
『いいえ! これはハッキリさせないといけない問題です! いわばこれは女と女! 美女と美幼女! 母と娘の勝負! 必ずや、あなたとの愛を証明しなくては!』
『そうですか。では、ママはヒマと勝負していてください。そのあいだに私がパパと結婚しますから』
『まあ!!! ゆーちゃんまで!!! これはいけません、いけませんよ? 全く、いくらゆーちゃんが私に似た天才美少女愛娘だとしても、パパはあげられません!』
などと。
二人の娘たちに混ざって、わーわーきゃーきゃーと毎日騒がしくしている。そんなヒマリだけれども、娘たちのことを誰よりも深く愛していた。
子供たちも大きくなって、一緒に遊んだり、旅行に行ったり、以前と比べて二人で過ごす時間は減ったけれども、お互いに子供たちのことが可愛くて仕方ない。
『うふふ、流石は私たちの天才美少女愛娘と天才美幼女愛娘ですね。こんなに溢れんばかりの才能を秘めているなんて』
私も相当な親バカな自信があるけれど、意外なことにヒマリも同じだった。上の子がテストで満点を取ればいつもの調子で褒めちぎり、下の子が私たちの絵を描いたらそれを立派な額縁に入れて自分の部屋に飾るほど。
ただ、どうも……私のことになると三人ともタガが外れてしまうようで。愛されていることはすごく嬉しいことなのだけれども……と、まったく贅沢な悩みを抱えるのだった。
『ぱぱ、いってらっしゃいのちゅー』
『パパ、私にもお願いします』
こうして出かける時は愛娘たちにキスをせがまれる。あと数年もすれば男親なんて訳もなく嫌われてしまうというし、これくらいは許してほしいと思うのだけれども。
『──浮気はダメですからね?』
私と娘たちとのキスシーンを見るたびにハイライトをなくした瞳でジッと見つめてくる最愛の女性に、戦々恐々とするのが日課になっていた。
それでも、そんなヒマリとの仲は今でも良好で仕事中に彼女の話をすると決まって同僚には嫌な顔をされる。どうやら惚気話に聞こえるらしい。
以前も『おはようございます、あなた。朝ですよ』とヒマリからのキスを目覚まし代わりにしているという話をしたら、露骨に顔をしかめられた。 ──いや、あんな可愛い奥さんがいるんだから、おはようのキスくらいは当然してもらうだろう。
いつになったら落ち着くんだ? なんて言われることもしばしばだけれども、これでも少しは落ち着いた方だと思う。
とはいえ、今日は早く帰れたことだし……たまにはヒマリのご機嫌をとるために、一緒にゆっくりと過ごすのも悪くはないかもしれない。
***
「ヒマリ。娘たちが私に甘えてくれるのも今だけかもしれないんだから、少しは大目に見てくれないかな?」
「あら、大丈夫ですよ。なんたってこの眉目秀麗、傾国傾城、解語之花な美女の愛娘たちですから。あなたのことを嫌うことなんてありえませんよ?」
二人を寝かしつけ、夫婦の寝室に戻る。いつものように彼女のことを抱きかかえ、ベッドへと運んだ。私の首に手を回して嫣然と微笑むヒマリの唇が……何故かすごく美味しそうに見える。
ゴクリと唾を飲み込んで……いやいや、と心の中で首を横に振った。ひとまず彼女を下ろさないと。
ヒマリをベッドに横たえ、彼女から手を離そうとして────首を引っ張られる。ふっ、と頬を緩めた彼女がゆっくりと瞼を閉じた。
スッと通った鼻梁、稀代に震える長い睫毛、今か今かと待ちわびるようにぷるぷると私を誘っている柔らかそうな唇。
「ヒマリ────っ」
次の瞬間には自然と唇を合わせていた。最初はほんの一瞬、触れ合うだけのキス。それでも、一度触れ合った後、私は堰を切ったように何度も唇を重ねた。
彼女の唇はひんやりとしていて、熱を取り戻すようにだんだんと口づけが激しさを増していく。私たちは自然と舌を絡ませていた。
彼女の歯並びを確認し、舌の動きを追っている間に、もう何がなんだかわからなくなっていて────ただ、気持ちいいという感覚だけが残っていた。
「────うふふ。あの子たちにはできないキスでしょう?」
絡み合った二人を繋ぐようにできた透明な架け橋が、ぷっつりと音もなく切れた。揶揄うように笑みを深めるヒマリを呆然と見つめる。
「────ねぇ、あなた」
ヒマリの口元が三日月のような弧を描き、先ほどの逢瀬で艶やかに彩られた彼女の唇が作る蠱惑的な曲線に目を奪われた。
「ふふ……もう一度頑張ってみませんか?」
ひんやりとした彼女の手が私のそれに重ねられる。逆側の手がゆるりと、私の脚に伸ばされた。ももの内側を指先でくすぐるように撫でられる。肌に触れるか触れないかの位置、肌の表面を這うように指先が蠢いていた。
「──今度は男の子が欲しいです」
ヒマリが私の耳元に口を寄せて熱く息を吐く。彼女の乱れた呼吸を敏感に感じて、私は唇をわななかせた。
「想像してみてください。『おおきくなったらままとけっこんする!』と。ふふ……あなたと私の子です、それはもう……とびきりにカッコよくなるのでしょうね」
ヒマリの囁き声が頭の中にってくる。脳髄を蕩けさせるような音色。
薔薇のような芳香が鼻腔をくすぐった。
脳内で顔もわからない男の子に言い寄られて、頬を染める彼女の顔が再生される。満更でもなさそうな顔。ちゅっちゅっ、と頬に唇を寄せられて響くリップノイズ。
「どうですか? 少しは私の気持ちがわかったのではないですか?」
確かに彼女の言う通りだ。例え可愛いわが子であっても、自分の最愛の女性に愛を囁かれるのは気分のいいものではない。
できた大人であれば、子供のすることだから、と。笑って受け流すことができるのだろうけれども。
────生憎と、私とヒマリは同じ穴の狢だったようだ。
「────…………きゃっ。あ、うふ、うふふ……晩御飯に精の付くものをたくさん用意した甲斐がありましたね。あっちょ、ちょっと、興奮しすぎですよ、やっ、ま、待ってください、そんなむりやり、こ、こころのじゅんびが……──ひゃっ」
────ああ、またユウカとチヒロに「ケダモノ」なんて言われながら、睨まれることになるんだろうな。
ギシリと軋みを上げるベッドのスプリングの音。組み伏せられて何やら煩く喚いている最愛の妻に自分の唇を重ねた。
目を白黒とさせてジタバタ暴れるヒマリをぎゅっと抱きしめ、後頭部に手を回す。徐々に力が抜けていく彼女の身体に内心ほくそ笑んだ。
閉じられた唇を優しくこじ開け、たっぷりと深いキスをする。下唇を優しく挟み、顔を左右に振る。続いてわざと音を立てながら啄むように短いキスの雨を降らせた。
────しっかりと防音設備の整った部屋にしていた過去の自分にこれほどまでに深く感謝をすることになるなんて、今日のこの瞬間まで思ってもみなかった。