「子供が一人で山に向かったのですか?」
一緒に話を聞いていたメイド服の女……サリア・イバーンが僅かに眉をひそめる。
まあ転生云々の話はどうせ信じられないだろうし、その辺は省略したのだが、そのせいで余計に信じられないのだろう。
ただの子供が一人で山に入って行ったなどというのは。
「今となっちゃもうちょっと何かあったんじゃないか、そんなことを考えなくもなかったけどね」
ただあの当時の俺はこの世界のことを何も知らなかったし、それを知る機会も方法も無かった。
故に何度やり直そうとあの場面ではそれが最善と思っていたし、実際そうするしかなかったのだ。
「まあ……軽く考えてたわけじゃないが、まるで何も知らなかった、その代償はしっかり払わされたよ」
そうして俺は当時を思い出し、苦笑しながら続きを語り始める。
* * *
―――歩きにく、荷物重い、槍、邪魔……。
山に入ってすぐに気付いた。
今自分が履いている靴は皮製のサンダルのようなもので、村などの平地を歩く分にはともかく山を歩くには全く向いていないことに。
とはいえド田舎村の村人の靴というのはこういうのがメジャーだった。少なくとも村の人たちもみな履いている靴自体は同じようなものだ。
思い返せば父さんの靴はもっと靴底がしっかりしていて、足全体を覆うような……『オレ』の知識でいうところの長靴のようなものだったが、あれは山歩きのためのものだったのだろう。
底が薄い靴底は山を歩くたびに転がる石を踏み抜いて足裏が痛いし、足全体を覆えていない靴はあちらこちらで肌が剥きだしており、小枝で擦り傷を作ったり、虫が引っ付いていたり、ヒルのような軟体状の生物が張り付いていたり、もう帰りたくなった。
挙句に持ってきた槍は山の中を持ち運ぶには不便であり、やっぱりこれは置いて来るべきだったのでは、と思わされる。
極めつけに困ったのが時間の把握だ。
元より山歩きの知識など無いに等しく、何も分からないも同然だったが、それでも『オレ』の中の常識に照らし合わせれば日が沈むまでには絶対に帰る、これだけは必ず守るべきだと考えていた。
故に帰り道にかかる時間を考えながら進んでいたのだが、そもそもの話、時計などが無いのだから太陽の位置でなんとなくで進むしかない。当然時間の感覚など分からないし、どこで引き返せば明るいうちに帰れるのか、などというのも分からない。
必然何度となく空を見上げ、太陽の位置を確認しながらの進行になり、それもまた足が遅くなる要因となった。
考える限りの何もかもが不足した山歩きだったが、それでも山というのは自然の恵みが豊富だった。
入ってすぐの草むらの中に見えた赤い実は野イチゴだった。
父さんもかつて取ってきてくれたこともある甘酸っぱい実であり、『オレ』の知識の中にあるような品種改良されたイチゴに比べればずっと酸っぱいのだが、それでも田舎村にとっては貴重な甘味だ。
さらに進めばオレンジ色の実のなる樹があり、『オレ』の知識が『柿』のようなものだろうと言っていた。
そのまま食べられる種類と酷く渋い種類があるらしいが、実っていた実を槍で突いて*1取って食べてみれば多少の渋みもあったが、それでも食べたこと無いような甘味が口の中に広がった。
そうして山の中で手に入る甘味に頬を綻ばせ持ってきた網の中にひょいひょいと詰めていくとずっしりと重さを感じる。
―――この辺で帰るべきだろうか?
自分の感覚ではまだ入ってそう時間は経ってないはずだがそれなりに収穫はあったのだ、ならばここで帰っても成果アリと言える。
ただ果物系はそれなりに収穫できたのだが、それ以外は全く……特に本来の食肉に関してはまだ何の成果も得られていない。
故に持ってきた籠罠だけ仕掛けて帰ろうと考えた。
とは言え小動物がどのあたりに生息しているのか、どこに罠をしかければいいのかは全く分からない。
故に餌となるだろう木の実のあたりに仕掛けてみることにし、先ほどの柿の木あたりに設置しようと来た道を引き返す。
―――今になってみれば全くもって無警戒な話だった。
柿の木の根元に籠罠を置き、罠の奥に柿の実をセットする。
これで上手くかかってくれないかな、などと淡い期待を寄せ。
―――小動物の餌になる木の実があるということは。
ふと、後ろを振り向いた時。
―――その小動物を狙う肉食獣もまたやってくるということだ。
そこに
―――【鬼面鼠】Lv3
何故かそんな言葉が脳裏に浮かび上がった。
隠れる様子も無くこちらへゆっくりと近づいて来るのは脳裏に浮かび上がったその言葉の通り、まるで鬼のような形相をした全長1メートル近い巨大な鼠だった。
魔物。
その存在がすっかり脳裏から抜け落ちていたのは今よりもさらに幼少の頃に父さんがぽろっと零した言葉を一度聞いたきりだったこと、そしてこれまでの人生で一度たりともその存在と邂逅したことが無かったからだ。
完全にこちらをターゲットに定めた様子で睨みつけてくるその姿に怖気が走る。
その口元についた赤いものは血液だろうか……分かってはいたが肉食、つまり俺を食う気なのだろう。
フシュゥ、と空気を吐き出すような妙な鳴き声を出しながら近づくその姿に一歩、足を後退させた……瞬間。
ぐわ、と口を開きながら鼠が飛び掛かって来る。
恐怖のあまり飛んでいきそうな意識をけれどそれをすれば間違い無く死ぬと生存本能が訴え繋ぎとめる。
そして本能に任せるままに恐怖に背を押され、咄嗟に両手に握った槍を突き出す。
槍の握り方も知らないド素人の出したへたくそな突きだったが、それでも飛び掛かって来る鼠の自重もあってか偶然にも口内に突き刺さり、その余りの衝撃に槍が手を離れ、そのまま鼠と共に転がっていく。
震える体を必死になって抑えながら振り返ればそこには喉奥に槍が刺さり、苦しむ鼠の姿。
だがまだ生きているそのことに再び恐怖が沸き上がり。
―――殺せ!
ただ生きるために殺す、その意識だけで鼠へと走り寄り、槍と共に転げ回る鼠を見やり……その傍に鼠に突き刺さったまま転がってしまった衝撃で折れた槍の柄を見つける。
圧し折れるようにしてささくれ立つ槍の柄を逆手に持ち。
苦しみ、転がる鼠の『眼』に向けて両手で振り下ろす。
ぐじゅり、と何か柔らかい物を潰したような嫌な感触、そして絶叫する鼠、流れ出る血。
あとはもう必死だった。必死に何度も何度も柄を引き抜き、また突き刺す、引き抜いて突き刺す。
こいつは殺さなければならない、殺さなければ殺される。
ただその恐怖だけが俺の心を支配し、体を突き動かしていた。
そうしてどれだけの時間そうしていたのか、気づけば鼠は物言わぬ骸となって転がり、俺の全身が鼠の血で塗れていた。
槍の柄という木の棒を握りしめ、何度も何度も振り下ろしていた両の手の皮はずる剥け、血が滲んでいた。
常にじんじんと痛みが走り、涙が零れるがけれどその痛みが俺に生の実感をさせた。
生き延びた、ただその事実だけが俺の心を震わせる。
そして直後に到来する死にかけた、という恐怖が俺を再び走らせた。
荷物も何もかも投げ捨てて家に逃げ帰った。
まだ日も高い時間だったが、そんなことを気にする余裕など俺には全く無く、心が落ち着きを取り戻したのは夕方近くになってからだった。