明星ヒマリにまつわるエトセトラ 作:アラベスク@arabesuque_38
ガチン、と。柔らかいもの同士が触れ合ったとは思えない音が二人の間で響いた。硬いエナメル質同士がぶつかる音。
いつも通り車椅子に座っているヒマリと目線を合わせるために屈んだ私。彼女へと顔を近づけて、慎重に唇を重ねた────はずだった。
彼女の不自由な身体を想って私の方から顔を近づける。そんな私の思惑と違って、ゆっくりと近づいてくる私の顔に痺れを切らしたヒマリの方からも少し顔を近づけたのだ。
その結果がこれ。勢い余った私たちは見事に唇を通り越し、お互いの歯と歯で熱いベーゼを交わすことになった。
要は不幸な事故だったのだ。ただ、その一言に尽きる。
「んっ……ふふ、うふふっ。ああ、なんて甘美なのでしょう。先生? 先生もそうは思いませんか?」
「え、ああ、うん……そうだね」
「ええ……そうでしょうとも! ミレニアムが誇る超天才清楚系病弱美少女ハッカーであり、清水の如く透き通る可憐な乙女であり、そしてミレニアムに咲く一輪の高嶺の花であるこの私、明星ヒマリの、触れれば融けてしまう淡雪のような唇ですから。そんな儚げな花弁を初めて手折った先生は、とびっきりの幸運の持ち主ですね」
珍しく舞い上がった様子のヒマリが、いつもの調子で喋り始める。内心、嬉しさを爆発させているのか、特徴的な長い耳がピコピコと可愛らしく揺れていた。
彼女にとっては初めてのキス。それがなんとなく残念なものになってしまったはずなのに、彼女の浮かれようはなんだろうか。
少し血の滲んだ唇をペロリと舐める。「そ、その……初めて、なので……」なんてキスをする前に珍しくしおらしい様子だった彼女のことを思い出した。
──もしかして。ヒマリ、キスのこと「こういうものだ」って思っていたりする?
そんな疑念が脳裏を掠めた。
いやいやまさか……でもこの浮かれっぷりを考えると……?
「ヒマリ」
覚悟を決めた。今もなお、嬉しそうに喋り続けている彼女の名前を呼ぶ。
先生として。いや、ヒマリのことを大切に想っているひとりの男として。
彼女にきちんとした経験をさせてあげないといけない──そんな使命感に駆られた私は、意を決して透き通るような彼女の瞳をしっかりと見据えた。
「なんでしょうか?」
「ちゃんとしたキス、しようか」
「え? それはどういう……? っ、ひゃ……っ」
可愛らしく首を傾げるヒマリに手を伸ばした。今度は余計な動きをさせないようにしっかり顔を固定する。耳の先まで真っ赤になった彼女に顔を近づけて、ゆっくりと唇を重ねた。
まずは触れるだけ。唇と唇を重ねるだけのキス。そこからついばむように、わざと音を鳴らしながらキスの雨を降らせていく。「せ、先生……?」「あっ、あの……」「っ、ん……ぁ、覚悟は、できて……」なんてもごもごと口を動かしていたヒマリが徐々に静かになっていく。
彼女の後頭部を抑えて、無理やりにでもキスに集中させるように強制する征服感が身体中に広がっていくのを感じた。
「…………んんっ!?」
抱き寄せた腕の中でヒマリが呻く。貝のようにぴったり閉じられた彼女の唇を舌でノックしたからだ。驚きに身を震わせた彼女の背中を優しく撫でる。ふにゃふにゃと力が抜けていく彼女の身体を感じながら舌で唇をこじ開けた。
ぬるりと彼女の口内へ侵入する。ヒマリもヒマリで私の舌を出迎えようと、もにょもにょと口を動かそうとしているみたいだけれど、どうにも上手くいっていない。
それどころか、無理に口を動かした所為で私の舌に歯が当たってしまう。私の舌を噛んでしまった事実に目を白黒させるヒマリの頭を優しく撫で「私に任せて」と目で訴えた。
コク、と控えめに頷いた彼女に目配せをした私はもう一度優しく舌を差し入れた。でも、優しかったのは最初だけ。再度侵入を果たした私の舌は、ヒマリの上顎や歯茎を蹂躙するように蠢く。お互いの口から溢れた唾液がぽたぽたと垂れて床を汚した。
弱弱しくヒマリの手が私の胸を押す。いくら病弱だといってもキヴォトスの住人である彼女の手に掛かれば、私を突き飛ばすくらいは容易なはず。そうしないのは……つまりはそういうことなのだ。
主に許しを得た私はさらに深く彼女を求める。溢れる唾液を啜り、舌を絡め捕り、暴虐の限りを尽くした。柔らかい彼女の唇を貪った私の瞳は情欲に染まった色をしていたことだろう。
思う存分ヒマリの唇を堪能した私がゆっくりと顔を離す。絡み合った私たちを繋ぐように艶やかな銀糸が瞬きの合間だけの橋を架け、ぷっつりと音もなく消えていく。どちらともなく熱く湿った吐息を漏らした。
「──……ちょっとやり過ぎた、かな」
とろんとした目でぼんやりと虚空を眺めるヒマリ。儚げな容姿と相まって、今にもどこかに消えてしまいそうな雰囲気を湛えていた。
「ヒマリ?」
「────え? あ、せんせい……?」
「その……大丈夫?」
ボーっとしている彼女に声を掛ける。いつものどこか知性を感じるような佇まいは今は微塵も感じられなかった。
────やっぱりやりすぎちゃったかな。そんな自戒を込めて、彼女の頬を優しく撫でた。
「あの……もう、終わり……でしょうか?」
ぽつり、と。
とんでもない言葉がヒマリの口から零れ落ちた。
おそらく意識の外。彼女だって意図して口にしたわけではないだろう。
だからこそ────、心の奥底から出たであろうその言葉は、私にとっての劇薬になってしまった。
「────ッ! あのさ、ヒマリ……」
「は、はい……」
「それ、反則」
「え? ゃ、きゃ────っ」
車椅子に座る彼女の身体を抱きかかえる。羽根のように軽い。
グルグルと目を回している彼女に構わず、休憩室まで彼女のことを運んだ。目的地はもう目の前だった。
「あ、あああの! せ、先生……?」
「愛してるよ、ヒマリ」
優しく。壊れ物を扱うように。彼女の身体をベッドに横たえて。
ゆっくりと────彼女に覆いかぶさった。